後日、“旧四日市を語る会”の集まりに参加した金津さんは、『由良』を見学した昔日のことを話してみえた。
末永から稲葉町へ(昭和13年の地図より)
ガードをくぐって稲葉町へ(昭和5年の地図より)
四日市へ軍艦『由良』が来た。友達の父親がリヤカーに三人乗せて、高砂町まで連れて行ってくれた。旧港からランチに乗って沖に停まっている艦まで行った。水兵さんが上から「靴に草履はそのまま、下駄は必ず脱いでください」とメガホンで叫んでいた。錆の出た古い艦であったと覚えている。帰り道、北側の寅高入りの三滝川尻に石灰工場があった。機械が珍しかったので長い間眺めていた。河口に降りて水を舐めて海の水が辛いという事を初めて体験した。終戦後工場の処へ始めて行ってみた。建屋は焼けていたが機械はそのままあった。井高さんの工場であったことを遥か後に知った。
昭和32年頃の空撮 ①井高さん跡 ②掖済会跡 この頃では もう残ってないか?
・ここに出てくる“寅高入り”とは、何のことだろうか?三重製網への入り口である 岡野さんの手描き地図“大正初期”にも記載があった。
大正初期の地図
大正13年の空撮 真ん中に大きく 黒い地域が広がる よく分かるように 色を薄くしてみた ムム・・何だろう?建物ではなさそうだ 井高製灰工場は井高石灰工場の間違いではないか?
掖済会裏の黒く見えるところは 牧場だと聞いたことがある。昭和5年になると四日市倉庫の敷地になっている。
金津さんが 掖済会裏に長屋があったと記してみえたが 昭和4年の地図をみると“市営住宅”になっている。
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