花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

軌道用地と鉄道用地 ②

2024年07月21日 | レモン色の町

いよいよ佳境に入りました 辻さんの写真と巡る昭和30年代の諏訪のまち 第8回は、僕らのテリトリー諏訪神社から諏訪新道へとご案内します。

「写真で見る昔の諏訪神社から諏訪新道/四日市を掘り起こし/第8回」 (youtube.com)

さて、静岡から熊澤一衛氏の偉業を頼りにおみえになった中村様。ここで、四日市鉄道と三重軌道のダイヤモンドクロッシングが見えてまいりました。たいじゅさんの出番でゴザイマス。

上が南になります

左東海道で黄色が三重軌道用地 青が四日市鉄道用地です 中村さんが注目したのは 二社が接する地点 ここで鉄道交差が発生したとおっしゃってみえます たいじゅさん発見のダイヤモンドクロッシングです

「だから何なの?」と云われる方がみえると思われますが、ここが二社にとりましては重要地点となり 後年 始発となる諏訪駅が出来て 四日市の中心市街地が形成される原点となりました。

2023年6月20日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)

2023年6月23日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)

2023年6月24日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)

暑い季節の 熱いお話でゴザイマス

追記:大正11年8月 二社はそれぞれの諏訪駅を持っていたころの地図です

川筋の青い線が描かれています 微妙です

お話は尽きません この後 昭和初期になって熊澤一衛氏が 諏訪〜四日市間の路線を買い取り 旧東海道沿いに 伊勢線の通過駅となる諏訪駅ができます これにより二社の始発駅は 諏訪駅からとなりました

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軌道用地と鉄道用地

2024年07月19日 | レモン色の町

静岡からわざわざお越しいただいた Nさん 古い図面をお持ちだった

一体全体 どこか分からないし 時代が分からない

番地(1480番地)を読むと 我が家(1489番地)から近いし 当店より南の地域のようだ しかも 近い! ということは 真ん中の広い通りは旧東海道である 小さな橋は阿瀬知川(下)へと繋がっている 何処の橋か? もう1枚のこれより西側(左)の地図を見せていただいた

発見!此処には 鉄道用地 と 軌道用地 と記入した土地が広がる・・・

黄色=三重軌道・青=四日市鉄道

四日市鉄道と三重軌道が 線路を敷くために 土地を確保していく過程がみえてくる

福田武夫氏の東海道往還より 江田(えんだ)

初めの地図の橋にあたる部分は 昭和16年まで東海道沿いにあった諏訪驛の下を横断する川である

明治44年の地図

この小さな川は 神社の鳥居下を通り 東海道沿いの民家の裏を流れ 東海道を横断して 阿瀬知川に合流していた 我が家の店舗と住居の間には川の跡が残っていた 三重軌道が線路の敷設当時 諏訪新道を通る計画があった(たいじゅさん提供)が 三重軌道用地が神社前まで伸びているか?知りたいところでございます 次週にでも 法務局へ出向いてみようかと思っている 

静岡のNさんは 東海の飛将軍と言われた熊澤一衛氏が 静岡でも活躍されているとのこと それがきっかけで四日市までお越しいただいた ということでした。まさしく熊澤氏が結んだご縁でゴザイマス

Nさんありがとうございました。

 

 

 

 

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セピア色の写真

2024年07月17日 | レモン色の町

先日、前田氏に当家の秘蔵?の写真を見ていただいた。兄が獅子舞の口取りをしていた時の1枚で、獅子頭を真ん中に、三男だった兄は中央左に立っている(参考まで:私は四男)。時は昭和25年頃の四日市祭りの日か。新田町 獅子舞の記念写真である。町内の懐かしい顔に交じって私の親父や次男の顔が見える。右端で扇子を上げているのはささや玩具のおじいさん。扇子は黒に日の丸が新田町のこだわりだった。神社前の新田町は、大山山車を持っていて“おひざ元”という誇りがあった。太鼓が乗るリヤカーの車軸は木製で珍しい。

この写真、いったいどこで撮られたのか?前田先生にご指摘をいただくまで気付かなかったが、神社入り口と思い込んでいたが、石段に並ぶところから拝殿前ということだ。成程、正面に本殿がみえる。宮司に聞くとこの本殿、今のより小さいとのこと、昭和20年の空襲で焼失、諏訪へ御神体を受けに行っているから、どこかの社を買い受けて祀られたものだろう。

それにしてもこの仮拝殿、数年の寿命だったと想像する。

自転車にのってー高田渡 (youtube.com)

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東海道五十三次より興津 結末編

2024年07月14日 | ひろ助が巡る花の東海道

NHK出版「東海道五十三次」より(図書館の本です)※ よくよく見ると こりゃ凄い!四日市 三重川のひろ助が表紙右上に登場いたしております すごいわぃ

満五郎の指導は、褒めることで強さを導き出すことだったが、その結果、西ノ湖(にしのうみ)は、相撲の力はついたがうぬぼれの心も付いてしまった。

事件は、その夜の由井宿で起きた。旅籠の二階で食事をしていたその隣の大部屋では、十人近い客が酒を飲んでいた。「相撲取りってえのは、食いたいだけ食ってりゃぁ商売になるんだから、気楽なものよ」と笑い声が聞こえてくる。その声は大きくなり、悪態はエスカレートしていった。

満五郎は、眼に見えていら立つ西ノ海を押さえていたが、ついに抑えきれず膳をひっくり返すと立ち上がって襖を勢いよく飛び込んでいった。大声でわめきながら次々と客を投げ飛ばす。部屋の中は天地がひっくり返ったような状態になった。

「こりゃ派手にやったなぁ」取り調べに来た役人は尋ねた。「おぬしがやったのか?」大男が静かに答える。「はい、私がやりました、膳所藩(ぜぜはん)お抱え力士、光電満五郎でございます」

「で、そちらの男は」「あれは、同じく膳所藩の西ノ海にござりまする。賢い男で、私の乱交を止めてくれました」西ノ海は部屋の隅でそれを黙って聞いていた。「関取の喧嘩は御法度、藩へ報告するが、関取の地位はないものと思え」ひと通りの見分のあと、役人は帰り際こうささやいた。「本当に、これでよいのか」「はい、これで異存はございませぬ」満五郎の脳裏には過去の相撲人生が走馬灯のように駆け巡った。

見分が済んだ翌々日の朝は、吸い込まれそうな青い空が広がっていた。無口な西ノ海に満五郎は付いて進む。やがて興津川が見えてきた。川越しの準備をしていると、目を真っ赤にはらした西ノ海が籠から降りてきてこういった「満五郎殿、京までの道のり、どうか駕籠に乗っていただきたい。これからも土俵に上がることができるのは、満五郎殿のおかげ、恩人を差し置いては、男の名分が立ちませぬ」しばらく興津川を眺めていた満五郎はかみしめるように「かたじけない」と笑顔を向けた。

さして深くもない興津川。しかし光電は初めて四枚肩の籠に乗って川を渡った。

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未来社会は始まっている

2024年07月13日 | わたくしごと、つまり個人的なこと

友人が携帯を亡くした。どうやら掏(す)られたらしい。

あわてた。家族総出で、えらいことになった。即、携帯の会社に連絡を取り、止めてもらった。

どうやら四日市外にありそうとの返事。返っては来なかったが、一段落して新しい携帯を買い求めた。

「今までのデータはどうなったの?」と聞くと、「大丈夫です、従来通り入れておきました」ということで、不自由なくスムーズに使用できた。

ここで年寄りは疑問に思わなくてはならない。それでは、少し前からやかましく言われてきた『個人情報』とやらは、どうなってるのか?人に聞くと、クラウドとかが雲の上にあって、溜まった個人のデータは雲の上に保存されているということだ。

今や管理社会の真っただ中、くれぐれも悪事を携帯で連絡し合わないように。悪事をたくらむときは、お互いの目をしっかり合わせて、実行してもいいかどうかを確認し合うことでアリマス。

雲の上の神様は、すべてをお見通しなのです。きっと・・・

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広重の東海道五十三次より 興津

2024年07月10日 | ひろ助が巡る花の東海道

我々老人は、みな歌川広重と云わずに安藤広重と申します。な~んでか?

二玄社刊 謎解き浮世絵叢書 東海道五十三次より興津(静岡県静岡市清水区)

由井宿を発って興津宿に入る手前には、興津川が流れています。冬は橋渡しですが通常は徒行(かち)渡しでした。

広重の興津

京都へ巡業に向かう二人の力士が興津川を渡る。膳所藩(ぜぜはん)お抱えの力士、関脇の西ノ湖(にしのうみ)は、四枚肩の籠に乗っており。そのあとに前頭七枚目の光電満五郎(こうでんみつごろう)が荷を負った馬で着く。前方に見える初夏の富士山は、頂にわずかに雪を残し雄大な景観を見せていたが、満五郎の心には届いていなかった。

「この先の故郷である近江場所で、はたして勝ち越すことができるだろうか。」30を超えた満五郎は、馬の背に揺られながら大きなため息をついた。7年遅れて関取りになった西ノ海は、満五郎の指導もよかったのか、とんとん拍子で関脇になっている。

西「このように美しい富士の山が見えるとは、なんとまあ縁起の良いこと。近江でも勝負はもらったも同然よなぁ。のう満五郎」

「まったくでございます」

西「これ、人足衆、もっと富士の山が見えるように、向きを変えんか。気がきかんのう」

満五郎は、もう一つ大きなため息をついた。「西ノ湖には、節度というものを教えておかねばならなかった」幼少のとき両親を亡くした西ノ湖を引き取って育て上げたのは満五郎だった。 そしてこの先、東海道は十七番目の興津宿で、節度をわきまえない西ノ湖は大事件を起こすことになるのです。  つづく

NHK出版 「東海道五十三次」描かれた人々の声を聴く より

アンダーポイントの本美 大さんが描いていただいた「神奈川」が、どうも気に入らないということで、大きく訂正をしていただきました。

修正前

修正後

修正前よりも、宿と海が前面に出ました。宿の裏からは海の景観が望める座敷がありますが、まだまだお客はゼロ!宿のばあさんは客引きに必死です。そこへ たまたま通りかかったひろ助はおばあさんに引っ張られます。「まんだ 泊まるのは 早すぎるってぇ」おばあさんは力づくです。「そういわずに とまってけろ。若けえ子も おるでよ」

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神奈川宿にひろ助登場!(他 雑記)

2024年07月09日 | ひろ助が巡る花の東海道
進君とこ(ピープショウ)へ乱入いたしました。
7回目のまち歩きでゴザイマス。いよいよ終盤に入ってまいりました!
さて、よしもと興業のアンダーポイントさんこと本美 大さんが、東海道五十三次の内“神奈川宿”をお題に出したところ、みごとひろ助シリーズに仕上げていただきました。感謝です!ご覧ください。
歌川広重 神奈川
部分
本美大さんの神奈川宿にて ひろ助が宿のばあさんにとっ捕まって 引きずりまわされるの図
東京知事選が終わった。昨日の中日新聞開設より
異論に向き合ってこそ
 56人が立候補する乱戦の東京知事選を制したのは小池百合子氏だった。「人こそ東京の宝」。小池氏は街頭で熱弁をふるった。年齢や性別、障害の有無などに関わらず誰もが活躍できる社会を目指すとしている。注目される少子化対策以外にも先進的な取り組みは多く、関係者からの評価の声は上がる。一方、都議会で、批判的質問で自身の答弁を求められながら応じない場面が続いた。
相容れない意見を述べたり不都合な点を指摘したりするのも「人」だ。そこに丁寧に向き合ってこそ、本当の「人が輝く」東京につながる。3期目の小池氏立ち居振る舞いを注視したい。(東京社会部都庁キャップ 中山高氏志)
 
 
 
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東海道中膝栗毛 追分の場

2024年07月07日 | ひろ助が巡る花の東海道

追分まで来た弥次郎兵衛と北八。ここは伊勢参宮道と京都への分かれ道となっていて、茶屋にまんじゅうの名物がある。

追分は、まんじゅう屋の前を子連れ狼が通る「ちゃん!腹減った。まんじゅう食わせ!」「・・・」

茶屋女「お休みなさりまあせ。名物饅頭の温いのをおあがりまあせ。おぞうにもござります」と茶屋の前で娘が呼びかける。

弥次「おっ うまそうなまんじゅうを食べてみよう」

茶屋女「はい、ただいま」と、たちまち平らげた弥次郎兵衛。

弥次「このまんじゅうは、いくらでも腹に入る」

すると横で雑煮を食べていた白い経帷子(きょうかたびら)を着た金毘羅参りの男が、

こんぴら「あなたがた江戸かな?わたしが江戸に居た頃、本町の鳥飼まんじゅうを賭け食いして二十八個食ったことがござりましたが、かくべつにうまかったじゃ」

弥次「鳥飼はわっちらが町内だから、毎日茶菓子に五 六十個は食いやす」

こんぴら「わたくしも餅好きで、この雑煮をひと息で五杯食べました」

弥次「わっちゃぁ、今このまんじゅうを十五個ほど食ったが、まだ、ねっから食いたらねえようだ」

こんぴら「口ではそうおっしゃるが、そのようには食えぬもの」

弥次「どなたかがおごりで食わせるとあれば、まだいくらでも入ります」

こんぴら「これは ぶしつけながら わたくしがおふるまい致しましょう」

弥次「食いましょうとも」

こんぴら「もし食べてしまわぬと、あなたが代金を払っていただくというので良いですかな?」

弥次「あったりめえだ 知れたことよ」

勝つつもりで弥次さん、逆流をこらえながら十個ばかり口へ押し込んだが、もう限界。

こんぴら「こりゃ恐れ入った。これではかないっこない」

弥次「そういわずにおめえさんも食ってみなせえ。二十個食えたら、わっちがまんじゅう代は払いましょう」

それではと、こんぴら。ゆっくりと十個食って、あとの十個はやや苦しそうに平らげてしまった。

弥次「おそれいった。しかし、もう十個は食えますか?」

賭けはエスカレートして、まんまと弥次さん三百文を払うことになった。

少し進むと駕籠かきがぶらぶらとやってくる。

かごかき「だんな方、お籠はいかがですか?」

弥次「駕籠どころかえらい目にあっちまった」

かごかき「ははは、いまの金毘羅めだな。ありゃ大津の釜七という有名な手品師でさぁ」

ということで、まんまと騙された弥次郎兵衛さんでした。 熱くなっては いけません!

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桂枝雀さんの「口入屋」その顛末

2024年07月03日 | ひろ助が巡る花の東海道

昔は四日市湊から蜃気楼なるものが望めました。そしてそこにもひろ助が!見物に来ていた菰野城主の土方雄永(ひじかたかつなが)もびっくり!

番頭さんと杢兵衛さんの二人は、膳棚担げたまま泣きだした。次に目を覚ました三番番頭の久七。これがまた井戸の淵に乗ってターザンみたいに天窓の紐にぶら下がり、弾みをつけて駆け上がろうとした。ところが女子衆(おなごし)さん、来たばかりで勝手がわからん、天窓閉め忘れてまして、括ってあった紐がするスルー スルーッと伸びて久七は紐をつかんだまま井戸の中へボチャーン!

「だれや、井戸の中にはまりよったでぇ」

「そこでお声が致しますのは、番頭さんと杢兵衛さん。ちょっと上げてもらえまへんやろか」

「そうもいかん。こっちはふたりで膳棚担げとるんじゃ」

「おたくは命に別状ないでええけど、わたし泳げませんのや」

「あかーん 御寮人さん起きて来やはった。逃げられへん。こうなったらいびきかいて寝よ」

二人は膳棚担げたまま寝たふりをして グーッ

「何をしとんのや。天窓の紐が井戸の中に入ってるやないか。まあ久七、お行儀の悪い。ちょっとお店の方呼んであげるよってにな。ちょっと番・・・まあまあ、お店総出やないかいな、番頭はんに杢兵衛どん、膳棚担げて何しとんの?」

「宿替えの 夢を見ております」(宿替え=引っ越し) 

ご清聴まことにありがとうございました。お気をつけておかえりください。

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膝栗毛における四日市宿事件の顛末

2024年07月02日 | ひろ助が巡る花の東海道

真っ暗闇の中、壁伝いに進む弥次さん。有明行灯(ありあけあんどん)の先の部屋に目を凝らして見ると誰かが寝転んでいるようだ。これが北さんの云う約束の代物(しろもの)かと撫でてみると、コモをかぶっているようで硬くて、しかも冷たい。にわかに気味が悪くなり、あわてて北さんのところまで這い戻った。

弥次「北八、まだそこに辛抱していたか」

北八「オレを置いて何処へ行っていた、弥次さーん」

弥次「それどころではない、奥の部屋には、コモで巻いた死人が居る。恐ろしや、恐ろしや」

北八「オレを置きざりにしてどうする。まっておくれよォ」

とその時、北八の手が緩み、大音響とともに棚が崩落ちた。さあ、何事かと宿の者が次々と起きてくる。膳箱も何もかもが無茶苦茶になってしまった。そこへ相部屋の田舎者二人がやってきて、

田舎「道理でえらい音がすると思うた。ありゃりゃ、こんなところまで膳箱が飛び散って、地蔵様のお鼻が欠けてしまっとるだぁ」北八がハッとして顔を上げると、そばには石地蔵が横たわっている。宿の亭主はこれに憤慨して「お客様がコモをかぶって地蔵様に添い寝をしよる。なんぞのたくらみでもあるのか?正直に言いなされ」

横に並ぶ田舎者も一緒になって「明日には長安寺様へ納めるはずの地蔵様を運ぶ途中の災難。欠けた鼻を戻してくだされ」と、北八に詰め寄る。やむなく北さん、夜這いの一件を白状させられ弱り込んでいるところへ、部屋の隅に居た弥次さんが出てきて、「此の泣きべそをかいている者は、怪しい者ではござんせん。地蔵様の鼻はわっちが何とかいたしましょう」とかなんとか適当なことを言い

 はひかけし地蔵の顔も三度笠 またかぶりたる 首尾のわるさよ

と、弥次さんの即興の狂歌に、一同どっと笑い、その場はおさめてしまった。

 やうやうと東海道もこれからは はなのみやこへ四日市なり

翌早朝、四日市宿を発った二人は、諏訪神社を詣で新田町(現スワマエ通り)を通過して江田町を通り、浜田村から赤堀へと差し掛かったのでございます。

では一方の、枝雀師匠の「口入屋」、その顛末やいかに? つづく

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