書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

唐木順三篇 『明治文学全集』 49 「ベルツ モース モラエス ケーベル ウォッシュバン集」 

2005年06月06日 | 日本史
 モラエス「日本の追慕」「日本精神」、ウォッシュバン「乃木」を除いて抄訳。
 ベルツ「ベルツの日記」、モース「日本その日その日」、ケーベル「随筆集」については、あらためて全巻通読の必要を認む。

(筑摩書房 1983年10月初版第3刷)

▲“A級戦犯容疑者とされた岸信介氏も後に首相になった。終身刑に処せられた賀屋興宣氏も法相を務めている。国民にとっては戦犯などという認識は全くなかったものと言える” (共同通信の質問書に対する靖国神社の回答要旨 『京都新聞』2005年6月5日京滋版朝刊2面より)

 東京裁判(極東国際軍事法廷)の判決を拒否したり疑義を呈したりするのは言論の自由だから何も言うことはないが、いくつか疑問あり。

 ●岸信介氏が首相になったのは1957年、賀屋興宣氏が法相になったのは1963年である。そして靖国神社がA級戦犯を「昭和受難者」として合祀したのは1978年である。1978年まで自分たちが合祀していなかったのは何故だろうか。そして合祀するにもこっそりと執り行ったのは何故か。

 ●岸信介氏が首相になったことや賀屋興宣氏が法相になった事実と、国民に戦犯の意識が存在しないという主張との間に何らかの論理的関係――よくわからないが――があるとして、彼らが首相や大臣になった当時選挙権のなかった者やそれ以後に生まれた者は日本の国民ではないと言っているのだろうか。あるいは、彼らがA級戦犯もしくは戦犯容疑者であったという理由で彼らの首相もしくは法相就任に反対した者や、彼らの衆議員選挙の際に反対票を投じた者は、国民とは見なさないということか。

 ●岸信介氏は東京裁判においては不起訴で釈放された。戦犯容疑者ではあるが戦犯ではない。根拠にならないのではないか。それとも東京裁判の判決と一緒に推定無罪の近代刑事法における基本原則も否定しているのだろうか。

 ●この解答書を書いた人は、小泉首相の靖国神社参拝に反対するというおのれ一個の正義を即国際社会や人類普遍の正義と同一視する類の中国人と、全体主義的性質および知的水準においてどれほどの差があるか。