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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

岡田英弘 『だれが中国をつくったか 負け惜しみの歴史観』 から

2009年09月02日 | 抜き書き
 〔略〕『史記』の枠組みが固定して、それからあとの中国文明では、『史記』とおりに書かなければ歴史でないことになった。後世の「正史」が記述する皇帝の時代の天下に、司馬遷が叙述した前漢の武帝の代との天下との違いがあってはならない。変化があっても、それを認めてはいけない、記録してはいけないことになった。天下の変化を記録すれば、その「正史」の対象の皇帝は、「正統」の「天子」でなかったことになり、ひいては、その皇帝から天命を引き継いだはずの現皇帝、歴史家が仕えている皇帝も、「正統」の皇帝でないことを証明する結果になりかねない。/そういう理由で、それ以後の中国では、天下にどんなに根本的な変化があっても、歴史の記録に値しないということになった。中国的な歴史観の建前でいうと、天下には変化はありえない。実際には天下があっても、天下の変化を記録したら、歴史にならない。『史記』に描かれた、前漢の武帝の時代と基本的に同じ天下だとして記録するのが歴史だ、ということになる。〔略〕
 いいかえれば「正史」は、中国の現実の姿を描くものではなく、中国の理想の姿を描くものなのである。理想の姿は、前漢の武帝の時代の天下の姿である。何度もくりかえしていっているが、中国的な歴史観の建前では、天下に変化はあってはならない。実際には変化があっても、それを記録したら歴史にはならない。/『史記』に描かれた、前漢の武帝の時代の天下に合わない部分は、現実であっても、できるだけ言及を避け、無視しきれない部分はなるべく記述を抑える。これが、『三国志』以後の「正史」の伝統になった。 (「序章 中国人の歴史観」 本書22-23、25頁。太字は引用者)

(PHP研究所 2005年9月)