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 ♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して73年、
PBA『世の光』を文字で 

■なぜ人は苦しむ?

2006年05月19日 | Weblog

 世の光の時間です。お元気ですか? 安海靖郎(あつみ・やすお)です。今日は、苦しむという辛いことにも意味があるってことについてお話をします。

 私たち、生きている限り必ず苦しむことがありますね。いいえ、苦しむことは生きている証拠であるとも言えるのではないでしょうか。大切なのはその苦しみに負けてしまって挫折したり閉じこもったり、命を絶ったりしてしまわないということです。苦しみには実は深い深い貴重な意味があるんだということを理解していく時に、うまく対処していく、ま、それが大切なように思います。

 一つの例ですが、インドネシアから留学して優秀な成績を残して帰国して今名門バンドン工科大学の助教授をしている私の友人がいます。彼は日本の東京工業大学で博士課程まで優秀な成績を収めました。5年間で何と31の論文を書きました。そのうちの4つは海外で招待されて発表する、そんな優秀な方です。でも彼は卒業後、研修中に突然目の病、原因不明、数カ月入院して本当に苦しみました。私も何度も訪問してお祈りしました。ようやく治って回復した後、こんなふうに彼はみんなの前で言いました。「自分は病に倒れて初めて自分というものを知った。人間とは何とはかないものか、この数カ月、聖書を貪るように読んだ。神様が今までになく身近に感じるようになった。そればかりではなく、入院中に同室者たちと一緒に喜びを喜べるようになった。悲しみを共にできるようになった。そして毎日生かされている・生きている、何でもない自分の存在・生活、それに感動・感謝の心を持つようになった」って言うんですねえ。

 瞬(まばた)きの詩人と呼ばれた水野源三さんは重度の脳性マヒで一生寝たきりでしたが、聖書に出会いキリストの愛と恵みを知って、ま、詩にこんなふうに言っています。「もしも私が苦しまなかったら神様の愛を知らなかった。もし主なるイエス様が苦しまなかったら神様の愛は現れなかった。」むしろ苦しみを通して本当に生きる意味、それを知ったというだけではなく、神の愛をキリストの内なる永遠のいのちをそれを実感できていく、そんな意味があったのだというのです。

 こういう理解や多くの人の体験を通して私たちはどんなことが起こっても乗り越えていく心の備えができていくのではないでしょうか。

  (PBA制作「世の光」2006.05.19放送でのお話しより )


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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。近くの教会もPBAで紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


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■イエスの死と命

2006年05月18日 | Weblog


 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか。 福井 誠です。今日は聖書の中の第一ペテロの手紙から読んでみましょう。

 「キリストは・・・自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」(1ペテロ 2章22節、24節)

 竹にまつわるこんなお話があります。旱魃のため水が涸れ、人も家畜も死にかけている村がありました。村人たちが寄り集まって相談をしました。すると近くの山に泉が湧き出ているのでそれを何とかこの村に引けないだろうかという話しになりました。そうこう話しているうちに山の麓には竹林があるという声が出ました。さっそく村人たちは斧を持って出掛けて次から次へと容赦なく竹を切り倒しました。長く立派な枝葉は切り落とされ、竹の中には鉄棒が突き通されて竹の節々はすべて突き破られました。そのようにして命を奪われた竹は互いに継ぎ合わされ、地下に埋められて山の泉と村を繋ぐ水路とされたのです。こうしてその村からは美しい竹林の姿が消え去りました。けれどもそのあと、村人たちも家畜も豊かな水の供給を受けて生き返ることができたと言います。

 イエスの生涯もまたこの竹林のようではなかったかと私は思います。イエスは十字架上でその手と足、また脇腹を鉄棒で突き通され命を奪われました。もはや誰の目にも見ることのできない存在となったのです。しかし聖書は、そのイエスの死によって私たちは命を得ているのだと言います。どんな命でしょうか。私たちが罪を離れ、義のために生きる命です。私たちの心には偽り・憎しみ・欺き、様々な罪が渦巻いています。そういったもので私たちは罪の深みの中に死にかけています。そのような私たちの心にイエスは、御自身の義しさ、御自身のきよさを注ぎ込むために十字架上で死んでくださったのです。イエスについての聖書のことばを信じて、あなたも罪から離れた新しい人生を送ってみませんか?

 
 (PBA制作「世の光」2006.05.18放送でのお話しより)

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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会に行ってみるというのもいいんじゃないかなあ。近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■セルフ・コントロール

2006年05月17日 | Weblog


 世の光の時間です。お元気でしょうか? 羽鳥 明です。さ、今日の世の光はまず皆さまからのお便りの紹介です。神戸市東灘区にお住まいの松村さんからいただきました。

 いつも録音をして拝聴しています。先生の素晴らしいメッセージにはいつも励まされています。心の病となって5月で16年になります。辛いですが、この病を通してクリスチャンとなり、毎日1章づつ聖書を読んでいます。神様がいやしてくださると信じています。放送頑張ってください。

 ・・・松村さん、素晴らしい励まされるお便りをありがとうございました。私達も放送に頑張ります。

 さあ今日の神の知恵のことばです。今日は箴言25章28節です。
 「自分の心を制することができない人は、城壁のない、打ちこわされた町のようだ。

 昔の町々は城壁によって巡り囲まれ敵から堅く守られていました。その厚い高い城壁が崩されると、容易に敵に踏み込まれ惨敗するのです。

 聖書は心をコントロールできない人を城壁が壊されて崩された人に例えています。罪に支配され、肉的な欲望の激しい流れに押し流される人は、すぐに道を踏み外したり怒ったり妬んだり嘘をついたりします。これは罪の奴隷になっている私達のありのままの姿ではないでしょうか。

 聖書は、「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」(ローマ人への手紙12章2節)と言います。

 しかし、どうしたらこれができるのでしょうか。パウロという人は聖書の中でこう祈って言いました。「こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。」エペソ人への手紙の3章17節です。心砕かれ、悔い改めて信じる心の中に、活けるキリストが愛をもって住んでくださる。これが秘密ですねえ。

 聖書のことば。
 「自分の心を制することができない人は、城壁のない、打ちこわされた町のようだ。
 箴言25章28節のことばです。

 それではまた聞いてください。

 (PBA制作「世の光」2006.05.17放送でのお話しより)

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■信じることは、信頼すること

2006年05月16日 | Weblog


 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか。関根弘興(せきねひろおき)です。今日もさわやかに一日を過ごしていきたいですね。

 今日も最初に聖書のことばを紹介いたしましょう。ヘブル人への手紙11章1節、「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。

 信仰とは信頼に生きることなんですねえ。そしてそれは望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させる生き方なんだという訳です。信仰と言うと何か特別な感情、何か宗教的な印象がありますよね。でも信仰とは信頼と同じです。

 実は私たちは日常生活の中でこの信仰に生きるということを毎日のように行っているんですね。私は最近よくインターネットで買い物をするんです。実物の商品を手にしている訳ではありません。でも私は購入の申し込みボタンをクリックした時、実際にはその商品を見ていないし手にもしていないですが、既に商品を得たという確信を持つ訳ですね。はたしてどうでしょう。二、三日経つと送られてくるではありませんか。その情報を信じた時に既に手に入れたと確信したんです。しかし私はですねえ、恥ずかしいことにネットオークションで詐欺に遭ったことがありました。何の疑いも持たずノートパソコンを買ったんですねえ。しかしその商品がいつまで経っても送られてこないんです。その画面に書かれていた住所も電話番号もみんなデタラメだったんですねえ。大変ショックを受けました。信仰は信頼に生きることです。しかしそこには決して譲れない大前提があるんです。それは信じる相手が決して嘘偽りが無いということなんですね。信頼する相手に偽りがあるならどうして信頼し続けることができるでしょう。

 それでは私たちの信仰・信頼の対象は一体どなたなのでしょう。聖書にはこう書かれています。「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」(ペテロの手紙第一2章22節~24節) その口に偽りもなく、そして私たちのために罪を背負い、御自分の命をあの十字架でお捨てになったお方がいます。そして三日めによみがえられた方、イエス・キリストがいます。この方こそ私たちが心から信頼するお方なんですね。


 (PBA制作「世の光」2006.05.16放送でのお話しより )

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■かわりはいない

2006年05月15日 | Weblog

 世の光の時間です。お元気でしょうか。村上宣道(のぶみち)です。

 えー、最近は取り替えとか交換なんかがいとも簡単にしてしまう時代になったように思いますねえ。えー、こんな話しでしたら笑われるかもしれませんですけど、私たちが子どもの頃はガラスなんか割れたりしてもすぐには取り替えないで丸く切った紙なんかを絆創膏みたいにこう割れ目を貼ったりしていたんですけど、そんな光景を今目にすることはありませんねえ。自転車でさえも失ってそして見つかっても取りにくる人がないとか言ってましたしねえ。えー、時計を紛失して無くしてしまったからといって一年間我慢してたっていうこともありませんしね。いろんな機械なんかの部品を取り替えようなんか思って修理しようと思っても、「えー? そんな取り替えてるくらいだったらもう新しいのに換えた方がいいですよ。」とか言われてですね、すぐに(新しいのに)取り替えて(買い替えて)しまうというようなこと。そういうのは物だけじゃなくって人間の世界にも及んできてですねえ、病気で休んだり何か不都合があって休んだりしたらパッと代わりの人が来てしまう。別にその人がいなくても何も普段の業務は変わらないとかですねえ、一体自分は本当に必要な存在なんだろうかと悩んでしまうようなことがあったりする訳ですよねえ。

 で、聖書を見ますと、私たち人間の一人一人というものもですねえ、本当にかけがいのない価値ある存在として教えていて、それはもうその人はその人しか絶対にいない、交換はできない、代わりはいないというそういう存在とされているということ。これを知ることはですね、自分自身の人生を大切にし、他の人の人生、他の人のいのち、他の人をも大切にするということと繋がっていくんだと思うんですね。聖書の中でイエス様がおっしゃったんですけど、「失われた者を尋ね出して救うためだ」(新約聖書ルカによる福音書19章110節参照)って書いてあって、例えば百匹の羊がいたとしてその内の一匹が迷い出たら九十九匹を野においてでもいなくなった一匹を見つけるまでは探し歩かないであろうかって、見つけるまでは絶対に探す。代わりはいくらでもあるよということは決しておっしゃらない。どんな犠牲を払ってでも探し歩かずにはおかない。というのは、その一人はかけがいのない大事な、神によって造られた存在。その一人が救われるためにも神の一人子イエス・キリストが十字架にかかって血を流すほどに愛しておられる大切な一人なんだというそのことですね。その神様が私を大切に思っていてくださる。愛されてる存在だと知ることが私たちの人生を本当に大切に生きることだ。そのことをぜひ知っていただきたい。そう思うんですねえ。

 ( PBA制作「世の光」2006.05.15放送でのお話しより)


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■自分自身が神から受ける慰めによって

2006年05月13日 | Weblog

 世の光の時間です。お元気でしょうか。羽鳥 明です。さ、今日は皆様からお寄せいただく「心に残る聖書のことば」の御紹介です。神奈川県川崎市にお住まいの保坂さんは新約聖書コリント人への手紙第二1章4節のことばをお寄せくださいました。お読みしましょう。

神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。

 2005年3月2日に私の通っている教会の松原牧師により教えていただいたみことばです。私の抱えている心の病に対して、今私が辛く思っていることをいつかこの私も同じ悩みで苦しんでいる人に対して何らかの力になれる時がやがて来ると松原牧師は言ってくださいました。「私は、私が」になっている重荷や試練から何かを学びとり、そのことのために他の人の力になることができれば本当に幸いと思っています。現在私は教会で「感謝します」という讃美歌を9月の発表に向けて練習していますが、「感謝します。試みに会わせ鍛えたもう主の御恵みに感謝せよ。」と歌いつつ今はひとつひとつを感謝できる日々を送っています。

 ・・・保坂さん、お便りありがとうございました。おっしゃる通りですね。私の息子は長い間、同じ悩みに悩んでいました。今は癒されて元気になり、同じ悩みを持っているこの人々のために牧師となって助けております。よく自分の悩みを通して人の悩みが分ります。癒してくださった神様の恵みを経験して同じ慰めをもって人々を慰めてあげるようになったんですねえ。

 保坂さん、心に残る聖書のことば。
神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。 」 新約聖書コリント人への手紙第二1章4節のことばです。

 それではまた聞いてください。

 ( PBA制作「世の光」06.05.13放送のお話しより)

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■なぜ災害は?

2006年05月12日 | Weblog

 世の光の時間です。お元気ですか? 安海靖郎(あつみ・やすお)です。
 
 先日、インドネシアのスマトラ島アチェ州を家内と共に問安してきました。2004年の12月26日の朝起きたスマトラ沖地震・津波の犠牲者は20万人を超えました。訪問した州都バンダアチェ市は人口35万人の町ですが、そのうち8万5千人が亡くなりました。こんな所も見ました。2万トンの大きな鉄の船が高さ20メートルの波に運ばれて海岸から3キロメートルも入った町の中にドスンと落ちて来ました。下には3軒の家がありました。1年以上経った今も船はそのまま動かすことができないので記念物にするそうです。また町の広ーい広場に集まった8千人もの避難した人たちは次に来た津波で何と一人残らず海に持っていかれ、それきりになったというんです。本当に想像を絶する悲惨な現実を目の前にしていろんなことを考えさせられました。

 一つは、自然の力と言いましょうか、聖書ではこの世界を創造し守り支えて下さる創造者なる神の権威・尊厳、そういうものを感じました。この宇宙世界を守り支えていてくださる手を少し動かした、それだけでこんなことが起こるんだろうか、そんな実感です。

 また旧約聖書の中に書かれておりますようなノアの箱船で有名な、洪水で全地が水没したというような出来事、またこの世界の終末に起こる様々な災害、聖書に書かれていること、本当なんだという実感が湧いてきました。

 さらにもう一つ考えさせられますことは、どうしてこんなことが起こるのか、犠牲になった多くの方たちを思います。どうしてあの人たちが・・・。新約聖書の中にはイエス・キリストがこんな風に言っています。災害に遭った人たちについて、「あなたがたはこの人たちは助かった人たちよりも罪が多いからこうなったと考えるか? そうではない。もしあなたがたも悔い改めないなら同じように滅びます。」と言いました(ルカの福音書13章2節、3節参照)。私たちは起こった災害とか亡くなった人をどうしてどうしてと詮索しますけれども、大切なのは私たち自身が、それを見聞きした者が今この時間に、この生きてる時に永遠のいのち・神の救い・キリストの恵みを知って、この神に立ち帰ることだと言うのです。

(PBA制作「世の光」2006.05.12放送でのお話しより )


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■心の優しい人になる

2006年05月11日 | Weblog


 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか。 福井 誠です。今日は聖書の中のエペソ人への手紙から読んでみましょう。
お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」(エペソ人への手紙 4章32節 )

 世の中にはいろいろと理不尽な出来事がたくさんあります。憎しみと怒りと復讐心に駆られるようなことがあります。そこで何年も何十年も心の片隅に恨みを住みつかせて生きている人もいることでしょう。しかし、どんなに人を憎んでも物事が良きに変わっていく訳ではありません。むしろ人を憎めば憎むほどにそれが非生産的で破壊的な力として自分に跳ね返ってきて、自分を駄目にしていくということがあります。つらい体験に負けて、どんどん意地の悪い人間になっていく。そういう自分を思わされるばかりで苦しさが募るということもあるでしょう。

 いつしか人間は気付ねばならないのでしょう。どんなに相手を憎んでも、失ったものを悲しんでも、過去を取り戻すことはできない。どこかできびすを返して相手がどうであるかではなくて、自分が変わっていく。自分で自分の気持ちにけじめをつけて、これからは新しく生きることに心を向けていくことが大切であると。

 そういう意味で聖書のことばは私たちが辿り着く結論を先回りして語っているような所があります。しばしば私たちは聖書のことばを禁欲的に捕らえることがあります。こうしなければならない、ああしなければならない。命令として受け留めることがあります。けれどもそうではありません。それは命令ではなく、どんな人間も人生経験の中で必ず辿り着く真理、幸せを得るための結論なのです。実際、神様は結論的なことばを前に人がいつけじめをつけるかについて人それぞれのペースを大事にしておられます。人の荒んだ心が整理され、物事を前向きに処理していけるようになるまで神様はじいっと私たちを見守ってくださっています。神様は私たちが憎しみ・怒り・そしりを捨て去り、心優しい人となるようにと招いてくださっています。あなたもこの神様の招きを今日、自分のものとして歩んでみませんか?
 
 (PBA制作「世の光」2006.05.11放送でのお話しより)

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■家は知恵によって建てられ

2006年05月10日 | Weblog

 世の光の時間です。お元気でしょうか? 羽鳥 明です。さ、今日の世の光はまず皆さまからのお便りの紹介です。栃木県鹿沼市にお住まいの石川さんからいただきました。

 イエス・キリストの十字架の上で流された血潮で過去の嫌な思いがなくなりました。救われてから8年になります。先生のメッセージにより何度となく癒されました。メッセージを聞いて涙を流すことがありますが癒されます。今年42歳になります。

 ・・・石川さん、素晴らしい書き込みありがとうございました。

 さて今日の神の知恵のことばです。旧約聖書箴言は神の知恵の書と言われていますが、今日は箴言24章3節のことばです。

 「家は知恵によって建てられ、英知によって堅くされる。

 イエス・キリストは人生を家にたとえられて、砂の上に建てられた家と岩の上に建てられた家という話しをされました。今日の箴言のことばは、神の知恵によって建てられる家・ファミリーのことを言っているのではないかと思います。

 第一に愛です。神は、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ書43章4節)と言われます。神様は私たち一人一人を、あるがまま・そのままで尊い者として受け入れて愛してくださいます。パウロは「こういうわけですから、キリストが神の栄光のために、私たちを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れなさい。」(ローマ人への手紙15章7節)と申しました。家庭という所は、お互いをあるがままの姿で受け入れる愛の場所であるべきです。家庭は障害のある子どもたちをもそのまま・ありのままで愛して受け入れます。

 第二に、仕え合うということです。キリストは神でありながら低くへりくだって私たちに仕える者となってくださいました。ファミリーも互いに仕え合うのです。結婚して夫と妻となると自分の欲望をそこに置いて夫は妻に、妻は夫に仕え合う。そこに美しいファミリーが出来あがるのですね。キリストはお互いに仕え合う無上の模範です。

 神の知恵のことば。
 「家は知恵によって建てられ、英知によって堅くされる。
 箴言24章3節のことばです。

 それではまた聞いてください。

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■何を信じればいいのですか?

2006年05月09日 | Weblog


 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか。関根弘興(せきねひろおき)です。今日もさわやかに一日を過ごしていきたいですね。


 今日も最初に聖書のことばを紹介しましょう。ヘブル人への手紙11章7節。「信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。

 創世記の6章という所を開くと、このノアの箱船で有名なノアという人の生涯が記されています。当時の人々は自分勝手に生き人々の心は荒廃し悪が悪を生むという目を覆うような状態になっていました。神様はこうした暴虐に満ちた人々の姿を見て心を痛められました。そこでノアに不思議な命令をされたんです。それは大洪水に備えるために箱船を造りなさいというものでした。その箱船の長さはなんと150メートルにもなるものです。その幅は25メートル。高さも15メートルもあるような巨大なものでした。さあノアは家族揃って箱船を建造することになりました。それは何年も何年もかかったのです。人々はノアが船を造っているのですからあざ笑いました。でもノアは箱船を造り続け、そしてある時は街頭に出て叫んだでしょう、「これから皆さん経験したことのない大洪水が襲います。だから今造っているこの箱船に皆さんも乗り込んでくださいね。」すると人々は、「何を馬鹿なことを言っているんだ。」とまったく相手にしませんでした。しかし箱船が完成し、ほどなくして雨が降ってきました。人々は今だに暴虐を重ね、ノアの声に誰も耳を傾けません。そしてついに大洪水が襲い始めたのです。聖書は、こう記しています。「それから、主は、彼のうしろの戸を閉ざされた。」(創世記7章16節) と。箱船の入り口の戸を神様が閉じられたって書いてあるんですねえ。

 人生には決して遅らせてはいけない大切な決断があるんです。人々は救われるための箱船があるのに耳を閉ざしてしまいました。私たちは今日いったい何を信じればいいのでしょう。私はあなたに心から勧めたいんです。ノアが箱船を造り洪水から救われたように、今、イエス・キリストこそ私たちの救い主として私たちの救いの箱船として来てくださったということなんです。このイエス・キリストの救いの招きに耳を閉ざす者であってはいけませんよね。

 (PBA制作「世の光」2006.05.09放送でのお話しより )

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