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日本における社会教育と図書館の結びつきを詳細に論じる

2012-01-03 20:26:34 | 読書ノート
山梨あや『近代日本における読書と社会教育:図書館を中心とした教育活動の成立と展開』法政大学出版局, 2011.

  慶應義塾大学に提出された博士論文を書籍化したもののようである。明治後期の1900年代から高度成長期の終わる1960年代までを期間として、日本政府から公立図書館関係者までが、どのように読書を社会教育に結び付けようとしていたかを論じる内容。第一章で読書論を概観した後、第二・三章で当時の官僚や東京市立図書館館長の図書館論を検証し、第四・五章で長野県中南部の図書館活動の実態を描く。

  図書館と社会教育の結びつき自体は別に意外でも何でもなく、大衆向けに書籍を安価または無料で提供することを業務とする、「税金で運営される」図書館の必然に思える。なので、この種の近代化論ものによくあるパターン(「伝統的なものに見える〇〇は実は近代になって誕生した」)がもたらず驚きは少ない。そうした点よりも、この本の長所は、通俗図書館を推進・普及させる官僚側のロジックを丹念に描いたことだろう。昔の人が良くも悪くも何かすごいことを言っているわけではないことが確認できる。

  後半の長野県松本市から伊那地方にかけての、戦前戦後の図書館活動については教えられるところが多い。嫁ぎ先の家庭の目を気にしている当時のその地方の主婦らは、読書に積極的になれない。こうした現状を打破すべく、図書館がアプローチして読書習慣を根付かせてゆく様子が描かれている。

  大きく気になった点は、本書の議論が依拠している図書館史である。国民化や思想善導は悪というトーンで話を進めるのだが、僕としては「それって現在の公共図書館が有している良書主義と大差がない」と思う。良書の範囲が当時と今とでは違うだけ。こうした史観は「戦争に負けたら、関係する概念はみんな悪」という戦後民主主義の影響を受け過ぎているように思える。また「読書を通じた主体形成が善」というのも『図書館の発見』(参考)的である。ただ、この点は著者の責任ではなく、僕ら図書館研究者の責任である。なぜなら、現在の教科書的な図書館史がこうなのだから。図書館史は1970年代からたいして進歩していないということなのだろう。
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