
本町のカイマス氏より、貴重な新聞の切抜きをお借りした。
昭和42年7月28日の中日新聞。“古希を迎えた四日市”とありシリーズ化されている。
「明治大正期には現在の繁華街である諏訪連鎖街はもちろん、七十メートル中央道路、諏訪新道一帯はすべて田んぼの真ん中で子供たちがカエル取りやホタル狩りを楽しんでいた。(中略)
旧新町通り(新町)は大正期に入って急に栄えた。大正二年ここに本格的なカブキ劇場「湊座」が出来たのと四日市鉄道、三重軌道の開通が駅に近いこの地域に客が集まるのは当然だった。
中年の人にとってなつかしいのが湊座の前の通称「湊小路」。
飲み屋、カフェー、遊技場(玉突きなど)などがせまい小路にひしめき、最大の盛り場になっていた。」
ここで“広い?諏訪新道”と題して次の記事がある。現在の諏訪新道通り発祥の歴史だ。
「諏訪新道は明治三十九年に市の四大事業の一つとして建設された道路である。田んぼの真ん中を走る幅二メートルほどの農道を七、二メートルに拡幅して作った新道だが当時としては市内最大の幅員で「広すぎる」と評判が悪かった。
戦後の都市計画でさらに二倍に拡幅されたのが現在の道路。
田の中にできたこの道路が商店街化したのは戦争にはいる少し前のこと。そして現在県下最大の盛り場と呼ばれる「諏訪連鎖街」は戦前まで姿はおろか発展の気配すらなかったのだ。」
諏訪新道通りは明治に出来たのだ。
連鎖街は諏訪神社南側付近。四日市1番街が形成される ずっと以前のお話です。