「もはや『恐怖政治』だ」には大笑いだ


「翁長知事・県議会は撤回せよ謝罪せよ」
「一九七一Mの死」
4月30日より県内書店で発売しました。

本の説明はこちら




県内取次店
沖縄教販
○県外は書店で注文できます。
県外取次店
(株)地方小出版流通センター
  
みなさんの意見・感想は
ヒジャイ掲示板へ

ヒジャイ掲示板


クリックお願いします
にほんブログ村 政治ブログへ
にほんブログ村

「もはや『恐怖政治』だ」には大笑いだ

 八月十八日の琉球新報社説の題名が「もはや『恐怖政治』だ」である。
 辺野古で掘削作業が始まったたけであるのに「恐怖政治」とは呆れるしかない。甚だしい被害妄想である。

 住民を丸ごと、力ずくで屈服させようとする政府の意思が、これほどあらわになったことがあっただろうか。沖縄防衛局は、普天間基地移設に向け調査用の台船を名護市辺野古の海に設置し、海底掘削のための作業に着手した。
 確かに抵抗運動への弾圧は過去にも散見される。だが辺野古移設は県民の74%が反対する事案だ。
 一県の圧倒的多数の民意を踏みにじって強行した例が他にあるか。
                              「琉球新報社説」
 「住民を丸ごと、力ずくで屈服させようとする」という文章からは、警察が住民を襲って有無を言わさない弾圧をしている状態をイメージする。警察がどれほど傍若無人に住民に乱暴を働いているかと思ってしまうが、次の文章は海底掘削のための作業を始めたと書いてあるだけである。どうして海底掘削をすることが「住民を丸ごと、力ずくで屈服させよう」ということになるのか。琉球新報社説の気持ちが理解できない。弾圧というのは住民を警察の力で抑え込むのをいう。住民には何もしないで掘削作業を始めただけで抵抗運動への弾圧というのには首を傾げてしまう。作業を始めただけで「力ずくで屈服」とか抵抗運動への弾圧というのは琉球新報のひどい被害妄想である。

 新報は世論調査で74%が辺野古移設に反対しているのを根拠に国が圧倒的多数の民意を踏みにじっていると主張している。
 世論調査は移設に賛成か反対かの二者択一の調査だから74%の反対になったのである。この調査は普天間飛行場の問題を無視した世論調査である。
 本当の問題は普天間飛行場の移設問題であり、普天間飛行場の解決方法は

○閉鎖・撤去
○県外移設
○辺野古移設
○普天間固定化

である。普天飛行場の移設問題の解決方法に辺野古移設反対は含まれない。

普天間飛行場の閉鎖・撤去はずっと前から革新が要求しているが、日米政府に閉鎖・撤去する気がない。閉鎖・撤去を実現するには共産党と社民党で衆参両院の過半数を得る以外に方法はない。ますます、少数政党になっていく共産党、社民党が過半数になるのは不可能である。閉鎖・撤去は現実的に無理である。
 県外移設は鳩山元首相が「最低でも県外移設」と公言して沖縄県民に期待を持たせたが、県外移設できる場所を見つけることができなくて辺野古に戻った。本土で普天間飛行場を受け入れる場所はない。だから県外移設はできない。
 辺野古移設は73%の県民が反対しているというが、閉鎖・撤去を希望する県民と県外移設を希望する県民が辺野古移設に反対して73%の数字が出たのである。実現が不可能である閉鎖・撤去と県外移設を希望する県民が一緒になって辺野古移設反対をしても、普天間飛行場問題の解決につながらない。
 辺野古移設は地元の辺野古民が容認している。だから国は辺野古移設を推進したのである。

○閉鎖・撤去・・・日米政府が反対している。
○県外移設・・・本土で受け入れる県はひとつもない。
○辺野古移設・・・辺野古区民は容認。
○普天間固定化・・・日米政府・保守・革新とも反対。

 琉球新報はこのように事実を県民に公表した上で世論調査をするべきだ。事実を説明し、閉鎖・撤去や県外移設を選ぶことは普天間固定化につながることを県民に認識させた上で世論調査をするのであるならば辺野古移設に賛成する県民が多いのは間違いない。
 
 沖縄のすべての米軍基地撤去を最終目的にしている琉球新報は辺野古移設に反対である。琉球新報は県民の多くを辺野古移設反対に誘導したい。だから県外移設、閉鎖・撤去が不可能であることを隠して、辺野古移設の賛成反対の世論調査をやったのである。琉球新報の世論調査は、73%が辺野古移設に反対しているのを誘導するための世論調査である。誘導して作り上げた世論を口実に「圧倒的多数の民意を踏みにじった」行為として琉球新報は激しく政府を非難している。

 百姓一揆弾圧を想起させるが、近代以降なら「琉球処分」と「軍官民共生共死」を強いた沖縄戦しかあるまい。沖縄にしか例がないなら構造的差別の表れに他ならない。国際的にも恥ずべき蛮行だ。
                                       「琉球新報社説」

 たかがボーリング工事を始めたくらいで百姓一揆弾圧を想起し、「琉球処分」「軍官民共生共死」と同じように考えるなんて誇大妄想である。どうやら琉球新報社説は誇大妄想に陶酔しているようだ。

 支配者の弾圧に耐えかねて立ち上がったのが百姓一揆である。辺野古移設は普天間飛行場の危険性をなくすためにより安全である辺野古に移すのである。普天間飛行場を辺野古に移すだけであり国は誰も弾圧していない。辺野古移設は人間の命を優先した行為である。飛行場をより安全な場所に移設することが「国際的にも恥ずべき蛮行だ」とはあきれてしまう。危険性を除去しようとしている国に罵倒を浴びせるのは冷静な判断ができないからであろう。

 政府に歯向かう者なら、いくらけがをさせても構わない。一連の経過でむき出しになった住民への政府の害悪、敵視に暗然とする。
 中でもそうした姿勢を露骨に示したのが海上保安庁だ。「安全確保のため」と説明しているが、噴飯物だ。
                                   「琉球新報社説」
と書いているので、海上保安庁がどのようなひどいことをしたのかと思いきや、

 15日には男性を羽交い絞めにして強制排除しようとした際、眼鏡が壊れた男性は目の近くを切るけがをした。
             「琉球新報社説」

笑える話である。そのくらいの怪我は保安員がどんなに気をつけても、男性が抵抗すれば簡単に起こってしまうことである。こんな小さなことをネタに「政府に歯向かう者なら、いくらけがをさせても構わない」とは大袈裟である。笑ってしまう。「一連の経過でむき出しになった住民への政府の害悪、敵視に暗然とする」には批判するより大笑いだ。どうしてこんな病的な被害妄想の文章が書けるのだろうか。不思議である。
 保安員が細心の注意を払っているからこの程度の怪我ですんでいるのだ。抗議者に怪我をさせると沖縄二紙が大騒ぎするので、できるだけ怪我をさせないように努力している保安員の涙ぐましい気の使いようを感じる。男性がけがした場所は進入禁止のフロート内である。進入禁止内に侵入した男性を海保は強制排除したのである。当然のことである。男性は海保がフロート外に出るように警告した。しかし、男性は海保の警告を無視してフロートから出なかった。だから、海保は男性をフロートの外へ出そうとしたのである。男性が抵抗したから羽交い絞めにしたのだ。男性がけがしたのは男性の責任である。琉球新報は海保が男性をはがいじめにしたいきさつを書かないで、海保があたかも乱暴者であるかのように書いている。隠蔽記事である。

 政府は今回、法的根拠も不明のまま、立ち入り禁止海域を一方的に設けた。施政者による恣意的な住民の主権剥奪は、お札一つで禁令を発した江戸時代そのままだ。
 それでも足りず、今度は海保がその海域の外でも、法的根拠も示さぬまま市民の身柄を拘束した。漁港を出港するだけで警告し、海域の外側に近付くことさえ大声で威嚇するありさまだ。憲法は、法廷の手続きを経ずに何人も自由を奪われないと定めているが、海保はその令状主義も無視している。
 住民にけがをさせることもいとわず、法的根拠が疑わしい行為を平然となす。「海の無法者」はどちらなのか。海上保安庁は、今後は「米軍基地建設保安庁」に名を改めた方がいい。
                                        「琉球新報社説」

 進入禁止のフロートを設置している場所は依然から「米国海兵隊施設・区域」であり立ち入り制限水域である。法的根拠は明確である。フロート設置は陸上の金網に匹敵するものであり、進入禁止区域であることをはっきり示したものである。住民の主権剥奪ではない。海保が身柄を拘束したのは進入禁止区域内である。カヌー隊は何度も侵入禁止区域内に侵入している。カヌー隊にフロート内に侵入しないように警告するのは当然である。
「憲法は、法廷の手続きを経ずに何人も自由を奪われないと定めているが、海保はその令状主義も無視している」は琉球新報の故意の「米国海兵隊施設・区域」隠しがある。辺野古の海は海兵隊の訓練場所であるから以前から進入禁止の海域であった。琉球新報は当然そのことを知っている。知っているのにフロート内が「米国海兵隊施設・区域」であることを隠して、あたかもフロート内は自由に入れる場所であったように書いている。憲法まで持ち出してだ。あきれてしまう。
フロートを越えて「米国海兵隊施設・区域」に侵入する辺野古移設反対派のほうが「海の無法者」である。

辺野古移設反対のカヌー隊は2005年に海上移設のための海底ボーリング調査をやろうとした時、やぐらを襲い作業員をやぐらから追い出してやぐらを占拠した前科がある。今回のカヌー隊の目的も暴力でボーリング調査を阻止することである。ボーリング調査の妨害行為をしようとしてフロート内に入った連中を海保が排除するのは当然である。

 左翼活動家は暴力で国の工事を阻止しようとする。国が辺野古の埋め立て工事を実現するには左翼活動家の暴力行為を阻止しなければならない。命がけの暴力行為をする連中である。中途半端にやると怪我人や死人が出る可能性がある。彼らの暴力行為を阻止するには彼らが一切手出しできないような圧倒的な力で取り締まる必要がある。
 
 2005年のボーリング調査に見られるように左翼活動家は大衆運動を超えた力対力の闘いを国に挑んでくる。彼らは自分たちの力が優っていれば国家をも倒すつもりでいる。彼らの心の底は社会主義革命を目指しているのだ。いわゆる彼らにとっては国を倒す戦争をしているのだ。そのような彼らの運動を阻止するためには圧倒的な力を見せつけ、彼らの暴力行為を徹底して封殺しなければならない。

 アメリカを帝国主義に思えなかった悩み

 謝花先輩は達筆であり、図書館前に立ててある大きな立て看板にペンキで字を書く係りをしていた。私は紙を貼ったり、看板を立てるのを手伝う係りだった。
 学生運動の本土化は急激に進んだ。集会、デモが増え忙しくなっていった。最初の頃は自由な討論を男子寮や間借り部屋などでやったが、学生運動が盛んになると集会やデモが増え討論は減っていった。その代わり本を読まされた。革マル派の理論的リーダーは黒田寛一という盲目の哲学者だったが、彼の本を読まされた。
 立て看板をつくっている時、私はため息が多く、ため息をつくたびに謝花先輩に「ため息つくな」と注意された。謝花先輩は私より四歳年上であり、大先輩だった。彼と討論しようとしても軽くあしらわれた。
 私は革マルがアメリカを帝国主義国家と呼び暴力革命の対象にしていることに疑問があった。アメリカは大統領も議員も国民の投票で決める。国民に選ばれた政府をプロレタリア革命で倒すのはおかしい。労働者の数と国民の数では国民の数のほうが多い。それなのに労働者を中心とした政府をつくるのは間違っていないかという疑問があった。私は看板を書いている謝花先輩に恐る恐る聞いた。
「アメリカもプロレタリア革命を起こさなければならないのですか」
「ばかやろう、当たり前だろう。社会はな根本から変革しなければならないんだ。革命しかないんだよ」
それで話は終わりだった。
 学生運動が急進化しないで、学生同士の討論が自由に行える雰囲気だったら、私の疑問を他の学生と討論することができただろうが、沖縄の学生運動は急激に本土化が進み、真剣に討論する場は失われていった。

 アメリカのような民主主義国家にプロレタリア革命を起こせるか。起こせるはずがないと自問自答していたが、私の疑問はその後の40年間の歴史が教えてくれた。民主主義国家でプロレタリア革命は起こらなかったし起こせなかった。起こるはずがなかった。民主主義国家でプロレタリア革命は起こらないで、反対に共産党一党独裁である社会主義国家に民主主義革命が起こった。私のいう民主主義革命とは市民が民主化を要求して立ち上がり、議会制民主主義国家を樹立することである。
 このように書いていると私は政治活動を中心にしていた学生だったように思うだろうが、そうではない。「一九七一Mの死」に書いてあるように私は演劇クラブに所属し、演劇や文学に熱中していた。
21歳の時にガリ版刷りの詩集を出した。それを45年間持っている。私には大事な詩集である。

少女序曲1

青白いケムリのつくるなめらかな坂に
ひとりたたずむ少女
安らかな微笑みを忘れ
沈黙の世界をみつめている

いつからそうなったのか?

やさしい黒髪はそよ風になびき
小さな手が小石をひろう
おびえた目は小石をみつめ
美しいくちびるが小石にかたりつづける

いつまでそうしていたいの?

シィッ 少女に問わないで
春の太陽は心に凍てつき
若い芽は汚れた糸に絡まれて育たず
小川が激しく悶え
ひばりは羽を失ってしまった
あらゆる敗北の地に 少女は独り
子守唄を忘れて
冷たい沈黙の唄をうたう

いつからか いつまでか少女は語らない
それを語り始めると
こらえていた涙があふれいで
声を震わせて泣かずにはいられないから


少女序曲2

狂った社会に投げ出されてなすすべもなく
踊り狂う女の子よと雲は涙を流していう
強くなれ わが身を大切にしなさい
社会が憎ければ歯をくいしばり立ち向かうのです
キバを出しなさい こぶしを振り挙げるのです
小さな英雄よ 今こそ 今こそ
地をけって 飛びたつのです・・・・・・と
でも雲よ
でも雲よ
私は涙を流して叫びたくなる
でも雲よ
あなたはそれを言うことができる
私はなにが言えましょう
獣のように笑う彼女を
男から男へ渡り歩き
カルメンをいつわる彼女を
泣きながら
泣きながら
神よ!と虚しく言い
強く強く抱きしめることしかできないのです


 
僕は二十一歳

僕は二十一歳
僕には二十歳も十九歳も十八歳もあった
それはそれなりに重要な時期であったし
それなりの困難があった
二十一歳と他の年齢の時期を比較することは
僕にとって無縁である
二十一歳は重大な時期
青春の最後の年か
感覚が豊富な年か
僕にはわからない
二十一歳
人間を疎外する社会へ
人間の本質から
反抗と変革をめざして
今まで闘ってきた僕を
ものの見事にぶち壊してくれた
現実とおのれの存在
今に始まったことではないが
またもや起こった己の喪失
主体とはなにか
おのれの創造主体
今の僕にはそれが掴みえていないし
それが痛苦である
ここに載せられた詩を僕は
僕の過去へと葬り去りたい
今の僕を
過去のものへと葬り去りたい
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )