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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

折口信夫『口訳万葉集』(私が読んだのは岩波現代文庫版)はいま、どのような・・・

2018年06月13日 | 思考の断片
 折口信夫『口訳万葉集』(私が読んだのは岩波現代文庫版)はいま、どのような評価を受けているのだろう。各巻の解説からは、この点についていま一つよくわからない。この作品を翻訳と見るならば名訳である。訳文の基本的文体を決める全巻を通じての視点が一貫しているだけでなく、それぞれの歌を捉える角度が各首ごとに確立していて、些かも“ぶれ”がないからである。これは翻訳一般について言えることだが、この角度また視点が決まらないまま原書・原文を訳すと、語彙ごと句ごとまた段落・章ごとに語感・文体がぶれて、直訳にもならぬ逐語訳(たんなる意味相当語彙・表現への置き換え、いうなればパッチワーク)になる。その“角度”“視点”と“一貫”とをもたらすのは訳者の“選択”であるが、その選択が立脚するところの語学的・また歴史文化的な知識は、天才折口のこの作品の場合、現在また当時においてどう評価されているのか。
 谷沢永一大人の『書物耽溺』(講談社 2002年8月)に書評があった。「アカデミズムを凌いだ独創 折口信夫『口訳万葉集』」、同書156-157頁。「あまりに卓越している」、「読みの深さという点では及ぶ者がなかった」と、最大級の褒詞が列ねられている。大人の学生時代(昭和20年代)においては、武田祐吉『万葉集全註釈』抔と並んで「特別扱いの必読書」だった由。

 明治以来の国文学界で、権威によりすがるどころか、権威に頭を下げさせた破天荒の天才は、折口信夫ひとりを除いて他に見出せないのである。 (同書167頁)

周海嬰(魯迅の息子)の、魯迅は須藤医師に毒殺されたという・・・

2018年06月13日 | 思考の断片
 周海嬰(魯迅の息子)の、魯迅は須藤医師に毒殺されたという荒唐無稽の説(「~のではないか」という疑問提起や可能性の指摘に止まり、言い出しっぺの自分が立証できていないという意味で)は、「それだけ日本の中国侵略が深い不信感を中国人に残しているからではあるまいか」と、近現代中国文学研究の某大家は仰る。だがその周説をコテンパンに批判もしくは全否定する複数の中国人専門家がいることを、その2頁前で報告しておられるのは同じ某大家であるのはわけがわからない。この人たちは中国人ではないという論理的結論か、あるいは、自分は「~ではあるまいか」と疑問形で断定はしていないという返事が、この某大家から返ってくるのであろうか。件の書は2011年3月刊。

松田奈緒子『重版出来』という漫画を知らなかったのだが、・・・

2018年06月09日 | 思考の断片
 松田奈緒子『重版出来』という漫画を知らなかったのだが、TLで興味をそそられて調べてみたら、好きな土田世紀『編集王』をちょっと思い出させる。
 しかし大場つぐみ/小畑健『バクマン。』(ちゃんと見たのは大根仁監督の映画版だけだが)のときに思ったが、作家・作品と雑誌経営の狭間で苦悩するあるいは股裂になる編集者は綺麗事ではやっていけないということを『編集王』でもろに書いてしまったのに、そこに触れない業界物がまだ出るというのはいろいろな意味ですごいと思った。
 高橋ツトム『二次元JUMPIN' 』のような、『編集王』を更に推し進めた極めてダークな世界(『編集王』でも編集長が土壇場で志を取り戻して変化するという一種の救いがあるのにそれもない、基本目には目を、汚物には汚物を式の対決と拮抗の末の微かな明日への希望)で描く作品もある。きついがこれも好む。

たしかに芸術作品の場合は・・・

2018年06月09日 | 思考の断片
 たしかに芸術作品の場合は「作品内容と作者の人格とは区別して考えるべき」である。だが言論(とくに他人の生き死に関わるもの)の場合はどうだろう。そう立て分けて考えられるだろうか。「お国のために死ね」と他人を焚きつけておいて自分は逃げるとか、天安門広場でリーダー然として仲間をアジりながら「私は生きたい」といってやはり逃げるとかである。「ラッパはラッパ。聴き手は聴き手」という考え方もあることはあるが。


『大久保利通日記』の「江藤醜体笑止なり」の「笑止」を、・・・

2018年06月09日 | 思考の断片
 『大久保利通日記』の「江藤醜体笑止なり」の「笑止」を、「笑うべきだ」の嘲りではなく「笑ってはいけない」同情の意味だとする意見をたしかどこかで見た憶えがあるが、原文のあのくだりは「(それに比べて)朝倉香月山中等は賊中の男子と見えたり」と続くので、後者よりは前者の意味のほうが繋がりがよくはないか。
 それにその直前のくだりで「江東〔ママ、以下同じ〕其外の詰問を聞、江東陳述曖昧、実に笑止千万」とある。これは、名前を当字にしたり、嘲り以外の何物でもない。「〔・・・〕、人物推而知られたり。只賊中人間らしきものは副島朝倉香月山中のみ」
 三宅雪嶺『同時代史』の「明治七年」項にこの佐賀の乱関係の記述があって、この大久保日記のくだりも引用されているのだが、雪嶺はこの大久保の記述を、「『笑止千万』『醜体笑止』とは何事ぞ」と怒っている。「大久保の執拗なる復讐心の茲に端なく発露せるに非ずして何ぞ」。岩波書店版、第1巻、397頁。

三島由紀夫『豊饒の海』を繙く。

2018年05月31日 | 思考の断片
 三島由紀夫『豊饒の海』を繙く。例によって自分一人の思い立ちだが、仕事と関連があるので、三島の長編は作り物臭さがやりきれなくて肌が合わないなどとは言っていられない。まず「春の雪」を英訳(Michael Gallagher訳)と読み比べてみる。乾いた基調は英訳と共通している。というより、隙がなく隙のない修辞と叙述上の見せかけの高ぶりを剥ぎ取り去ったもとの文体が英語に似ているのかもしれない。



別の件でフアン・ルルフォ『ペドロ・パラモ』(杉田晃/増田義郎訳)を開いたら・・・

2018年05月23日 | 思考の断片
 別の件でフアン・ルルフォ『ペドロ・パラモ』(杉田晃/増田義郎訳、岩波書店1992/10)を開いたら、いまやっている仕事ともろにかぶる(私的に。こういう先達もあったかと学ぶ)ところがあって、驚愕。始めて読んだといえば無知無学がばれる。

先日、伍子胥や孫臏の復讐譚と唐代の陳・韓・柳の例の論争を並べて・・・

2018年05月23日 | 思考の断片
 先日、伍子胥や孫臏の復讐譚と唐代の陳・韓・柳の例の論争を並べて中国の復讐という現象を論じる論著を見た。前者と後者はほどんど千年離れているのだが(司馬遷による漢代における物語の一旦のretellを考慮しても事情はたいして変わらない)、そういう点の考慮はあまり見いだせなかった。新渡戸稲造の『武士道』と同じである。『武士道』は時系列的な対象の内実の移り変わりの観点がまったくない。一種のファンタジーである。

ある専門家がご自身の担当したチベットについての概説書の一章で・・・

2018年04月18日 | 思考の断片
 ある専門家がご自身の担当したチベットについての概説書の一章で、チベット仏教論理学を「AはBである」命題のそれ(つまり述語論理)と説明してある例を見たが、私はチベット語がわからないが、それでよいのだろうか。チベット仏教論理学のもとになったインド仏教論理学は述語論理ではない。正確にいえば繋辞をつかわない。「である」式の文ではないということ。