新・ほろ酔い気分

酔っているような気分のまま、
愚にもつかない身辺雑記や俳句で遊んでおります。
お目に留めて下されば嬉しいです。

必然としての死

2009年03月29日 11時03分22秒 | 身辺雑記

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 写真は、新たに芽を覚ました若芽だ。春の陽の下で、希望を燃やしている。

 数十年前、私にもそのような時代があった。

 昭和20年8月15日までの軍国少年時代は、生命を捨てる覚悟で燃えていた。

「しっかり勉強して予科練に入り、いずれは国のために特攻隊!」

 夢と言うより、強い使命感であった。

 戦争に負け、一時はシュンとなった。戦後復興の槌音とともに元気を取り戻した。

「いずれは特攻隊!」と思っていた限りある生命が、敗戦と共に先へ延びた。

 空襲から逃げ惑う辛さがなくなった。逃げる辛さが消えた喜びは大きかった。嬉しかった。

 中学校、高校、大学と進んだ。

 しかし、軍国少年時代のような燃える気持ちはなかった。

「国のために……」といった感懐を、強く抱いてはいなかった。周囲の空気に流されていたと言ったほうが適切かもしれない。

 特攻隊は「死への憧れ」であった。強い使命感に突き動かされていた。

 その憧れを奪われた後も、私には「死への郷愁」があった。

 早死にを予感していた。現実とは脈絡のない「死」であった。「滅びへの憧れ」めいていた。

 結婚をして家庭を持った。責任を強く意識することとなった。当然のことだ。

 家庭を守る責任、社会人としての責任、企業人としての責任。

 そんな責任感に突き動かされ、毎日の生活に追われた。

 責任を果たすため、「死との闘い」があった。逃れなければならなかった。必死で闘った。

 やがて、責任も少しずつ軽くなってきた。

 同時に、「死の恐怖」も薄らいできた。

 もはや「死は現実」であり、「死は必然」のものとなった。

 親友の幾人かが、すでに冥土へ旅立った。

 悲観的に言っているわけではない。強がりを言っているつもりもない。

 ましてや自棄っぱちを口走っているのでもない。

 身近な必然となった「死」。それを現実のものとして受け止めているだけだ。

「必然の死」とどのように闘うか。どのように迎えるか。

 今までの生き方とこれからの生き方が、強く問われることになるのだ。

 別館として、写真俳句ブログの「いのちの囁き」を開いております。

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コメント (10)
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