国産振興四日市大博覧会は、昭和11年3月25日から5月13日までの50日刊にわたり開催され、入場者数が124万人あったという(当時の市の人口6万人)。今なら660万人の来場者で埋まることになる!これは空前絶後であります。この博覧会は時の市長である吉田勝太郎が強力に推し進め、予算は市の一般会計に匹敵する70萬円を計上、空前の大博覧会となった。
駅前に建てられた歓迎門
会場では、「四日市小唄」「桜音頭」「躍進四日市」などの歌謡曲が一日中が流され、夕刻になると市内の諏訪公園では広報隊による宣伝のための踊りが披露されたという。
会場西の航空写真 昭和初期(舘様蔵)博覧会会場は下の部分になる
国産振興の名の通り、国内からは14万点の工芸品や農林水産品が出品され、輸出奨励品として審査された。また、具体的成果として、万古焼の陶土が朝鮮にあることが分かり、交易のきっかけとなっている。そして後日、市内の企業や出展者、旅館組合などから四日市市へ多数の感謝の言葉が届けられている。
会場空撮 写された四日市より
この博覧会の趣旨について吉田市長は、四日市港の国内外への宣伝と、新しく出来た港湾への工場誘致が大きな目的であって、巨額を投じて港整備に関わった国と県への感謝を述べている。
左に千歳橋と会場入り口 仏教館が望める
立憲民政党系であった吉田勝太郎市長は、この博覧会における不正会計の疑いから不信任を出されていたが、博覧会の大成功と後日の産業振興に功績があったとして、任期満了にあたっては再任が全員一位で採択され、昭和34年には名誉市長に推薦された。ウィキペディアを参考にさせていただきました。陳謝!
私が諏訪の四日市幼稚園に入った年でした。
よく憶えておられますね。
あの錦町(現三栄町)の日本板硝子の社宅跡、最近訪れていませんが、いまもどこぞの駐車場になっているのでしょうかね。
昭和26年初夏から昭和30年始めまで過ごした場所です。
法務局の前 裁判所の西でしたね よく通っています