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 ♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して73年、
PBA『世の光』を文字で 

■水戸黄門、なぜうける

2006年05月08日 | Weblog

 世の光の時間です。お元気でしょうか。村上宣道(のぶみち)です。

 あのー、日本人の好きなドラマに忠臣蔵と水戸黄門があるというふうに言われますねえ。えー、テレビでも水戸黄門などは驚異的な長寿番組なんだそうですねえ。今の水戸黄門も何代目でしょうかねえ、私の知っているだけでも5、6人目かなあと思うぐらいですけれども、まあ悪代官や不正商人などに虐げられてなすすべもなく庶民たちが無念の涙を飲んでいる時に、そこに強い味方として現れてですね、そしてクライマックスにはとっておきの切り札。「この印篭が目に入らぬか! この方をどなたと心得る。」てなことですね。天下の副将軍が名乗り出ますと、今までふんぞり返っていた連中がバタバタと平伏してしまう。そこでまあ視聴者は溜飲を下げるっていう訳ですねえ。

 えー、水戸黄門が受けるというのは世の中には正義と公正が十分に行われていないので誰か代わってやってくれる人がいないかなあという願望の現れがあるかもしれませんねえ。みんな現代にも黄門様が欲しいと思っているのかもしれません。えー、総理大臣だろうが大統領だろうが裁判官だろうが首相だろうが、間違ったことをしたら叱りつけて平伏させる。しかもそのような絶対の権威を持ちながらその権威を悪用する心配の決してない高潔な人格者はいないだろうかということですねえ。

 ある人がですねえ、水戸黄門の好きな日本人ならキリスト教が分るはずだってこう言った人がいるんですねえ。というのはその水戸黄門という人は天下の副将軍というそういう立場を持っている訳ですけれども、そういうふうに見せないで庶民の中に入ってきて、どこの田舎の爺さんだろうかというような格好をしてですね、そしてみんなの悩みを聞き、それの解決に身を乗り出して行くっていう訳ですね。

 で、イエス・キリストって方は神様の子でありながら、しかし人間の形をとってこの地上に実はおいでくださった本当は神の子なんだ。で、ピリピ人への手紙という中に書いてあるんですけれども、「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。」(新約聖書ピリピ書2章6節、7節)というふうに書いてあって、そしてやがて十字架にかかって人間の罪を全部解決してくださる。義しい者と不義なる者とを明確に裁きながら、しかし罪の解決を与えてくださるために来てくださったイエス・キリスト。このお方を本当に知っていただけたらどんなに溜飲が下がるかなと思うんですね。

 ( PBA制作「世の光」2006.05.08放送でのお話しより)


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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会に行ってみるというのもいいんじゃないかなあ。近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

***

このサイトは URL名として http://yonohikari.biblical.jp 
が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。

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■信じる者になりなさい

2006年05月06日 | Weblog

 世の光の時間です。お元気でしょうか。羽鳥 明です。さ、今日は皆様からお寄せいただく「心に残る聖書のことば」の御紹介です。神奈川県藤沢市にお住まいの渡辺さんは新約聖書ヨハネの福音書20章27節のことばをお寄せくださいました。お読みしましょう。
信じない者にならないで、信じる者になりなさい。
イエス・キリスト様のおことばですねえ。

 私は夫の転勤に伴いまして1994年4月にアメリカのジョージア州アトランタに行きました。私と愛犬アロは2週間遅く、二人だけでの出発となりました。成田では不安げに鳴く声に「ワンちゃん、あなたも飛行機に乗るのね。大丈夫よ。」美しい優しい声に目をあげますと、あの高名なピアニスト中村紘子さんがしゃがんで犬のアロに声をかけ、落ち着かせてくださっていました。なつかしく思い出します。不安な者を安心させてくださって、まさに優しいカゥンセラーのような方でした。周囲のアメリカの方々も、とても暖かく受け入れてくださる日々でした。「あなたが家の前に引っ越して来てくれてとても嬉しい。ありがとう。」と、道路を隔てたお家の奥様が朝早くお皿にたくさん焼きたてのマフィンを持ってドアをノックしてくださった時には胸がいっぱいになり、アメリカに来られて良かったなと感激しました。日本では二十数年も教会に誘われれば行くというくらいでした。心の中では求めていたのに、素直になれない自分に自分で腹を立てていたんです。ゆったりと心が開けた環境の中で、「神様、早く私を捕らえてください」と祈る私に、イエス様がこの優しいおことばで私の背中を押してくださったのです。

 ・・・渡辺さん、良かったですねえ。イエス・キリストが信じられなかったトマスに優しく言ってくださった主イエス・キリストのおことばに、トマスは、「私の主。私の神。」と言って御前にひれ伏したのでした。

 渡辺さんの心に残る聖書のことば。
信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」ヨハネの福音書20章27節のことばです。

 また聞いてください。

 ( PBA制作「世の光」06.05.06放送のお話しより)

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■子どもと憲法

2006年05月05日 | Weblog

 世の光の時間です。お元気ですか? 安海靖郎(あつみ・やすお)です。今日は5月5日、子どもの日、連休のまん中の日です。おとついは憲法記念日をもって連休が始まりました。ま、憲法、私たちの国の将来・方向を決める大切なことですね。その改正・改悪、いろいろなことが言われますけれども、私たちの将来のためにしっかりとした考え方を持っていくって必要なことですよね。同時にまた子どもの日は子どものために考え、また子どもたちの将来を私たちようく考えていく、そんな日ではないかと思います。

 今、私たちの国の将来と共に何よりも子どもの将来、本当に心配が多い時代ではないかと思います。どのように育てていったらいいのか、どういう学校に入れたらいいのか。

 聖書にはまあ心の憲法と言ったらいいでしょうか、人間はこのように生きていくこと、それを目的としていく時に神様が将来を必ず祝福してくださると言っているものがあります。「モーセの十戒」と知られている十の教え、ま、戒めと言われているものですね。

 まずその第一番目にそれは神様との関係。人間が作った神々を拝んでいくのではない、天地を造られたまことの神様を敬い尊敬していく、礼拝していくことだ。

 そして次に、大切な人間関係。その一番の基礎は何か、それは父母を敬うことだ。古い教えのように思いますが、これこそがあらゆる人間関係の土台、祝福された生活の基礎だと聖書は教えています。ま、そのあとに「殺してはいけない。姦淫してはいけない。盗んではいけない。偽りの証言をしてはいけない。人のものを欲しがってはいけない。」という禁止事項が続きます。これらを新約聖書では一言で要約すると「あなたの隣人をあなた自身のように愛する」ということだと言っています。

 人の生きる幸いな生き方、また心の支え、それは神を敬い人を愛していく生き方だ。それがイエス・キリストを信ずる心の中に与えられていく、実行する力となっていくと聖書は言っています。

 親である私たち自身がそのように生きていく時に子どもたちはそれを見て、また、神様が祝福してくださる生活、人生目標を持っていけるのではないでしょうか。
 
(PBA制作「世の光」2006.05.05放送でのお話しより )


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■無から有を生み出す神

2006年05月04日 | Weblog


 世の光の時間です。お元気でしょうか? 福井 誠です。今日は聖書の中の創世記から聖書のことばを読んでみましょう。

 神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。(創世記1章3節)

 目を固く閉じてみてください。そこにはどんな世界が広がりますか? 暗闇の世界を感じませんか? 次に耳を手で閉ざしてみてください。どうでしょうか。暗闇に加えて沈黙の世界が広がりますね。はるか昔のこと、私たちの世界が登場する前の世界というのは、このような暗闇と沈黙に覆われた世界であったのではないでしょうか。どんな生き物も存在することのない世界です。そこで神が口を開かれる訳です。「光よ。あれ。」すると光ができて夜から朝へのリズムが生じてきます。神はそれをよしと見られました。続いて神は「空と海ができるように」とお語りになります。そしてその通りに空と海ができあがりました。けれどもそれはまだ何一つ動き回るもののない静かな世界です。そこでまた仰せられました。「植物が生じよ。地の生き物・動物が、海の生き物が生じよ」と。神のことばが発せられることで音のない世界にざわめきが起こってくるのです。こうして一切の舞台設定が完了した所で神は人間をお造りになりました。これは聖書の初めに描かれた天地創造の物語りです。皆さんはこの物語りを聞きながらどんなことを考えるでしょうか。

 ここに私は神様がどういうお方であるかということをやはり考えさせられます。新約聖書のローマ人への手紙という書の中には、神様のことがこう語られています。神様は「死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方」(ローマ人への手紙4章17節)であると。神様は何もない所から、あらゆるものをお呼びになって生み出すことのできるお方です。つまり、創造の神です。神様が意志されることでこの世界は出来、歴史が綴(つづ)られてきたのだという訳です。このような神を信じ味方とする人には、決して失望することがないでしょう。それこそ天地創造の神を信じるからこそどんなどん詰まりでも道は開かれるという希望を持つことができるのです。今日もこの神様に期待して新しい一日を歩んでみませんか?

 (PBA制作「世の光」2006.05.04放送でのお話しより)

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■富を得ようと苦労をするな

2006年05月03日 | Weblog


 世の光の時間です。お元気でしょうか? 羽鳥 明です。さあ今日の世の光はまず皆さまからのお便り紹介です。東京都小平市にお住まいの田村さんからいただきました。

 私の歌の恩師に、「太陽は、部屋から出て来る花婿のようだ。勇士のように、その走路を喜び走る。」(詩篇19篇5節)と聖書のことばを書き送りましたら、その反歌として「日のもとは東海に張られし一本の弦 平和の楽を高く奏でよ」といただき感銘いたしました。

 田村さん、久しぶりのお葉書ありがとうございました。
 
 さあ今日の神の知恵のことばです。旧約聖書箴言23章4節のことばです。
富を得ようと苦労してはならない。自分の悟りによって、これをやめよ。

 預言者エレミヤ(書)の17章11節のことばに、
公義によらないで富を得る者がある。彼の一生の半ばで、富が彼を置き去りにし、そのすえはしれ者となる。」とありますが、近頃、濡れ手に泡で額に汗をしないで巨額の富を得る不当なやり方で儲けて、そのおかげで牢獄の中で呻吟するといった若者錬金術師の姿を見ますが、聖書はこのことを言っているのではないかと思いました。

 第一に、金銭はすべて神のものだと言います。預言者ハガイは「銀はわたしのもの。金もわたしのもの。----万軍の主の御告げ。----」(ハガイ書2章8節)と言いました。

 第二に、神は神第一に生活する人にすべての生活に必要なものを与えてくださる、備えてくださるということ。「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。・・・あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6章31~33節)とあります。
 
 神の知恵のことば。
富を得ようと苦労してはならない。自分の悟りによって、これをやめよ。
 旧約聖書箴言23章4節のことばです。

 また聞いてください。

 (PBA制作「世の光」2006.05.03放送でのお話しより)

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■信仰がなければ

2006年05月02日 | Weblog


 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか。関根弘興(せきねひろおき)です。今日もさわやかに一日を過ごしていきたいですね。

 今日も最初に聖書のことばを紹介しましょう。ヘブル人への手紙11章の6節。
信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。

 どうも信仰ということばを聞くと、まるで理性を捨てて何かを思い込むことと考えたり、熱心になってただ信じますとと唱えることのように考える人がいます。でも信仰とは信じることです。信頼することなんですねえ。聖書は、「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。」と書かれているんです。

 でも考えてみれば、これは当たり前の話しだと思いませんか? 例えば、あなたの人間関係を考えてみてください。あなたがあなたの友達に、「私はあんたなんか信頼しません!」なんて言ったらどうでしょう。言われた人はもうあなたに近寄らなくなるでしょうねえ。また、「私は信頼などということばは全く持ち合わせておりません」と言ったらどうでしょう。誰があなたと喜んで付き合おうとするでしょう。誰も付き合いたくなくなるでしょうねえ。でも信頼ということばが信仰ということばに置き換わると平気でこんなふうに言うんです。「私は信仰なんて持っていません。」、「私は信仰なんて要りません。」って。本当でしょうか? 

 実は信仰に生きるとは信頼に生きることと同じなんですね。神様は、あなたが信頼に生きることを心から喜んでくださっているというんです。あなたが何か立派なことが出来る出来ないにかかわらず、どんな時にも信頼に生きている姿が嬉しいんだよとおっしゃってくださっているんですねえ。

 天地を創造された神様は、あなたに対して「わたしはあなたを愛している」と語られています。あなたはそれにどう答えますか? 私はあなたを信頼しますという応答こそが私たちのあるべき応答ではないでしょうか。最も幸いな人生とは、信頼できるお方をあなたが持っているということです。どんな時にも、どんな状況においても信頼できる方こそあなたに必要なお方ですよね。詩篇の62篇8節に、「民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。」と記しています。神様に信頼する人生を歩んでいきましょう。

 
 (PBA制作「世の光」2006.05.02放送でのお話しより )

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■はだかの王様

2006年05月01日 | Weblog

 世の光の時間です。お元気でしょうか。村上宣道(のぶみち)です。

 あのう、アンデルセンの『裸の王様』っていう童話がありますよねえ。私は、赤ちゃんこそが文字通り裸の王様じゃないかなって思うことがありますねえ。赤ちゃんは一家の王様ですよねえ。ひとたび泣き出した赤ちゃんは総理大臣だろうが最高裁長官だろうがその要求の前には屈服させずにはおかない王様って感じがするんですね。王冠も系図も領土も軍隊も持たないどころか、まあそもそも彼は裸一貫で生まれてきた訳ですけど、にもかかわらず彼は王様なんですね。

 えー、確かに何も持ってない者の強さっていうことがあるかもしれませんけれども、でも彼は全世界よりも尊い者である一個の人格を持っていますね。で、彼の内には光輝く未来がありますよねえ。そしてまさに将来・未来こそは彼の領土ということが出来るでしょうねえ。

 ところがこの王様は悲しいことに歳とともにだんだん落ちぶれていくんですね。将棋を御存知の方はお分りだと思いますけれども、下手な将棋指しが飛車角をかわいがり金銀を貪りそれを取るのに夢中で王将・王が窮地に陥るのも知らずにいるよみたいにですね、赤ちゃんも成長するにつれて自分のうちにこそ最も尊いものがあるということを忘れて卑しいものを追い求めてですねえ、いつしか王様でなくなって、肉欲の奴隷と言いましょうか、金銭・名誉欲の奴隷、野心の奴隷、そして人の奴隷に成り下がってしまったりするということですねえ。彼の目にはもはや幼かった日の清らかに澄んだ光はなく、瞳は濁ってしまって・・・。確かに富や地位や技術など外面的何かを得たかもしれませんけれども、しかし希望の本当の土台石である人格が崩れて品性の大黒柱が腐っていってはいくら秀才でも美人でも手腕家でも、外面上は美しく着飾っているつもりでも、その実、神様の目から御覧になったらみっともない丸裸の罪人。実に絶望的な状態でしかなくなってしまっているということに気がつかない。自分はあれを持っている、これを持っていると思っているかもしれませんけれども本当は何にも持っていない丸裸なんだということですよね。

 あのう聖書の中で、「誰でも幼子のようにならなければ神の国に入ることはできない」というふうにイエス様がおっしゃったことばですけれども、えー、五月五日は子どもの日ですけれども、私たちは本当に本来の自分自身の尊さというものは何かということに気がついて、そして幼子のように神様に信頼して生きていく、何も持たないようで最も大切なものを持っているという生き方、これをもう一度見つめ直したいと思いますね。
 
 ( PBA制作「世の光」2006.05.01放送でのお話しより)


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