「幕末単身赴任 下級武士の食日記」青木直己著(NHK出版)の最終回でございます。
参勤交代で紀州から江戸に赴任してきた酒井伴四郎は、赤坂の紀州半中屋敷の長屋で、いっしょに来た叔父の宇治田平三らと共に共同生活を送ります。面白いのは、伴四郎にとって親類であり上司でもある叔父の性格に手を焼いているのです。いつの時代も人間関係のわずらわしさは同じとみえます。
旧暦7月28日。隣長屋の児玉氏から、あじの干物25枚をいただいたと日記にあります。当時は高級な食材、大喜びでその日は茶づけで晩御飯を済ませ、明日の昼にとっておこうと思っていたら、叔父が真っ先に食べてしまいました。仕方なしに皆で夜食にしています。当時は昼にご飯を炊き、その夜と翌朝は冷や飯でした。翌日、叔父は食べすぎでおなかを壊しています。
長屋での共同生活は、味噌、醤油、酢などの調味料とご飯は共同で、各自のおかずは個々でまかなっていた様子です。伴四郎が炊いた昆布の煮付けも、この叔父に半分取られたりしています。おまけに叔父の食べすぎは常時で、とっておいた「人馬平安散」という大切な漢方薬もほとんど飲まれてしまいました。几帳面な伴四郎に対してルーズな性格の叔父には、影で愚痴をこぼすことしきりです。
8月8日。叔父は、下血をして気分が悪いと昼飯を抜いていたのに、伴四郎の注意にも耳を傾けず、外へ汁粉を食べに出かけています。9月20日。浅草見物から帰ると、数日分の大切なおかずである人参の煮つけが、叔父に食べられてしまいました。買い置きはもうこりごりと嘆いています。こんな人、何処にでも居そうですね。
伴四郎は、浅草が気に入ったのか何度も出掛けています。紀州中屋敷からは7キロほどの道程を歩いて出掛けました。まず、向島の三囲(みめぐり)神社を参拝して桜餅を食べながら隅田川の眺めを楽しんでいます。隅田川を渡って待乳山(まつちやま)聖天の祭礼を見物、その後、浅草で「名物金龍山浅草餅」を食べています。浅草見物を終え、すしと祇園豆腐を食べ、夜の日本橋を通って帰路についています。
暇にまかせてよく出かける伴四郎でしたが、彼の日記には外出は、出費がかさんで叶わないと言っています。限られた収入の中での生活は大変だったのでしょう。けれど、おかずの工面が出来ないときは朝昼兼用で済ませたりして、いたってのんびりと江戸の生活を楽しんでいた様子がうかがえました。
万延元年。幕末の動乱期に向かう時代ですが、世情にあまり関心のない伴四郎は故郷紀州に帰り、江戸で見たことを自慢げに話したことでしょう。
幕末の頃は、世間がひっくり返っていたのではないかと思いがちですが、一般市民は、いつもと変わらない太平楽を決め込んでいたに違いありません。
参勤交代で紀州から江戸に赴任してきた酒井伴四郎は、赤坂の紀州半中屋敷の長屋で、いっしょに来た叔父の宇治田平三らと共に共同生活を送ります。面白いのは、伴四郎にとって親類であり上司でもある叔父の性格に手を焼いているのです。いつの時代も人間関係のわずらわしさは同じとみえます。
旧暦7月28日。隣長屋の児玉氏から、あじの干物25枚をいただいたと日記にあります。当時は高級な食材、大喜びでその日は茶づけで晩御飯を済ませ、明日の昼にとっておこうと思っていたら、叔父が真っ先に食べてしまいました。仕方なしに皆で夜食にしています。当時は昼にご飯を炊き、その夜と翌朝は冷や飯でした。翌日、叔父は食べすぎでおなかを壊しています。
長屋での共同生活は、味噌、醤油、酢などの調味料とご飯は共同で、各自のおかずは個々でまかなっていた様子です。伴四郎が炊いた昆布の煮付けも、この叔父に半分取られたりしています。おまけに叔父の食べすぎは常時で、とっておいた「人馬平安散」という大切な漢方薬もほとんど飲まれてしまいました。几帳面な伴四郎に対してルーズな性格の叔父には、影で愚痴をこぼすことしきりです。
8月8日。叔父は、下血をして気分が悪いと昼飯を抜いていたのに、伴四郎の注意にも耳を傾けず、外へ汁粉を食べに出かけています。9月20日。浅草見物から帰ると、数日分の大切なおかずである人参の煮つけが、叔父に食べられてしまいました。買い置きはもうこりごりと嘆いています。こんな人、何処にでも居そうですね。
伴四郎は、浅草が気に入ったのか何度も出掛けています。紀州中屋敷からは7キロほどの道程を歩いて出掛けました。まず、向島の三囲(みめぐり)神社を参拝して桜餅を食べながら隅田川の眺めを楽しんでいます。隅田川を渡って待乳山(まつちやま)聖天の祭礼を見物、その後、浅草で「名物金龍山浅草餅」を食べています。浅草見物を終え、すしと祇園豆腐を食べ、夜の日本橋を通って帰路についています。
暇にまかせてよく出かける伴四郎でしたが、彼の日記には外出は、出費がかさんで叶わないと言っています。限られた収入の中での生活は大変だったのでしょう。けれど、おかずの工面が出来ないときは朝昼兼用で済ませたりして、いたってのんびりと江戸の生活を楽しんでいた様子がうかがえました。
万延元年。幕末の動乱期に向かう時代ですが、世情にあまり関心のない伴四郎は故郷紀州に帰り、江戸で見たことを自慢げに話したことでしょう。
幕末の頃は、世間がひっくり返っていたのではないかと思いがちですが、一般市民は、いつもと変わらない太平楽を決め込んでいたに違いありません。