“私は戦後十年に次のように記した。
――人間はナマの現実の中に生きているのではなくて、彼が思い浮べた現実像の中に生きている。もし彼がはげしい要求をもっていると、彼はこの現実像をただ要求にしたがって構成して、それをナマの現実とつき合わせて検討することを忘れてしまう。かくて、いわば「第二現実」とでもいったようなものが成立する。これは映画に似ている。すなわち、ある特定の立場から材料を取捨選択してモンタージュしてでき上がったものであり、現実を写しながら現実とは別なものである。この映画は、それ自身の中に因果の法則をもち、筋書をもち、昂奮させ陶酔させる・・・・・・進歩主義的世界像も「第二現実」というタイトルをもった映画である(「昭和の精神史――主観をもった主体」の章)。
(中略)
人間は思い浮べた世界像――第二現実――を経験している。人間は世界を幻のように見る。そして、これはただ日本人だけの性向ではなく、人間そのものに共通である。” (引用は竹山道雄『歴史的意識について』(講談社、1983年12月)から。同書82-83頁)
たとえば昨日欄で言及した狭間直樹氏などは「第二現実」に生きる人なのであろうが、しかしながら、人間がおしなべて世界を幻のように見る存在であるのなら、著者も認めるように、「第二現実」は進歩主義者だけのものではないだろう。「第二現実」とは、現代語でいえば、電波ということだから。
――人間はナマの現実の中に生きているのではなくて、彼が思い浮べた現実像の中に生きている。もし彼がはげしい要求をもっていると、彼はこの現実像をただ要求にしたがって構成して、それをナマの現実とつき合わせて検討することを忘れてしまう。かくて、いわば「第二現実」とでもいったようなものが成立する。これは映画に似ている。すなわち、ある特定の立場から材料を取捨選択してモンタージュしてでき上がったものであり、現実を写しながら現実とは別なものである。この映画は、それ自身の中に因果の法則をもち、筋書をもち、昂奮させ陶酔させる・・・・・・進歩主義的世界像も「第二現実」というタイトルをもった映画である(「昭和の精神史――主観をもった主体」の章)。
(中略)
人間は思い浮べた世界像――第二現実――を経験している。人間は世界を幻のように見る。そして、これはただ日本人だけの性向ではなく、人間そのものに共通である。” (引用は竹山道雄『歴史的意識について』(講談社、1983年12月)から。同書82-83頁)
たとえば昨日欄で言及した狭間直樹氏などは「第二現実」に生きる人なのであろうが、しかしながら、人間がおしなべて世界を幻のように見る存在であるのなら、著者も認めるように、「第二現実」は進歩主義者だけのものではないだろう。「第二現実」とは、現代語でいえば、電波ということだから。