お寺さんぽ Ver.03

現在は更新をお休みしています。

「尼子経久」シリーズおまけ: 尼子氏武闘集団「新宮党」

2008年07月06日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
えー、計5回にわたってお送りさせて頂きました、「下剋上」という冠が相応しい人物「尼子経久(あまご・つねひさ)」さま。
わずか一代にて中国地方最大の守護大名・大内氏と肩を並べるほどにまで勢力を伸ばしたんですが…。
その陰には、尼子氏の武闘集団「新宮党」の存在があったのでした。

…こちらは関連あるので一応調べておいたんですが、文中で使うトコロがなかったので独立させてみました(笑)
尼子氏滅亡の要因にも数えられる、「新宮党」についてご覧くださいませ。


■尼子家系図 (※↓:子、-:兄弟、数値は家督相続者)
        
      京極高詮-1尼子高久(※以下より尼子氏)
                ↓
   詮久(出羽守)-2持久(出雲守護代)
      ↓         ↓
   近江尼子氏    3清定
                ↓
              4経久---久幸(下野守)
                ↓
    政久------国久(新宮党)--興久(塩冶氏)
     ↓          ↓
  5晴久(詮久)      誠久(新宮党)-豊久-敬久  
     ↓          ↓    
6義久-倫久-秀久  氏久(養子?)-吉久-季久-常久-勝久-通久


さて、上の家系図を参照下さいませ。
邸宅が富田城近くの新宮谷にあったことから、いつしかその一族は「新宮党(しんぐうとう)」と称されるようになりました。

新宮党を率いたのは、経久の次男「尼子国久(あまご・くにひさ)」
出雲平野に広く展開される軍事集団で、出雲国一帯にその影響力をもっていました。
父・経久を助けて、各地へ転戦。
合戦に挑めば多大な武功を立てるという、まさに尼子氏の柱石という存在だったのです。
おそらくは国久の後を継ぐこととなっただろう嫡男「尼子誠久(あまご・まさひさ)」も三千騎の兵を従える武勇の将なのでした。

彼ら新宮党は、経久の後を継いだ甥「尼子晴久」の代でも活躍。
しかし、その功からか、「傍若無人な振る舞いも少なくなかった」と伝えられています。

それがためか、求心力であった経久の死後、天文十六年(1546)頃から当主・晴久・「新宮党」の対立は激しさを増していったのです。

天文二十三年(1554年)
そしてそれから八年後。
新宮党は同族の当主晴久によって、粛清・壊滅させられるという悲劇になってしまうのでした。

一説には、「尼子誠久」は晴久の命令を受けた「大西十兵衛」、「立原備前守」ら刺客に暗殺されたのだ、と言われております。
なお、この尼子本家との対立については、
誠久が晴久に対して謀反を起こし、尼子家の乗っ取りを図っている
という「毛利元就」の仕掛けた流言・偽造文書などの謀略によって、「尼子晴久」の猜疑心を高めたとも言われております。
おっかないですね~。

それが真実かどうかは実際微妙なようですが、いかにも元就ならやりそうな感じがしますよね。ね?
悲しいかな、経久もそうした謀略戦が得意な方だったんですけれど…。

なお、「山中鹿之助幸盛」に見出され、後に秀吉に従って戦った「尼子勝久」は「新宮党」誠久の四男です。
一族粛清の際には家臣に守られ、京都市東山区は「東福寺」の僧となっていたのですが…。


[関連記事] 【豊臣政権セット】
⇒ 意外と知らない信長死後 「清洲会議」 [    
⇒ ねねさん 高台寺(京都)
⇒ 奮戦・前田利家「末森城合戦」 前編 後編
⇒ まつさん[芳春院] 前編 後編
⇒ 黒田官兵衛の失言「人生を変えた一言」
⇒ 佐和山城址(滋賀) 基本知識編 現地レポート編
⇒ 行こう!「関ヶ原古戦場・石田三成陣跡」
⇒ 石田三成墓所 三玄院 (京都) < >
⇒ 秀次切腹と石田三成 [
⇒ 松山城を築いた七本槍の加藤くん「加藤嘉明」 [    
⇒ 宇喜多秀家 < >
⇒ 文武二道・会津に適う人物 「蒲生氏郷」 [      
⇒ 二大英雄の子「結城秀康」 [   
⇒ 豊臣秀頼公首塚 清涼寺(京都)
⇒ 豊臣秀勝公菩提寺・妙法寺 (滋賀)
⇒ 真田昌幸 (長野・上田城)
⇒ 名人と呼ばれた武将「堀秀政」


 ★宜しければ応援クリックお願いします。  ⇒ 【人気blogランキング】


日本百名城~映像が物語る歴史ロマンの遺産~

シンフォレスト

このアイテムの詳細を見る

※ひでるさんはどっちかと言うと、城址の方にロマンを感じるんですが…。
 城好きな方にはこれがオススメ。