折口信夫『口訳万葉集』(私が読んだのは岩波現代文庫版)はいま、どのような評価を受けているのだろう。各巻の解説からは、この点についていま一つよくわからない。この作品を翻訳と見るならば名訳である。訳文の基本的文体を決める全巻を通じての視点が一貫しているだけでなく、それぞれの歌を捉える角度が各首ごとに確立していて、些かも“ぶれ”がないからである。これは翻訳一般について言えることだが、この角度また視点が決まらないまま原書・原文を訳すと、語彙ごと句ごとまた段落・章ごとに語感・文体がぶれて、直訳にもならぬ逐語訳(たんなる意味相当語彙・表現への置き換え、いうなればパッチワーク)になる。その“角度”“視点”と“一貫”とをもたらすのは訳者の“選択”であるが、その選択が立脚するところの語学的・また歴史文化的な知識は、天才折口のこの作品の場合、現在また当時においてどう評価されているのか。
谷沢永一大人の『書物耽溺』(講談社 2002年8月)に書評があった。「アカデミズムを凌いだ独創 折口信夫『口訳万葉集』」、同書156-157頁。「あまりに卓越している」、「読みの深さという点では及ぶ者がなかった」と、最大級の褒詞が列ねられている。大人の学生時代(昭和20年代)においては、武田祐吉『万葉集全註釈』抔と並んで「特別扱いの必読書」だった由。
明治以来の国文学界で、権威によりすがるどころか、権威に頭を下げさせた破天荒の天才は、折口信夫ひとりを除いて他に見出せないのである。 (同書167頁)
谷沢永一大人の『書物耽溺』(講談社 2002年8月)に書評があった。「アカデミズムを凌いだ独創 折口信夫『口訳万葉集』」、同書156-157頁。「あまりに卓越している」、「読みの深さという点では及ぶ者がなかった」と、最大級の褒詞が列ねられている。大人の学生時代(昭和20年代)においては、武田祐吉『万葉集全註釈』抔と並んで「特別扱いの必読書」だった由。
明治以来の国文学界で、権威によりすがるどころか、権威に頭を下げさせた破天荒の天才は、折口信夫ひとりを除いて他に見出せないのである。 (同書167頁)