波と狛のつれづれ日記

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湖西市が産んだ発明王・豊田佐吉

2017-02-15 01:12:42 | 人物伝
こんばんは、白黒茶々です。
私の地元の湖西市では先日、豊田佐吉翁の生誕150年の記念式典がおこなわれました。彼は、トヨタ自動車も含めたトヨタグループの創始者で、出身地の湖西市では「湖西音頭」や地元の小学校の校歌に出てくるほど英雄視され、慕われています。 そういうこともあって、私もいつか箔波日記で彼のことを採り挙げたいと思っていたのですけど、この生誕150年祭のタイミングでやることにしました。



地元では昨年から佐吉さんにまつわるイベントなどがおこなわれていて、このようなロゴも作られました。彼の肖像画の両脇に障子があるのは、彼の実家が建具屋だった……… というワケではないのですけど、その理由は後ほど説明させていただきます。 といったトコで、今回は湖西市内にある佐吉さんにゆかりのある場所を訪ねながら、彼の人物像を探っていくようにします。それからその案内役は、今回も箔と波に務めてもらいます。



JR鷲津駅から2,2キロほど歩いていったら、このような田園風景が広がっていました。 豊田佐吉氏は慶応3年(1867年)2月14日に、遠江国敷知郡山口村(現在の静岡県湖西市山口)に生まれました。慶応3年といえば、15代将軍徳川慶喜が大政奉還し、坂本龍馬が暗殺された年でもあります。



今でも人里離れた静かなその環境のなかに、佐吉さんの生家だった場所を活用した、豊田佐吉記念館があります。 その門を入ってすぐのところには………



彼の胸像が鎮座しております。その向かいには、小さな展示スペースがあるのですけど、先に邸内を散策させていただきます。記念館は入場無料で、建物の内部以外のところならワンコと一緒に散策できるのですよ。



そこから坂をちょっと上ったところには、納屋が。 佐吉さんが少年の頃に、父親に隠れてこちらで研究をしていたと云われています。



ハアハア………
裏山も取り入れた散策コースは起伏もあって……… 山頂部は見晴らしがいいだけでなく、桜の時季にはお花見もできるのですよ。



その山を下っていき、順路の終点には……… おお、ようやく見えてきましたね。



佐吉記念館の象徴ともいうべき、佐吉さんの生家にたどり着きました。 ちなみにこちらの建物は、平成2年(1990年)に復元されました。江戸時代後期の民家を忠実に再現しているのですけど、意外と質素ですね。



その内部には、機織りをしている母と、その様子を見守る佐吉少年の木像が。彼は貧困にあえぐ村の暮らしを見て、みんなが豊かになるのに貢献したいと思うようになりました。 その郷土愛がやがて祖国愛に変わっていくのですけど、そのためにはどうしたらいいのか?



場面は佐吉さんの生家こと豊田佐吉記念館から南に300mほどいったところにある、山口観音堂に移動します。佐吉少年は「世の中の役に立つためには、まずは勉強をしなければ!」ということで、こちらの観音堂を借りて、寺子屋仲間や村の青年を集めて、夜学会を開きました。 そして「生活を発明でより便利にしたい」という考えに至ったのですけど、そうしたら何を発明したらいいのか?
そのような中で、機(はた)を織る母親の姿を見ているうちに、まずは手機(てはた)の改良を志すことにしました。 寝食を忘れるほど研究・工夫に熱中し、数多くの失敗を繰り返していった結果………



このタイミングで、今度は記念館の展示室(展示スペース)に戻ります。 発明に取り掛かってから3年後の明治23年(1890年)に、こちらの豊田式木製人力織機を完成させたのです このとき、佐吉さんは23歳。



その後も佐吉さんは研究を続け、明治29年(1896年)には動力織機の先駆けとなる豊田式汽力織機を発明しました。



その4年後には、生家のある山口村に合資会社山口織布工場を設立。その工場には、豊田式汽力織機40台を導入して………
確かこのあたりにあるハズなのに、その工場跡がなかなか見付かりませんよ。 近くの住人に聞いても、知らないみたいですし。散策マップの案内によると、レンガ門の一部が残っているそうですけど………



必死になって探した結果、ようやくそれらしいものを見付けることができました。 「えっ、これだけ 」なんて、絶対に言ってはいけませんよ。 今となってはわずかな痕跡しか見られないのですけど、ここに佐吉さんの夢と野望が詰まっているので。ちなみにこちらの山口織布跡は、山口観音堂を南に向かっていって最初の小路を左に曲がったところにあります。



佐吉さんの発明に終わりはなく、その後も進められていきました。そのような中で、明治43年(1910年)に彼は初めて欧米に渡り、世界の技術力や設備力の状況を知りました。 それによって彼の闘志に火がつき「世界に追い付け、追い越せ」の執念のもとで活動していくことに。そして大正13年(1924年)には、こちらのG型自動織機の完成で実を結び、世界にも認められました。これによって日本の産業は発展していき、彼は発明王と呼ぶにふさわしい人物となりました。

そのような中の大正7年(1918年)に佐吉さんは上海に渡り、紡織業を視察しました。彼はそちらに工場を建設したかったのですけど、当時の両国の関係から日本企業の進出は困難だったということもあって、周囲の人々は反対しました。 すると彼は両国の親善の大切さを説くなかで、彼の枕詞ともいうべきあの名ゼリフを言ったのです。
「障子を開けてみよ、外は広いぞ」
そしてなんとか周囲を説得し、大正10年(1921年)に上海に豊田紡織廠(ぼうしょくしょう)を設立しました。



豊田佐吉記念館の第2駐車場のあたりからは、そこに至るまで200mほどの坂があります。 佐吉さんは実家に帰るときには、鷲津駅から人力車に乗っていったのですけど、いつもこのあたりで降りていました。車夫が「家の前までお送りしますよ」と言っても「村の人たちが汗水流して働いている中を平然と通ったら、バチが当たります」と答えたことから、この坂は「車返しの坂」と呼ばれるようになりました。そこからも、彼の人柄が偲ばれますね。



私たちは、湖西市吉美にある妙立寺というお寺に来ました。至徳3年(1386年)に当地の有力者の佐原常慶、内藤金平が日什上人を招いて開いたのが始まりと云われています。 永禄10年(1567年)に今川氏真によって接収され、現在地に移転。徳川家康の勢力下となってからは、徳川家の祈願所として庇護されました。こちらの門構えには、歴史の重みを感じるのですけど………



銅瓦葺きの本堂も、立派ですね。 こちらのお寺は豊田家の菩提寺でもあります。佐吉さんは「これからは自動車の時代だ」と、国産車開発の夢を息子の喜一郎氏に託し、昭和5年(1930年)に63歳で亡くなりました。やがてトヨタ自動車は、世界を牽引するほどの大企業となりました。彼のお墓はこちらのお寺にあり、私はどんなに立派なものが造られているのかと思っていたら……… ごく普通のサイズで、一般の方たちのなかに混じっていました。 事業に成功しても決して偉ぶることはなく、仰々しいことは嫌って質素を好むという、彼の性格がこの様なところにも表れていました。
近年になって、鷲津駅前に豊田佐吉翁の銅像を立てる計画があったのですけど、彼の子孫の反対があって実現しなかったのには、そのような理由があったからだと思われます。

………と、佐吉さんの生涯をたどってみて、改めて彼の功績や生き様を讃え、尊敬もしているのですけど、1つお詫びしたいことが。実は、ウチにはトヨタ車が1台もありません。 それでも、いい車を作っていると、思ってはいるのですよ。


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