書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

ニッコロ・マキアヴェッリ著 佐々木毅全訳注 『君主論』

2013年07月18日 | 西洋史
 君主が信義を守り、狡知によらず誠実に生きることがいかに称讃に値するかは、何人といえども知っている。しかしながら経験によれば、信義のことなどほとんど眼中になく、狡知によって人々の頭脳を欺くことを知っていた君主こそが今日偉業をなしている。そして結局信義に依拠した君主たちに打ち勝ったのである。 (「第十八章 君主は信義をどのように守るべきか」本書141頁)

 そこで闘争の方法には二つのものがあることを知る必要がある。一つは法によるものであり、他は力によるものである。第一の方法は人間に固有の方法であり、第二のそれは野獣に特有な方法である。しかしながら第一の方法ではしばしば充分でないため、第二の方法が援用されることになる。それゆえ君主は野獣と人間とを巧みに使い分けることを知る必要がある。 (同上)

 それゆえ君主にとって必要なのは上に述べたような資質を有することではなく、それを持っているように見えることである。〔略〕 君主、とくに新しい君主は、人間が良いと考える事柄に従ってすべて行動できるものではなく、権力を維持するためには信義にそむき、慈悲心に反し、人間性に逆らい、宗教に違反した行為をしばしばせざるをえない(同、143-144頁)

 憎悪を招くのはすでに述べたようになによりも強欲で臣民の財産や婦女子を奪う行為であり、君主はこのような行為を自制しなければならない。 (「第十九章 軽蔑と憎悪とを避けるべきである」本書147頁)
 
 つまり君主には正義などは必要ではなく、公正も公平も法の支配も無用である。ただしおのれの支配にとり必要もしくは有利であれば、手段あるいは口実として用いよと云う。ここに支配者が自身の権力をいかに維持するかということしかテーマはなく、その権力を維持した果てに何があるのか、何をするのかは一切語られない。つまり公共の精神がない。いったい何のための権力なのであろう。
 
(講談社 2004年12月)