お寺さんぽ Ver.03

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朝廷勢挙兵・動揺する御家人 (承久の乱)3

2008年07月31日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
さて、いきなりですが…日本の歴史では、何度か”天下分け目”という、覇権を争う大決戦がありました。
過去より国内を支配し続けてきた朝廷。
そして、新たな武士の時代を切り開いた幕府。
それら勢力が直接対決するという、大事件があったのです。
…と、そんなこんなで、”直接対決!鎌倉幕府vs朝廷”という歴史の大事件「承久の乱」をお送りしております。

三代にして後継ぎ不在となってしまった将軍の座。
幕府は、”「後鳥羽上皇(ごとば・じょうこう)」の皇子をもらい、新将軍にしたい”と朝廷へ申し入れるのですが、いじわるにも拒否されてしまうのでした。
そう、「後鳥羽上皇」はこの事態を討幕に絶好の好機であると判断していたのです。


承久三年(1221)
「後鳥羽上皇」は鳥羽「城南寺(せいなんじ)」に「流鏑馬汰へ(やぶさめそろ・へ)」と称して、北面の武士、西面の武士という親衛隊。
さらには京都警護、ほか周辺の国々の御家人から寺院の僧兵にまで召集をかけ、兵千七百騎あまりを呼び寄せました。
そして翌日には、
1) 執権「北条義時」の追討。
2) 守護・地頭を院の配下に置く。
…などを彼らに命じたのでした。
追討対象を幕府ではなく、わざわざ執権「北条義時」としたのは、武士たちを動揺・分断させる目的があったのだと想像されます。

ついに、「後鳥羽上皇」は行動を起こしました。
西国十四カ国の武士らに院宣を下し、挙兵・追討を呼び掛けたのです!


当時、特に西国では「後鳥羽上皇」の権威というものは絶大なものがありました。
これは二百年後の南北朝時代になっても、朝廷の権威というものが武士らに大きく影響していた事実からも伺えることでしょう。
もはや自然の摂理のように、当時の人々には深くそうしたものが根付いていたのです。
そのため、京都警備であった御家人のほとんどは朝廷側へ加わってしまうのでした。
参加者には、元政所・別当(※長官みたいな意味ね)であった「大江広元」の嫡男・京都守護「大江親広(おおえの・ちかひろ)」、有力御家人「三浦義村」の弟「三浦胤義」などもおりました。

朝廷勢は、まず召集に応じなかった京都守護「伊賀光季(いが・みつすえ)」を攻めて血祭りに。
続いて親幕府派であった「西園寺公経(さいおんじ・きんつね)」父子を幽閉したのです。

鎌倉への急報は、「西園寺公経」の家司「三善長衡」が。
さらに「伊賀光季」からは上皇挙兵の報告が十九日に届けられていました。

なお、鎌倉の御家人を誘う院宣を携えた使者が到着したのはその四日後であったため、厳重に警戒していた幕府方に捕らえられてしまうのです。
なお、御家人「三浦胤義」は兄「三浦義村」が自らの考えに同調し、朝廷方へ加わると固く信じておりました。
しかし、先に幕府が報告を受けていたことで不利と判断したのか、弟・胤義からの密書を受けた義村は使者を追い返し、なんと密書を幕府に届けて恭順の意を示してしまうのです。

細かい点ですが、この前哨戦での失敗も、後々になって大きく響くこととなるのです。
幕府の実力を軽んじているのか、どうにも朝廷方にはこうしたミスが目立つんですねー。

⇒つづく。
 次回は「尼将軍「北条政子」熱弁を振るう」(4/6)

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※そんなこんなで、鎌倉幕府。
 どっちかというと、頼朝くんは好きではないんですが。 


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