こんばんは、白黒茶々です。
今月初旬の日曜日に、私が波と狛を伴って行ってきた新城・設楽方面の歴史散歩。 その第5弾となる今回が、最後となります。ということで、私たちは前回の日記の予告通りに田峯(だみね)城を訪れることになるのですけど………
そのお城は、私が五平餅に舌鼓を打った田峯直売所だけではなく、日光寺や処刑場など、田峯のあらゆる場所から眺めることができます。 実は私は田峯城の存在は以前から知っていたのですけど、実際に訪れるのはこの日が初めてだったのですよ 皆さまもその新鮮で流行る気持ちを抑えつつ、私についてきてくださいませ
………という流れで、私たちは田峯城の真ん前まで来ました。 空堀に架けられた木橋を渡ったところが、このお城の正面入口となる大手門跡であります。
このお城を防御する空間となる曲輪(くるわ)は、大手門があった北側に集中していて、無名曲輪の他にも畷(あぜ)曲輪、井戸曲輪、蔵屋敷などを仰ぎ見ることができました。
ハアハア……… 始点となった駐車場からはそんなに険しい道ではないハズなのですけど、この登りはヒザにきますよ。 そんな私とは対称的に、グイグイと上がっていく波と狛の姿は、頼もしく見えます。 それから間もなくして………
お城の最頂点となる本丸跡にたどり着きましたよ ここから先は有料ゾーンとなるのですけど、同時にワンコの立ち入りも制限されます。なので記念写真を撮ったら、波と狛にはお引き取り願います。
………とはいっても、麓の駐車場の車の中で待機していてもらうことになるので、せっかく登ってきたのに私は彼女らをそこまで連れていき、またここまで登ってこなければなりません。
私が再び田峯城に来たところで、このお城について説明させていただきます。 田峯城は文明2年(1470年)に菅沼定信によって築かれました。 中世の山城なので、石垣や天守はなかったのですけど、標高387mの山頂に土塁や空堀をめぐらせ、杮(こけら)葺きの御殿や厩(うまや)、物見台などが建てられました。 そして、それらは後世になって復元されました。
当時の様子についは、正確な資料は残っていないのですけど、中世のお城の設備はどこも似たり寄ったりだったので、あながち間違いではないでしょう。 ちなみにこちらは、田峯城では中心となる、御殿です。
こちらの建物は城主の住居や客と対面する場として用いられ、中世の武家屋敷をしのばせる書院造りの様式で再現されました。 まずはその内部に入っていきます。
御殿は木造平屋建てで、畳敷き。こちらの上段の間は格式の高い部屋で、主に対面所として使われました。 そうしたら、せっかくなので………
殿の席に座ってみました ちょっと高くて優位な場所ということもあって、テンションも上がりますよ。
御殿を見終わったら、次は厩にお邪魔しますよ こちらはその名前からもわかるのですけど、馬を飼っておく小屋であります。
しかし、馬のマネキンのようなものはなくて、田峯観音でおこなわれた大祭の写真などが飾られていました。
今度は物見台を登りますよ こちらは昔のお城にありがちな急階段を登っていくのかと思いきや、スペース的な理由からでしょうか?その上を行く木のハシゴでした。 高所恐怖症の方にはちょっとキツいかも知れませんけど、そこを登って2階の外回廊に出たら………
まわりの山々と、眼下には寒狭川の流れが、開放的に広がっていました。 やはり、戦略的にも景観的にもいいところに築かれましたね。
………と、ここまでの田峯城はのどかな流れできていて、「どこで復讐劇がおこるのかな?」と思いつつ読まれた方もいらっしゃるかと思います。 ところが、ここから話が一転するので、どうか心してついてきてくださいませ。
天正3年(1575年)5月の長篠の戦いでは、田峯城の5代目城主の菅沼定忠は家老の城所道寿とともに武田勝頼軍に従事しました。 その武田軍は織田・徳川連合軍に大敗し、その知らせは田峯城の留守居の将をしていた定忠の叔父の定直と家老の今泉道善らのもとにも入りました。
身も心も疲れきっていた定忠でしたけど、わずかな手勢となった勝頼一行を田峯城に迎え入れ、そこで休息してもらう手はずを整えていました。 ところが、留守居の定直らはそれを拒否するばかりか、勝頼らの身柄を拘束しようとまでしてきたのです ちなみにこの首謀者は、家老の道寿とされています。裏切りに遭った定忠は、勝頼らとともに命からがら武節城に逃げ込み、さらに飯田への逃避行を余儀なくされてしまいました。
「おのれ道寿、絶対に許さぬぞ 」
どん底に落ちた定直は、復讐の機会をうかがっていました。 そして翌年の天正4年(1576年)7月に田峯城に夜襲をかけて奪回 その際に定忠を含めた謀反の一族96人を惨殺し、彼らの首を城下に晒しました。
それだけでは飽き足らず、今泉道善にはより残虐な「鋸(のこぎり)引き」の刑に処したのです。 それは、生きたまま鋸で首を切るというものでした。田峯城が見えるその場所には、現在は供養塔が建てられています。もう一方の晒し首の現場となった首塚は、(私にとっては)道が険しくて近付くことができませんでした。ゴメンなさい。
血生臭い歴史を歩んだ田峯城は、それから6年後の天正10年(1582年)に、御家断絶により廃城となりました。
ローカルながらも見応えがあり、悲劇的な歴史も抱える田峯城。続々日本100名城を募ることがあったら、ぜひその中に加えてもらいたいです。