スティーブン・ピンカー『21世紀の啓蒙:理性、科学、ヒューマニズム、進歩 / 下』橘明美, 坂田雪子訳, 草思社、2019.
前回の続き。下巻の前半は、世界はどんどん良くなっているのをグラフで示す、という作業の続きで、教育や幸福感、テロ・AI・ポピュリズムなどが遡上にのせられている。後半では、アンチ「理性、科学、ヒューマニズム」論者やそれらへの懐疑的態度に対する反論が展開される。
下巻では後半が面白い。現在、先進国では左右の政治対立が先鋭化し、妥協や協調が難しくなっている。米国の大学でも左派が多くなって学問が政治化しているらしい。背景には、かなり頭がいい人でもイデオロギーが絡むと正しい判断ができなくなるということがある。そのとき、真実らしさよりも、仲間内に認められることや自分が持つ信念を強化することが優先されてしまう。そのことを証明する、気候変動や経済政策についての質問を使った実験が紹介されている。なお、イデオロギー絡みの誤まりは左右に関係なく起こる。米国では、環境保護などは当初は右派の運動だったのに、その後左派が積極的になったために、右派が反環境保護に鞍替えしてしまったという歴史があるらしい。
というわけで、著者は、対立を乗り越えるために、テトロック著における「超予測者」のような思考──おおまかな予測を立てて、さまざまな情報を取り入れて見通しを微修正してゆくようなベイズ的思考──を勧めている(ただし、テトロック著は少々アクセントが違う)。後半の残りの部分は、反科学に傾きがちな人文学者への批判であり──超訳すると「反科学って反理性になるでしょ、理性を信じないで人を説得するような議論ができないでしょ。じゃあ人文学者はいったい何を普遍的に理解可能にしているわけ?」──、宗教擁護論への批判と、反ヒューマニズム思想への批判(ニーチェとフランクフルト学派がタコ殴りされる)で構成されている。
以上。以前読んだリドレー著と同じ感想を持った。「人類という単位では未来は明るい。しかし、歴史の途上で滅んだり悲惨な目にあったりする民族や国家もあるんじゃない?」ということだ。ただ、著者はナショナリズムを批判しているから、そういう集団単位の思考こそ啓蒙主義で克服されるべきと反論するのだろう。それを受け入れたとしても、「ポピュリズムの支持者は老人で、文化競争の敗者だから、無視すればいい」という著者の態度は、ちょっと冷たいなあ、とも思う。
前回の続き。下巻の前半は、世界はどんどん良くなっているのをグラフで示す、という作業の続きで、教育や幸福感、テロ・AI・ポピュリズムなどが遡上にのせられている。後半では、アンチ「理性、科学、ヒューマニズム」論者やそれらへの懐疑的態度に対する反論が展開される。
下巻では後半が面白い。現在、先進国では左右の政治対立が先鋭化し、妥協や協調が難しくなっている。米国の大学でも左派が多くなって学問が政治化しているらしい。背景には、かなり頭がいい人でもイデオロギーが絡むと正しい判断ができなくなるということがある。そのとき、真実らしさよりも、仲間内に認められることや自分が持つ信念を強化することが優先されてしまう。そのことを証明する、気候変動や経済政策についての質問を使った実験が紹介されている。なお、イデオロギー絡みの誤まりは左右に関係なく起こる。米国では、環境保護などは当初は右派の運動だったのに、その後左派が積極的になったために、右派が反環境保護に鞍替えしてしまったという歴史があるらしい。
というわけで、著者は、対立を乗り越えるために、テトロック著における「超予測者」のような思考──おおまかな予測を立てて、さまざまな情報を取り入れて見通しを微修正してゆくようなベイズ的思考──を勧めている(ただし、テトロック著は少々アクセントが違う)。後半の残りの部分は、反科学に傾きがちな人文学者への批判であり──超訳すると「反科学って反理性になるでしょ、理性を信じないで人を説得するような議論ができないでしょ。じゃあ人文学者はいったい何を普遍的に理解可能にしているわけ?」──、宗教擁護論への批判と、反ヒューマニズム思想への批判(ニーチェとフランクフルト学派がタコ殴りされる)で構成されている。
以上。以前読んだリドレー著と同じ感想を持った。「人類という単位では未来は明るい。しかし、歴史の途上で滅んだり悲惨な目にあったりする民族や国家もあるんじゃない?」ということだ。ただ、著者はナショナリズムを批判しているから、そういう集団単位の思考こそ啓蒙主義で克服されるべきと反論するのだろう。それを受け入れたとしても、「ポピュリズムの支持者は老人で、文化競争の敗者だから、無視すればいい」という著者の態度は、ちょっと冷たいなあ、とも思う。