写真の画像データを格納するため、容量の大きい外付けハードデイスクを取り付けた。
私が撮る写真などはたかが知れている。死ぬまで容量としては大丈夫のはず。
ところが、後輩たちから異論が出た。ハードデイスクが壊れたらどうするのか。容量が大きければ大きいほど、失われるデータが多くなる。
「過去のデータが、一瞬にして消えますよ!」
なるほど、なるほど・・・。
やむをえず、バックアップをとることとした。
買い込んで持ち帰ったら、カミさんのセリフがふるっている。
「お父さん、遺産をあまり増やさないでね。形見分けが面倒だから・・・」
このセリフにも説得力があった。
なるほど、なるほど・・・。
「捨ててくれていいんだよ。どうせオレの写真なんぞ、たかが知れているんだ」
「そうはいかないの。お父さんが一生懸命に撮った写真、子供たちだって捨てにくいわよ。だから、死ぬまでには整理して下さいね」
私にとって喜んでいい話なのか、怒るべき話なのか。私の写真に価値を感じていない。
一瞬怯んだので反撃のチャンスを失い、モグモグ言って終わりにした。
設備しているハードデイスク容量は、元気で撮りまくっても10年分は十分にある。
それほどの容量を設備したとは、私も妙なヤツだ。10年は元気で撮影し続けるつもりなのだ。
「いつ死んでもいいや!」
日頃はそんなことを言っている私だった。しかるに実際の行動は、平均寿命を超えても写真を撮りまくる前提に立っている。
考えるまでもなく、男性の平均寿命まで生きれば十分なのだ。病気を抱えていて、平均を超えられるはずがない。
ところが行動を起こすときは、そんな厳しい現実を忘れている。
決して避けているわけではないのに、病気の再発など、眼中から消え去っているのだ。不思議なものだ。
鴨残る生きるってことなんですか 鵯 一平
過日の私の俳句だ。
「そんな暗い俳句、感心できません」 これはブログ仲間のアドバイスだった。
しかし、私は暗い気持ちではいない。むしろ明るい。現実を明るく受容している。だって、仕方がないじゃありませんか。
そんな私であればこそ、今後10年間以上も使える設備を備えてしまうのだ。
楽天家ではないが、悲観論者ではない。現実を淡々と受け止めているつもり。
統計上の70歳男性の余命は、14.69歳。75歳男性の余命は11.31歳という統計もある。つまり、70歳を越えている男性は、平均として85歳までは生きているデータもある。
死がすぐそこに来ているかもしれない。15年先かもしれない。
生きにくい世の中、生きていることがベストという保証もない。
だったら、淡々と受け止めるしかないではないか。つまり、成り行きまかせ。
無意識のうちに、10年も15年も生き続ける前提で、設備をしてしまう所以である。
もっとザックリ言えば、ノーテンキなのです。
春野辺のわれもいずれやほとけのざ 鵯 一平
ホトケノザは東アジア、ヨーロッパなどに広く分布する越年草。日本でも、本州、四国、九州、沖縄に分布。花期は3月~6月。
春の七草の仏の座は、キク科のコオニタビラコ。正月の季語で、写真の「ほとけのざ」とは別種である。
別館として、写真と俳句のブログ「いのちの囁き」を開いております。
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