花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

名著「逝きし世の面影」

2008年06月18日 | おいらの商店街
          
「逝きし世の面影」渡辺京二著 平凡社ライブラリー
江戸から明治にかけて訪れた外国人による記録が紹介されています。
徳川幕府二百数十年の平和な時代に培われてきたうつくしい時代。それは近代化をすすめる明治政府によって否定され壊されてきました。
「私にとって重要なのは在りし日の
この国の文明が、人間の生存を出来うる限り
気持ちの良いものにしようとする合意と
それにもとづく工夫によって
成り立っていたという事実だ」(本文より)
          
第10章 子どもの楽園 に、こうありました。
「事実、日本の市街は子どもであふれていた。子どもたちの主たる運動場は街なかである。子どもは交通のことなど少しもかまわずに、その遊びに没頭する。かれらは歩行者や、人力車夫や、重い荷物を担いだ運搬夫が、彼らの遊びを邪魔しないために、少しの迂り道をいとわないことを知っているのである」
まさに街は子どもの天国だった。
「家々の門前では、庶民の子どもたちが羽子板で遊んだりまたは凧をあげており、馬がそれをこわがるので馬の乗り手には大変迷惑である。通りは子どもでごったがえしている。たえず別当(馬の付き人)が馬の足下で子どもを両腕で抱き上げ、そっと彼らの戸口の敷居の上におろす」
イザベラ・バードによると、日本人の子どもへの愛はほとんど「子ども崇拝」の域に達しているように見えた。
オールコックも「江戸の街頭や店内で、はだかのキューピットが、これまたはだかに近い頑丈そうな父親の腕に抱かれているのを見かけるが、これはごくありふれた光景である」と記している。
          
といっても、子どもたちは決して暴君であったわけでなく、大切にされているのを自覚していた。
モースは、学校帰りの子どもからしばしばお辞儀され、道を譲られたと言っている。モースの家の料理番の女の子とその遊び仲間に、彼が土瓶と茶碗をあてがうと、彼らはお茶を注ぎあって、まるで貴婦人のようなお辞儀を交換した。「彼らはせいぜい九つか十で、衣服は貧しく、屋敷の召使の子どもなのである」。
彼はこの子らを二人連れて、本郷通りの夜市を散歩したことがあった。
十銭ずつ与えてどんな風に使うか見ていると「地面に坐って悲しげに三味線を弾いている貧しい女、すなわち乞食」の前におかれた笊に、モースが何も言わぬのに、それぞれ一銭ずつ落とし入れたのである。
この礼節と慈悲心あるかわいい子どもたちは、一体どこへ消えたのであろう。
わたしはまだ、この子どもたちの心は、失われていないと信じています。
おなじ、血のつながる日本人なのですから。
せめて、四日市の商店街だけでも「子どもの天国」の出来ないものでしょうか。
コメント
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