『日本中国学会報』 24、1972年10月掲載、同誌80-98頁。
張湛は『列子』に注をつけたがその注はテクストの外在的批判は今日から見ても驚くほど客観的ないし科学的にできても、内在的批判はまるでできていない由。つづけて分析される一個の思想者としての彼の思想については、準備不足の私にはよくわからなかった。出直しである。
張湛は『列子』に注をつけたがその注はテクストの外在的批判は今日から見ても驚くほど客観的ないし科学的にできても、内在的批判はまるでできていない由。つづけて分析される一個の思想者としての彼の思想については、準備不足の私にはよくわからなかった。出直しである。