花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

市井からの眺め70弾丸列車⑳

2020年06月13日 | レモン色の町

JR東海の会長(平成6年当時)であった須田 寛氏は、前間孝則著の「亜細亜新幹線」の最後にこう寄稿している。

昭和17年頃の計画内容からみても「弾丸列車」の延長線上に東海道新幹線が位置していることが明らかである。戦争によって挫折した「弾丸列車」ではあるが、その工事ですでに日本坂トンネル(静岡県、延長約2km)は完成し、新丹那トンネルも東西両口から1km近く掘り進んでいた。これらの遺産は今日の東海道新幹線で使用されており、延長約100kmにわたって買収が終わっていた用地も東海道新幹線に活用され、同新幹線の早期完成に大きい役割を果たした。この意味では、「弾丸列車」計画は、東海道新幹線史の第1ページを飾るものといっても過言ではない。

そして、昔から、大きいプロジェクトの完成には三つの要素に恵まれることが必要だといわれる。

『天の時』とは経済の高度成長期に当たり、交通機関にもより高度なシステムが求められるようとする時期に新幹線がちょうど遭遇し得たこと。また昭和39年10月のオリンピック開催も東海道新幹線にとってはまさに「天の時」だったといえよう。

『地の利』とは東海道ベルト地帯というわが国のもっとも人口・経済集積の高いところに立地することから発揮される高速鉄道の優位性と経済性、効率性である。

『人の和』については、「弾丸列車」も「東海道新幹線」も、有能な人材の結集が計画策定と実施に大きく貢献した。なかでも「弾丸列車」から携わった故 島 英雄氏の功績は特筆されよう。そして、大プロジェクトの完成までには財務基盤を固めることもさることながら、技術力、なかんずく人材の結集がいかに決定的な意味を持つか、「弾丸列車」から東海道新幹線に至る日本の鉄道近代化の軌跡はこのことを如実に物語っているといえよう。

今や全国に伸びる新幹線の種は、遠く明治の関西鉄道に勤める島安次郎氏の時代から蒔かれていたのですね。

 


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