バカらしい、久江雅彦氏の「現実味帯びる自衛隊参加」





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目次

〇沖縄の狂った話1・・・琉球民族主義は民族差別主義だ
〇沖縄の狂った話2・・・米軍がいるから戦争に巻き込まれるは妄想

〇ブログ
「狼魔人日記」より・・・末松氏大敗の意味

〇彼女は慰安婦ではない 違法 少女売春婦だ2

〇「狼魔人日記」河野談話撤回の好機!

〇「狼魔人日記」と「沖縄に内なる民主主義はあるか」は島袋氏を応援したけれど

〇名護市民は「県外移設」が不可能であることを証明した

〇ブログ 
沖縄に内なる民主主義はあるか 沖縄の識者の腐敗
               「県民金で転ばぬ」というが

〇軍命令はなかったのに なぜ集団自決は起こったのか

〇特別寄稿・ドキュメント
  集団自決を追って 星雅彦(作家)

〇バーデスの五日間




裏表紙です。名護市街地は辺野古から10km離れています。しかも、間には山があります。
辺野古が安全であり、普天間基地がいかに危険であるかは写真を見れば一目瞭然です。
この事実を多くの人に知ってもらいたいと思って、このような裏表紙にしました。
買わなくてもいいから、裏表紙を見てほしい。
この三つの写真を見ても、辺野古移設に反対するのは「命どぅ宝」の精神が欠けている証拠です。

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 バカらしい、久江雅彦氏の「現実味帯びる自衛隊参加」


 集団的自衛権の行使に対する反対論が連日新聞に載っている。しかし、その多くが観念論であり、現実を見据えた反対論はほとんどない。琉球新報に、
「中台有事 現実味おびる自衛隊参加・沖縄への攻撃可能性高まる」という共同通信編集委員 久江雅彦氏のコラムが載っているが、非現実的な想定をしている。集団的自衛権の行使になにがなんでも反対するという考えが見え見えである。

 久江氏が例に出した中台紛争は、日本が集団的自衛権を行使したほうが起こらない確立が高くなることは歴史的に見てはっきりしているし、しかも中台紛争は過去に一度も起こらなかったというのに久江氏は中台有事が起こり自衛隊が参加するのが現実味を帯びているなどと述べるのである。

 中台有事が将来起これば、米国は沖縄の米軍基地から戦闘機を出撃させる可能性が高い。それだけでも日本は米国の戦争に協力することになる。これに集団的自衛権の行使が加われば、日本政府が今はあいまいにしていても、自衛隊が攻撃に参加する展開は現実味を帯びてくる。
                 琉球新報

 久江氏は将来中台有事が起こればという仮定を立てている。本当に中台有事が起こるだろうか。そう質問したら久江氏はそれは誰にも分からないというだろう。
 
 過去に中台有事が起こる可能性はあった。しかし、中台有事は起こらなかった。なぜ中台有事は起こらなかったか。それを知るヒントを久江氏は書いている。

 外務省幹部は中台有事が集団的自衛権の行使容認の対象になるか国会で問われ「首相が言うように具体的事例即して検討しているが、朝鮮半島とか台湾とか特定の事態を念頭に置くという趣旨ではない」と苦しい答弁に終始した」と苦しい答弁に終始した。
                琉球新報

と、書いた後に、

 一方、米国は七九年に中国と国交を樹立し台湾との外交関係を絶った。同時に台湾への防衛的な武器提供や中国の軍事的脅威から台湾を守ることを義務付けた台湾関係法を成立させた。
 九六年の台湾総統選の際には、独立志向の季登輝の当選を阻止したい中国が演習と称してミサイルを発射。クリントン大統領が空母二隻を周辺海域に回航させ、中国
を迎えに係ったこともある。
                琉球新報

 米国は七九年に中国と国交を樹立し台湾との外交関係を絶ったのは中国を正式な国家と認め、台湾の代わりに中国を常任理事国にして責任ある国家にするためであった。巨大な中国を国家として認めないで放置すると危険である。だから、米国は敵対する社会主義国家であったが常任理事国にしたのである。
 戦後の中国は何度も台湾に侵略しようとした。それを抑止したのが米国である。台湾に侵略すれば世界最強の米軍と戦争になる。だから、中国は台湾に侵略しなかった。
米国が抑止したから中台有事は起こらなかったのである。

米国が抑止することができなかったチベットやウイグルは中国に侵略された。米国の抑止力がなければチベットやウイグルのように侵略されるのが歴史的事実である。

もし、中台有事に米国だけでなく日本も加わるとなれば中国はますます台湾侵略をあきらめる。集団的自衛権の行使は中台有事の可能性を低くする働きをするのだ。

ところが久江氏は米軍に自衛隊がプラスされれば抑止力が強化されることには目をくれないで、

要するに、中台有事は日米で想定段階から立場の異なるアキレスけんであり、それは今も変わらない。現在は馬英九国民党政権下で、中国との関係は良好だが、台湾を「独立国」とする民進党が政権を取れば中台の距離は広がりかねない。
中台有事が将来起これば・・・
               琉球新報

民進党が政権を取れば中台有事が起こる可能性が出てくると推理している久江氏にはあきれるしかない。「九六年の台湾総統選の際には、独立志向の季登輝の当選を阻止したい中国が演習と称してミサイルを発射。クリントン大統領が空母二隻を周辺海域に回航させ、中国を迎えに係ったこともある」と述べ、有事が起こるのを防いだのは米軍の軍事力と久江氏は書いているのだ。書いていながら、台湾は独立国とする民進党が政権を取れば有事の可能性があると推理するのは久江氏は自分が書いた文章さえ理解していないということになる。

台湾の将来は「全中国人が決めるべきだ」と中国当局者が発言したことに対し、対中交流を優先する馬英九政権は「中華民国(台湾)は独立国。台湾の前途は二三〇〇万人の全台湾人が決める」と声明で発表している。台湾が独立国であると思っているのは国民党も民進党も同じだ。政権が民進党になったからといって台湾が大きく変わることはないし、有事が起こるほどの中台の関係が悪化することはない。

そもそも有事が起こるか起こらないかは中国の軍事力が大きく勝っているかいないかが左右する。台湾のバックに米軍+自衛隊がいれば中国が台湾に侵略することはない。

日本が集団的自衛権を行使するようになれば、中国から見れば、自衛隊が米軍に加担することになり、沖縄を含む日本が攻撃対象になる可能性が米軍基地の提供だけのときよりも、高くなる。
朝鮮半島有事では北朝鮮が相手になろうが、中台紛争は米中の戦争に日本が巻き込まれる。その認識と覚悟が政治にあるのか。中台紛争の想定が議論されない現状に私は危うさを感じる。
               琉球新報

南沙諸島の中国とベトナム、フィリピンの紛争は米軍がいないから起こった。フィリピンに米軍が駐留し続けていたら起こらなかったはずである。それに今の紛争は銃弾が飛び交わないから本格的な戦争とむ呼べるようなものではない。
今の中国は紛争も小規模なものしかやらない。それも中国が圧倒的に軍事力が勝っている国としかやらない。
中国は自分の国が亡びるかも知れないような戦争はしなかったしこれからもしない。中国が台湾と戦争をすることはない。
中台有事が起こる可能性がゼロなのに中台有事を想定し、議論されないことに危うさを感じる久江氏よ。あなた一人、あなたの部屋で危うさを感じていなさいとしか言えない。
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琉球新報「集団的自衛権 『平和の党』の真価発揮を」批判

琉球新報「集団的自衛権 『平和の党』の真価発揮を」批判


琉球新報の社説は「集団的自衛権 『平和の党』の真価発揮を」の題名で、公明党は集団的自衛権行使に動いている安倍内閣のブレーキ役になるべきであると主張している。

 沖縄の公明党は立党からずっと革新と同じ道を歩いていた。新報が述べているように、公明党の立党の原点は「平和の希求」にあった。

 公明党の立党の原点は「平和の希求」にある。沖縄問題に対し67年8月、「絶対平和主義をつらぬき、すべて国際的紛争の解決は武力によらず平和的外交手段によるべき」だと主張し、即時全面返還と核兵器の撤去を要求した。69年には在沖米軍基地を総点検し、基地経済から脱却させ平和な発展を図るため、強力な政策を実施するよう佐藤内閣に求めた。
               琉球新報社説

 しかし、公明党本部が自民党と連携して与党になったことにより、沖縄の公明党も革新から離れ、自民党と連携するようになった。
 民主党が政権を握った時も公明党本部は自民党との連携を通したが、沖縄の公明党は揺らいだ。公明党だけではない沖縄自民党も揺らいだ。
 沖縄の公明党も自民党も普天間飛行場の辺野古移設に反対し「県外移設」を主張するようになった。民主党が圧勝したので民主党政権が長く続くと思ったから、沖縄自民党は県外移設を主張するようになったし、もともと平和主義の公明党も県外移設を主張した。

 しかし、名護市長選の時、沖縄自民党は自民党本部によってふるいにかけられた。辺野古移設に賛成しない国会議員は除籍するといい、この厳しい発言に国会議員も自民党県連も辺野古移設容認に変わり、辺野古移設に反対し県外移設にこだわる者は自民党を離れた。
 自民党との連携と「県外移設」の狭間で悩んだ公明党は自主投票をした。

「絶対平和主義」をつらぬいていたのは昔の公明党である。革新から離れ自民党と連携するようになった公明党が新報の望む「絶対平和主義」ではなくなったことを新報は認識するべきだ。

 「絶対平和主義をつらぬき、すべて国際的紛争の解決は武力によらず平和的外交手段によるべき」だと主張し、即時全面返還と核兵器の撤去を要求したのは四十七年も前である。あの頃は中国や北朝鮮の情報は日本入ってこなくて闇のベールに包まれていた。中国・北朝鮮の内情も本性もわからなかった。
 中国の本性を知るようになったのは最近である。尖閣諸島を中国の領土だと主張し、漁船を巡視船にぶつけ、活動家が尖閣の島に上陸し、反日運動では日本の企業を破壊した。
 チベットやウイグルを人民解放軍が侵略して植民地にしたことも明らかになった。中国は人権活動家を弾圧している。それが中国である。

 現在、尖閣諸島は中国の領土だと主張し尖閣奪回に戦争も辞さないと日本を脅し、領海に中国戦をひっきりなしに出入りさせている。ベトナムの領海には六隻の軍艦を含めた百三十隻の船が侵略して、石油掘削をやっている。フィリピンの南沙諸島でも新たな建物を造っている。

自分の領土だと主張している中国と平和的外交手段だけで解決できると信じる方がおかしい。
平和的外交を続ける一方、中国の侵略を防ぐためにアジアの国々が連携して軍事力を強くしていかなければならない。
相手が中国では「絶対平和主義」を貫くのは困難であることを知るべきである。

憲法は権力を縛るという立憲主義に基づいている。主権者の国民の合意形成や国会での徹底論議がないまま、一内閣の解釈だけで憲法の平和主義を空洞化させるのは、主権を国民から奪うという意味で「クーデター」に等しいのではないか。主権者の国民の合意形成や国会での徹底論議がないまま、一内閣の解釈だけで憲法の平和主義を空洞化させるのは、主権を国民から奪うという意味で「クーデター」に等しいのではないか。
                琉球新報

 民主主義国家の憲法は国民の平和、豊かさ、幸せの実現を目標にしたものである。民主主義国家における権力は国民の代理人である国会や政府である。権力を縛るということは国民を縛るということにつながる。そのような立憲主義は国民は憲法に縛られるという思想であり憲法絶対主義である。
彼らは国民投票による平和憲法の改正に反対している。国民の意思より憲法が上だという考えは国民主権ではなく憲法主権である。時代が変われば憲法も変えなくてはならないが憲法主権主義者は憲法を変えるのに反対している。彼らの主張は憲法固定化であり、時代が変わっていくと国民を不幸にする憲法になっていしまう。

「一内閣の解釈だけで憲法の平和主義を空洞化させるのは、主権を国民から奪うという意味で「クーデター」に等しいのではないか」には苦笑せざるを得ない。集団的自衛権の憲法解釈を変えて実行するには自衛隊法を国会で変えなくてはならない。閣議決定とは国会に法案を出すことを決定するということであり、閣議決定で自衛隊の行動を変えることはできない。
国会で法案を決めるのだから、「主権を国民から奪う」ことではないし、「クーデター」でもない。

 安倍首相が重視する日米軍事同盟の論理は抑止論だ。しかし、抑止力を高めると相手国との緊張を高め、安全保障のジレンマに陥ってしまう。
               琉球新報
愚かな観念論である。
韓国と北朝鮮の緊張を弱め平和にするためには韓国駐留の米軍を撤去し、韓国軍は半分以下したほうがいいと琉球新報を主張したいのだろうか。そうすればむしろ北朝鮮の韓国侵略の可能性が高まり、韓国の緊張は増すだけだ。
抑止力を高めれば自国の安全が高まるのであり、緊張が高まるのではない。相手国の侵略する可能性が高まれば緊張も高まる。相手国の侵略する可能性が低ければ低いほど緊張も低くなる。抑止力を高めることが緊張を高めるというのは間違いである。むしろ、抑止力を高めて相手国の侵略の意思をなくさせることが緊張をなくすことになる。

中国との緊張は中国が尖閣諸島などの日本の領土に侵略しようとしているのが原因である。中国が侵略しようとしなければ緊張は生まれない。
抑止力を高めることは自国の安全を高めることである。抑止力を高めれば緊張が高まるというのは現実を見ない自分勝手な観念から生まれる妄想である。妄想を信じて抑止力を低くすれば中国の侵略を許してしまう。

公明党が政権与党の座にとどまるために安易な妥協をすれば、結党の理念を失ってしまう。今年11月に結党50周年を控える。今こそ結党の精神に基づいて、集団的自衛権行使容認の歯止め役として真価を発揮すべきだ。
                  琉球新報

 公明党をバカにしている。
公明党が政権与党の座にとどまりたいのは本音だろう。だから、どこで自民党と妥協するか苦心している。自民党との駆け引きは熾烈だ。それを「安易な妥協をすれば、結党の理念を失ってしまう」などというのは失礼だ。単純な反安倍政権、反集団的自衛権である琉球新報の結論は簡単だが、公明党はそうはいかない。安易な妥協ができないのが公明党である。新報のいうように「結党の精神に基づいて」などと単純な判断はできないのだ。
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渡辺氏は所詮はお山の大将

竹富、県教委は文科省に敗北した
今日の新報に、八重山教科書問題に関する二つの記事が隣どうしに掲載していることに思わず苦笑した。

ひとつは衆院文部科学委員会で「無償措置法改正案」を賛成多数で可決し、今日の衆院を通過するという記事であり、もうひとつは「許すな!文科省の不当な『是正要求』撤回を求める緊急住民集会」である。
「是正すべきは国」という見出しの緊急住民集会では、登壇した学者や弁護士らが、竹富町教委の正当性や安倍政権の政治介入を解説し「是正すべきは文科省の方だ」と主張したという。

山口剛琉球大教授は「協議会の答申に拘束力はなく、採択権が教育委員会にあることを考えると、是正要求は極めて政治的な判断だ」と指摘した。集会では町教委への是正要求に抗議し、撤回を求める決議と、是正要求に応じなかった町教委を支持する激励文を採択した。

衆院文部科学委員会で可決した「無償措置法改正案」は竹富町が喜ぶ内容である。なんと教科書の採択が「都市」単位ではなく「市町村」単位になったのだ。今までは竹富町だけで教科書を採択することができなかったが、改正案では竹富町だけで採択ができるようになる。八重山地区の協議会の設定は県教育委員が自由にできるから、県教委の決断で竹富町を単独の教科書採択地区にすることができる。
よかったな竹富町、県教委。
育鵬社を絶対採択しない反保守イデオロギーの勝利だ。しかし、安倍政権を非難する材料がひとつ減った。沖縄二紙、沖教祖、自治労、革新系学者が総力を上げての竹富町擁護の闘いのはしごが外された。突き上げた拳の行き場がなくなった。

文科省は育鵬社であろうが東京書籍であろうが、どっちの教科書を使ってもよかったのだ。竹富町が無償措置法を守らなかったことを文科省は問題していたのだ。ところが反保守イデオロギーの塊である竹富町は、文科省の違法行為是正の要求を安倍政権がどうのこうのとイデオロギー問題に歪曲したのだ。

「許すな!文科省の不当な『是正要求』撤回を求める緊急住民集会」という長ったらしい名前の集会は反保守イデオロギーの塊の人間たちの集まりだから、安倍政権をイデオロギー批判をやるだけで法律問題はやらない。

イデオロギー問題は平行線で解決できないが法律問題は解決できる。
文科省は地区協議会を「市町村」単位に改訂して八重山教科書問題を法的に解決した。竹富町が反保守イデオロギーにこだわるなら、どうぞ地区協議会から離れて単独で教科書を採択しなさいというわけだ。

竹富町、革新勢力が敵対にしているのは本当は安倍政権ではない。民主主義国家だ。左翼イデオロギーは民主主義国家には勝てない。

お山の大将の破綻
8億円借り入れ問題 渡辺喜美代表、猪瀬氏との違いについて語る
フジテレビ系(FNN) 3月27日(木)19時32分配信

みんなの党の渡辺喜美代表が大手化粧品会社の社長から8億円を借りたとされる問題で、渡辺代表が取材に応じ、「あくまで個人として借りた」と釈明した。
渡辺代表は「吉田会長からお借りしたお金は、純粋に個人として借りたものでございます。使い道は、私の判断で決めてまいりました。当然のことながら、これは違法性の認識などは、全く持っておりません。(責任をとって地位を辞することは?)ございません。きちんと説明していくのが、私の責任を全うすることだと考えております」と語った。
26日に発売された週刊誌に掲載された、大手化粧品販売会社「DHC」創業者の吉田嘉明会長の手記。
そこで明らかになった、みんなの党・渡辺喜美代表の8億円借り入れ問題。
渡辺代表は2012年12月の衆院選の時、「みんなの党は、自慢じゃないけど、お金もない、組織もない、支援団体もない」と演説していた。
渡辺代表は、2010年7月の参院選と、2012年12月の衆院選の直前の2度にわたり、吉田会長に借り入れを依頼していたという。
そして、吉田会長は、渡辺代表の個人口座に、3億円と5億円のあわせて8億円を振り込んだという。
日本維新の会幹事長・松井大阪府知事は27日、「報道の記事を読むと、残念ながら、猪瀬さんと同じことなんでしょうね」と述べた。
猪瀬前都知事が、徳洲会グループから5,000万円を受け取っていた問題について、当時、渡辺代表は「都民に、ふに落ちる説明をしていただかないと困るわけで、今のところは説明がくるくる変わって、ちょっとふに落ちませんよね」と述べていた。
27日、問題発覚後、初めて公の場に姿を見せた渡辺代表は、午後4時すぎから取材に応じた。
渡辺代表は「純粋に、私の借り入れとして、渡辺喜美個人を応援してくださる。これは、個人としてお借りをしたもの。私の個人口座に」と述べた。
渡辺代表は、8億円は選挙資金としてではなく、あくまでも個人の借り入れだと強調した。
猪瀬氏の問題との違いについて聞かれると、「猪瀬都知事と私の違いは、私はあくまでも、個人としてお借りした。選挙資金としてお借りしたわけではない。私の借り入れは、通帳から通帳に来ておりますので、通帳をトレースすれば、ほとんど全て明らかになるたぐいのお金。現ナマでバッグに詰めて持って来たのとは、ちょっとわけが違う。お金に色がついていないので、『これが吉田会長の分です』というのは、説明が難しい」と、違法性がないことを強調した。
一方で「これは、事務的なミスでございまして、訂正をさせていただきたい。贈与ではありません。手元に資金ができれば、返済に回していきたい」と述べた。
そして、渡辺代表は「ちょっとすみません、もう時間が...」と、およそ50分で会見を切り上げた。
渡辺会長は「裏金でもらったわけではない。選挙に近かったと言われれば、時期的にはそうかもしれませんが、私の認識としては、非常に親しくおつきあいをしてくださった吉田会長が、渡辺喜美個人を応援してくださるという理解でお借りした」と述べていた。.最終更新:3月27日(木)19時32分

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自分が政党のトップであり続けるためのお金である。金を持っていることで自分中心の強引な党運営ができる。しかし、所詮はお金にしがみついたお山の大将だ。
少数政党から脱皮はできない。
それどころかお山の大将になるためのお金のために身が危うくなった。
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孫崎氏は本当に外交官だったのか。信じられない



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孫崎氏は本当に外交官だったのか。信じられない



会員制の講演会組織「琉球フォーラム」(主宰・富田詢一琉球新報社長)の3月例会が13日、那覇市のロワジールホテル&スパタワー那覇で開かれ、元外務省国際情報局長の孫崎享氏が「東アジアの安全保障―尖閣諸島をどう制御するか」の演題で講演をした。

孫崎氏は、近年、政府が存在を明確に否定している、日中間の尖閣諸島領有権問題の「棚上げ」について、国交正常化交渉に深く携わった外務官僚らの論を基に「棚上げはあった」と解説。棚上げが長引くほど、日本の実効支配が明確化し、「法律上も日本に有利になる」と分析した。
 一方、2010年の海上保安庁の巡視船と中国漁船衝突事件や、12年の石原慎太郎前東京都知事主導による尖閣諸島の国有化などで日中間の緊張が高まったことを背景に、米国が尖閣問題を利用し戦略的に日米同盟の深化に動いたと指摘。
 その一端として、元国務省日本部長のケビン・メア氏が、尖閣問題に関して日本が制空権を取るために、ステルス戦闘機F35の調達計画拡充を指摘している点に触れ「尖閣問題が深まれば、米国の軍需産業にプラスになるということ。あまりにあからさまだ」と、批判した。紛争解決の手段として、ドイツとフランスが資源の共同管理で領土問題を解決したアルザス・ロレーヌ地方や、宗教や政治体制の違いがありながら、経済や安全保障の共同体を構築した東南アジア諸国連合の事例を挙げ「紛争を起こさないためには、協調することが大切だ」と訴えた。(琉球新報)

孫崎氏は「海上保安庁の巡視船と中国漁船衝突事件」と述べて、中国漁船が海上保安庁の巡視船に故意にぶつけたことをうやむやにしている。衝突事件は「中国漁船が海上保安庁の巡視船に衝突した事件」であって「海上保安庁の巡視船と中国漁船衝突事件」ではない。これは孫崎氏が中国を庇おうとする気持ちの表れである。

中国漁船が海上保安庁の巡視船にぶつけた時は、まだ、尖閣諸島領有権問題は「棚上げ」をしている時であった。日中政府が尖閣問題を「棚上げ」している時に尖閣の海で何が起こっていたかについて孫崎氏は一言も説明していない。

「棚上げ」していることに乗じて、尖閣の海で我が物顔で漁をしていたのが中国漁船団である。海上保安庁の巡視船が漁をしないように忠告しても知らんふりで堂々と漁をしていた。そして、あろうことか中国の漁船は日本の領海外に出るように警告している巡視船にぶつかってきたのである。「尖閣を棚上げ」しているのに乗じて中国漁船はやりたい放題をやって無法地帯になっていたのだ。それを明らかにしたのが中国漁船の巡視船への衝突事件だった。
尖閣問題を「棚上げ」していたから中国漁船の巡視船への衝突事件が起こったのである。孫崎氏はそのことを理解していないようだ。

孫崎氏は日中間の尖閣諸島領有権問題の「棚上げ」について、国交正常化交渉に深く携わった外務官僚らの論を基に「棚上げはあった」と主張しているが。「棚上げ」をしたために中国漁船に尖閣の海は占領されたことには言及をしていない。。

孫崎氏は、棚上げが長引くほど、日本の実効支配が明確化し、「法律上も日本に有利になる」と分析しているが、棚上げするということは、尖閣が日本と中国のどちらの領土であるかをうやむやにし、日本の実効支配を明確することができないことである。それは巡視船が中国漁船団の尖閣領海内での漁を取り締まることができないということになる。事実、巡視船に衝突した中国漁船を逮捕するまでは中国漁船団を取り締まることができなかった。

巡視船に衝突した中国漁船を捕獲し、船長を逮捕して、尖閣は日本の領土であると日本政府が主張したから、中国漁船団は尖閣の海から退避したのである。

棚上げが長引けば長引くほど中国漁船団の尖閣の海の実効支配が続いていたというのが真実である。中国漁船団の尖閣の海の実効支配が続けば続くほどますます日本の実効支配は遠のいていたのであり、孫崎氏のいう、「棚上げが長引くほど、日本の実効支配が明確化」していたというのは間違いである。
中国漁船団が実効支配している状態で「法律上も日本に有利になる」というのはあり得ないことである。

日本政府が、中国船長を逮捕し、尖閣の海から中国漁船団を退避させ、尖閣の島に上陸した中国活動家を逮捕して、尖閣を日本が実効支配していることを明らかにしたのに中国政府は自分の領土だと主張し、領海、領空侵入を繰り返している。

「棚上げ」が長引けば長引くほど、中国の方が尖閣の実効支配を拡大していったはずである。

孫崎氏は「2010年の海上保安庁の巡視船と中国漁船衝突事件や、12年の石原慎太郎前東京都知事主導による尖閣諸島の国有化などで日中間の緊張が高まった」と言っているが、沖縄が復帰し、尖閣諸島が米軍の管理から日本の管理に移った時から中国の尖閣の海への侵略は始まっていて、緊張は発生していたのだ。ところが自民党政府は中国の侵略を放置し、マスコミも報道しなかった。だから緊張がなかったように見えただけであり本当は復帰以後からも尖閣の緊張は高まっていたのである。
緊張どいうより中国の尖閣の海への侵略は始まっていたというのが的確な指摘である。外交官であれば、中国漁船が尖閣の海を侵略していた事実を知っているはずである。知っていながらその事実を隠しているならば孫崎氏は自分の主張を正当化するために事実を隠していることになる。嘘つきの評論家である。

嘘をついているのではなく孫崎氏がこの事実を知っていなかったとすれば孫崎氏は無知な外交官であったということになる。無知な外交官は無能な外交官である。

中国漁船の船長を逮捕するまでは尖閣の海は中国漁船に占領されていた。日本政府が尖閣は日本の領土であると主張したから日本は中国と対等な立場に立ったのである。緊張がないように見えたのは日本政府が尖閣を自国の領土だと主張することに消極的だったからであって、日本政府が中国漁船の横暴を黙認していたから「緊張」がないように見えたのである。しかし、中国漁船の横暴を黙認することは日本政府が中国に従属してしまうのと同じである。日本政府が黙認することは独立国として間違ったことである

逮捕した中国漁船船長を政治的に釈放したことで民主党支持が一気に下がった。日本国民は、日本政府が中国政府にしっぽを振らないで毅然とした態度で堂々と対応するのを望んでいることが明らかになった事件でもあった。
国民は尖閣問題の「棚上げ」に反対したのだ。ところが元外交官の孫崎氏は、「棚上げ」に賛成である。篠崎氏は国民の意思に背いている元外交官である。孫崎氏のような他国に毅然とした態度を取らない外交官が日本外交を駄目にしたのだ。

孫崎氏は、「2010年の海上保安庁の巡視船と中国漁船衝突事件や、12年の石原慎太郎前東京都知事主導による尖閣諸島の国有化などで日中間の緊張が高まったことを背景に、米国が尖閣問題を利用し戦略的に日米同盟の深化に動いた」と、本当にこの人は外交官だったのかと疑うような指摘をしている。

オバマ大統領はアジア圏との政治・経済の交流を高める戦略を発表し、TPPに積極的に関わっている。米国のアジア戦略に対立するのは中国である。中国はアジアの国々を中国の影響下に置こうと、フィリピン、ベトナムには軍事力で南沙諸島に侵略している。一方カンボジアを抱き込むために莫大な経済援助をしている。共産党独裁国家中国は、政治圧力、軍事圧力のムチと経済援助のアメを利用してアジアに進出している。
社会主義中国のアジア進出とは、中国のいいなりになる国を増やすことである。中国のいいなりになる国が増えれば増えるほど、米国のアジアとの自由貿易はうまくいかない。中国のTPP参加国への嫌がらせも増えるだろう。
アジアを自由貿易地域にするためには中国と同等の経済力と軍事力のある日本は必要である。アジアの国々との自由貿易を決めた時から米国にとって日米同盟を深める必要があったのだ。尖閣問題とは別である。

米国は中国と日本が戦争になるのを嫌っている。戦争になれば中国と日本の経済はマヒするからだ。中国と日本が経済マヒを起こした時、莫大な損害を受けるのが両国と貿易をしている米国である。
資本主義経済が一番おそれるのが経済がマヒする戦争である。日本と中国が戦争をした瞬間に日本と中国の貿易は断然する。中国の日本企業は壊滅し、日本の中国企業も壊滅する。そして、両国が活動している外国企業は国外に退去するだろう。戦争は中国と日本の経済を壊滅状態にする。それは米国にも大きく影響し米国経済も壊滅的な打撃を受けるだろう。

米国は尖閣での軍事紛争は日米同盟の対象になると宣言した。それは尖閣で軍事紛争が起こることを抑止する効果があるからである。米国は日本と中国の紛争を抑止するために動いたのであり、孫崎氏の「米国が尖閣問題を利用し戦略的に日米同盟の深化に動いた」と指摘したのは間違いである。

孫崎氏が、元国務省日本部長のケビン・メア氏が、尖閣問題に関して日本が制空権を取るために、ステルス戦闘機F35の調達計画拡充を指摘している点に触れ「尖閣問題が深まれば、米国の軍需産業にプラスになるということ。あまりにあからさまだ」と、批判したのにはあきれる。
ケビン・メア氏が尖閣の制空権は絶対に守るべきであるという主張に対して、米国の軍需産業に儲けさせるためにメア氏は制空権を守れと主張しているのだとメア氏を卑しい人間に仕立て上げている。それが孫崎氏のメア氏への反論なのだ。メア氏に反論するのなら、「尖閣の制空権を守る必要がない」というべきである。ところが孫崎氏はメア氏は米国の軍需産業のプラスのために尖閣の制空権を握ることを主張しているとメア氏の主張に話をずらしてメア氏を非難している。おかしな批判である。

孫崎氏は紛争解決の手段として、ドイツとフランスが共同管理で領土問題を解決したアルザス・ロレーヌ地方のことを具体例にしているが、アルザス・ロレーヌ地方と尖閣の問題は内容が全然違う。
アルザス・ロレーヌ地方は鉄鉱石と石炭を産出するために昔からアランスとドイツが領土争いをしていた。しかし、尖閣にはアルザス・ロレーヌ地方のよう豊富埋蔵量の鉱山はない。昔に中国と日本が領土争いをした歴史はない。それにアルザス・ロレーヌ地方には多くの住民が住み続けているが、尖閣は元々無人島であった。戦前は、日本国民が石炭採掘やかつお漁をするために住んでいた記録があるだけで、戦後は無人島に再び戻っている。戦前日本人が住んだ事実はあるが中国人が住んでいたことはない。

アルザス・ロレーヌ地方はフランスとドイツとの国境地帯にあり、フランスおよびドイツそれぞれの国から見れば地理的には周辺であるのにもかかわらず、欧州の「中心」地域になっている。欧州統合を推進するフランスとドイツの中間点にあり、なおかつ欧州の中心ということは歴史をふりかえれば非常に象徴的である。
欧州連合はその主要機関である欧州議会の本部を、欧州共同体時代の1979年に中心都市ストラスブールに置いた。また、欧州審議会はそれ以前の1949年に、そして欧州人権裁判所は1959年にストラスブールに置いている。(ウィキペディア)

アルザス・ロレーヌ地方はヨーロッパにとって中心地であり、特別な場所である。戦後の民主主義国家が連なるヨーロッパでアルザス・ロレーヌ地方が政治的な話合いで解決したのは必然である。
尖閣は辺鄙な場所にあり、戦前は日本人が住み、なんの領土争いの係争もなかったのだから日本の領土あることは明白である。ところが沖縄が本土に返還してから強引に自国の領土であると主張してきたのが共産党独裁国家中国である。アルザス・ロレーヌ地方とは問題の本質が全然違う。

アルザス・ロレーヌ地方を例にするのもおかしいが、東南アジア諸国連合の事例を出すのも、アジアの歴史を無視していておかしい。

戦後の東南アジアは紛争の連続であった。国境問題による戦争も数知れずあった。そして、アジアの多くの国が民主主義国家になった。民主主義国家は軍事力ではなく政治交渉で紛争を解決するようになる。だから、孫崎氏のいう「宗教や政治体制の違いがありながら、経済や安全保障の共同体を構築」していくことができるのである。
民主主義国家と民主主義国家はお互いのトラブルを政治交渉で解決していく。しかし、共産党独裁国家中国は違う。ベトナムとフィリピンの南沙諸島に軍事力で侵略したように、力で支配圏を拡大していく。
東南アジア諸国連合の事例を挙げ「紛争を起こさないためには、協調することが大切だ」と孫崎氏訴えているがその訴えは尖閣問題に関しては成り立たない訴えである。
民主主義国家と民主主義は「紛争を起こさないで、協調していく」が共産党独裁国家の中国は「紛争を起こして力でねじ伏せていくから、協調することができない」のだ。
尖閣問題は民主主義国家日本と共産党独裁国家中国との対立である。「紛争を起こさないで、協調していく」ことを中国はやらない。だから、中国とは軍事力で中国の出鼻を抑止する必要があり、政治交渉では中国の強引な主張に毅然と対応していかなければならない。

中国と紛争を起こさないためには軍事力で中国と拮抗する必要があり、中国に協調させる必要がある。孫崎氏はもっともらしく「紛争を起こさないためには、協調することが大切だ」と主張しているが、それは中国に通用しない方法である。

外交というのは相手国の国家の体制を理解した上で方法を色々変えていく必要がある。民主主義国家、独裁国家、社会主義国家それぞれの国歌体制に合わせた外交をするべきである。それが外交の基本中の基本である。
ところが、孫崎氏は十把一絡げにして「紛争を起こさないためには、協調することが大切だ」一辺倒の外交を主張している。そんな外交が世界に通用するはずがない。

孫崎氏は本当に外交官だったのか。信じられない。
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超水増しの9・9県民大会


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度を超した水増しの9・9県民大会


米軍のMV22オスプレイの普天間飛行場配備に反対する県民大会の写真を見ると
1万人くらいしか集まっていない。
どんなに多めに計算しても2万人には届かない。
しかし、主催者は約10万1000人であり、今まで最多の県民大会であると発表している。
約10万1000人はあまりにもひどい水増しだ。
よくも10万1000人と発表できるものだ。
開いた口がふさがらない。
主催者は2500万円の大金を投入し、
すべての市町村の首長・議員、
そして、沖教祖、自治労などの労働団体も結集した、
今まで最多の組織が参加したオール沖縄の県民大会だったから、
動員数も最大でなければならなかったのだろう。
だから、主催者は10万1000人と発表して、
過去最大の動員数を誇示しなければならなかった。
しかし、それにしてもあまりにひどい水増しである。
写真を見ると前のほうだけが密集していて、
中央から後ろの方にかけては隙間が多い。
5万人でも明らかな水増しである。
ただ水増しが常識だから、主催者発表で5万人くらいが妥当である。
10万1000人はないだろう。
動員力が低下する一方で主催者発表の水増しはどんどん拡大している。
それが県民大会の実態である。

県民大会の主催者は
「安全性が確認できないオスプレイ配備は到底容認できるものではない」として、
日米両政府に配備計画の撤回と、
並行して普天間飛行場の閉鎖、撤去を求める決議を採択した。

妙な内容の決議である。
オスプレイの安全性が確認できないからオスプレイ配備に反対するのなら、
もしオスプレイが安全であると確認できればオスプレイ配備を容認することになる。
その主張は普天間飛行場の存在を容認している。
ところが、普天間飛行場の閉鎖、撤去を求める決議もしている。
普天間飛行場の閉鎖、撤去を求めるのならオスプレイの安全性うんぬんは関係がない。
オスプレイが安全であろうが危険であろうが配備を拒否するだけにととまらず
普天間飛行場の閉鎖、撤去を求めている。
普天間飛行場の閉鎖、撤去を求める決議は
主催した翁長那覇市長、佐喜真宜野湾市長をはじめ
参加した市町村長の主張であるということになる。
佐喜真宜野湾市長は、
「安全性に担保のないオスプレイを何一つ現状の改善のないまま、
世界一危険な普天間飛行場に持ち込もうとしていることに対して強い憤りを感じざるを得ない。
見直しを求める」と演説しているが、
普天間飛行場の閉鎖、撤去を求める決議をしているのに
「見直しを求める」はないものだ。

米軍基地に対しての基本姿勢が違う自民党系と革新系が共闘して開催した県民大会だから、
オスプレイの安全性を求めるのと
普天間飛行場の閉鎖・撤去を求める矛盾したナウ用をひとつの決議に書いたのである。
決議文がふたつの切り裂かれているのだ。
決議文として成り立たない。
自民党と革新政党が野合した県民大会たったから
決議文そのものに矛盾が生じたのだ。

ねつ造された県民総意


9・9県民大会に仲井真県知事が参加しないと表明したことに対して、
新聞は「県民総意に隔たり」「県民総意置き去り」などと知事を非難している。
間接民主主義では選挙で選ばれた県知事が県民総意の代理人である。
その県知事が県民大会に参加しないのを
「県民総意と隔たり」「県民総意置き去り」などと、
県民に選ばれていない新聞記者が非難するのは主客転倒である。

県民の代表者である県知事に対して
新聞が「県民総意と隔たり」「県民総意置き去り」と非難するのには原因がある。
新聞社・主催者は
選挙で選ばれた知事よりも
オスプレイ配備反対に賛同する市民だけが集まる9・9政治集会を「県民総意」と決めつけているのだ。
そして、「県民総意」に恥じない人数を集めるために2500万円もの税金を投入したのだ。
それだけではない。
オスプレイ賛成派の集会や、北は名護市から南は糸満市まで張った横断幕の存在を
一切無視し封殺することによって
「県民総意」を正当化したのである。
どのような社会でも賛成派と反対派は存在するものである。
反対派だけしか存在しないというのはありえない。
だから、徹底した討論をしたあとに多数決でひとつの決断をするというのが民主主義である。

オスプレイ配備反対の政治集会は反対派の市民だけが集まるのだから多数決は必要がない。
ところが9・9オスプレイ配備反対政治集会は、
反対派だけの政治集会であるのにかかわらず
「県民」を冠にし、
政治集会は「県民総意」を標榜する目的があった。
だからオスプレイ配備賛成派の市民を情報の世界で全員抹殺した。
全員抹殺することによって「県民総意」を標榜したのだ。
民主主義にはありえない発想である。
民主主義ならば賛成派と反対派が集結してこそ県民大会である。
県民大会で決を取り、
オスプレイ配備反対派が賛成多数であれば、
県民の意思としてオスプレイ配備反対を主張すればいい。
賛成派を排除した反対派だけの政治集会は
「県民」を冠にすることは許されないことである。

オスプレイ配備反対が「県民総意」であることをねつ造するために、
オスプレイ配備賛成派の市民を情報の世界で全員抹殺し、
政治集会に参加しない県知事を
「県民総意と隔たり」「県民総意を置き去り」などと決めつけ、
1万人余を10万1000人と超水増ししたのだ。

これが沖縄の政治である。


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中止した8・5県民大会の1500万円はどこに消えた


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中止した8・5県民大会の1500万円はどこに消えた



8・5オスプレイ配備反対県民大会は台風接近のために中止した。
だから、予算の1500万円の多くは使われなかったはずである。
それなのに一か月後に開かれる9・9県民大会に1000万円が新たに必要であるという。
変ではないか。
県民大会を開催するのに1500万円が必要であり、
県民大会は中止になったというのにすでに1000万円が使われ、
500万円しか残っていないために、
新たに1000万円が必要であるというのだ。

県民大会に1500万円という大金が必要であるということにびっくりだが、
県民大会は中止したというのにすでに1000万円が使われ、
一か月延長しただけで新たに1000万円が必要であるというのは
びっくりを超えて信じられない。
ノボリや旗などのほとんどは8・5県民大会の時に準備したはずである。
どうして新たに1000万円もの大金が必要であるのか疑問だし、
8・5県民大会は中止したから無料バスやの予算は全然使われていないのに
1000万円がすでに使われているのには納得できない。

県民大会に1500万円が使われること自体が考えられないことなのに、
大会が中止してもすでに1000万円が使われていることはますます考えられない。
そして、一か月延期になっただけで新たに1000万円が使われるのは
ますます信じられないことだ。

8・5県民大会と9・9県民大会に使われる合計2500万円の予算のほとんどは税金である。
県民大会の主催者は公的な役職に就いている市町村長である。
彼らは2500万円が何に使われたかを公表する義務がある。
公表しないのなら公金横領に匹敵するくらい犯罪性が高い。

公的な立場にいる市町村長がオスプレイ配備に反対であれば
市民・村民に選ばれた者として政府に反対の意思を伝え、
配備をしないように政府に働きかけることが彼らのやることである。

9・9県民大会は「県民」という冠がついてはいるが、
国が普天間飛行場にオスプレイを配備しようとしていることに対しての反対運動である。
オスプレイ配備に対しては賛成する県民もいるし反対する県民もいる。
県民大会は大衆運動であり、私的な運動である。
公的な立場として県民大会に招待されることはあっても、
公的な立場でオスプレイ配備反対運動の県民大会を率先することはできない。
ましてや、税金を大衆運動である県民大会に投入することは法律違反であるのは明らかであり
言語道断である。
もし、市町村長が現在の考えとは逆でオスプレイ配備に賛成であったならば
オスプレイ配備賛成県民大会を開くことができるということである。
市町村長は公の立場を利用して自分の私的な政治思想のために県民大会を開くということになる。
それは明らかに公的な立場を利用した私的な政治運動であり法律違反である。

市町村長が反対しているオスプレイ配備賛成の県民大会ならば税金が投入されないで、
市町村長が賛成しているオスプレイ配備反対の県民大会ならば税金が投入されるのは
政治的不平等である。
税金は賛成反対に分かれる政治問題には使われるべきではない。

翁長那覇市長をはじめ市町村長が県民大会を率先する時は
法的には公的な立場ではなく私的な立場で率先している。
公的な立場の人間が公的な立場のまま私的な政治運動をやってはいけない。

法律違反だらけの9・9オスプレイ配備反対県民大会である。


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「1971Mの死」の添削をお願いします

「かみつく」という季刊誌を出版する決心をしました。評論、小説、それに沖縄の新聞が報道しないニュースを掲載するつもりです。ブロガーの意見も掲載します。資金がないのでプロに添削・校正を依頼するわけにはいきません。そこでみなさんに添削をお願いすることにしました。短編小説「1971Mの死」の漢字の間違いや表現がおかしいと思う箇所の指摘をお願いします。
・・・・・・・・・・

1971Mの死 1


学生運動やら演劇クラブでの酒と論争の日々を過ごしたせいで、私は多くの単位を落としていた。R大学の国文学科に入学して五年が経過していたが今年も卒業の見込みがなかった。
一九七一年六月一七日、五年次の私は三年次の学生と一緒に中世文学の講義を受けていた。古典に全然興味のない私だったが卒業するためには必修科目の中世文学を受けないわけにはいかなかった。窓際に座り、教授の講義を念仏のように聞きながら、青空と白い雲の下の慶良間諸島や遥か遠くに見える読谷飛行場の像のオリをぼんやりと眺めているうちに講義の終了のベルは鳴った。五年次の私には講義が終わってから話し合う相手はいなかったので、講義が終わるとすぐに講義室を出た。生協の食堂でカレーライスを食べ、それから崖道を下って、トタン屋根の我が演劇クラブ室にでも行こうかと思いながら廊下を歩いていると、背後から、
「先輩」
聞き覚えのある声がした。振り向くと一年後輩の礼子だった。
「先輩、明日、与儀公園で県民大会があるけど、参加できないですか」 
礼子は私を県民大会に誘った。学生運動と距離を置くようになっていた私は県民大会に参加したくなかった。
「県民大会かあ。ううん、どうしよう」
私が県民大会に行くのを渋っていると、
「なにか用事があるのですか」
と、礼子は訊いた。
国文学科委員長をしていた頃は私が礼子を政治集会に熱心に誘ったし、一緒に学生集会や県民大会などに参加した。礼子は運動音痴で弱虫であったが、デモの時に機動隊にジュラルミンの盾でこずかれて怪我をしたり、一部の学生が火炎瓶を投げつけたために機動隊に襲われる怖い体験をしても学生運動に参加し続けていた。礼子とは違い、学科委員長を辞めてからの私は次第に学生運動に距離を置くようになり学生集会や県民大会などに参加しなくなっていた。
「明日は家庭教師の仕事があるんだ」
「無理ですか」
「無理かもしれない」
「できたら参加して欲しいです」
いつになく礼子はしつこく私を県民大会に誘った。今までも数回政治集会に誘われたが私はヤボ用があるといって断った。その時は、「じや、次は参加してください」といって礼子は私を誘うのをあきらめた。しかし、今日の礼子はすぐにはあきらめなかった。家庭教師をする家はどこですかと聞いたり、家庭教師の曜日を変更できませんかと聞いたりした。礼子は来年卒業する。就職活動もあるし政治集会に参加するのをそろそろ終えようと思っているのだろう。だから、私を県民大会に誘っているのかもしれない。礼子と話しているうちに、私は礼子の誘いを断るわけにはいかないと思った。
家庭教師をやる家は那覇市の立法院の近くにあった。立法院前から市内線のバスに乗れば開南を通って与儀公園まで直行で行ける。家庭教師を早く終わらせれば県民大会に間に合わせることができるだろう。
「家庭教師を早く切り上げれば県民大会に間に合うかもしれない」
礼子はほっとしたように微笑んだ。
「そうですか。よかった。それでは、明日の県民大会で」
と言って、礼子は去って行った。

一九七一年六月一八日、私は家庭教師の仕事を早めに終わって、スーツに革靴のまま与儀公園に行った。その日の県民大会は、宇宙中継によって東京とワシントンで結ばれた「沖縄返還協定」に抗議する県民大会であった。日米政府による「沖縄返還協定」締結によって、来年の一九七二年五月一五日午前0時に沖縄の施政権がアメリカから日本に返還され、沖縄県が誕生することになる。 
バスを降り、与儀公園に入った私は、公園に並んでいる団体の中にR大学自治会の学生集団を探したが、見つけることができなかった。変に思いながら公園内を見渡すと、大会場の後ろの方に白いヘルメットの集団が見えた。近づいていくと、R大学の自治会長がハンドスピーカーを握り、県民大会の議事進行を無視して、公園の芝生に座っている学生たちに向かってがなり立てているのが見えた。私は学生集団の中に礼子たちを探した。手を上げている女性が目に入った。見ると礼子だった。私は後輩の学科委員長に「よっ」と挨拶をしてから礼子のいる集団に混じった。
礼子たちは四年次であり来年は卒業するので、私たちの雑談は卒業の話になった。
「卒業したらなんの仕事をするんだ」
「中学校の先生よ」
「え、弱虫のお前が中学校の先生になるのか。いじめられて泣かされるぞう」
と、私がからかうと、
「仕方ないでしょ。他にいい仕事がないもの。先輩は今度卒業できるの」
と、礼子は反撃してきた。痛いところを突かれて、私が返答に困っていると、
「ほら、先輩は卒業できないのでしょう。他人のことをとやかく言わないで自分のことを心配したほうがいいわ」
「他人のことをとやかく言って悪かったな」などと雑談していると、学生運動のリーダーたちから立ち上がるように指示された。
「県民大会はまだ終わっていないよ。どうするのだろう」
「さあ、知らないわ」
R大学の学生集団は立ち上がり、ジグザグデモを始めた。そして、革新政党や労働組合の代表が居並んでいる会場の前に出ると、演壇をぐるぐる回り始めた。デモ隊の中から数人のヘルメットを被った学生が出てきて、演壇に駆け上がり、演説している労組の代表者と進行係を排除して演壇を占拠した。学生たちは演壇の中央で日の丸と星条旗を交錯させるとふたつの旗に火をつけた。灯油を染み込ませた日の丸と星条旗は勢いよく燃え、演壇の回りをジグザグデモしている学生たちの意気は上がり、シュプレヒコールは大きくなった。
私は、日の丸と星条旗が燃え終わると、デモ隊は意気揚々と元の場所に戻るだろうと予想しながら演壇の周囲をデモっていた。すると、労働者の集団がデモ隊に近づいてきた。私はその集団はデモ隊への抗議の集団であり、デモを指揮しているリーダーたちと押し問答が起こるだろうと思っていたが、労働者の集団がデモ隊に接近すると、デモ隊の一角が悲鳴を上げて一斉に逃げ始めた。労働者の集団は抗議をするためではなく、学生のデモ隊を実力で排除するためにやってきたのだった。県民大会の演壇を占拠し、日の丸と星条旗を燃やしたのは横暴な行為であり許されるものではない。しかし、だからといって労働者集団が学生のデモ隊を問答無用に襲撃するのは私には信じられないことだった。唖然とした私は、逃げ惑う学生たちの流れに押されて走った。走っている途中で、前日の雨でぬかるんでいる泥土に足を取られ、片方の革靴が抜けてしまった。私は革靴を取ろうとして立ち止まろうとしたが、逃げ惑う群の圧力は強く、私は群れに押し流されて与儀公園の外に出た。
片方の革靴を失った私は困った。スーツと革靴は上流家庭の家庭教師をしている学生には必需品であり、貧乏学生の私は高価である革靴をそのまま捨てるわけにはいかなかった。はぐれてしまった礼子たちのことが気になったが、それよりも革靴の方が私には切実な問題だった。会場が落ち着いてから与儀公園に戻ろうと、私はバス停留所に向かう学生たちの群れから離れて道路の端に立ち、与儀公園の様子を見ていた。すると、照屋さんが近寄って来て、
「どうしたの」
と私に訊いた。照屋さんは情報収集を専門に活動している学生運動家だった。

私が学科委員長をやっていた時、照屋さんと私は那覇警察署の様子を探るために那覇署の近くのバス停留所で張り込みをしたことがあった。私と照屋さんは那覇署が見えるバス停留所のベンチに座っていたが、なんの飾り気もない服を着ている男女がバス停留所に長時間座っているのを逆に警官に怪しまれて私と照屋さんは那覇警察署に連れて行かれた。私と照屋さんの服装や表情を見て、私たちが学生運動家であることが警官にはすぐに分かっただろう。私は数人の警官に囲まれて素性を聞かれたが私は無言を貫いた。私の態度を生意気だと思った背の低い警官が私の腹を突いた。ぐっと私が腹を固めて我慢したので、お、こいつ腹を固めたぞ、結構腹が固いなと言いながら一発目より強く突いた。私はカーっと頭にきた。もし、あと一、二発腹を突かれたら私は警官に殴りかかる積もりになっていた。私の気持ちは顔にも表れたので、警官は真顔になり、なんだお前は、やる積もりかと私を睨んだ。私は睨み返した。その時、隣の警官が、「やめとけ、比嘉。大人げないぞ」と比嘉という警官を制した。我に返った比嘉という警官は苦笑いしながら去って行った。黙秘を通したので留置場に入れられるのを私は覚悟したが、暫くして私と照屋さんは解放された。

私は照屋さんに革靴を演壇の近くのぬかるみに取られたことを話した。すると照屋さんは、暫くの間会場の様子を見てから与儀公園に戻る予定だと言い、
「私が革靴を探してあげるから、あなたは自治会室で待っていて」
と言った。学生運動から離れている私は自治会室には行きたくなかったので、自分で革靴を探すと言った。すると、照屋さんは顔を曇らせて、「男は危険だから」と言った。
「主催者側となにかトラブっているのか」
と、私が訊くと、照屋さんは頷いた。照屋さんの話では、県民大会の主催者側とR大学自治会は険悪な関係になっていて、R大学の県民大会への参加は認められていなかったという。

日本は沖縄の祖国であり、母なる祖国に復帰するのが沖縄の悲願であると主張している祖国復帰運動にとって、日の丸は祖国日本の象徴であり崇高な存在であった。ところが、その頃のR大学の学生集団は、崇高なる日の丸を、こともあろうに祖国復帰運動家たちが目の敵にして最も嫌っているアメリカの象徴である星条旗と交錯させて一緒に燃やす行為を繰り返していた。星条旗と一緒に日の丸を焼却するR大の学生集団の行為は、日の丸を祖国復帰運動の象徴にしている運動家たちを嘲笑し侮辱しているようなものであった。だから、与儀公園の県民大会の主催者はR大学を嫌悪し、参加を許可しなかったし、演壇で日の丸と星条旗を燃やしたR大学の学生集団を実力で排除したのだろう。
R大学のデモ隊が労働者集団に襲われた事情は知ったが、だからといって私が労働者集団に襲われるのは考えられないことであった。私は自分で革靴を探すと言った。しかし、照屋さんは、私の顔は彼らに覚えられているかも知れないから危険だと言い張った。私は学生運動でそんなに派手なことをやっていなかったし一年近く学生運動から離れている。労働者集団に私の顔を覚えられていることはないと思ったが、照屋さんは私の身を心配してくれて私が与儀公園に戻ることに反対しているし、照屋さんと押し問答を続けると照屋さんの活動を邪魔してしまう。私は仕方なく照屋さんに革靴のことを頼み、R大学の自治会室に向かった。
首里にあるR大学に到着した私は自治会室に居たくなかったので、照屋さんが来たらキャンパスに居ると伝えてくれるように顔見知りの学生に頼んで自治会室を出た。むさくるしい自治会室を出ると、満点の空には星が煌めいていた。
木々が林立しているキャンパスは闇に覆われ、所々に立っている外灯の周囲は白っぽい空間を作っていた。自治会室の開けっ放しの出入り口や窓から漏れている蛍光灯の光を背にして、私は芝生を踏みながら歩き、腰を下ろすのにほどよい場所を探した。薄闇の中を進むとガジュマルの木が植わっている場所があり、私はガジュマルの木の根に腰を下ろした。
那覇市で一番空に近いR大学のキャンパスには初夏の涼しい風が吹き、頭上のガジュマルの枝葉をざわつかせていた。
・・・・・県民大会に行かなければよかった。県民大会に行かなければ、今頃は間借り部屋でのんびりとラーメンを食べていた・・・・・私はガジュマルの幹に背を持たせながら、県民大会に行ったことを後悔していた。
 礼子たちのことが気になった。国文学科は女性が多い。このような襲撃で被害を被るのは女性たちだ。私が学科委員長になった頃からR大学の学生運動は急に過激な行動が増えていき機動隊に襲われることが多くなった。礼子と一緒のデモで最初に機動隊に襲撃されたのは開南交番所の焼き討ち事件だった。
国際通りから与儀公園に向かう途中の開南交番所に来た時、リーダーたちの指示でデモ隊は交番所の周りをぐるぐる回り始めた。デモの予定コースや行動については学科委員長である私に前もって知らされるが、交番所の周りをぐるぐる回るのを私は知らされていなかった。顔見知りのリーダー格のNがデモ隊の中から出てきて交番所の前に立つと、隠し持っていた火炎瓶を交番所の窓に投げつけた。一発目は燃えなかった。二発目を投げると交番所の中から炎が燃え上がった。デモ隊は威勢が上がったが、私の周囲にいる女性たちは恐怖で顔をひきつらせていた。暫くすると後ろのほうで悲鳴が聞こえた。機動隊が襲ってきたのだ。パニック状態になっている礼子たちはどうしていいか分からないで戸惑っていた。「逃げろ」私は礼子たちに逃げるように指示した。見る見るうちに機動隊は近づいてきた。交番所を焼かれた機動隊の勢いはいつもより激しかった。
「早く逃げるんだ」
私は激しく迫ってくる機動隊を見ながら叫んだ。礼子たちは平和通りのほうに逃げた。私はゆっくり走りながら礼子たちが去っていくのを見守っていたが、機動隊のひとりが私を狙って追ってきた。私は礼子たちとは逆方向の与儀公園の方に向かって逃げた。機動隊はしつこく私を追いかけてきたので私は路地に逃げたが、路地は崖になっていて行き止まりになっていた。私は数メートルの崖下に飛んだ。着地したところは家の庭だった。機動隊からは逃げ切れたが、飛び降りた時に私は足に怪我をした。
 あの時の礼子は逃げる時に転んで手足に軽い怪我をしていた。今日は日の丸と星条旗を県民大会で焼却したために労働者集団に襲撃されたが、革靴をぬかるみに取られた私は立ち止まったりしたので礼子たちより逃げるのが遅れた。後ろから走った私は礼子や他の国文学科の学生を見なかったから今日は転ばないで無事に逃げただろう。

ソ連、中国、モンゴル、北朝鮮、北ベトナムなどアジア大陸のほとんどの国が日本やアメリカと対立する社会主義国家であり、アジアの社会主義圏は拡大しつつあった。ベトナム戦争は敗北の色が濃くなり、南ベトナムが北ベトナムに併合されて社会主義国家になるのは時間の問題だった。米軍が駐留していなければ北朝鮮に侵略される可能性が高い韓国、中国侵略に脅かされ続けている台湾、フィリピンの共産ゲリラの不気味な存在。カンボジアなどの東南アジアの毛沢東主義派の武力攻勢など、アジアは共産主義勢力がますます拡大し、日米政府にとってますます沖縄の軍事基地は重要な存在になっていた。
ベトナム戦争で莫大な国家予算を使って経済危機に陥ったアメリカは沖縄のアメリカ軍基地を維持するのが困難になり、経済力のある日本の援助が必要となっていた。そこで、日米両政府は沖縄を日本に返還することによって、沖縄の米軍事基地の維持費を日本政府が肩代わりする方法を考えだした。
沖縄が日本の一部となれば米軍基地を強化・維持するための費用を国家予算として日本政府は合法的に決めることができる。米軍基地の維持費を日本政府が肩代わりするための沖縄施政権返還計画は着々と進み、1971年6月17日の今日、宇宙中継によって東京では外相愛知揆一が、ワシントンではロジャーズ米国務長官が沖縄返還協定にそれぞれサインした。これで「沖縄返還協定」が1972年5月15日午前0時をもって発効し、沖縄の施政権がアメリカから日本に返還され、沖縄県が誕生することになった。
日米政府による沖縄施政権返還協定に反発したのが「祖国復帰すれば核もアメリカ軍基地もない平和で豊かな沖縄になる」と日米政府が全然考えていない非現実的な祖国復帰を自分勝手に妄想し続けていた沖縄の祖国復帰運動家たちであった。妄想は妄想であり現実ではない。妄想が実現することはありえないことである。
沖縄を施政権返還すれば沖縄の米軍基地の維持費を日本政府は堂々と国家予算に組み入れることができる。泥沼化したベトナム戦争のために莫大な戦費を使い果たし財政的に苦しくなっていたアメリカを日本政府が合法的に経済援助するのが沖縄の施政権返還の目的であった。それが祖国復帰の内実であった。ところが「祖国復帰すれば核もアメリカ軍基地もない平和で豊かな沖縄になる」という妄想を吹聴し続けた祖国復帰運動家たちは、祖国復帰が実現するのは祖国復帰運動が日米政府を動かしたから実現したのだと自賛しながらも、施政権返還の内容が自分たちの要求とは違うといって反発をした。妄想の中から一歩も飛び出すことができない祖国復帰運動家たちは祖国・日本に裏切られたなどと文句をいい、日米政府が100%受け入れることがない非現実的な「無条件返還」の要求運動を展開した。
ソ連・中国等の社会主義圏とアメリカ・西ヨーロッパ諸国の民主主義圏との緊迫した世界的な対立やアジアの政治情勢やベトナム戦争の劣勢を考えれば、沖縄の米軍基地を再編強化するための本土復帰であるのは歴然としたものであった。世界やアジアの政治情勢を無視して、自分勝手に描いた妄想でしかない祖国復帰論が日米政府に通用するはずがなかった。

R大学の自治会は、沖縄の施政権返還は日本政府とアメリカ政府の共謀によって沖縄の米軍基地を強化維持するのが目的であることを世間にアピールするために日の丸と星条旗を交錯させて燃やし続けていた。私はその行為は理解できたし賛同もできた。しかし、県民大会の議事進行を邪魔し、演壇を占拠して日の丸と星条旗を燃やすのは横暴な行為だ。許されることではない。あのような横暴なことをやるから一般学生は離れていくのだ。横暴で過激な行為は学生運動を衰退させてしまうだけである。
明日になれば、私が学科委員長だった頃と同じように、それぞれの学科委員長はそれぞれの学科集会を開き、県民大会の演壇で日の丸と星条旗を燃やした意義を学生たちに説明するだろう。しかし、県民大会の議事進行を中断させて、演壇を占拠したことに正当性があるかどうかという問題はなおざりにするだろうし、日の丸と星条旗を燃やしただけで、R大自治会の主張が県民大会に集まった人たちに理解されたかどうかの問題もなおざりにしてしまうだろう。私は過激化していく学生運動にため息をついた。

自治会室から漏れてくる光が暗くなった。誰かが私の居る場所に近づいてきたためだ。照屋さんが来るには早いなと思いながら私は振り向いた。影の正体は女性ではなく男性であった。男は明るい場所から木々が植わっているキャンパスのうす暗い場所に入ったために、私を見つけることができないようだった。
「マタヨシ」
男は私の名を呼んだ。声を聞いて男の正体が分かった。私の名を呼んだ男はMだった。
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「1971Mの死」の添削をお願いします

「かみつく」という季刊誌を出版する決心をしました。評論、小説、それに沖縄の新聞が報道しないニュースを掲載するつもりです。ブロガーの意見も掲載します。資金がないのでプロに添削・校正を依頼するわけにはいきません。そこでみなさんに添削をお願いすることにしました。短編小説「1971Mの死」の漢字の間違いや表現がおかしいと思う箇所の指摘をお願いします。
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1971Mの死 2



私がMと出会ったのは三年前だ。演劇クラブはフランスの作家ジャン・ジュネ作の「黒ん坊たち」を大学祭で上演することになったが、役者が不足していたのでテイが彼と同じ電気学科の後輩であるMを連れてきた。Mは高校時代の先輩であるテイが役者をやってくれと頼むと、役者の経験はなかったのに承知したという。
Mの役は老いてもうろくした元将軍だった。元将軍は四六時中居眠りをしていて、たまに目が覚めると、意味不明の、「女郎屋へ。くそ、女郎屋へ」というセリフを吐いた。元将軍を演ずることになったMは読み合わせの時から全力で、「女郎屋へ。くそ、女郎屋へ」と叫び、セリフを言うたびに唾を飛ばした。読み合わせだから、大声を出す必要はないと注意すると、「はい」と頷いたが、Mの叫びは直らなかった。Mが唾を吐いて叫ぶたびに、私たちは大笑いしたものだ。Mはくそ真面目で不器用な男だった。
夏休みに、演劇クラブは伊平屋島で合宿をすることになった。演劇クラブ室で酒宴を開いている時に、男子寮の裏にある円鑑池で、夜になると「モー、モー」と牛のように鳴く正体不明の動物がいる話になった時、シゲがあれは食用ガエルであると教えた。私がなんとかして食用ガエルを捕まえて食べたいものだと言うと、伊平屋島出身のシゲは、伊平屋島の田んぼには食用かえるがたくさん棲んでいて、簡単に捕まえることができると言った。それに、伊平屋島には野生のヤギもいて、ヤギを捕まえて食することもできると言った。それじゃあ恒例の演劇クラブの夏休み合宿は伊平屋島にしようということになった。オブザーバーであるMも伊平屋島の合宿に参加した。
伊平屋島に到着し、わくわくしながら田んぼに行くと、稲刈り時期の田んぼは干上がり、食用カエルはいなかった。私たちはがっかりした。どうしても食用かえるが食べたい私たちは、合宿している小学校の教室の裏の小さな池に棲んでいる食用カエルを捕まえて食べた。
伊平屋島の裏海岸には年中涸れることのない水溜りのある不思議な岩があるといい、シゲは岩に私たちを案内した。この岩に時々ヤギがやってきて水を飲むとシゲは話した。山羊は水を飲まないはずだと私が言うと、シゲは、いやヤギは水を飲むと言い張って私とシゲは言い争った。ささいなことでもどちらが正しいかを真剣に言い争うのが私たちの青春だった。
私たちは岩から離れ、合宿している小学校に向かって砂浜を歩いた。すると浜を歩いている野生のヤギを見つけた。私はヤギを捕まえようと追いかけた。ヤギは崖の方に逃げた。私がなおも追いかけるとヤギは崖を登り始めた。私はしめたと思った。崖登りなら人間の方が早いはずである。ヤギを追って私は崖を登った。ところが崖登りは私よりも数倍ヤギの方が上手だった。ヤギは時々立ち止まって私を振り向きながらゆうゆうと崖を登ると野原に去って行った。見物していた演劇クラブの仲間は大笑いした。
「食用ガエルは田んぼにいないし、ヤギを捕まえることはできないし、シゲはうそつきだ」
と私がシゲを責めると、シゲはヤギを絶対捕まえてみせると意地を張った。シゲはヤギを捕まえる相棒にMを指名した。Mは素直にシゲの指名に従った。
「お前たちは先に学校に帰れ。俺とMでヤギを捕まえるから」
とシゲは言った。
日が暮れて、回りが闇に覆われた頃、シゲとMは内臓と首のない子ヤギを自転車の前に括り付けて帰ってきた。女性たちは悲鳴を上げた。男たちは酒を飲みながらヤギ肉を食した。
浜辺の貝を食したり、魚を釣ったり、島のあちらこちらを冒険したり、ヘビが寝床に侵入して大騒ぎになったり、私たち若者は演劇の練習はそっちのけで伊平屋島の夏を楽しんだ。夏休みが明けて暫くすると、「黒ん坊たち」は頓挫し、Mは演劇クラブ室に来なくなった。
三年次になった時に、Mと私は学科委員長になり、学生運動の場で顔を合わせるようになった。しかし、Mは無口であり顔を合わせると黙礼をするくらいで、私とMが親しく話をすることはなかった。私が学科委員長を辞めてからはMと顔を合わせることはほとんどなくなった。先刻、私が自治会室に入った時、Mは自治会室に居た。久しぶりに会った私とMは黙礼をしただけで、言葉は交わさなかった。そのMがなぜ私と会おうとしているのか。
革靴を失って憂鬱な私はMと話す気がなく黙っていた。闇の中の私を見つけることができないMが、私を探すのをあきらめて去って行くのを期待していたが、
「マタヨシ」
と、Mは再び私の名を呼んだ。私は仕方なく、「ああ」と、私の居場所を知らせる声を発した。Mは私の声を聞き、私の居る場所に近づいてきた。私は自治会室の明かりを背にして近づいてきたMを黙って見ていた。Mは私の側に立つと、
「元気か」
と言った。
「ああ」
私は生返事をした。Mは、
「ちょっといいか」
と言った。断りたかったが、私は、
「ああ」
と答えた。Mは私の側に座った。
「マタヨシはまだ演劇をやっているのか」
とMは訊いた。Mの質問に私はむっとした。
私が入学した年の四月に、演劇クラブはベケットの「勝負の終わり」を上演し、その年の秋の大学祭に「闘う男」を上演した。しかし、リーダーのゼンジが大学を中退すると、翌年に「黒ん坊たち」が頓挫し、それ以後演劇クラブは四年間も上演しない状態が続いていた。
このままだと演劇クラブは廃部になりクラブ室を明け渡さなくてはならない恐れがあった。私は歴史のある演劇クラブを廃部にした人間にはなりたくなかった。部員が私を含めて四人だけになってしまった状況で、私は三人だけ登場する「いちにち」という戯曲を書き上げ、役者の経験がない新人部員の三人を一から鍛えながら練習を続けていた。三人の中の一人でも退部すれば上演はできない。上演に辿りつけるかどうか不安を抱えながら私は演劇クラブを運営していた。
私の苦しい状況を知らない無神経なMの質問にむっとした私は、
「ああ」
と、ぶっきらぼうに答えた。
「そうか」
と言ったMに、私は無意識にソッポを向いていた。
私の側に座ったMは、「そうか」と言った後、次の言葉がなかなか出なかった。私はMと話す気はなかったし、話す材料もなかったので黙っていた。Mは黙り、私も黙っていた。暫くして、
「シゲはどうしているか」
私たちを伊平屋島に案内し、Mと子ヤギを捕まえたシゲは私と同じ国文学科の学生で私より一期先輩だった。ジャン・ジュネの「黒ん坊たち」を持ち込んだのがシゲであったが、シゲはすでに中退していた。
「中退したよ」
「そうか、中退したのか。・・・・ケンはどうした。ケンは卒業したのか」
ケンは私より二年先輩で「勝負の終わり」でハムを演じた学生だった。彼は演出の能力がなく、三年前にアラバールの不条理劇「ファンドとリス」の上演を目指したが頓挫した。
「卒業した」
「就職したのか」
「ああ」
「なんの仕事をしているのか」
「黒真珠のセールスをしている」
「そうか」
と言ったMは黙った。
Mは演劇クラブの近況を聞くために私の所に来たのではないだろう。Mがなにを私と話したいか知らないが、私は、演劇の話にしろ、政治の話にしろ、Mと話し合う気にはならなかった。
「みんな、もう居ないか」
Mはしみじみと言った。
Mが演劇クラブに居た頃の学生は、私以外は誰も居なかった。シゲ、トシ、タカヤス、ナエは中退して演劇クラブを去った。ケン、テイ、ショウゴ、キシャバ、ミチヨ、アッチャンは卒業して演劇クラブを去った。私だけが中退も卒業もしないでまだ演劇クラブに残っていた。Mは演劇クラブを懐かしんでいたが、私にとって演劇クラブは孤独で厳しい闘いを強いられている現実であった。演劇クラブを懐かしんでいるMに私は苛ついた。
Mと話したくない私は黙っていたが、
「そうか。みんな居なくなったか。居なくなって当たり前だな」
と、Mは独り言を言った。そして、黙った。私も黙っていた。
暫くして、Mが、
「マタヨシは家族闘争をやったか」
と言った。唐突な話題の転換であった。Mが私のところにやって来た目的は「家族闘争」について話し合いたかったからだと私は知った。しかし、私にとって、「家族闘争」は時代遅れの話題でしかなかったから拍子抜けした。私は思わず、
「はあ」
と言った。

「家族闘争」というのは、家族に学生運動をやっていることを打ち明け、家族と話し合い、自分たちがやっている学生運動を家族に理解させ、家族に学生運動を応援させる運動のことであった。
一九六六年にフランスのストラスブール大学で民主化要求の学生運動が始まり、それが一九六八年にはソルボンヌ大学の学生の民主化運動へと発展し、その年の五月二十一日にはパリで学生と労働者のゼネストを行った。そして、労働者の団結権や学生による自治権、教育制度の民主化を大幅に拡大することに成功した。それをフランスの五月革命と呼んだ。フランスの五月革命は学生が原動力となった革命として世界中に有名になった。
大学の民主化を目指して闘ったフランスの学生たちは、自分たちの運動の意義を理解させるために家族と話し合った。学生の民主化運動を理解した家族は学生を応援し、家族を巻き込んだ民主化運動は次第に学生運動から大衆運動へと発展していった。
五月革命が成功した原因のひとつに学生たちが家族の説得に成功したことをあげ、それを家族闘争と呼び、学生運動のリーダーたちは私たちに家族闘争をやるように指示したのだった。
フランスの五月革命のように大学の自治や民主化を目指した運動であったなら、私は家族の理解を得るために喜んで話していただろう。しかし、R大学の学生運動は五月革命のような民主化運動とは性格が異なっていた。
R大学の学生運動はアメリカ軍事基地撤去、ベトナム戦争反対などを掲げていたが、反戦平和運動の域に止まるものではなかった。沖縄最大の大衆運動である祖国復帰運動を批判し、民主主義国家であるアメリカを帝国主義呼ばわりし、ソ連をスターリン官僚主義と批判して反帝国主義反スターリン主義を掲げた学生運動であった。本土の学生運動と系列化していったR大学の学生運動は急速に過激になっていった。ヘルメットを被ってジクザグデモをやり、ゲバ棒で機動隊と衝突したり、火炎瓶を投げたりした。
R大学の学生運動を、古い沖縄の因習を信じている私の親が理解し、納得し、応援するのは不可能であった。民主主義社会を目指した運動であったなら私は熱心に両親を説得していたはずである。しかし、民主主義国家アメリカを帝国主義呼ばわりし、将来のプロレタリア革命を目指しているR大学の学生運動を家族に理解させるのは不可能であった。上からの指示であったが、私は「家族闘争」はやらないことに決めた。
それに、大統領や国会議員だけでなく県知事や地方議員までが国民の選挙で選ばれるアメリカや日本の民主主義国家で労働者階級が政治の実権を握るために暴力革命を起こすというのはむしろ社会が後退するのではないかという疑問が私にはあった。国民の代表である大統領や議員が国民の一部である労働者階級の暴力によって滅ぼされるのはおかしい。プロレタリア革命の後は国民の選挙が行われないとすれば民主主義国家での暴力革命は目指してはいけないのではないかと私は疑問に思っていた。民主主義とプロレタリア革命の狭間で私自身が悩める若者であったから家族闘争どころではなかった。
学生運動のリーダーたちは「親の理解を得ない限り、真の闘いとは言えない」と、フランスの五月革命を例にして、「家族闘争」をすることを指示したが、多くの学生は親の理解は得られないことを予想していたから、私と同じように「家族闘争」を避けていた。リーダーの指示を素直に受けて、「家族闘争」をやった殊勝な学生も居たが、彼らの多くは、親に説得されて学生運動から離れたり、親に勘当されたり、親子喧嘩になって家出をしたり、強引に休学をさせられて大学に来なくなったりした。
私は「家族闘争」をしないということで私なりに「家族闘争」を処理したのだが、私とMが「家族闘争」をやるように指示されたのは二年以上も前のことであった。激しく変動する時代を生きている若者にとって二年前ははるか昔である。私にとって「家族闘争」は時代遅れの四字熟語であった。「マタヨシは家族闘争をやったか」という時代遅れのMの質問に、私はあきれて、興味のない質問に答える気もなく、黙っていた。
・・・Mよ。俺は与儀公園で革靴を失って苛々しているし、久しぶりに参加した県民大会で肉体はひどく疲れている。お前と古臭い「家族闘争」の話なんかしたくないから、さっさとここから立ち去ってくれ。俺を独りにしてくれ・・・
というのが、その時の私の正直な気持ちだった。私の沈黙に、感のいい人間なら、話をしたくない私の気持ちを察知して、その場から去っていっただろう。しかし、Mは感のいい人間ではなかった。Mは私の側に座り続けた。
私がなにも言わないのでMは困惑したようだったが、質問の内容が唐突なので、私が返事をするのに苦労していると思ったのか、
「マタヨシの親はなんの仕事をしているんだ」
と、Mは私への質問の内容を変えてきた。私は予想していなかった質問に戸惑い、
「え」
と言い、Mを見た。
Mは私をではなく正面の闇を見つめていた。Mはまるで正面の暗闇と話しているようだった。Mは相手と目を合わせて話すことが苦手で、会話をする時には目を合わすことを避けて話す癖があったことを思い出した。
私は、親の話なんかやりたくないという意を込めて、
「農民だ」
と、ぶっきらぼうに言った。
「そうか、農民か」
と言った後に、Mは暫く黙っていた。Mはじっと動かないで闇を見つめていたが、
「僕の親はコザ市のゴヤで洋服店をやっている」
と、自分の親の仕事のことを話した。
「客の多くは嘉手納空軍基地のアメリカ人だ」
と言い、ため息をついた。
コザ市はアメリカ軍人や彼らの家族を客としている商売が多く、アメリカ人を客にして繁盛していた。Mの親もそのひとりだった。
Mの話に興味のない私は黙っていた。私の言葉を待っているMだったが、私がなにも言わないので、暫くすると、
「マタヨシは妹が居るか」
と訊いた。え、それで親の話は終わりかよ、と私は苦笑し、Mが話下手だったことを思い出した。演劇クラブ室でのクラブ員どうしの会話や酒宴の場での会話でMから話すことはなかった。質問されたら質問にだけ答える一問一答の対話しかMはやらなかった。Mとの対話はすぐに途絶えるのが普通だった。
Mの質問に、私は、
「居る」
と、一言の返事をした。Mは、
「そうか」
と言い、暫く黙っていたが、
「僕も妹がいる」
と闇を見つめながら言った。Mの声は暗く重かった。
「僕の妹は専門学校に通っている。来年は卒業だ」
Mは言葉を止めた。そして、
「しかし」
と言った後、ため息をつき、それから、
「僕が学生運動をしていることが世間に知れたら、妹の就職に悪い影響を与えるかもしれない」
と、また、ため息をつき、
「マタヨシの妹は仕事をしているのか」
と私に訊いた。
「している」
「どんな仕事をしているのか」
「さあ、知らない」
「知らないのか」
Mは驚いて訊き返した。私の妹はある建設会社の事務員をしていたが、妹の話をしたくない私は、「さあ、知らない」と答えた。
「弟は居るのか」
と、Mは訊いた。
「居る」
と私が答えると、
「そうか、弟も居るのか」
とMは言い、Mに弟が居るとも居ないとも言わないで、Mは黙った。暫くして、
「マタヨシの親はマタヨシが学生運動をやっているのを知っているのか」
弟ではなく親の話に変わった。
「いや、知らない」
私が言うと、
「そうか」
と言い、Mは少しの間黙ってから、
「マタヨシの親は保守系なのかそれとも革新系なのか」
と、また、質問の内容を変えた。
琉球政府の主席公選の時、貧しい私の父母は区の有力者に恩納村にある山田温泉に招待された。母は初めて行った山田温泉に喜び、有力者に感謝した。そして、有力者の指示に従い、保守系の候補者に投票した。つまり、私の父母は買収されたのだ。しかし、私の父母には買収されたという自覚はなかったし、罪悪感もなかった。私の父母は保守か革新かではなく、昔からのしきたり通りに地域の有力者に従うだけの人間であった。有力者が保守系だったから私の父母も保守系ということになる。
「保守系だ」
と、私が言うと、
「そうか、保守系か。僕の父も保守系だ」
と言った。Mは暫く黙っていたが、
「マタヨシは親に学生運動をやっていることを話すつもりはないのか」
と訊いた。私は学生運動のことは一切親には話さないと決めていたし話さなかった。それに今は学生運動から離れたのだから家族に話す必要も隠す必要もなかった。私は一年近く自治会室に行ったことはなかったし、学生集会に参加したこともなかった。だから私が学生運動から離れていることに普通なら気付くはずである。しかし、Mは私が学生運動にまだ参加していると思っているようだった。学生運動から離れていることをMに話せば、その理由を説明しなければならないだろう。それもMが納得するように説明しなければならない。それは面倒くさいので私は学生運動から離れていることをMに話さなかった。私は苦笑しながら、
「話すつもりはない」
と言うと、
「どうして話さないんだ」
と、Mは真面目な顔をして言った。私はMにあきれた。
「俺たちの政治思想を話しても、俺たちの親が理解できるはずがない」
私は両親に話さない理由を説明した。Mは、
「そうだな。そうかも知れないな」
と言い、ため息をついた。
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「1971Mの死」の添削をお願いします

「かみつく」という季刊誌を出版する決心をしました。評論、小説、それに沖縄の新聞が報道しないニュースを掲載するつもりです。ブロガーの意見も掲載します。資金がないのでプロに添削・校正を依頼するわけにはいきません。そこでみなさんに添削をお願いすることにしました。短編小説「1971Mの死」の漢字の間違いや表現がおかしいと思う箇所の指摘をお願いします。
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1971Mの死 3


Mが「家族闘争」に悩んでいることは分かったが、私はMに同情はしなかったし、家族闘争を「頑張れ」と励ます気にもならなかった。私とMは同い年であり、二人は五年次になっていた。学生としては古参である。古参であるMが「家族闘争」に悩んでいるのはむしろ滑稽に思えた。Mは真面目であり、真剣に「家族闘争」をやろうとして悩んでいるかも知れないが、「家族闘争」はすでにそれぞれの学生がそれぞれのやり方で「処理」しているはずのものであった。Mは学科委員長をやった経験もあるのだから、「家族闘争」はすでに「処理」し、解決しているのが当然であった。
「マタヨシはこれからも家族闘争をやらない積もりなのか」
とMは訊いた。
「親にどんな風に話せばいいのだ」
学生運動のことを親に理解させるのは不可能であると言う意味で私は言った積もりだったが、Mは勘違いして、
「そうなんだよな。どのように話せばいいのか、それが非常に難しいんだよな」
と言い、
「親にどのように説明すればいいか。分からなくて困っている」
と嘆いた。
親に理解させる可能性がゼロではないと信じているMに私は苦笑した。
「家族闘争」の可能性を信じているMは、真面目で純真であると言えば聞こえはいいが、親たちが沖縄の古い因習に縛られていることを認識する能力がMは欠けているのだ。私は、「家族闘争なんかできるはずがない。止めろ」とMに言いたかったが、「家族闘争」に真剣に悩んでいるMが私の忠告を素直に聞き入れるはずはない。それに私は学生運動から離れた身である。いまさら「家族闘争」という重たい問題に首を突っ込む気持ちがなかったから、私は忠告するのを止めて黙っていた。
Mは体躯がよく姿勢もよかった。座っているときも背筋をまっすぐに伸ばしていた。演劇クラブ室で車座になって酒を飲んで酔ったときも、Mは背筋をピンと伸ばしていたので、「Mはまるで軍人みたいだ」と揶揄したことがあった。Mは三年前と同じように背筋を伸ばして、真正面の闇を見つめ、身じろぎもしないで座っていた。暫くしてMは、
「マタヨシは兄さんが居るか」
と訊いた。興味のない質問だったが、
「いや、居ない」
と答えた。Mは暫く黙ってから、
「マタヨシは長男か」
と訊いた。
「ああ」
と私が答えると、Mは、
「そうか。長男か」
と言い、
「僕も長男だ」
と言った。そして、
「学生運動をしていることを父に話すと、父は確実に怒るだろう。頑固な父だから、長男である僕でも勘当するかもしれない」
と言って、ため息をついた。
「勘当されるのか」
私は訊き返した。
「されるだろうな」
と言ったMの声は沈んでいた。
 私は親に勘当されたかった。しかし、長男である私を親が勘当することはあり得ないことだった。
家に束縛されないで自由に生きたい私は、「弟は俺よりしっかりしているから、弟が家を継いだほうがいい。弟が家を継ぐなら俺は家の財産は一銭ももらわなくていい」と母親に話したことがあった。母親は私の話にすごくショックを受け、嘆き悲しんだ。母親を嘆き悲しませてまで自由になる勇気のない私は主張を引っ込めざるをえなかった。
大学を休学して、一年くらい東京に住んでみたいと私が言った時も、母親は私が東京に行ったら一生帰ってこないという被害妄想に陥り、姉に私の東京行きを引き止めるように頼んだ。九歳年上の姉に、長男としての義務と責任についてこんこんと説教された私は東京行きを断念した。
長男が仏壇と家を継ぎ、親の面倒を看るのは絶対に守らなければならないと信じている親であったから、私が学生運動をやっていると親に告白しても親が私を勘当することは絶対にあり得ないことだった。私を勘当するのではなく、私が就職できるだろうかと心配し、御先祖様に申しわけないとか、世間に白い目で見られる弟や妹の将来が心配であるとか、村の人や親戚に恥ずかしくて顔を合わすことができないなどと嘆き悲しみ、私に学生運動を止めてくれと必死に頼んだだろう。母は精神的にまいって病気になったかもしれない。だから、私は親に学生運動をやっていると告白することはできなかった。もし、私の親が気丈な人間で、Mの親のように長男であろうと勘当するのなら、私は学生運動をやっていることを喜んで親に告白していただろう。
私にとって勘当されるということは歓迎することであったから、
「勘当されればいいじゃないか。親に頼らなくても俺たちは生きていける」
とMに言った。するとMは困惑し、
「いや、それはまずい」
と言った。
「なにがまずいんだ。勘当されれば、親の束縛から解放されて、自由に生きることができていいじゃないのか」
と私が言うと、
「いや、僕は長男だし、妹が居るし・・・」
とMは言葉を濁した。
「そんなのは関係ないよ」
と、私が言うと、
「いや、僕は長男だから将来は家を継いで親の面倒を看なければならない。それに、兄として妹のことも考えてあげないとな」
Mは長男しての義務を認める言い方をした。
「家か。親の面倒か」
私は、Mに失望しながら呟いた。
私が長男の呪縛から解放されたくても解放されないジレンマに悩んでいるのに、Mは長男の呪縛を自分から受け入れていた。私は学生運動をしている学生は沖縄の古い因習を批判し、家督相続思想を否定していると思っていた。しかし、現実は違っていた。私と同じ世代であり、私と同じ長男であり、私と同じ思想の学生運動をしているMが、長男の家督相続思想を受け入れていた。隣に座っているMが沖縄の古い因習を受け入れているのを知り、私は滅入っていった。
「親を説得する方法はないのかな」
とMが言った時に、私はカーっと頭にきて、
「ない」
と、激しい口調で言った。Mは私の突き放した言葉にショックを受けたようだった。Mは黙った。私も黙った。二人の間に沈黙が続いた。頭上のガジュマルの枝葉に風が吹いている音が聞こえ、Mの重いため息が左の耳に聞こえた。
 
演劇上演ができるかどうかの不安、卒業ができるかどうかの不安、親と絶縁して自由に生きる勇気のないジレンマ、社会に出たらどのように生きていけばいいのかなどなど、私も深刻な悩みを抱えている若者の一人であった。Mが学生運動と家族愛の板ばさみに深刻に悩んでいるのを理解はしても、私は私の悩みでいっぱいいっぱいであり、自分の悩みを横に置いて、Mの悩みの相談相手になることは私には無理だった。 

Mは、私と話す言葉を探しているようだった。しかし、見つけることができないまま、沈黙の時間が二人の間に流れていった。キャンパスに、急に突風が吹いて、木々が騒ぎ出し、頭上のガジュマルの枝葉は激しく揺れた。暫くして風が止み、キャンパスが静かになった時、
「マタヨシさん」
と、私の名を呼ぶ声がした。その声は、照屋さんが帰ってきたら、私のことを照屋さんに伝えてくれるように頼んだ学生の声だった。
「こっちだ」
私は返事をした。
「照屋さんが帰ってきた。自治会室に来てほしいって」
と、学生は言った。
「そうか、分かった」
私は立ち上がり、自治会室に向かった。Mも私の後ろからついてきた。
 照屋さんは数人の学生運動家と深刻な顔で話し合っていたが、私が自治会室に入ると、私を振り向いた。
「俺の革靴は見つかったのか」
「ごめん。見つからなかったわ」
革靴が見つからなかったと聞いて私はがっかりした。照屋さんは足元に置いてあった古い運動靴を取り、
「この靴を履いて」
と言った。
「誰の靴なのか」
と私が訊くと、
「知らない。自治会室にあったわ」
と言った。照屋さんの持っている運動靴は萎びていて臭そうだった。他人の汚れた靴を履くのは気持ち悪いし、足がむず痒くなりそうだ。私は裸足で帰ることにした。
「いいよ」
と私が言うと、照屋さんは、
「裸足はいけないわ」
と言い、自治会室の奥の方からゴム草履を探してきて、
「これを履いて」
とゴム草履を私に渡した。私はゴム草履を履き、自治会室を出た。
「マタヨシ」
背後からMの声が聞こえた。振り返ると、Mが近づいてきた。
「寮に帰るのか」
Mは訊いた。私は男子寮に住んでいなかった。なぜ、Mが「寮に帰るのか」と言ったのか理解できなかった。
「俺は寮には住んでいないよ」
と私は言った。
「住んでいないのか」
「ああ」
「そうなのか」
Mはがっかりした様子だった。
「寮に行って話をしないか」
Mは私を誘った。
間借り部屋に帰り、ラーメンを食べる以外に予定はなかったが、Mと話すということは、Mが抱えている「家族闘争」について話すということである。私はMと「家族闘争」のことを話し合う気にならなかったから、
「いや。用事があるから」
と嘘をついて断った。
「そうか」
Mは残念そうであった。話を続けたそうにしているMに、
「じゃな」
と言って、私はMから離れた。
構内の中央通りを横切り、図書館の左端にある小さな下り階段に向かって歩きながら振り向くと、自治会室から漏れている蛍光灯の白い光をバックにして、Mは名残り惜しそうに立っていた。


 赤平町の間借りに帰った私はラーメンを食べ、仮眠をした後にシャワーを浴びようと男子寮に行った。私は風呂代を節約するために男子寮のシャワー室を利用していた。私が男子寮に住んでいるとMが勘違いしたのはシャワー室を利用している私を時々見かけたからかもしれない。
ハイビスカスの垣根を曲がって男子寮に入ろうとした私の足が止まった。玄関に居る数人の学生の様子が変であったからだ。寮内ではみんな軽装であるのに彼らの服装はデモをする時のような厚着であったし、あたりを見回しながら落ち着きがなく歩き回っていた。彼らは確実に寮生ではなかった。異様さに気づいた私は玄関を離れ、男子寮の裏に回った。裏から入ると見知っている学生がいたので彼から話を聞いた。彼は男子寮が襲撃されたといい、自治会の学生たちは大学構内に逃げたと話した。私は大学の自治会室に急いで行った。
自治会室に集まっている学生たちはみんな恐怖で緊張していた。彼らの様子を見れば襲撃の激しさが想像できた。知り合いの学生が私を見ると、Mが重傷を負って病院に運ばれたと言った。M以外に早稲田大学から来た学生が負傷して病院に運ばれたらしい。Mが重傷であると聞いた私はMの様子を知りたかったのでそのまま大学構内に残った。

Mが死んだ。
夜明け前に病院から帰ってきた照屋さんがそう報告した。
私はMの死を全然予想していなかった。いつまで入院するのかを照屋さんが報告するのだろうと私は予想していた。しかし、私が全然想像できなかったMの死を照屋さんは話した。私は頭が真っ白になった
「家族闘争」さえできない純朴なMが死ななければならない理由はどこにもないという妙な思いが私にはあり、Mの死が信じられなかった。しかし、Mは死んだ。すすり泣きがあちらこちらから聞こえてきた。
 
沖縄の激しい政治の季節に、R大学の学生であったがゆえに学生運動に走ったM。沖縄に生まれたがゆえに沖縄の古い因習を受け入れていたM。家族を愛していたがゆえに学生運動に参加していることを打ち明けることができないで深刻に悩んでいた純朴な若者M。
Mは、革命へ突き進もうとする学生運動に参加しながらも、古い沖縄の因習を受け入れている若者の一人であった。革命思想と古い因習を同時に内包していたM。そんな矛盾を抱えている一人の若者が革命とは関係のない争いで命を失った。
Mの死のなにもかもが沖縄が内包している矛盾そのものであるように私には思われた。
Mの死に、私は、怒りや悲しみではなく、体中がいいようのない虚無感に包まれ、「なぜ・・・なぜ・・・」と、答えを出すことができない自問を繰り返していた。

あの日から、もう、四十年が過ぎた。

トタン屋根の古い木造の演劇クラブ室で、
「女郎屋へ。くそ、女郎屋へ」
と、くそ真面目な顔で、口から唾を飛ばして叫んでいたMの顔を思い浮かべると、今でも、苦笑してしまう。

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田原総一郎に反論する


田原総一朗です。

7月5日午前、関西電力は
安全基準をクリアしたとして、
大飯原発3号機の
発電を開始した。

日本全国の原発が
停止しているなか、
昨年3月の福島原発事故以来、
定期検査で止まっていた国内の原発が
再稼働するのは
これが初めてになる。

この大飯原発の再稼働に抗議し、
原発のある、おおい町では、
役場周辺でデモ行進をするなど、
全国から集まった市民が
再稼働に抗議した。
大飯原発につながる道路は
市民グループによって封鎖された。

東京でも永田町の首相官邸前で
大規模なデモが何度も
おこなわれている。
6月29日のデモでは
主催者発表で20万人もの
人が集まった。


僕も原発はなくなったほうが
よいと思っている。
これほど危険なものはない。
3・11の福島原発の事故をみても、
とても人類が制御できるものではない、
ということは明らかである。
将来的には全廃すべきだろう。

ただ、原発再稼働は
これとは別の問題ではないだろうか。
今年の夏という
すぐ目の前の問題だからだ。

例えば関西電力が数字を出している。
もし大飯原発が再稼働しなければ、
今年の夏は、15パーセントの
節電が必要になるという。
このままでは電力が
不足することを政府も認めている。


橋下徹・大阪市長は、
原発再稼働に断固反対だった。
しかし、その橋下さんが
今夏に限って再稼働容認に転じた。
なぜか。

大阪には中小企業がたくさんある。
彼らが大阪の経済を支えていると
言ってよい。
その中小企業の経営者たちが
橋下さんにお願いしたのだ。
「再稼働をせずに夏を迎えれば
停電が起きるだろう。
停電が起きても、大企業は
自家発電機があるから大丈夫だ。
しかし自分たち中小企業は
そんな設備はとても持てない。
停電の被害をもろに被るのは
われわれなんだ」
これで橋下さんは、再稼働を
容認せざるを得なくなった。
「原発事故の危険性より、
目の前のリスクに腰が引けた」
という橋下さんの発言には、
こういう背景もあった。
だが、これをメディアは
きちんと報じていない。

先日、僕は大阪の新聞記者と話をした。
20年以上のキャリアを持つベテラン記者だ。
彼は再稼働に反対だ。
僕は彼に尋ねた。
「東京の新聞は、なぜ橋下さんが
反対から再稼働に転じたのかを、
ちゃんと報道しない。どうしてなんだ」
ベテラン記者は、大阪では
ちゃんと報じていると答えた。
東京にも記事を渡しているが、
東京本社が受け付けないのだ、と。
どういうことかというと、
地方は地方でやっていろ、
東京は別だという
意識なんだそうだ。
そして、これは
どの新聞も同じなのだ。


先ほど、東京でのデモの話をした。
この原発反対運動の中心は、
ツイッターだった。
チュニジアやエジプトで次々に革命が起き、
独裁政権が倒されていった。
ジャスミン革命である。
このとき、ツイッターや
フェイスブックが原動力になった。
マスコミは買収され、
政権の意のままの報道しか
しなかったからだ。
しかし、国民はツイッターや
フェイスブックで情報を分け合い、
互いに声をかけて、
デモがどんどん広がっていった。

これと同じ動きが
日本でも起きている。
とてもおもしろいことだと
僕は思う。
メディアが報じないことも
ツイッターで広がっていく。
さらに、ツイッターなどのネットで、
「脱原発派」と「推進・必要派」が
議論をしている。
なかには、かみ合わない
やりとりもあるだろう。
だが、続けていけば
議論は必ず深まっていくものだ。
僕は、ここに新たなジャーナリズムの
可能性を感じるのである。

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田原総一郎への反論

田原総一郎氏は「僕も原発はなくなったほうがよいと思っている。これほど危険なものはない。3・11の福島原発の事故をみても、とても人類が制御できるものではない、ということは明らかである。将来的には全廃すべきだろう」と述べている。

3・11の福島原発の事故の前に深刻な問題として問われ続けてきたのは地球の温暖化問題であった。
今年も日本は異常気象に襲われている。竜巻、豪雨、早すぎる猛暑は地球温暖化の性だと考えられる。ところが原発反対が起こると日本の異常気象に対するコメントが一切なくなった。原発反対を正義の旗印にするために地球温暖化問題は隅に追いやったのだ。
あんなに大問題にしていた地球温暖化問題に蓋をするのなら反原発を主張しやすい。しかし、地球温暖化もまったなしの問題であり目を背けることはできない。

地球温暖化問題を無視すれば原発反対は簡単に主張することができる。原発事故が起きれば広範囲の人たちが被害を受ける。処理できない核燃料棒は永遠に増え続ける。それを考えると原発はないほうがいいと考えるのが当然である。
しかし、原発問題はそんな単純な問題ではない。原発を廃止すれば化石燃料の発電所だらけになってしまい地球温暖化に拍車をかける。自然エネルギーを利用した発電はまだまだ時間がかかる。それに自然エネルギーは電気料が高い。自然エネルギーが増えれば増えるほどに産業の国際競争力が落ちる。

田原氏のようなベテランジャーナリストは日本の複雑な電気エネルギー問題を常に念頭に置いて原発問題を追及するべきであって、「「僕も原発はなくなったほうがよいと思っている。これほど危険なものはない」と単純に考えるのは避けてもらいたい。

もし、反原発運動の圧力で原発が全廃されたら、数年後には電気料金の高騰、地球温暖化問題が深刻な問題になって、原発再開運動が起こるだろう。それに原発発電所のある地帯の過疎化も深刻な問題になる。

私たちは複雑な問題を念頭に置きながら原発廃止問題を考えていかなければならない。
ところが、学者やマスコミは下記のような記事で国民の不安をあおる。
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「南海トラフ地震死者40万人、関西大教授が試算
読売新聞 7月6日(金)21時5分配信
 東海、東南海、南海地震などが同時発生する「南海トラフの巨大地震」で想定される死者数は、静岡県から高知県の太平洋沿岸を中心に最大で約40万人に上るという試算を、河田恵昭・関西大教授が6日、大阪市で開かれた講演会で明らかにした。

 河田教授は、同地震による人的被害の想定をまとめる内閣府の作業部会の代表で、8月下旬に公表される予定の被害想定の死者数も同規模になるとの見通しを示した。

 東海・東南海・南海の三連動地震(マグニチュード=M8・7)による最大の死者数に関する従来の推計は、国の中央防災会議が2003年にまとめた約2万5000人だった。東日本大震災を機に内閣府は、南海トラフで起きる地震の規模をM9・0に引き上げ、今年3月に最大震度と津波の高さの予測を公表。現在、死者数など新たな被害想定の策定も進めている。」
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学者やマスコミがおかしいのは東日本が大津波に襲われたのをきっかけにして、今までの地震予測を大幅に変更して、日本が巨大地震、巨大津波に襲われる予測を出し、明日にでも第二の東日本大震災がやってくるような話をして国民に恐怖を植え付けていることである。
過去のデータを調べれば次に大津波がやってくる確率は出せる。恐らく次に大津波に襲われるのは数百年から千年後ではないか。自然のことだから予測はできなくても過去のデータからある程度の予測はできる。
ところが日本のマスコミと学者は過去のデータから次に大津波がやってくる可能性は発表しないで、まるで明日にでも大津波や大地震がやってくるような予測を次々と発表して国民を恐怖させている。

学者やマスコミが群集の恐怖連鎖をかきたてる発表をしているために、一部の国民は大地震への恐怖、大津波への恐怖がいっそう高まり、激しい反原発運動に走っている。
原発をすべて廃止して化石燃料の発電でいいのか。地球温暖化の問題は放置していいのかを客観的なデータのもとに討論するべきであるのにマスコミも学者も恐怖をあおるだけである。

原発再開に賛成しているのは、原発が事故を起こしたら直接被害を受ける原発のある地域の人々である。原発は過疎の村人に仕事を与えて地域経済の活性化の推進役を担っているからだ。原発は都市の富を地域に還元するシステムでもあるのだ。
原発に反対しているのは原発のない都市部の人々であるが、彼らは停電や電気料金値上がりを体験していないから正義ぶることができる。停電が起こっても原発反対を主張し続けるか疑問である。

地球温暖化、地域経済、中小企業、電気料金の価格などの多くの問題を原発問題は抱えている。すべての問題を見つめながら原発問題は考えていくべきだ。

私は原発に賛成である。しかし、核燃料棒を最終処理できないから原発の数はできるだけ限定するべきだ。そして、核燃料棒を処理できないのなら将来は廃止するべきであるが、それは将来の人々の判断にゆだねる問題である。
自然エネルギーの電力化はどんどん進めるべきである。しかし、自然エネルギーは出力を調整できないので、原発で自然エネルギーの調整をすればいい。
地球温暖化を防ぐために火力発電を減らしていくのは人類の重要な課題である。3.11で福島原発が大事故を起こしたから原発反対するのは単純すぎる発想だ。


田原氏は、東京に原発反対運動のデモがツイッターの呼びかけで20万人もの人たちが集まったことを、「チュニジアやエジプトで次々に革命が起き、
独裁政権が倒されていった。ジャスミン革命である。このとき、ツイッターやフェイスブックが原動力になった」とジャスミン革命重ね合わせて高く評価しているが、それは田原氏のかいかぶりすぎだ。

ジャスミン革命は「民主化」運動であり、人間の生存をかけた戦いだった。しかし、日本はすでに民主化されている。情報は自由に報道されているし政治運動も自由にできる。ツイッターで軽い気持ちで呼びかけて、軽い気持ちで参加したのが今度の東京デモであり、お祭りのようなものだ。

「ツイッターなどのネットで、『脱原発派』と『推進・必要派』が議論をしている。なかには、かみ合わないやりとりもあるだろう。だが、続けていけば
議論は必ず深まっていくものだ。僕は、ここに新たなジャーナリズムの
可能性を感じるのである」
と田原氏は述べている。ベテランジャーナリストとしては無責任な発言である。そのまま放置していたら、大地震は起こらなくなり、大津波もやってこないと思うようになると原発問題への興味は次第にしぼんでいき、別の社会問題が起こればそっちのほうに話題が移っていって、いつの間にか反原発を話題にしなくなっていく。それが日本ツイッタージャーナリストだろう。

ジャーナリストには原発問題を一般大衆より深く観察し、一般大衆が気付かない問題を提供しして、一般大衆の考えを深めていく使命がある。

田原氏はそうあってほしい。
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