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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

某氏の「数学は、お金が要らない学問だからです」という言葉に触発されて

2018年04月18日 | 思考の断片
 「数学はお金が要らない学問」。語学も基本同じだなと。

 実験物理や化学、また生物などは、高価な機材がないと先端には行けません。
 でも、数学や数理物理は、一銭のお金がなくとも、紙とえんぴつとまじめに取り組む意識があれば、必ず力が伸び、自由な発想があればその先でオリジナルな仕事がいくらでも可能です。
(伊東乾「前川喜平さん、数学必修を外すのは亡国政策です」)

 何から何までまったき賛成とはいわないが、良い教科書と良い辞書で基礎をマスターすれば、あとはその良い辞書に加えて良い文典があれば語学はいくらでも上達する。これは読み書きが主だが聴くと話すはPC他で間に合う。書けて聴くことができれば話すはあとは発音だけの問題。教材もそこにいくらでもある。無尽蔵といってよい。あとは自分の興味と関心と必要にあわせて選びだすだけだ。

近年出たシベリア抑留の研究書を読んでいたら、40年前に・・・

2018年04月18日 | 思考の断片
 近年出たシベリア抑留の研究書を読んでいたら、40年前に「スターリンが全部悪いのでレーニンに責任はない」「『収容所群島』でソルジェニーツィンは化けの皮がはげた」という上や横の声の側にいた某氏が、どうやらお元気で、これもつい最近、関係論考を発表しておられることを参考文献リストで知り、失笑した。

『荘子』は内→外→雑と後に行くほど詰まらなくなる。・・・

2018年04月17日 | 思考の断片
『荘子』は内→外→雑と後に行くほど詰まらなくなる。文章もまずくなるようである。主張即思想内容がむき出しとなり、説明口調にもなって、なんのための寓話形式かと言いたくなる。ただ外篇の「秋水篇」は例外、盛られている思想も面白いと思って読んだが、古来ここは内篇を除けば別格という評価の由。

ツイッターのほうで、近世の文章語を現代日本の語と人の(形式)論理で読んで・・・

2018年04月17日 | 思考の断片
 ツイッターのほうで、半可通が近世の文章語を現代日本の語と人の(形式)論理で読んで解釈しようとしてその時代の専門家に窘められている図を見た。言葉というものを軽視すべきでない。言語ごと、また同じ言語でも時代によって論理を含めた生理(=人の思惟)が異なるから、文法の知識を弁えていても、“今”の頭で“昔”を覧たら大意すらとりきれない。
 かとって、これは素人にかぎらず、専門家と呼ばれている者のあいだでも難しいことである。いま『荘子』の「牛馬四足,是謂天」の天を「自然・天然という意味である」とその言葉の専門家が作ったはずの辞書が解釈しているのを見てたまげているところだ。これは、“そこでは”、そう解釈しなければ、解釈者の言語とその言語によって思考する解釈者の思考では理解も翻訳もできないからそう解釈・翻訳する、せざるをえないだけのことである。「天」という語または字そのもののもつ意味ではない。すくなくともダイレクトにそう断じることはできないと私は考える。この個所だけではない。

『芭蕉研究論考集成』(クレス出版 1999年12月)の第三巻をゆえあって開いたら、・・・

2018年04月15日 | 思考の断片
 『芭蕉研究論考集成』(クレス出版 1999年12月)の第三巻をゆえあって開いたら、板坂元氏の論考が収録されていた。そのひとつが「芭蕉研究の動向」(もと『芭蕉研究』昭和26年12月、復刊第一号掲載)。氏は当時の斯界に芭蕉を「ルムペン町人」「階級脱落者」と規定する風潮があると指摘して、そのような規定が「軽率」であり研究になんらの貢献も行わないと切言しておられる。昭和26年とは西暦にして1951年である。中華人民共和国成立の2年後のこととて、中国史研究でも、天下はまだ初々しく、いまから見てわけがわからず、書いた本人も後年引き下げるような“論文”が相当の専門誌を飾っていた頃である。

中国史のある分野の最新の専著(ことし1月に出たばかり)を繙いてみたところ、・・・

2018年04月15日 | 思考の断片
 中国史のある分野の最新の専著(ことし1月に出たばかり)を繙いてみたところ、ある事実の解釈と説明のくだりで、途中で「よくわからないが」と言ったあと、「たぶんそうするのが当時は重要と見なされていたのだろう」(要約)とあるので、驚倒した。これで通るらしい。
 その他おおよその部分は従来の通説と用語を網羅し取り合わせて叙述してあるだけの、該分野の概説も兼ねる本著は、かつて出た大御所によるどうしようもない同名の前作につづいて、また該分野が取り組む対象の全体像を提供するどころか、研究にも何の益ももたらさなさそうである。
 なぜ書こうと思ったのか。

『玉台新詠』に収められている「擬~」という題の作品は、・・・

2018年04月13日 | 思考の断片
 『玉台新詠』に収められている「擬~」という題の作品は、(全部がそうではないが、)我が国の詩歌でいうところの「本歌取り」であり、“擬”という語は、まさに、「本歌取りをする」という意味ではないのか。ざっと見、漢語辞書では当然ながら“效法;摹拟”という、漢語の世界における理解と説明であるが。

屈原「卜居」の出だしすぐ、「詹尹乃端策拂龜,曰:“君將何以教之?”」の”教”を、・・・

2018年04月07日 | 思考の断片
 屈原「卜居」の出だしすぐ、「詹尹乃端策拂龜,曰:“君將何以教之?”」の”教”を、「君将に何を以て之に教えんとする」と訓読してある。之=詹尹は卜者であり、作中の屈原はこれからいかに生くべきかを占ってもらうために詹尹のもとへやってきたという設定である。つまり彼は教えを請う側である。それなのに教えを垂れる側の詹尹が「私に何を教えてくださるのですか」と訊ねるのは話の筋が通らない。
 「教」にはたんに「告げる」という意味もある。『呂氏春秋』にその例がある。ならば「教(つ)げんとする」あるいは「教(かた)らんとする」と訓読すればよかろう。貴方様は私めに何を仰せある。
 こういうことを言うと、「理屈が通らないなどとは学者を名乗りながらこれは幼稚なことを」と、人間の論理的思考能力ひいては理性の存在と意味を鼻でお笑いになる中国学の大家碩学連がまたお出ましになるだろうか。

『文選』巻二九「雑詩」張平子「四愁詩序」末尾の・・・

2018年04月07日 | 思考の断片
 『文選』巻二九「雑詩」張平子「四愁詩序」末尾の「思以道術相報, 貽於時君, 而懼讒邪不得以通」を、「道術を以て時君に相(あひ)報貽せんことを思ふ。而(しか)も讒邪の以て通ずるを得ざらんことを懼る」と訓読している某先学の例をみてちょっと違うのではないかと思った。前半は措き、「讒邪の以て通ずる得ざらしめんことを懼る」だろう。ここは使役の意味である。“不得”になるのは筆者であって讒邪(の徒)ではないからだ。いま読んでいるこの訳注は、首を傾げることがそれにしても多い。一般向けだと思って手を抜かれたか。(それはこの巻だけに限らないが。)

 さきには措いた前半部にせよ、“報貽”などという二字熟語はあるのか。動作の対象があることを示す虛詞“相”がつくのはふつう一字語(動詞)だろう。ならば報と貽は別の語で、当然その間で句読を切るべきとなる。

 いや、『三国志』に「相攻伐」という有名な例があった。「其国本亦以男子為王住七八十年倭国乱相攻伐歴年乃共立一女子為王名曰卑弥呼」。だが報貽という二字熟語は、ほかに使われた例を目下のところ知らない。

 あるいは注釈を付けられた某先生は、そのことを判っておられたかもしれない。解釈の前に訓読を施し、その訓読の語彙が解釈内容に合っていなかっただけという可能性もある。読解と訓読が分離し、あまつさえ訓読が読解の前に行われると(前にも書いたが荻生徂徠はこれを厳しく批判した)、訓読文と解釈(翻訳)文が合致しなくなる。