花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

四日市祭り その6 今昔話③

2022年08月16日 | レモン色の町

続いて、南浜田は?

山路良次氏談「大山は、浜田・西町・北町・新田町にあった。浜田の大山は、北浜田でと南浜田(南浜田・橋南・中組・十七軒町)で持っていて、北と南が交代で大山の当番に当たった。

浜田の大山が、旧道を曳航する貴重な写真。その昔、浜田の大山の先端が、塩浜の海岸から見えたという。両脇の人家と比べその巨大さに驚かされます。(前田憲司氏談)

当初、町中を曳いていた大山も、電線が引かれてからは巡航できなくなり、神社の前で組み立てたと聞いている。大山の時は、獅子舞や山番があるので“富士の牧狩り”とは札入れをしてどちらかを行った。“富士の牧狩り”は経費が掛かり、子供の練子と獅子をかぶる青年の確保に苦慮した。当日は町内の者が揃って四日市の町中を練った。源頼朝が、富士の裾野において巻狩りをした様を練りに再現したものです。

「旧四日市を語る」には、源頼朝・北条時政・大将役・方役・槍役・獅子・兎・猿役と格式が決まっていて、組役や町役が主役でした。一般は張り子の獅子や兎役ということに決まっていました。(封建的だったんですねェ)

“四日市祭”より 富士の牧狩りは現在に至っている。

“富士の牧狩り”は、“小山”や“釣り物”に対して“人練り”といいました。

明治40年

明治44年

さて、下総人さんにご指摘いただいた、浜田の“第二小学校(現:浜田小学校)移動の謎の続きでゴザイマス。

大正11年

明治8年に四日市学校(現 中部西小学校)より、浜田小学校として分離創立したとあります。

昭和5年 岡野繁松氏筆

明治40年5月発刊の“四日市案内”には、『濵田尋常小学校・・・濵田に在り。五学級、二百五十八名の生徒を有す。校長 小林?(王ヘンに三本川のような漢字)以下 職員五名。』とありました。第二小学校として旧東海道沿いに開設されたのは、「濵田にも小学校が必要だよね」というところから、比較的規模の小さい“分校”のようなものが造られたのではと想像できます。

昭和35年 門脇敦氏撮影

※ 下総人さんからご指摘をいただいたので、昭和36年当時の卒業アルバムを見たところ、右の鉄筋の校舎は36年以降の物でした。訂正いたします。


最新の画像もっと見る

4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (伊勢生まれの下総人)
2022-08-16 16:14:56
浜田小学校の謎。取り上げて頂きありがとうございました。
明治8年に四日市学校から分離創設された後、地図から判断すると、明治44年から大正11年の間に現在地に移転したということのようですね。
ついでながら、昭和35年の写真。左側の古校舎は1階が職員室、2階が学習発表会などを催したホールだったところでしょうか。
返信する
浜田小学校 (タケオです)
2022-08-16 17:05:25
昭和36年卒業アルバムがありますので、明日掲載いたします・・・。ムム!この写真は昭和35年以降です。昭和36年には、東校舎はまだ木造でしたから。1階職員室、東の階段を上がって2階は講堂になっていました。みんなが集まる行事は、すべてここで行われました。
返信する
来年のテーマは四日市祭り (クッキングこめぞう)
2022-08-16 23:58:20
タケオさん
四日市祭りも皆さん知っているようで知らないことが多いテーマですね。是非来年は四日市祭りでいかがでしょうか?勝手にすみませんm(__)m
返信する
四日市祭り (タケオです)
2022-08-17 09:52:23
先日は、ありがとうございました。
四日市祭りのテーマに賛成です。それで、私よりもずっと詳しい御人がおみえですので その方を マツリ 上げでお願いすることにします。ボランティアで・・・こめぞうさんのハグ付きで・・・
返信する

コメントを投稿