29Lib 分館

図書館・情報学関連の雑記、読書ノート、音楽ノート、日常生活の愚痴など。

家庭が子どもの学力に与える影響についてのパネル調査

2016-11-07 08:38:35 | 読書ノート
赤林英夫, 直井道生, 敷島千鶴編著『学力・心理・家庭環境の経済分析:全国小中学生の追跡調査から見えてきたもの』有斐閣, 2016.

  子どもの学力に影響する家庭の側の要因を探った研究書。所得や親の学歴が子どもの学力と相関するというのはすでによく知られていることだろう。しかしながら、どの時点でそれらの要因が作用し始めるのか、すなわち「環境を理由とする」学力差が広まり始める時期はいつか、というのはこれまでの一時点の調査ではわからなかった。効果的な政策介入をするにはタイミングを知る必要がある。というわけで、パネルデータによる調査を行ったのが、編著者らのグループである。

  ただし、データが集まり始めてまだ四年。うち、きちんと時間的変化を追うことのできるのは二年分だけで、本書は途中経過報告的な色彩が濃い。いちおう、異なる学年グループの変化を連結してみることで、子どもの各成長時期における家庭の影響を検証している。それよれば、所得は学力と相関するが、因果関係の分析をしてみると有意とはならないという。同様に、問題行動の頻度についても、所得が原因となっているようには見えないらしい。一方、学校行事に熱心に参加する親の子どもは、小学校高学年において学力が高まるとのこと。ほか、似たような所得階層内の学力差、米国との比較、出生時の体重と学力などについて検討されている。

  ソフトカバーで手にとりやすそうな装いの本だが、図表満載であり通読するには多変量解析の知識が要求される。また、結果については適用した分析手法によってまちまちで、章のまとめ部分で、なぜクロスセクションデータの分析とパネルデータの分析では結果が異なるのかについて細かい解説をしていることもしばしば。さまざまな面で所得階層間で差はつくことがあるのだが、詳細に検討すると他の要因(親の学力や、データに現れない生得的素養など)に分解できるのではないか、ということのようである。そのようなわけで、手堅く慎重な内容であるぶん、おそらく読者はスッキリと分かったという読後感には浸れない。続編を待てということだろう。
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マンドリンとピアノのデュオによる鬼才ジャズ音楽家の作品集

2016-11-04 22:02:45 | 音盤ノート
Hamilton de Holanda & Andre Mehmari "Gismontipascoal : A musica de egberto e hermeto" Microservice, 2011.

  ブラジル産ジャズ。10弦マンドリン奏者のアミルトン・ヂ・オランダと、ピアニストのアンドレ・メーマリによるデュオ。タイトルにあるように、エグベルト・ジスモンチまたはエルメート・パスコアールの作品集で、すでに国際的名声のあるブラジル人ジャズ音楽家の曲を、注目の若手(中堅?)が取り上げた企画ものである。

  収録は、ジスモンチ6曲、パスコアール6曲、オリジナル4曲となっている(ジスモンチとパスコアールがそれぞれ1曲ずつゲストで参加している)。14分に及ぶ最後の曲を除いて、1分~7分程度の短い曲が続く。ジスモンチの曲は、ピアノとマンドリンという小編成においても、原曲のアクロバティックな印象を失っていない。もともとそのように作曲されているのだろう。一方、パスコアールの曲は多彩な音色が特徴。それが二つの楽器に還元されてしまうと、メロディをなぞっているだけのようになってしまう。この問題に対しては演奏者二人の速いソロでスリル感を出してカバーしている。

  オリジナル曲の明るくて奇矯という印象が、この作品集では暖かくて美しいという印象に変わっている。クセが抜けて悪くないのだが、室内楽的なスケールにパワーダウンさせられたともいえる。ジスモンチとパスコアールの美的な面をクローズアップした演奏ということなんだろう。オリジナルを知らないとあまり面白くないかもしれない。
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レッシグ『コード』以降の米国における「表現の自由」

2016-11-02 09:13:12 | 読書ノート
成原慧『表現の自由とアーキテクチャ:情報社会における自由と規制の再構成』勁草書房, 2016.

  レッシグの『コード』における問題提起を受けて、表現の自由を守るためにアーキテクチャをどうコントロールしたらよいかについて考察する内容。どちらかというと法学書で、議論は米国の連邦最高裁の判例をベースとしている。技術の話が無いわけではないが、タイトルから想像されるよりは少ない。人々の情報取得方法を変えた技術の存在は所与となっていて、評価の対象ではない。むしろ、そうした技術に合わせてどう表現の自由を実現してゆくかについての概念的な議論が展開されている。

  インターネットの世界では、プロバイダーのような民間企業が利用者に表現の機会を提供している。これによって、政府による表現の統制は難しくなったわけではなく、むしろ少数の企業を対象とすることで十分となったために政府の表現への介入は容易となっている、と著者はいう(外国にサーバがあるケースなど難しくなった面もあるが)。こうした状況に関連する議論──表現の自由の理念、性表現の規制(CIPAをめぐる裁判の考察もある)、著作権、安全保障、忘れられる権利──について採りあげ、議論を整理している。

  米国での論争を伝えてくれる点で便利ではある。だが、アーキテクチャ論であるならば、著作権と安全保障の章はもっと厚くても良かったと思う。表現の自由の理念の話や性表現規制の話はもっと詳しい本もあるし、端折っても良かった。たぶん、著者はインターネット登場以降の表現の自由に関連するさまざまな領域での議論を通覧して関連付けてみることを優先したのだろう。
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