花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

日露戦争と諏訪公園

2018年06月03日 | レモン色の町

保光苑から諏訪公園へ

日露戦争(明治37~38年)の記念として、明治39年の春、諏訪神社境内(神社所有の庭園)に設けられた公園で、はじめ保光苑と名付けた。そは平和克服の詔勅に「能く国家の光策を無彊(むきょう)に保ち」とあるに因みて名づけられた。

当初は面積1206坪を有し諏訪神社所属の公園であったが、明治41年4月1日市有に変更した。かくて大正3年11月、142坪を拡張し、次に御大典事業(大正天皇の御大典事業か?)として、大正4年8月263坪、同年12月1355坪を拡張し、大正5年1月諏訪公園と改称した。園内に市立図書館(昭和3年起工・昭和4年完成)、演武場(後の四日市幼稚園)及び小動物園がある。(四日市史 昭和5年版より)

皇紀2588年の文字(昭和4年)

市立図書館(現在のこども交流館)は、河原田の実業家 熊澤一衛氏が、昭和天皇御大典記念事業として蔵書2000冊と共に寄贈されたものです。壁面はブロック造りの印象でしたが、スクラッチタイル張りということ、1階は事務室、閲覧室、書庫、談話室を、2階は講堂になっていました。(戦後は、1階児童図書室、2階が一般閲覧室、北側へ通路を渡ったところに、木造2階の学習室がありました)

緑が入っていい雰囲気です

昭和20年6月の四日市空襲で木造2階建ての旧館(??ということは熊澤氏の建てた図書館より以前に、北側に旧館があったということか??)灰燼と化し、残った熊澤館は一時、戦災負傷者などを収容する病院(仮の市立病院)になりました。昭和24年、再開された図書館は、街の真ん中で昭和48年まで運営されることになるのです。(北野 保氏著 よっかいち歴史浪漫紀行より)

2階の児童館は当初講堂でした。

平成15年、国の登録有形文化財となった熊沢館は改修工事の後「こども交流館」として生まれ変わりました。



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1 コメント

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図書館の皇紀表示のプレート (伊勢生まれの下総人)
2018-06-11 23:36:48
記憶はあいまいですが、ずいぶんと昔。20世紀の終わり頃だったかな。(笑)
久し振りに訪れずた諏訪公園。図書館の入口に掲げられていた皇紀表示のプレートに初めて気がつき、ある種の感動を覚えた記憶があります。かつて図書館の隣にあった幼稚園の園児だった身とはいえ、5歳では気がつく筈もない。(笑)
皇紀2588年。その12年後の皇紀2600年に生まれた新鋭の艦上戦闘機には2600の0に因んで零(れい)式艦上戦闘機との名前が付けられ、そしてその年の師走には、列強から八にされて追い詰められていた馬鹿正直な日本は、見かけ上、先に手を出すことになるのですね。
まんまと罠に嵌まって、やっちゃった日本の真珠湾急襲に、ときの大統領、ルーズベルトは小躍りして喜んだとの書籍も出回っているようです。
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