花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

レモン色の町クイズ③

2022年09月19日 | レモン色の町

辻俊文さんの記録では、昭和32年2月8日撮影とあります。一番寒い頃でしょう。雪の降りしきる中、辻さんがカメラを向けたのは、電柱に牛が繋がれている光景です。さて、どこでしょう?

当時、商店街の中を牛や馬が通りました。道路の真ん中には藁にまみれた糞が積まれていたものです。この年の9月15日から10月14日まで、市制60周年を迎えて記念行事が行われ、各店頭には提灯が飾られたと記憶しています。

60周年を記念して四日市市歌と四日市音頭が出来、特に四日市市歌は学校で歌わされました。佐々木信綱作詞 伊藤亘行作曲です。

 

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レモン色の町クイズ②の答え

2022年09月18日 | レモン色の町

答えは、諏訪駅前にあった諏訪百貨店(通称スワマーケット)内部でした。

昭和35年12月20日に、辻俊文さんが撮られた写真で、ボタン屋さんの上では解体工事が始まっていました。

スワマーケットは、昭和20年6月の四日市空襲後に建てられたようです。諏訪駅は昭和17年に旧東海道沿いからここへ移設されました。当時、水野さんという方が、現在のキタオカさんあたりにお住まいで「旧四日市を語る」に投稿されています。

これを見ると、空襲前には川村鉄工所鵜の敷地が広がっていたようです。

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レモン色の町クイズ②

2022年09月16日 | レモン色の町

昭和35年12月20日。年末の写真です。この年四日市の市街地では、国鉄四日市駅落成(4月)、近鉄百貨店が開店(5月)、市民ホールが開館(7月)、商工会議所新屋舎竣工(8月)しています。戦後復興の声とともに、新しい施設が建設されていきます。さて、次の写真は何処にある店舗でしょう?手芸屋さんですね。ボタンの箱がうず高く積み上げられています。ケースの上には黒のダイヤル電話が「ご使用ください」と誇らしげに置いてありますね。お袋がこんなことを話していました。「うちも電話が欲しいけど、お客さんが来て勝手に使われると困るよね」

この年には、“ダッコちゃん”がブームになりました。

<ヒント>左隣のお店は、下駄の専門店で修理に余念がありません。さて何処でしょうか?

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レモン色の町クイズ①の答え

2022年09月14日 | レモン色の町

雪跡を左から右へと歩いていく人々 右の建物を見てください

少し右によります

ぐっと右に寄りました。同じ建物です。

「パーマの堀田」と、うどん・丼物の「水谷屋」の看板が右にみえます。

昭和31年、諏訪駅がなくなる直前の空撮です。このあたりから撮りました。近鉄線と湯の山線が取り払われた後には、広い空き地が出来ました。中央は、川村鉄工所です。

新しく出来たばかりの近鉄四日市駅で降りた人々が、諏訪駅跡をまたいで諏訪の町へと進みます。

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レモン色の町クイズ①

2022年09月13日 | レモン色の町

故 辻俊文さんは、変わりつつある諏訪の町の記録を残していかれました。

昭和31年9月23日、それまで町の真ん中にあった“諏訪駅”は取り壊され、新しく近鉄四日市駅が完成します。

そこで、辻さんの残された写真の中から、これが何処なのかをお尋ねします。現在のどのあたりになるでしょうか?

昭和32年2月。諏訪の町に、雪が降りました。辻さんはカメラを持って、雪の降りしきる様子を写真に納めました。

雪が止みました。ぬかるんだ道を、人々は左から右へと通り過ぎていきます。

ここは、何処でしょう?

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四日市祭り その17 今昔話⑭

2022年09月11日 | レモン色の町

お祭りになると、日頃は静かな諏訪公園もズラリと露店が並び、多くの人で賑わっていました。

昭和27年 陶器製の大入道を求める人 山川菊生氏提供 四日市の今昔より

わた菓子はあちこちに出ており、一番大きいのを探して回りました。公園の南入り口にはういろうの店があって湯気を立てています。その西、猿の檻の横には、拡大器の実演があり、プロマイドを横に置いて写真の線をなぞると役者や歌手の顔が描けます。上には古い紙で完成品がかけられていますが、買って帰るとうまく描くことができませんでした。地球ゴマは、いくつも積み上げて回していました。スマートボールやパチンコの台も並んでいます。

諏訪新道の三井銀行の横では、船の材料を売っていました。セルロイドで出来た小さな船にリュウノウを挟み込むと、水を蹴ってくるくると進みます。その他 ハッカパイプ、カルメ焼き、ゴム鉄砲、一輪車、輪投げ、射的、おもちゃのくじ等、お小遣いをポケットの中に握りしめて1日中見て回りました。

昭和30年 雨の四日市祭り 境内で舞う南浜田の練り獅子 中西秀男氏提供 四日市の今昔より

神社の境内では香具師が口上を言っています。袋の中には二つ頭の蛇が入っていて、結局最後まで見ることなく、軟膏や万年筆を売っていました。

新田町の通りでは、“どっこいしょ”という街頭賭博をやっていて、セルロイドが入った餅花を数個の中から当てるというものです。近所だったので長い間眺めていましたが、同じおじさんがお客さんで居たので、仲間の人と思いました。

また、小さい碁盤の板にコインを置き、おちょこで伏せて振ると、そのコインが消えるという手品もありました。これならたくさん貯金ができると思って、買って帰りましたが、板の一部が回転して、隙間にコインが入り込むというものでした。手品の実演は面白かったのですが、種を仕入れて帰ると、そのほとんどが失望させられるものでした。

香具師の口上は、面白くて半日位眺めていました。

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四日市祭り その16 今昔話⑬

2022年09月07日 | レモン色の町

昭和37年5月発刊の“商連ニュース”より 『四日市祭り』は、稲葉桑太郎氏の記事を“旧四日市を語る”第五集に再掲載されたものであります。その2

上新町の上代人形

上新町の上代人形と東中町の謡曲人形、浜町の傘鉾は釣り練りであって三町内とも各々十数基の釣り練りを人夫が担いで歩きました。南納屋の明神丸と北納屋の勢州組、東袋町の正一丸は鯨船であって金色燦然と輝く鯨船が揃って牽き歩く姿は人目を奪ったものでした。

九六町の大名行列

行列では、比丘尼町と久六町の大名行列、南浜田の頼朝公の富士の巻狩り。北条町の魚行列でした。特に大名行列は、横浜港五十年祭の時に、懇願されて出張し、一等賞を獲得しました。

北条町の魚行列も珍しく、竹籠で魚の形を作り紙や布を貼って彩色してありました。大きなものでは家屋ほどあり、小さなものは三歳の子供がかむる小鯛に至るまで各種百種類あって子供に人気がありました。

北条町の魚づくし

それらの練りが26,27日の両日に全市を音曲入りで練り歩きます。学校も銀行もお休み、通りの商店も休業して表には幔幕を張り提灯を揚げます。店の間を片付け、敷物を敷き屏風を立てて来客には茶菓の接待をしました。奥の間では、酒肴を山積みして親戚や知己を招き酒宴を開いて、全市はお祭り気分一色になったのです。

しかし、昭和20年6月の空襲で、鯨船一艘と大入道を残して総ての練りは焼失しました。その後、人の出入りに加わって、世も世知辛くなり、往年のお祭り気分がしなくなったのは、誠に残念なことです。

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四日市祭り その15 今昔話⑫

2022年09月06日 | レモン色の町

昭和37年5月発刊の“商連ニュース”より 『四日市祭り』第1部

前回の“明治の風景”と同じく、稲葉桑太郎氏の記事を“旧四日市を語る”第五集に再掲載されていたものであります。

諏訪神社祭礼の“四日市祭り”は、京都の祇園祭には及びませんが、滋賀の長浜祭りや岐阜の高山祭と比べても見劣りするものではありませんでした。日取りは9月26日・27日ですが、古くは8月26日・27日と古老から聞いていました。8月といえば残暑がひどいので(旧暦?)、衣装や食べ物の関係で9月に変更したと聞きました。

四基の大山

江戸時代の練りは、漆塗りでコブラン織の立派なものでした。昔はこれを牽いて歩いたものですが、明治期以降は、電話線が邪魔になって引くことが出来なくなったので、祭礼当日、神社の社頭に大山二基を組み立て飾るのみでした。明治以降は、町民の財力の充実に伴って改造したり塗りなおしたりするものが多かったようです。

新田町の天岩戸

山車(小山)では、北町の紅葉狩、南町の上代人形、竪町の唐子遊び、西中町の甕破り、中新町の湯立て神事、四ッ谷新町の石橋、下新町の弁慶と牛若、新丁の菅公蟄居の状、蔵町の岩戸山、桶の町の大入道、中納屋町の唐子遊び、西袋町倭姫命、新田町の天岩戸、江田町大黒天袋破りであり、特に大入道と狸は人気がありました。つづく

桶の町の大入道

蔵町の岩戸山

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明治の風景②

2022年09月05日 | レモン色の町

明治末期の諏訪新道商店街は、幅2メートル位の耕作道で、両側は水田であり所々に「だしがめ」という人肥貯蔵かめが点在し(要するに肥溜めですな)、人家は農家が少し建っている程度でした。現在の郵便局、電話局、中央小学校の付近も大部分が水田でした。建っていたものは、市役所と女学校、乳貰観音(現:観音寺?)だけでした。下新町の得願寺の裏から望むと乳貰観音までは一面の水田でした。諏訪神社の裏手(現:諏訪公園)は、南町の川守屋 山口喜七氏所有の広さ300坪ほどの溜池であって、蛇や蛙の巣窟でした(後の保光園でしょうか?神社の土地ではなかったのか?)。

明治28年四日市商業会議所発行

現在の近鉄四日市駅西に建つ“天理教教会”は“かもん堂”という森で(現在でもかもんど塚は本殿前に立っています)、昼でも暗く、小さな祠があって大昔果し合い(?)があったところで、火の玉が出るといわれ子供も寄り付きませんでした。諏訪神社から西を見渡すと、芝田村、中川原村まで一面の水田でした。ただ、堀木の火葬場だけがぽつんとありました。

旧東海道を南へ、江田(えんだ)と浜田は街道沿いに家があるだけで、裏手は一面の水田でした。

大正10年不動寺の竜灯の松

新丁通りも当時は、不動寺と鈴木眼科病院のほかは農家や牡蠣取り(?)が多くて商店は少なかった。不動寺には樹齢1000年の大松があり高さ数十丈、太さは直径20尺ほどあり大昔その上に灯火を点じて「竜灯の松」と呼ばれたが、大正10年頃に枯れてしまいました。特筆すべきは、当時新丁に米穀取引所があって繁盛を極めていました。唯一公認の投機市場だったのです。

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明治の風景①

2022年09月04日 | レモン色の町

昭和37年5月発刊の“商連ニュース”より

『明治末期の四日市』の風景

私の子供のころの四日市は“市”と云ってはいたが、実に貧弱なものでした。家並みが揃っているのは“旧東海道”にあたる川原町、北町、南町、新田、江田(えんだ)、北浜田、南浜田を貫ける1本と、西町から札ノ辻を通って竪町、西中町、東中町、浜町、蔵町、稲葉町までの北浜往還の1本と、西新地の新地座(弥生館跡)前から上新町、中新町、四ッ谷町、下新町、新丁を通って国鉄四日市駅へ通じる南浜往還の1本でした。

明治44年 中心市街地

その他に、納屋五ヵ町と高砂町、稲葉町に家は建っていましたが、有力な小売店はありませんでした。蔵町の大部分は肥料倉庫で、肥料店と銀行、郵便局が倉庫の間に挟まっていました。

北納屋、南納屋、袋町は、漁師と船頭と沖中仕の住まいで、中納屋と桶の町は旦那衆の本宅ばかりでした。

明治44年 四日市港付近

橋北は、川原町通りの両側に一重並びの家が建っていましたが、その他は一面の水田でした。浜一色は、八幡神社を中心に40~50軒の農家があって県立商業高校があるのみでした。新浜町一帯は、一面の水田で、所々に松山が点在しておりました。舟坂橋(現在の老松橋)の北詰めに養鶏場が2~3軒あり、その水田の畔を通って商業学校へ通ったものですが、梅雨時になると田の水があふれて通れなくなり困ったものでした。

明治44年 三滝川北

現在(昭和37年頃)の八幡町の住宅街(東洋紡績)も明治末期は水田でした。中町から八幡さんの前を通って三滝川堤防の銀杏の木までの通りと、北条の電灯会社(現:中部電力)から慈善橋に通じるには家が建っていましたが、その間の八幡町一帯は水田でした。只、この八幡町に大蔵省収税部(現:税務署)があったことを知る人はみえないでしょう。

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