花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

戦時下に向かう海水浴場

2021年06月15日 | レモン色の町

大正から昭和初期は大正ロマンともいうべきホノボノとした時代で。恐慌期といえども行事を楽しみにして、祭礼・映画・演芸・音楽会は云うに及ばず、夏の海水浴などは最も手軽に安価で楽しみながら体力もつけられるので人気があった。

須賀浦海水浴場

四日市の海水浴場は北から須賀浦・富田浜・霞ケ浦・午起の各海岸に整備され、貸しボートや水上自転車もあって大盛況であった。霞ケ浦は有料で遊園地になっていた。隣の富田浜周辺は別荘地になっており、県外の資産家が大挙して遊びに来ていた。市内では稲場町の会員掖済会前にも海水浴場があった。

稲葉町の海員掖済会

大正12年から整備開場された午起海岸は遠浅で途中に深みがあって、子供には要注意の海水浴場ながら人気を博していた。特に昭和6年以降、国鉄関西線に夏季だけの臨時の午起駅が開設されて海水浴客が増加した。

昭和12年の日中戦争後、年を追って戦争体制が強化され、夏の海水浴については、国民の体力作りが重視されるようになり、それまでの保養・娯楽やスポーツという精神は没却されてしまった。その為身体の鍛錬に重きを置き、戦闘のための訓練になっていった。

富田浜の飯田病院

名物やき蛤の看板が立つ

富田・富洲原の海岸は遠浅の白砂青松の景勝地の海水浴場として知られていたが、昭和になると、霞ケ浦、富田浜の北方の松ヶ浦(富田一色)・須賀浦海岸にも新しい海水浴場を開設して、県内外の一般人はもとより、児童・生徒の水泳訓練や海浜学校の受け入れを図った。昭和12年の松ヶ浦・須賀浦海水浴場調査報告書によってもこのころすでに相当な施設が整備され、盛況であったことがわかる。

校医の検診 午起海岸 昭和11年

このように富洲原地区の発展に合わせて、海水浴場の管理運営の中核として、四日市市富洲原保勝会を作っている。富洲原保勝会では昭和14年と15年の2回にわたって富洲原地区に簡易保険無料健康相談所の開設を請願、設置されている。また、須賀浦海水浴場にラジオ体操を行う際のラジオ受信機貸与申請書も出し、市民の健康増進のために活動している。県内の学校のみならず名古屋や関西方面の学校が必須科目の水泳訓練として、遠泳や海浜(林間)学校をとりいれていた。 四日市史より

午起海岸 昭和11年  写真:目で見る四日市の100年より


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