波と狛のつれづれ日記

日本スピッツ波と狛と、ときどき箔

竜ヶ岩洞の洞窟おじさん、戸田貞雄さん

2017-09-30 01:15:31 | 人物伝
こんばんは、白黒茶々です。
私・箔・波の白黒茶々家の1人と2頭による初秋の奥浜名湖散策は、今回が最終話となります。 前回の日記の最後に予告した通り、私たちは観光鍾乳洞のR洞に向かいました。
※すでに今回の日記のタイトルにも出ているので、伏せ字にする必要はないのでは?(編集部注)



ということで、やって来ましたよ 竜ヶ岩洞に。こちらは浜松市北区引佐(いなさ)町にある観光鍾乳洞で、以前から龍譚寺と並んで、奥浜名湖の人気スポットとなっております。 とはいっても、オープンしてから30年あまりと、それほど古くはないのですよ。それでも、その年月の間に鍾乳洞の入口周辺にも「これは………」というものが多数できてきたので、まずはそれらを見ていこうと思います。



屋根のある休憩スペースの脇には、古びた鉄橋と線路みたいなものが置かれています。昭和38年(1963年)に廃線になるまで、浜松市の中心部から奥山方広寺の門前までを結ぶ、総延長25,7kmにも及ぶ奥山線の軽便列車がこの地域を走っていました。 (※全面廃線は昭和39年)その遺構の一部がこちらに移されたのであります。



………とせっかく感心したのに、その隣にはなぜかメリーゴーランドの馬車みたいなものがあるのですよ。 しかも「定員4人」の注意書まで付けられていて。



さらにその一角ではミカンの皮アートに勤しむ方がいて、「おんな城主 直虎」のオープニングに出てくるような、花が咲く兜も置かれていました。



それだけではなく、砦の木柵をモチーフにした、ラブラブな撮影スポットも設けられていて。「顔出し無料」となっていますけど、カップルの2人がハートのあたりに顔を持っていくようにするのでしょうか? 箔と波はそこには届かないので、下のすき間から顔を出してくださいませ。



こちらの「ようきた洞」は、竜ヶ岩洞から流れ出る水に足を浸すところです。 今から10年前の平成19年(2007年)に完成し、以来夏場には涼むことができるようになりました。いや、冷やっこいを通り越してむしろ寒いぐらいで、できることならスイカやビールを冷やしたいです。ただし、こちらはワンコとは一緒に入れないので、ご注意くださいませ。



それから洞窟の入口の横には、竜ヶ岩洞だけにモザイカルチャーな竜があって、さらにこの竜はときおり目が赤く光って口から白いミスト状の霧を吐くのですよ カメラをお持ちの方がこの瞬間に出くわしたら、ぜひ前へお進みくださいませ。



その近くには、作業服姿でヘルメットをかぶっているおじさんの銅像があります。 その台座には「貞雄の像」と刻まれているのですけど、広島の平和記念公園にある「貞子の像」とはまったく関係はありません。 その格好からして、竜ヶ岩洞の開発に関わったことは想像できると思いますけど、地元ではそこそこ有名です。それから、今回の日記のカテゴリーが「人物伝」になっているということは……… そうです 今回はこちらの戸田貞雄さんを採り挙げさせていただきます。彼のことを掘り下げていくためにも、竜ヶ岩洞とその出口に直結している洞窟資料館に入っていきたいのですけど………



その間、ワンコは入場券売り場に頼めば、その横にあるワンコ預かり所に無料で置いていけるようになっています。 そのカギはスタッフの方が持っていてくれるので、安心して洞窟や売店を散策することができるのですよ。 それよりも、いつの間にか箔のケージが「直親の館」、波のほうは「直盛の館」となっていましたよ。とにかく私の取材が終わるまで、箔波ちゃはそこでおとなしく待っていてくださいませ。



竜ヶ岩洞の売店では、「竜ヶ岩洞物語」という漫画が販売されています。 最近増補改訂(ページ数増し)されたのですけど、価格は500円(税込)のまま据え置かれました。気になるその内容は………



戸田貞雄さんを中心とした、竜ヶ岩洞の開発記なのですけど、その中では彼の生いたちについても触れています。
貞雄さんは明治40年(1907年)10月に、静岡県引佐郡奥山村(現在の浜松市北区引佐町)に生まれました。彼が小さい頃に父親の店が倒産したこともあって、貧しい生活を余儀なくされました。昭和19年(1944年)8月には軍に召集されて中国に渡り、終戦後もしばらくはそちらで過ごしました。その後は材木業を営み、さらに58歳の頃には観光事業に携わり、奥山方広寺の門前に桜の名所としても知られている奥山公園を、その上にはキジ料理やジンギスカン鍋が食べられる山の家(きじ亭)を、そのまたさらに山の上には箔波日記にも出てきた奥山高原を、それぞれ整備しました。



その一方でその頃、現在竜ヶ岩洞がある竜ヶ石山のあたりは、殺風景な採石場の跡でした。 この状態では、戦隊ヒーローものの決闘シーンぐらいにしか使えませんよね。以前からそこには鍾乳洞があると云われていたのですけど、本格的な調査はされていませんでした。写真の左下のあたりに、それっぽい穴があるのがおわかりでしょうか?
貞雄さんはその山の一帯を買い取り、「私を育ててくれたこの地域に、恩返しをしたい」と、観光地化して客を呼び込むするためにも、洞窟の調査を始めることにしました。 それは昭和56年(1981年)6月、彼が74歳のときのことでした。



洞窟の調査は暗くてジメジメして気味が悪いということもあって、賛同してくれる人はなく、まわりにも反対され、貞雄さんは単独でやることに。 しかし1人だけでは、なかなか作業は進みませんでした。
そういえば、私は小さい頃に父から「変わり者のおじいさんが、洞窟を掘っている」という話を聞いたことがあります。



そんなある日のこと、ケービング(洞窟探検)を趣味にしている小野寺竹内という2人の青年が、竜ヶ石山の洞窟内にこっそりと潜り込み、その先で彼らは鍾乳石のある鍾乳洞を発見しました。 その帰り道で、たまたま彼らと行き会った貞雄さんは「君たち、そこで何をしているんだね?」と質問してきました。「この山の持ち主でしたか スミマセン、無断で入ってしまって 」彼らは怒られると思ったのですけど「穴の中には何かあったのかい?詳しく聞かせてくれないか」 貞雄さんは目を輝かせて食い付いてきました。それ以来、小野寺と竹内は貞雄さんとともに洞窟の調査をすることになりました。



強力な味方をつけたこともあって、狭い隙間に潜り込んだり、溜まった土砂を掻き出したり、……… と、調査は順調に進んでいきました。 さらにその後にあった新たな発見も手伝って、協力者は増えていきました。



そして、彼らは鍾乳洞の最深部で落差30mの洞内滝を発見したのです。 その頃の貞雄さんは資金繰りに困っていたのですけど、その滝を地元の銀行員に見せたら「これは観光客を呼び込める」融資がまとまりました。 そして………



調査を開始してから約2年後の昭和58年(1983年)8月8日に、竜ヶ岩洞はオープンしました。 竜ヶ石山にあるのですけど、貞雄さんは敢えて「石より岩のほうが重みがある」と、「竜ヶ岩洞」と書いても「りゅうがしどう」と読む名前にしました。
そのオープン当日、駐車場に入りきれなくなるほど観光客が押し寄せ、まわりののどかな山間部の田舎道が渋滞を起こすほどだったそうです。



それから3年後の昭和61年(1986年)9月10日、戸田貞雄さんは78年の生涯を終えました。奇しくも、私たちが竜ヶ岩洞を訪れたのは、彼の命日となるその日でした。しかし、それっぽい行事のようなものはおこなわれていませんでした。オープンから30年を過ぎ、現在竜ヶ岩洞の所長職は貞雄さんの孫が受け継いでいます。



生前の貞雄さんは、「サーチャ」という愛称で呼ばれていたみたいですね。頑張り屋のサーチャ。実は、そんな彼をより身近に感じられる肖像が、銅像の他にももう1ヶ所あるのですよ。 「顔ハメ大賞に輝く」という「日本一の顔ハメ」とは………



こちらのことにございます。 竜ヶ岩洞の開発作業に勤しむ貞雄さんと、お手伝いのお婆さんの姿を描いた、この書き割り。ヘルメットが半分出ているところも、よりリアルです。それから、それらはちょっと奥まったところにあるので、さらし者になる心配もほとんどありません。このような配慮も、日本一に起因しているのかも知れません。 そんな貞雄さんとお婆さん(妻ではない)に敬意を表して………



まずは箔に貞雄さんになりきってもらいました。顔を出した瞬間、まわりから「わぁ~、カワイイ」という声が聞こえてきたのも、嬉しいですね。



そうしたら、次は波婆さんの出番です。今回は私1人が連れてきたので、いっぺんにはできませんでした。それでも、これはけっこうハマりますよ。



あとは、売店で買ってきた地元産の引佐牛乳を使ったアイスを食べて、締めることにしましょう。 戸田貞雄さんらが開発した歴史を知ると、竜ヶ岩洞は今までとはまた違ったように見え、ありがたみも増します。こちらでは、今日に至るまでに様々なドラマがあったのですね。 「竜ヶ岩洞物語」にはそれらの話が詰まっていて、読み進めていくと、彼らの熱い思いも伝わってきます。こちらでしか扱ってないので、竜ヶ岩洞にお越しになったらぜひ1冊お求めくださいませ。


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奥山方広寺の再訪とこぼれ話

2017-09-27 01:10:43 | お出かけ
こんばんは、白黒茶々です。
前回の日記の文中でも少し触れましたけど、の白黒茶々家の1人と2頭は、井伊谷の小野政次の終焉の地をめぐったあと、同じ浜松市北区引佐町の地域でもさらに山奥にある、奥山の大本山方広寺に向かいました。私たちは2年ほど前にも同じところを訪れているのですけど、あのときは拝観時間終了間際だったので駆け足でまわり、なかには見られなかったところもありました。 なので、今回はのんびり散歩気分で境内を歩いていこうと思います。



………ということで、やって来ましたよ 奥山方広寺に。地元では、こちらのお寺は奥山半僧坊という名前でも通っています。 向こうの黒門につながる道には、門前町が続いていて、写真には撮っていないのですけど、なかには看板猫のいるお店もありました。波ちゃは、その猫に興味津々。しかし調子に乗ってまたしても構って吠えをして、その看板猫を怒らせたうえに逃げられてしまいました。猫ちゃん、ゴメンなさい。
その奥に見える拝観受け付け所に拝観料の400円(中学生以下200円、未就学児無料)を払って、いざ境内へ もちろん、ワンコも一緒に入ることができますよ。



まずは、山門の前で記念撮影をば。 こちらのお寺は、建徳2年(1371年)に後醍醐天皇の皇子の無文元選禅師によって開創された禅寺です。60ヘクタールの境内には、60余棟の伽藍が点在していて、龍譚寺大福寺摩訶耶寺初山宝林寺とともに、湖北五山に数えられる名刹でもあります。



杉の古木などが林立している参道は涼しくて、夏場のワンコとのお出かけにもオススメです。 その山中のいたるところには………



石製の羅漢様が点在していたり、場所によっては密集していたり。それらは500体ほどあることから、五百羅漢と呼ばれています。しかもじっくり見てみると、それぞれの表情が違うのですよ。



それだけではなく、こちらの石橋の上の羅漢様は、なぜか見るたびに数が変わっているのですよ パンフレットでは写真と同じ5体なのですけど、右端の新しくて小さい像が、左端になっていたり、………と、微妙に配置が変わっていました。そういえば、前回訪れたときには4体だったような……… おそらくそれらは夜になると動き出し、うっかりその姿を見てしまったら、死……… という妄想は前回やっているので「必殺・羅漢突き 」という石頭による頭突きぐらいにしておきましょう。



………という、ちょっと恐い話はこのくらいにしておいて、参道を進んでいきますよ 道にしたがって、木々の間を抜けていき、坂道を上がったところには………



大正12年(1923年)に京都の山口玄洞氏の寄進により建立された、朱塗りの三重塔があります。 そこに至るまでに上ってきた坂道を引き返していくと………



方広寺の伽藍の全景を臨むことができるのですよ 谷間に架かる赤い橋は亀背橋鐘楼の向こうの大きな建物は大本堂、その右上には上天台舎利殿が見えます。明治14年(1881年)の山火事によって、ほとんどの建物が焼失してしまったのですけど、その後順次再建されていきました。そうしたら、今からそちらに向かいますよ



まず最初に見えてきたのは、半僧坊真殿にございます。こちらの建物は、明治の大火直後に三河の工匠によって建てられた権現造りであります。



お寺の中心にあるこちらの大きな建物は、大本堂です。 明治38年(1905年)から13年もかけて建てられ、間口32m奥行27mと、東海地方屈指の規模を誇ります。 しかも、半分ほど宙に浮く形の懸造りとなっているところにも、注目していただきたいです。



さらにその中央には、山岡鉄舟が揮毫した「深奥山」の大額が掲げられています。ただし、その読み方は「ふかおくやま」ではなく「じんのうざん」で、方広寺のある奥山の山号のことを示しているのですよ。
今回はその内部も見学したいのですけど、箔と波は一緒には入れないので、外で待っていてくださいませ。



畳敷きの大本堂は、やはり広い これだけ広ければ、壁にぶつかる心配はないので、思いっきりゴロンゴロン……… って、実際にはやりませんよ。
ふと思っただけです。



見学の順路は大本堂の内部だけに留まらず、通路をつたって観音堂開山堂、さらには与謝野晶子の歌碑があるらかんの庭を経て、上天台舎利殿にまで及んでいました。
私はなぜかそれらの写真を撮らずに、その途中にあった精進料理の写真の写真だけを収めていました。 以前はこちらの精進料理は事前予約が必要で、2人以上ではないと注文できなかったのですけど、今では当日に単独で行っても、食べられるそうです。 それにしても、肉や動物性の油脂類を一切使わずに、これほど見栄えのする料理ができるなんてスゴいことです。 それから、その料理を食べる前には、必ず「食事五観」を唱えなければならないことになっています。お寺でいただく料理の意味や感謝の言葉が込められた「食事五観」。

今からン0年前の高校時代に、私はこちらのお寺で合宿をしたことがあります。 1回目は、入学した直後の宿泊訓練で。2回目は、2年生の夏に仲間たちに説得されて、仕方なく参加した勉強合宿で。しかし、お寺の体験にすっかりハマり、特に「食事五観」は率先してやる程に。 もちろん今でもハッキリと覚えていて、唱えることができるのですよ。嗚呼、次に来たときには「食事五観」と精進料理のセットを味わいたい。



箔波ちゃ、お待たせしました。今回は内部見学だけではなく、脳内でも遠くまで行ってしまったような気がします。 ちなみに写真に写っているのはそんな彼らではなく、境内では最大規模の半僧杉にございます。宿坊の円明閣の前にあるこの巨木は、高さ43mで幹まわりは5,75m。明治の大火の際には、一部の建物とともに焼け残り、お寺の御神木として今に伝わっています。



あとは、今来た道を戻っていくだけですけど、実はこのあとにもう一ヶ所寄るところがあるのですよ。 こちらからは車で5分ほどのところにある観光鍾乳洞のR洞なのですけど、
※伏せ字にする必要があるのでしょうか?(編集部注)
次回の日記では開発者の視点から、その洞窟を見ていこうと思います。



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小野但馬守政次の最期

2017-09-23 00:20:29 | 人物伝
こんばんは、白黒茶々です。
早いもので、今年は残すところ3ヶ月ちょっととなってしまいましたね。 それに伴って、大河ドラマ「おんな城主 直虎」も終盤に入っていきました。 高橋一生さん演じる小野但馬守政次は、一見悪役のようでしたけど、内に秘めたものがあって、いろんな意味で気が置けない存在でしたね。



そんな難しい役を好演した一生さんも、素晴らしいです。 そんな彼が処刑されてから、1ヶ月ほど経ちますけど、政次ロスに襲われた方は立ち直ることができたでしょうか?
………ということで、今回はと一緒に井伊谷の小野政次に関連する場所を訪ねつつ、彼がどのような人物だったのか、史実と伝承、さらにはドラマで描かれた姿などから迫ってみようと思います。 ということで、私たちは浜松市北区引佐町の井伊谷方面に向かっていったのですけど………



通り道だったので、北区細江町気賀に設けられた大河ドラマ館にも寄っていきました。 こちらでは、ドラマ内で小野政次が退場したことにより、政次ロスに見舞われた女性ファンのためにも、ロケで使われた彼の衣装や囲碁、高橋一生さん直筆の辞世の句などの「政次メモリアル」が展示されるようになりました。 ただし、ワンコを連れて入ることはできないので、私たちは外から建物を見るだけとさせていただきます。



冷やかしが済んだら、隣接地にある気賀関所に入っていき………



取り締まりもなんのその、構内をグイグイと進んでいったら………



そのまた先にある田空直虎ショップの前では、ちょうど出世大名家康くんと出世法師直虎ちゃんによるグリーティングがおこなわれていました。 「実は、最初からコレを狙っていたのでは?」ですって?………はい、正直言って一緒に写真に写りたくて、事前に彼らが活動する時間をチェックしてから来ました。



おかげで、いい感じで撮ることができましたよ。 実は私たちは、先月の上旬にも家康くんや直虎ちゃんたちと記念撮影をしていたのですけど、今回は私がいないバージョンでお願いしました。
いきなり脱線してしまいましたけど、今度こそ本当に小野政次に迫りますよ

小野但馬守政次(道好)は生年は不詳なのですけど、井伊家筆頭家老の小野和泉守政直(道高)の嫡男として生まれました。小野家は京都の貴族につながる名門で、小野小町を輩出した小野家の庶流でした。 遠江国赤狭郷小野村(現在の浜松市浜北区尾野)を領していて、井伊直宗(直虎の祖父)が井伊谷の領主だった頃に、井伊家に仕えました。



とかなんとか言っているうちに、私たちは井伊谷にたどり着きました。 ちなみにこれは、井伊谷城の中腹から龍譚寺方面を臨んだところです。
小野家は井伊家の筆頭家老とはいっても、駿府の今川家のほうにより従属していて、井伊家の様子を頻繁に報告していました。 つまり、今川家のスパイ的存在だったのです。そして小野政直の代になって、井伊家直系の直盛の一人娘・おとわと、分家の直満の嫡男・亀之丞を結婚させ、井伊家を継がせることになりました。大河ドラマでは、鶴丸(幼少期の政次)が彼らの幼なじみとして登場したのですよね。



さらに、井伊氏居館跡に行き着きましたよ。こちらは井伊谷城の麓に位置していて、井伊谷領の政務や井伊家の通常の住まいとして機能していたと思われます。
しかし政直は、亀之丞とおとわの結婚には反対。それを阻止するために、今川家の当主・義元に「直満に謀反の動きがある」と讒言(デマの報告)をしました。ドラマでは、義元役の春風亭昇太さんが白塗りの顔で、家臣らに無言で直満殺害を指示!あのシーンは大迫力でしたね。



井伊氏居館跡の片隅に、その直満と直義の兄弟の墓となる、井殿の塚があります。あの場面では、直満は直義と一緒に惨殺されたのですけど、ドラマでは直満一人だけで、ドラマのエンディングの直虎紀行でも、直義に関しては一切触れませんでした。
直満亡きあとは亀之丞の命も狙われ、彼は信州にまで逃走したのですよね。そのあと政直は病没し、政次が彼のあとを継ぐことに。しかし、政次も今川寄りということもあって、井伊家の家臣たちと対立し、常に孤立していたそうです。



私たちはこの日、奥山家にゆかりのある奥山方広寺にも行ってきました。
政次は、義理の父にあたる奥山朝利を殺害。 ドラマでは正当防衛ということになっていますけど、その裏には人間関係が複雑に入り組んでいたのかも知れません。

桶狭間の戦いの後、亀之丞は信州から帰還し、元服して直親と名を改め、井伊家を継ぎました。しかしそんな直親を、今度は政次が陥れることに。今川家の次の当主となった氏真に「直親が今川家を見限って、三河の徳川家康と内通している」と讒言したのです 氏真は「これはけしからん 」と臣下の朝比奈泰朝に、直親討伐の軍を送ることを命じました。その潔白を証明するために、直親は丸腰で駿府の今川館に向かったのですけど、その途中の掛川城下で、泰朝らによって惨殺されてしまいました。それだけでは済まず、直親の遺児の虎松まで命を狙われることに。政次、親子二代でなんてことをするんだ



この手製と思われる人形は、井伊直虎でしょうか?
虎松は、井伊家家臣の新野左馬助の助命嘆願などがあって、なんとかして命を救われ、女城主となった直虎のもとに庇護されました。 しかしその4年ほど後に、再三にわたる今川家からの要求により徳政令を受け入れ、直虎らは井伊谷を追われることに。そんな彼女らに代わって井伊谷城主となったのは、小野政次でした。彼が井伊谷を乗っ取ったという形になるのですけど、わずか34日後には徳川軍が進攻してきて、政次は逃走



その後捕らえられ、かつて処刑場があった………  あれっ?
私たちは当たりをつけて、その処刑場跡に向かったのですけど、なんか違うみたいですね。 ちなみに正しい場所は、他の所にその案内図がありました。



なんとかして、たどり着きましたよ。 政次はこちらの蟹淵(がにぶち)で磔にされ、絶命しました。彼の処刑は、石の上に座らされ、首を跳ねられたという説もあります。 永禄12年(1569年)4月7日のことでした。その処刑場跡には、地元の住民たちによって政次の供養塔が建てられたのですけど………



それらは近年の河川改修によって、そこから程近いところの現在地に移されました。 ドラマでは、政次は直虎への想いを秘め、独身を貫き通したことになっているのですけど、実際には彼には妻や2人の息子がいたのですよ。政次の死から1ヶ月後には、彼の息子2人も同じ場所で処刑され、彼らの墓や供養塔も同じところに建てられています。 私たちがいる間、高橋政次ファンと思われる女性が数人こちらを訪れ、手を合わせていきました。

記録上の小野但馬守政次は、今川寄りの父のスタンスを受け継ぎ、義理の父の奥山朝利を殺害し、井伊直親までも死に追いやり、徳政令にかこつけて井伊谷領を乗っ取り、………と、とんでもない悪人ということになっています。 しかし、高橋一生さん演じるドラマ上の政次は、それらの行動にはそれぞれに深い理由があって、実は井伊家を守るために彼一人が悪者の皮をかぶったという、いわゆる損な役となっていました。たとえ疑われても、決して言い訳や言い逃れをしなかった、高橋政次。彼がときおり見せる、憂いを帯びたどこか寂しそうな表情も、女性ファンの心をグッと掴みました。



せっかくなので、箔と波もお詣りしておきなさい。
そもそも政次のことを伝える記録も、彼にとっては仇に当たる徳川方が記したものなので、事実とは違っているのかも知れません。 「死ねばみな仏」という思想や彼の祟りを恐れたのかも知れませんけど、小野政次が井伊家にとって反乱分子の極悪人だったら、地元の住民たちによって供養塔や彼を祀る祠が建てられるようなことはなかったと思います。さらに、それらには「小野政次のものと伝わる」という冠詞が付いていて、井伊谷が徳川家の支配下になった手前、あからさまに政次の名前を出せなかったとも考えられます。

それから、政次と息子2人は処刑されてしまいましたけど、彼の弟の玄蕃の子らによって小野家は受け継がれていきました。現在、彼らの子孫は浜松市浜北区にいるそうです。

最後に「おんな城主 直虎」の第33話「嫌われ政次の一生」の高橋政次の処刑シーンを振り返らせていただきます。このタイトルは昔の映画の「嫌われ松子の一生」をパロったものですよね。 しかも「政次の一生(いっせい)」って、高橋一生さんの名前も入れるなんて、粋なこともしていますし。
※それは違うのでは。(編集部注)



処刑場で磔にされた政次(高橋一生)。彼の処刑がまさに執り行われようとしたそのとき、直虎(柴咲コウ)は槍を奪い取り、躊躇することなくそれを政次の胸に突き刺すという衝撃的な展開となりました。



「地獄に落ちろ 小野但馬」
それにしても、スゴい形相です。 さらに彼女は「日の本一の卑怯者と未来永劫語り継いでやるわ」と続け………



それに対して政次は、血を吐きつつも「おなご頼みの井伊に、未来などあるものか 地獄の底から………見届け………」
両者のやりとりは、罵り合っているようにしか聞こえませんけど、実は思っているのとは反対のことを言っていたのでした。
ドラえもんの道具のウソ800を飲んだのび太君が「うれしくない。これからまた、ずうっとドラえもんと いっしょに くらさない。」と言ったのと同じです。それでも、お互いの気持ちは通じていて、「おんな城主 直虎」のほうは究極のラブシーンとも捉えられるのですよね。



それよりも、近藤康用のマユ毛が太すぎ
三浦春馬君の井伊直親が太陽だったのに対して、高橋一生さんの小野政次は月に例えられていました。 しかし、春馬君が演じる直親が決してイマイチだったというワケではなかったのに、彼がドラマの中で殺害されても、直親ロスの動きはあまりなかったのですよね。実在の小野政次が亡くなってから450年近く経ってから、このような形で生きざまが見直されて、彼はきっと喜んでいると思います。


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竹島水族館とオオグソクムシと私

2017-09-20 01:14:46 | お出かけ
こんばんは、白黒茶々です。
前回は怪鳥や草食動物が出てきたのですけど、今回は巨大昆虫と触れ合う様子を描………



えっ、これはムシではないのですか?今回はつかみの段階で少しボケてみましたけど、すでにバレバレですよね。 はい、これはオオグソクムシ(………のぬいぐるみ)にございます。 この生物は、日本最大の等脚類(ワラジムシの仲間)であります。節足動物門甲殻亜門軟甲綱等脚目スナホリムシ科オオグソクムシ属(長い )に属していて、世界最大の等脚類であるダイオウグソクムシとはかなり近縁みたいです。海底の有機物を食べるので「海底の掃除屋」とも呼ばれています。また、海中ダンゴムシという名もあるのですけど、完全に丸くなることはできないのですよ。それから、調理して食べると、かなり美味しいみたいです。
その本物のオオグソクムシは、竹島水族館に行けば逢えるそうなので、私は久しぶりに箔母さんたつぴを伴って、そちらに向かいました。今回はワンコ不可の屋内施設がメインとなるので、申し訳ないのですけどちゃはオオグソクムシの親子(………のぬいぐるみ)と一緒に、お留守番していてくださいませ。



………ということで、やって来ましたよ 竹島水族館に。こちらの施設は愛知県蒲郡市にあり、白黒茶々家からは車で1時間もかかりませんでした。 ちなみに私たちがこちらを訪れるのは、約5年ぶりとなります。昭和37年(1962年)築の建物は古く、面積は1079㎡(東京ドーム約0,023コぶん)とかなり小規模なこともあって、客足は減っていって閉鎖寸前まで追い込まれたこともありました。 それでも、あることがきっかけとなって客が増えていき、現在では全国的にも有名な水族館となっています。 私たちは混雑を避けたいということもあって、開館時間より早くこちらに着くようにしました。この時点ではまだ人もまばらだったのですけど、オープン直後にはかなりの行列ができていましたよ。といったところで、今か
ら皆様を館内にご案内いたします。



水槽の中では淡水魚はもちろんのこと、三河湾の海水魚や深海魚などが飼育されています。 一見、普通の水族館のようですけど………



各説明板がユニークで、川や海の生き物への興味がより湧きます。 何ですか、この「………良くわかんない。それよりキレイだからよく見てね♪」という説明は?とはいっても、この手の珍説明は約5年前にもありました。 それだけでも面白いのに、その後さらにパワーアップして………



履歴書ならぬ、魚歴書なるものが加えられていました。職員が代筆したものだと思われるのですけど、職歴に「アマゾンより転勤」とか「無期限単身赴任」とあるのが、グッときます。 それよりも、「『エンゼルらしくないエンゼル』大会」なんて、いつどこで開催されたのでしょうか?



こちらのアロワナは、水が汚れるとすぐに死んでしまいますし、活き餌しか食べないので、飼育が大変です。 この魚のことを言っているのだと思うのですけど………



とにかく明るい安村さんみたいなセリフがありました。 さらに、それっぽいイラストも。



あっ、これは最近名古屋城のお堀で見つかったという、外来種のアリゲーターガーではありませんか 名前の通りで、確かに足のないワニみたいな姿をしていますね。そうしたら、掲示のほうは………



読んでいたら、なんか申し訳ない気持ちになってきました。 「名古屋城のヤツ」みたいに呼んでしまって、ゴメンなさい。 実際のガーは、水槽の中を穏やかに泳いでいましたよ。



こちらの水族館では、ウツボの水槽も魅せ場となっています。 壺が水中に吊られているので、彼らの動きが見やすいです。



それにしても、プロ野球選手みたいな職歴がたまりません。 それに「『抱かれたくない魚』5年連続1位」とか「『マフラーにしたくない生物』優秀賞」というのも、納得いきますし。



こちらには、水中マンションができていました。名付けて「竹島マンション」、いや、ハショって「たけしまんしょん」になっていますよ。 そこにも職員の遊び心が散りばめられていて、見ていて楽しいです。その中の「こさか(ピコ)」って、ピコ太郎さんのことでしょうか?ほぼ満室のこちらのマンションは、住民の魚も心地よさそうです。



こちらの魚は、私でもわかります。 鮮魚店などで売られている鰤(ブリ)ですよね。動きが速くて、うまくカメラに捉えられないのですけど………



グレートブリテン王国、カンブリア山脈、ブリ⚪ストン、ブリキアート、ブリトニー・スピアーズ、………と、これでもかというほどブリを連発していますよ。 それでも、彼らは食べると美味しい………



………と思うのは、飼育員さんも一緒みたいです。 そんな心情を、あいだみつおさんみたいな叙情詩に乗せているのがなんとも。それだけではなく、刻印が「し」ってところもグッときます。



私たちが5年近くご無沙汰している間に、カピバラが仲間入りしていました。 彼らは、カピバラショーの舞台にも立つそうですけど、私たちは今回は見逃してしまいました。



アメリカカブトガニは、厚切りジェイソンみたいなキャラクターになっていました。それにしても、彼らは腕のいいピザ職人なのですね。
それよりも、魚歴書にばかり気を取られていて、カブトガニの写真を撮るのを忘れていました。 それでも、皆さんは彼らがどのような姿をしているのかご存知ですよね?



こちらもタケスイでは魅せ場の、深海魚水槽にございます。その中でも、特に生きたタカアシガニは、迫力満点であります。 それにしても、見事にシンクロしておられる。



ウロコの固そうな魚は、マツカサウオなのですけど………



魚歴書では、マツカサ弘樹(故・松方弘樹)にすり替わってますよ。 しかも松方さんだけに、ヤクザ映画や時代劇に出演していることになっていますし。それよりも、魚が釣りのライセンスを持っているって、どういうことでしょうか?



雰囲気はガラッと変わって、こちらの水槽の底では、チンアナゴ(手前のシマシマは、ニシキアナゴ)が体半分を出して揺れていました。ときおり、その体を伸ばしたり引っ込めたりする動きも、いいですね。



そんなチンアナゴに箔母さんはすっかり魅了され、「いつまでも眺めていたい」と言っていました。 しかし、彼らは「挙動不審コンテスト5年連続1位」となっていました。私は今までチンアナゴは珍穴子だと思っていたのですけど、その名前は顔が犬の狆に似ているからとのことです。 ただし………

小学生のおともだちへ。
大きな声でチンを連呼するのはやめましょう。意味がちがいます。はずかしいし、お父さんお母さんは悲しむし、何より周りの人たちが喜びます。もう1度言います。絶対に連呼するのは、やめましょう。いけません!フリではないですよ。
(原文ママ)

………という注意書がありました。



こちらの魚は、名前を確認するのをすっかり忘れていました。 とにかく口先が長くて、このような注意書きをされると………



つい掴んでしまいたくなります。 ただし、これはあくまでも掴んだフリなので、どうかご安心くださいませ。



あと、深海から採取した生物がいても、名前がわからないということも。 しかし、調べているうちに死んでしまうことがあるので、とりあえずそのまま展示したそうです。



それだけで終わりではないのですよ。アシカプールでは、1日に3回(土日は4回)アシカショーもおこなわれているのですよ。こちらも是非、観ておきたいですね。



順路は終わりに差し掛かってきました。こちらの「さわりんぷーる」では、めったに触れ合う機会のない深海生物などを手で触ることができるのですよ その中にはなんと、オオグソクムシがいましたよ



この大きさ、この顔、この触り心地、友達にしたいぐらいです。



「まったりうむ」という一室では………



懐かしのミズカマキリタイコウチといった、かつては身近にいた水生昆虫の他にも、カエルやカメレオンなどもいて、生き物に癒される空間となったりうむ。



出口の前にある「パクパクプール」では、ウミガメボラなどに餌付けすることができるのですけど………



高いエサのほうが、食い付きがいいみたいですね。 ただし、食べ過ぎにならないように、エサの数と補充される時間は区切られています。お魚たちと仲良くしたい方は、お早めに確保しておいてくださいませ。
これほど内容が充実していて楽しいのに、入場料が500円(小中学生は200円)なんて安い さらに年間会員だったら、1250円というのですよ



………と、つい長々とご紹介してしまいましたけど、これはほんの一部です。 とにかく、竹島水族館は小規模経営であることを逆手にとって、お客さんとの敷居を低くし、スタッフが解りやすくもありウケを狙った説明書や魚歴書を製作したこともあって、それらが口コミで全国に広がって大人気の水族館となりました。 かなりネタバラシしてしまいましたけど、ご心配には及びません。説明書などは定期的に書き換えられるので、また新たなネタを見ることができるのですよ。 しかし、私たちが訪れた9月3日から今年いっぱいまで、耐震補強工事のために、休館することになっています。この日はその様子を伝えるために、地元局のメ~テレも来ていました。



そのあと、私たちは近くの竹島を眺めに行きました。 気力と時間があったら歩いて渡りたかったのですけど、今回はこの竹島水族館レポートを締める絵を撮ってヨシにしておきました。とにかく、竹島水族館はリニューアル後も、私たちを楽しませてくれると思います。来年以降は皆さんも、水の中の生物はもちろんのこと、スタッフの遊び心が散りばめられている演出も、お楽しみくださいませ


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道の駅潮見坂のヤギ祭り

2017-09-16 01:10:50 | お出かけ
こんばんは、白黒茶々です。
ここしばらくの箔波日記は、旅行記や動物園訪問など、人間の活動がメインだったこともあって、の出番はほとんどありませんでした。なので今回は、彼らの見せ場を用意しました。
………とはいっても話は、白黒茶々家から程近いところにある道の駅潮見坂で飼われているヤギのことから入らせていただきます。 以前にも触れたことがあるのですけど、その道の駅の隣接地には、ヤギの一家がいます。



私は8月下旬に、まず単独で彼らに逢いに行ってきました。ちなみに、どアップで迫っているのは、昨年11月に生まれた潮太郎君です。生後9ヶ月にもなり、かなり立派に成長しましたね。それにしてもヤギだけあって、目が横になっておられる。



さらに、行方不明のさとちゃんに代わって新たに加わった住(すみ)ちゃんとも、初めてご対面しました。 彼女はヒモに繋がれた状態で柵の外に放牧されていて、美味しそうに草を食んでいました。



道の駅潮見坂はヤギをマスコットにすることになり、そのイラストを公募しました。そうしたら、41点もの作品が集まりました。



なかには、プロ顔負けのメェ~(名)作もありますね。それらの中から、気に入ったものを投票し、最も票が多かったものが採用されるのですけど、皆さんはどのヤギを推されるでしょうか?ちなみに私は、16番に1票を投じました。



その1週間後に私は箔と波を伴って、再び道の駅潮見坂を訪れました。 話の流れからすると、まずはヤギに逢いに行くところなのですけど………



私たちは道の駅から外れ、海岸を目指すようにして潮見バイパスの下を潜っていき………



そこからすぐのところには、なんと、ダチョウが飼われているのですよ 以前は4羽ほどいたのですけど、いつの間にか1羽だけとなっていました。それでもかなり元気で、柵の中を所狭しと走り回っていました。 そういえば、波をこのダチョウと逢わせるのは、今回が初めてでしたね。果たして、両者の反応は………



ダチョウは箔波ちゃを意識したのか、羽を広げて威嚇というか挑発するようなポーズを取りました。



そんなダチョウに、波は興味津々のご様子。 一方の箔は、3年前の2月に訪れたときにはダチョウに前足ブンブンをしていたのですけど、今回は冷静で反応は薄かったです。 いちおうこれは「年寄りの落着き」とでもしておきましょうか?



それにしても、波ちゃの喰い付きはスゴいですね。 このあと、マズルが柵に入り込むほど迫っていました。しかし、柵の中に彼女を入れたら、形成は逆転するでしょう。しかし、しまいにはダチョウに対して構って吠えまでしたので、強制連行というか、撤収しました。



私たちは再び、道の駅潮見坂へ。こちらには無料の足湯があり、そこに浸かりながら潮見バイパスの車の流れや、遠州灘海岸の風景を眺めることができます。 さらにこちらでは、その日は「元気フェスタ」なるイベントをやっていて………



そのなかで、「やぎさん」のイラストの採用作品の発表がありました。最多の票を獲得したのは、29番みたいですね。その作品を描いたのは市内在住の主婦で、主催者から記念品を受け取っていました。



潮太郎と住ちゃんをモデルにした白ヤギと黒ヤギのイラスト、こちらもカワイイですね。 ちなみに2位は40番、3位は33番だったのですけど、私が入れた16番は優勝争いにも至らなかったみたいです。翌朝の新聞には、別バージョンの写真と記事が載ったのですけど、とにかくおめでとうございます。



といったところで、そろそろヤギに逢いに行くことにしましょう。 ちなみにそのヤギ舎は、道の駅を東側に降りていったところにあります。では、今から箔波ちゃを連れてそちらに向かいますよ。



お母さんヤギのしおちゃんのところには、10日前に生まれた子ヤギが2頭いました。 彼らは、潮太郎君とさとちゃんの弟妹ということになります。その姿といい仕草といい、とてもカワイイのですけど、すでに引き取り先が決まっているので、こちらで見られるのはあと2ヶ月ちょっととなります。



波の視線の先にいるのは、お父さんヤギのミッチー君です。



しかし、こちらからでは箔と波は持ち上げてあげないといけませんし、その体勢では彼らの表情も見えないので………



私たちは、柵の裏側に廻りました。ダチョウのときと同じように、波ちゃはミッチー君に釘付けです。



そんな彼女に気を遣ってくれたのでしょうか?彼はこちらに近付いてきてくれました。



うわっ、近い それにしても、角といいお髭といい、横になっている目といい、カッコいいですね。



こちらでも波ちゃは興味津々で、マズルが柵に食い込んでいます。しかし、間もなくしてミッチーは退散。そんな彼に、波ちゃはまたしても構って吠えをしだしたのです。 「これっ、吠えたらイカン 」それでも、ミッチー君はまったく動じることもなく、大人の対応をしていました。ミッチー君、あんたはエライ

近々「やぎさん」は、道の駅潮見坂の商品にステッカーや包装などで付いてくるようになると思います。皆さんもそちらに寄る機会があったら、ヤギのいる道の駅なので、ヤギ舎も覗いてみてくださいませ。 それからダチョウとも触れ逢えるので、ワンコを連れていたらその反応を見てみるのも、いいですね。 あ、それから私を呼び出していただけたら、家が近いのですぐに駆け付けますよ。


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マーラちゃん、ありがとう

2017-09-13 01:15:51 | その他
こんばんは、白黒茶々です。
季節は9月の中旬になろうとしているのに、箔波日記はまだお盆休みの話です。その前半は、私はたつぴとの二人旅に費やしたので、後半の2日は地元でのんびり過ごすつもりでいました。 そんな感じで連休中にたまった新聞をめくっていったら、このような記事が私の目に留まりました。



「マーラちゃん、死んじゃったのか………」
マーラちゃんは、白黒茶々家から最も近い動物園でもある、豊橋総合動植物公園(のんほいパーク)で平成23年(2011年)9月に生まれたアジアゾウの女の子です。しかし、親ゾウが飼育放棄したことから、飼育員に育てられました。その後は順調に育っていったのですけど、2歳のときに両前足が骨折していることが判明。それ以降、寝たきり生活に入っていきました。このような場合、一般的には安楽死をさせるのですけど、飼育員は彼女が再び歩けるようになることを信じ、リハビリを施すことにしました。それは浮力のあるプールで、彼女の歩行訓練をおこなうという、前例のないことでした。
今から約4年半前に、私は白いタヌキ目当てにのんほいパークを訪れ、そのときに初めてリハビリで頑張っているマーラちゃんのことを知りました。そのことは、当時の箔波日記でも触れています。それ以降の彼女の様子は、新聞などでたまに報じられ、私も彼女のことをしばしば気にしていました。 今でも「リハビリゾウ」で検索すれば、必ずマーラちゃんが出てくるぐらいです。それなのに、このようなことになってしまうなんて………
その日はマーラちゃんのことが頭から離れず、いてもたってもいられなくなり、急遽、園内に設けられた献花台に彼女を追悼しに行くことにしました。



………ということで、のんほいパークにやって来ました。先述した通り、私にとっては約4年半ぶりなのですけど、このような形で訪れることになるなんて、思ってもいませんでした。ちなみに、現在の時刻は14時14分。この日はナイトZOOがおこなわれることもあって、閉園時間が通常より30分も早くなっていました。行動が遅過ぎて、見学時間が2時間もありません。 しかし、いきなり本命のゾウ舎や献花台に行ったら、もしかしたら泣いてしまうかも知れないので………



まずは園内の自然史博物館前の、実物大に再現された恐竜と触れ合うことにしました。こちらのブラキオサウルスは、とにかく大きい ただでさえ見上げるほどの迫力なのに、高い土手の上に立っておられるのですよ。 これは、新幹線からの眺めを意識したみたいです。



トリケラトプスも、うまく調教できたらなぁ……… しかし、もしうっかり怒らせてしまったら、角で一突きでしょうか?それとも、丸飲みでしょうか?



その一方で、巣の中の卵を賭けて、マイアサウラと闘う私の姿もありました。 それよりも、このポーズは怪獣と対決するウルトラマンのつもりかジョワッ?



しかし、デイノニクスには一方的にやられてしまいました。 これって確か、前回訪れたときにも、同じことをやっていたような気が………



それはさておき、自然史博物館の館内の展示も見ておきました。 今回は駆け足だったのですけど、恐竜やマンモスの骨格標本などがあって、充実した内容となっていました。



のんほいパークは39,6ha(東京ドーム約8,4コぶん)の広大な敷地の中に、動物園、植物園、自然史博物館、ミニ遊園地が点在する、総合公園です。 私にとって今回目当ての動物園エリアだけでもかなり広いので、効率よく廻らなければなりません。



………ということで、まずはニホンザルのところにやって来ました。 こちらは最近リニューアルしたみたいで、サル山の上からも同じ目線レベルからも見られるようになっていました。



マンドリルも、猿ですよね。思いっきりこちらを見ているのですけど、なんか三河弁の注意書のまんま話しかけられているような気がしてきました。



リスザルは、ちょうどお食事中でした。 それにしてもこちらの注意書も、思いっきり三河弁ではありませんか とにかく、黙って食べりんよ。



ミーアキャットのお食事は、いい具合に群れていますね。



そうしているうちに、私はカバのプールに行き着きました。「情報7days ニュースキャスター」の情報によると、こちらのカバは一風変わっていて、なんと バタフライで泳ぐそうです。しかし、私の目の前ではダレたままでした。私が来るまでの間にサービスし過ぎて、疲れているのでしょうか?



ゴマフアザラシの水槽は、見やすいように改良されていました。 広い水槽を行ったり来たりしているのは、もなかちゃんでしょうか?茶々丸君と思われるこちらの子は、至近距離からこちらをじ~っと見ています。



こちらはのホッキョクグマクッキーちゃんだと思われますけど、いつもは動きで魅せてくれるのに、この時はお疲れモードでした。せめて閉園時間までもたせてくださいよ。



そして私は、ゾウ舎にたどり着きました。昔からゾウは、動物園では人気者の上位にいるのですよね。ちなみに、手前のアジアゾウはお父さんのダーナ君。体重が約5tもあって、かなり立派です。 ちなみに後方に見えるのは、お母さんのアーシャーちゃんで、恩賜上野動物園からお嫁に来たそうです。
写真には写っていないのですけど、マーラちゃんがいた一番奥のゾウ舎には、大量の花や千羽鶴が供えられているのが見えました。 彼女はほんの2日前まで、あの場所で懸命にリハビリをしていたのです。それらのゾウ舎の見学スペースの片隅に………



マーラちゃんの献花台がありました。たくさんの花に囲まれるようにして………



まだ元気だった頃の彼女の写真が、遺影として飾られていました。



それだけではなく、彼女が生まれてから飼育員とともに歩んできた軌跡も、



写真とともに綴られていました。それらからも、マーラちゃんへの深い愛情が伝わってきて、私はもう泣きそうです。



メッセージボードにも、来園者からの暖かいコメントが綴られていて………

恩賜上野動物園などから贈られた花に添えられたメッセージには………
「生まれてきてくれてありがとう。あなたのことは、いつまでも忘れないよ。」
さすがの私も、もう堪えきれませんでした。

そこにはお別れの言葉を綴るようにメッセージノートもあったので、私は「マーラちゃん、今までリハビリをよく頑張りました。天国では思いっきり走り回ってください。」と書き、その場をあとにしました。

マーラちゃんは13日の朝も、いつものように飼育員と一緒にプールでのリハビリに勤しんでいました。しかし、突然動かなくなり、プールに浮いたそうです。獣医師や飼育員たちが刺激を与えるなどして対応したのですけど、数分後に静かに息をひき取りました。その後におこなわれた解剖によって、死因は腸捻転と推測されました。腸捻転は、どの草食動物にも起こりうる病気で、決して寝たきりで腸に負担がかかっていたとか、リハビリの方法にムリがあったというワケではありませんでした。とはいっても、あまりにも急なことだったので、飼育員さんはなかなか信じられなかったそうです。それでも「空っぽのゾウ舎を見たら、もういないのだなと実感した」というコメントからも、悲しみが伝わってきました。



帰り際に、郷土の動物エリアのホンドタヌキのところに寄ってみたら、白いタヌキのコハクちゃんの姿が見えなくて、さらに彼女の名前は案内板からも消えていました。白くてマズルがとがっていて、ふわふわで……… スピッツ好きの身としては親近感があったのですけど、色素をもたないアリビノという突然変異で生まれたこともあって、弱かったのでしょうか?マーラちゃんの場合とは違って、密かに消えるのにも、寂しさを感じました。

マーラちゃんは短いゾウ生のうち、その大半は起き上がることもできなくてリハビリ生活でした。それでも、飼育員たちの愛情をたくさん受け、職員たちと遊ぶのも大好きで、そのスタッフブログには、全国から応援や励ましの声が多数寄せられたので、決して不幸だったとは思いません。いや、幸せだったに違いありません。5歳11ヶ月は短い一生だったのですけど、彼女が存在したことには深い意味があり、私もいろいろなことを教えられました。マーラちゃん、ありがとう。
しかし、1つだけお詫びしておきたいことがあります。ノートには「天国では思いっきり走り回ってください。」と書いてしまいましたけど、大重量でリハビリを続けてきたゾウにはあまりにキツいので、せめて「歩き回って」にしておけばよかったと、反省しています。


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鶴ヶ城にまつわる話(白河・会津方面二人旅その3)

2017-09-09 01:07:13 | お城
こんばんは、白黒茶々です。
前回の日記の終盤から、私とたつぴは福島県会津若松市に来ています。会津若松駅前にある駅前フジグランドホテルに1泊し、二人旅の最終日となる14日の午前中は市内観光をして、そのあとに帰路に就くことになっていました。 朝の仕度が済んだら………



ホテルに併設されているレストランで、朝食をいただくことにしましょう チェックインの際に、和食と洋食のどちらかを選ぶことができ、私たちは前者にしました。焼き魚に切り干し大根、きのこの和え物などのセットに、おかわり自由の牛乳やコーヒーといった飲み物が付いてくるなんて、嬉しいですね。 それらをガッツリ食べたら、いざ観光に参らん
………とはいっても、8時前にはまだまちなか周遊バスは出てなかったので、私たちはタクシーに乗っていきました。 前回の日記でも触れたのですけど、その運転手から白虎隊の新事実を聞かされたのですよね。 そのようにして行き着いたところは………



今回の日記のタイトルにも出ているので、すでにバレバレですよね。 そうです 鶴ヶ城(正式名称は会津若松城)にございます。
こちらのお城は、南北朝時代の14世紀末に蘆名直盛の築いた黒川館が前身とされています。 天正17年(1589年)に伊達政宗が蘆名氏を撃ち破って、この城を手に入れました。さらに、政宗と入れ代わって入城した蒲生氏郷によって大改築がおこなわれ、今日見られる天守台の上に7層の天守が築かれました。その際に地名は若松、城名は鶴ヶ城と改められました。



まだお城が開館前ということもあって、本丸内も人が少なくて静かです。
慶長3年(1598年)鶴ヶ城には上杉景勝が入ったのですけど、関ヶ原の戦いの後に米沢に転封。 その後、氏郷の子・秀行の代を経て、加藤嘉明が城主となりました。嘉明は天守を5層に改め、西出丸や北出丸を整備して、お城は今日見られる規模となりました。



廊下橋がある本丸東側の石垣は19mもあり、城内一の高さとなります。
寛永20年(1649年)には、3代将軍徳川家光の弟の保科正之が入城。次の代に松平姓に改め、以降は松平氏が代々治めました。



このあたりで復興天守の中に入りましょうか。 鶴ヶ城の天守は、昭和40年(1965年)に鉄筋コンクリート製で外観のみ復元されました。さらに、平成23年(2011年)には屋根が凍結に強い赤瓦に葺き替えられ、本来の姿により近付きました。 内部は郷土博物館となっていて、会津を治めた歴代領主の変遷、戊辰戦争や白虎隊、会津ゆかりの先人たちに関する展示がされていて………



最上階に上れば、広大な会津の景色と城下町を一望できるのですけど、私のカメラはつい復興天守の足元を向いてしまいました。 本丸跡の芝生広場には、地上からでも何かが描かれているのはわかっていたのですけど、上から見たらこうなっていたのですね。そうです、来年は会津の戊辰戦争からちょうど150年となるのですよ。



やはりこちらからも、例の白いポールの向こうに飯盛山が見えますね。
慶応4年(1868年)会津領主の松平容保は、京都守護職に就いていたこともあって、旧幕府側にいました。孝明天皇が崩御し、15代将軍徳川慶喜が大坂城から江戸城に逃亡したことなどにより、容保は後ろ楯を失いました。 ハシゴを外された形で、戊辰戦争では容保は新政府軍と戦うことに。 白虎隊などを編成し、鶴ヶ城に籠城して1ヶ月もの間持ちこたえたのですけど、降伏して開城。天守を含めたお城の建物は、明治7年(1874年)に取り壊されてしまいました。



さらに私たちの下側には、天守台から走長屋(はしりながや)が続いていて、右に折れて門となっているところが鉄門(くろがねもん)となります。そこまでは、天守と一緒に再建されたのですけど、さらに延伸している南走長屋とその先の干飯櫓(ほしいやぐら)は、平成13年(2003年)に復元されたのですよ。 20ン年前に私が訪れたときには、それらはまだなかったのですけど、この日はなぜか足場が組まれていて、本領を出しきれていない状態でした。 それでも、ここまで来たらやはり………



その内部も見ておきますよ 南走長屋と干飯櫓は、木造でかつての姿のまま復元されました。たくさんの部屋を伴った長い廊下をどんどん進んでいったら………



干飯櫓の1階部分に行き着きました。2 階部分は安全の面から非公開だったのですけど………



本物と同じ材質・同じ大きさの刀を持つ体験コーナーがありました。 これは思っていたよりもかなり重かったです。水戸黄門では「助さん、格さん、構いません。懲らしめてあげなさい」でチャンバラ場面となり「もういいでしょう」のあとに印籠をご開張!ここまではまぁいいとしても、「こちらにおわす方をどなたと心得る。畏れ多くも先の副将軍、水………」なんて長いセリフを息も切らさずに言うなんて、絶対にムリ ロロノア・ゾロの三刀流も現実的ではないのですけど、こちらは彼の鍛え上げられた強靭な肉体によるものだと信じています。



私たちは再び外に出ました。こちらの東屋ではない休憩スペースは……… 学生時代に私が初めて鶴ヶ城を訪れたときに、寝袋をかぶって野宿したところです。 しかし、翌日の早朝に猛獣に襲われる夢を見て飛び起きたら、私の目の前には散歩中のワンコがいました。



散歩中のワンコといえば……… 地元スピッツのイヴ様がこのお城をよく散歩しているみたいですけど、この日は時間帯が合わなくて、ご対面することはできませんでした。 それでも、彼女がいつも辿っていることを感じつつ、お城を散策することはできました。



それから、茶室の麟閣も見学しておきました。こちらの建物は城内にあったのですけど、明治のお城の破却の際には市内に移築。平成2年(1990年)になって再びもとの場所に復元されました。



あとは、こちらでたつぴと一緒に記念写真を撮って、今回の訪問を締めることにしましょう。
鶴ヶ城といえば、明治時代の詩人の土井晩翠が、破却後のこちらの城跡をモデルにして「荒城の月」を作詩し、その歌碑が本丸跡にあります。(※作曲は滝廉太郎)どこかうら悲しい響きがするこの曲は、お城のかつての栄華とその跡の情景を歌っています。 そういうこともあって、鶴ヶ城の時報にもその曲が流れるのですけど、たつぴは「知らない」と言うのですよ 「荒城の月」は、小中学校の音楽の授業では定番と言ってもいいほどだったのに……… 時代の移り変わりを感じてしまいました。



その日の正午には、私たちは会津若松をあとにして帰路に就きました。 会津若松市内では今回は時間が限られていて、飯盛山と鶴ヶ城しか見ることができなかったのですけど、次に訪れるときには御薬園会津武家屋敷、さらに足を伸ばして野口英世記念館などにも寄ってみたいです。 帰りは約11時間、在来線を乗り継いでいったのですけど、そのうちの小金井~熱海間の約3時間半はちょっと奮発して、グリーン車を利用しました。



その間に、郡山駅で買ってきた小原庄助弁当を食べておきましょう 「会津磐梯山」の民謡の中では、身上をつぶすほど朝寝・朝酒・朝湯が大好きな小原庄助さんはグータラ人間なのですけど、どこか憎めなくて今も昔も多くの人々に愛されている人気者です。小原庄助弁当は、そんな彼のように親しまれることを願って作られたそうです。この弁当は二段重になっていて、しめじごはん、鶏肉の酒粕味噌焼き、黄金色のえびの天ぷら、焼鮭、………などが入っていました。バラエティーに富んでいるうえにその土地の名物も入っていて、小原庄助さんを思わせるような美味しさと楽しさがありましたよ。

今回の旅は1泊3日で、東北地方の入口の白河・会津方面だけのややコンパクトな内容でしたけど、さざえ堂や喜多方ラーメンといった新たな出逢いや発見などもあって、充実した非日常を味わうことができました。
そんな長々と綴った旅日記に最後まで付き合ってくださり、ありがとうございました。


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白虎隊に「今から喜多方ラーメンを食べに行く」と誓う(白河・会津方面二人旅その2)

2017-09-06 00:54:47 | 旅行記
こんばんは、白黒茶々です。
前回から、私とたつぴは会津若松市の飯盛山に来ています。 飯盛山といえば、さざえ堂はハズせないのですけど、白虎隊のことも忘れてはいけませんよね。ということで、これから彼らの痕跡をたどっていくことにします。



会津若松駅前には隊員の銅像があるのですけど、まずはこれを見ながら白虎隊について説明させていただきます。

慶応4年(1868年)1月3日、鳥羽伏見の敗戦によって会津藩はこれまでの軍事的欠陥を悟り、3月10日に改めて軍隊の編成替えをおこないました。
そこで誕生したのが、中国の四方(東西南北)の武神の名のもとにした、玄武隊、青龍隊、朱雀隊、白虎隊の4隊でした。 それぞれの隊は年齢によって編成され、更に各隊は身分階級によって「士中」「寄合」「足軽」の3隊に分けられました。白虎隊は14~17歳の少年兵で編成され、当初は総勢343名にもなりました。 そのうち戸ノ口原十六橋に向かったのは、白虎隊士中二番隊の37名でした。しかし、明治元年(1868年)8月23日、戸ノ口原での戦いで決定的打撃を受けて潰走。そのうちの17名は、無事に鶴ヶ城(※正式名は会津若松城なのですけど、別名のこちらのほうが有名で、地元民にもそのように呼ばれているので、こちらでは『鶴ヶ城』とさせていただきます)に入城。残りの20名は負傷者を抱えながら郊外の飯盛山へと落ち延びました。



その時彼らは、猪苗代湖からの灌漑として掘られたこちらの戸ノ口堰洞穴を通ってきたと云われています。



飯盛山の中腹をさらに南の方に進んでいき、行き止まったところには、このような慰霊碑と石像があります。 ここからは………



鶴ヶ城が……… そこそこ、白いポールに重なるようにして復興天守が見えるでしょ?私は最初は「このポールはお城にかぶるから邪魔だな」と思っていたのですけど、それがあったおかげですぐにお城を見つけることができたので、見直しました。 それに、ちょっと場所を変えれば、ポールから分離した鶴ヶ城を見ることもできますし。



話はもとに戻って、先述した飯盛山に逃れてきた白虎隊の20人は、そこから見えた光景に愕然としました。「お城が燃えている………」実際には鶴ヶ城は無事で、まわりの武家屋敷などに火が回っていたのですけど、彼らは鶴ヶ城が落城して黒煙と炎に包まれたと思い込み、自分達の至らなさで会津をこんな火の海にしてしまったといち早く負けを悟り、次々と自らの命を絶っていきました。
………と、その日まで私もそうなったものだと思い込んでいたのですけど、違っていました。 翌日に乗ったタクシーの運転手さんの話から、新事実がわかったのです。 生き残った隊員の証言などによると、飯盛山に逃れてきた白虎隊の20人は、すでに行き場を失っていて精魂尽き果てたことから、鶴ヶ城が落ちていようがいまいが関係なく、お城が見えるところで自害するつもりでいたそうです。最年長でも17歳なんて、たつぴと同じ年齢じゃないですか。
彼らが自刃したところから、北側に戻っていったところには………



このような広場があります。 飯盛山の階段を登り詰めると、こちらに出るのですけど、さらにその奥には………



白虎隊士19名のお墓があります。彼らは、新政府側からしたら朝廷に叛いた逆賊という扱いを受け、その遺体を埋葬することも許されませんでした。それは、そのことを不憫に思い、秘かに弔おうとした人まで罪に問われるほど徹底していました。
それでも、明治2年(1869年)になってようやくお墓を造ることを許され、白虎隊士たちはこの場所で静かに眠っています。そんな彼らを供養するために手向けられた線香の煙が、絶えずに上がっていました。「飯盛山で20名の白虎隊士が自害したハズなのに、1人足りないのでは?」という、そこのアナタ。いいご質問です。 ここでまた飯盛山内を移動させていただきます。



場所が前後するのですけど、白虎隊士のお墓と彼らが自刃した場所の間には、飯沼貞雄の墓碑があります。飯沼貞吉(のちに貞雄に改名)は他の隊員たちと一緒に自刃したのですけど、ただ一人蘇生し、印出新蔵の妻ハツに助けられました。 その後、彼は逓信省の技師となり、仙台の地で国の通信事業に多大な貢献を果たしました。そして、昭和6年(1931年)に78年の生涯を閉じました。彼は白虎隊の唯一の生き残りで、隊のことは彼の記述などによって後の世にまで伝えられました。
戊辰戦役90年祭がおこなわれた昭和32年(1957年)に、貞雄の遺言などにより、多くの友が眠るこの地に墓碑が建てられ、彼の遺髪や歯が納められました。

私は、そんな彼らを悼んでから「今から喜多方ラーメンを食べに行く」ということを誓いました。 喜多方ラーメンの本場の喜多方市は、会津若松からは列車で30分ほどで行けるので、私はそれも旅行のコースに入れていました。



………ということで、やって来ましたよ 喜多方駅に。その駅で、老麺会に加盟している喜多方ラーメンの名店が載っている食べ歩きマップをもらい、それを頼りに私たちは市内に繰り出していきました。まずは老舗の有名店のNに行ってみましょう。そうしたら………



まだ17時台なのに、材料切れとなって閉店していました。 ま、まあ、人気店ならよくあることですし、次に行ってみましょう。



ところが、私たちが次に行き着いたHも、その近くにあるK軒も、閉まっていたのです。 まだ閉店時間になっていないというのに………
それでも、ここまで来たらあきらめるワケにはいきません 私たちはマップを頼りに、手当たりしだいにラーメン屋を訪ねていきました。



4軒、5軒、6軒、……… しかし、どのお店も早仕舞いしていて、なかなかラーメンにありつくことができませんでした。 お腹が空いて足も疲れてきたので、早くラーメンを食べたい。そのような中で………



まだ人の気配がするお店に行き着きました。今度こそ、私たちが本場の喜多方ラーメンを初めて食べることになる、記念すべき場所となりそうです まずはお店の外観を撮っておいてから、その戸を開けて……… あれ?、カギがかかっていて開かないぞ。
中から人の話し声や調理の音らしきものが聞こえるのに、入れないなんて……… こういうの、かなりの失望感に襲われるので、やめてもらえませんか?

そうしていくうちに、片付けをしているお店を見付けました。「ムリを承知で食べさせてくれ」なんてことは言いません。 せめて話だけでも聞かせてください。「もう終わっていますよね?」「すみません、終わっちゃいました」それだけならともかく「もうやっている店はないと思いますよ」私たちに追い討ちをかけるような一言を。「そ、そんな………」
これ以上探しても、徒労感と空腹感が増えるだけとなりそうなので、私たちは駅の方に引き返すことにしました。 その途中にまだやっているお店があったら、いや、そう簡単に見つかることはないでしょう。



………なんて言いながら、大通りに入る角を曲がったら、営業中ののぼりが上がっているお店がありましたよ うおおおぉ~~~、喜多方ラーメンキターーー 10軒目にして、やっと巡り逢えましたよ。
そのお店の名前は蔵美(くらよし)さんといって、ラーメンマップの案内には「『安くて旨い』と評判の店。人気の理由は、店主が時間をかけて丹精込めて作り上げたどこか懐かしくやさしい味わいにある。特にスープは、豚骨と鶏ガラ、昆布に煮干し、そのほか様々な野菜を使用し、甘みとコクのある味わいになっている。」とありました。

店内は混んでいたのですけど、私たちはなんとか座ることができ、「目前で売り切れ」なんていう事態にも遭わずに済みました。また、有名店とはいっても偉ぶることは全くなく、親切に対応してくださりました。 そのような中でしばらく待っていたら………



待望の喜多方ラーメンが来ましたよ ちなみに私はお腹が空いていたので、チャーシュー麺に小ライスを付けました。そうしたら、いっただきま~す  ずずずっ………



うむ 喜多方ラーメン特有の縮れた太うち麺に、素朴ながらも味わい深い醤油味のスープが絡んで実に美味しい 私はこれを、麺・麺・スープ・ご飯や、麺・スープ・チャーシュー・ご飯とやったりして、いろんなパターンで楽しみました。蔵美さん、美味しいラーメンをありがとうございました。おかげで心もお腹も満たすことができ、充実した気分でお店を出ることができましたよ。



私たちは再び列車に乗って、会津若松市に帰還。 写真は翌朝のものなのですけど、その駅前にある駅前フジグランドホテルが、その日の宿となりました。



2人用のそのツインルームが、1泊朝食付きで8800円(ポイント利用で8300円)と、かなり格安でした。 ホテル内に大浴場のようなものはないのですけど………



近くにある、日帰り温泉の富士の湯と提携していて、そこの入浴券も付いてきました。 こちらは通常の湯舟だけではなく、泡風呂、薬湯、壺風呂、黄金風呂、………など、種類が充実しておりました。



その風呂上がりには、入浴券に含まれている館内着を着て、コーラで乾杯 キリがいいので、今回はこのあたりで締めさせていただきます。今回の二人旅の最終話となる次回は、翌日に会津若松市内を観光した様子などをお伝えします。


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さざえ堂に至るまで(白河・会津方面二人旅その1)

2017-09-02 01:23:45 | 旅行記
こんばんは、白黒茶々です。
ここ数年は季節感がハッキリしないということが多々あるのですけど、最近になって日照時間が短くなったり、朝晩が涼しくなったり、虫の鳴き声の主が代わったり、………と、秋の訪れを感じるようになりました。 しかし、当箔波日記はその流れに反して、まだ夏真っ盛りだったお盆休みに、私がたつぴと二人で旅に行ったときの話をさせていただきます。 その夏の二人旅は毎年の恒例行事になりつつあり、これがなければ秋に突入できない ということで、どうか懲りずにお付き合いくださいませ。

今回の旅は「JRの在来線なら、5回か5人が1日乗り放題」という青春18きっぷを駆使して、東北地方の入り口の福島県の白河・会津方面を訪れることにしました。 私が過去にそちら方面に行ったのは20年以上も前のことで、たつぴは北海道や関東はあるものの、東北地方は1度も踏み入ったことがないというので、新鮮な旅となりそうですね。 ちなみに今回の予定は、連休前日となる12日(土)の夜に出発し、14日(月)の夜に帰って来るという、1泊3日の日程となります。ちなみに、その間は、箔母さんは、ニャンズたちと家に残ることに。 しかし、運命のいたずらなのか………



その土曜日の夜には「映っちゃった映像グランプリ」という、怖い心霊番組が放送されました。 心霊写真だけでもゾッとするのに、最近ではこれがリアルで不意をつかれる映像となって……… 白黒茶々家は家族全員この手の番組が好きなのですけど、箔母さんとたつぴは怖がりながら観ているみたいです。
しかし、今回はいつもとは勝手が違うのですよ。怖い映像を観たあとに、箔母さん1人を置いて私とたつぴは旅に行ってしまうのです。 「それならば、観なければいいのに」と思われる方もいるでしょうけれども、やはり気になってついチャンネルをその番組にしてしまうのですよ。 それにしても、今回もかなり納涼効果のある内容でした。そのあと、私とたつぴは旅仕度をして………



自宅から最寄りの駅まで箔母さんに送ってもらい、そこから終電に乗り込み、まずは豊橋駅に向かいました。 とはいっても、その列車に乗っている間に日付が変わったので、旅の初日となる12日はわずか数分ということになります。 そうそう、箔母さんは「その夜はニャンズたちに囲まれて寝るから、たぶん大丈夫」と言っていました。



一方の私たちは、豊橋駅からは臨時夜行快速列車のムーンライトながらに乗り換えました。 終点の東京駅には翌朝の5時ちょっと過ぎに着くので、それまで寝れるだけ寝ておきましょう。 その列車は夜行とはいっても寝台列車ではなく、座席が少しリクライニングするだけなので、馴れていないとなかなか寝付けなかったりします。それでも、私は前日は仕事が混んでいたこともあって、指定席となっていた通路側の座席に着いてからはすぐに沈みました。



そこから先のことは全く覚えてなくて、次に気が付いたときには、列車は東京駅に到着していて、他の乗客がぞろぞろと降りているところでした。 その際に、窓際の席に座っていた方、私が起きるまでなかなか出られなくて申し訳ございませんでした。
さらに私とたつぴは、上野駅に移動。 そこのホームで、宇都宮行きの始発列車が来るのを待ちました。ところが「鶯谷~上野間の線路内に人が侵入しているので、列車の運転を見合わせております」というアナウンスがあり、私たちが乗る予定の列車はなかなか姿を表しませんでした。ま、まあこのようなことはよくあることですし。 いや、進入者は早くどきなさい

ところが、5分経っても10分経ってもまったく動きはありませんでした。 しかもアナウンスのほうも「線路内で横たわっている人がいる」となっているではありませんか そんな場所で具合が悪くなったのでしょうか?いや、酔っぱらいかも知れませんね。いやいや、何かの抗議行動という可能性も。 いずれにしても、私たちはこの先の宇都宮駅で朝食を取る予定なので、その時間がなくならないようにしてくださいよ。その侵入現場は駅のホームからは見えませんでしたけど、そちら方面に向かって線路の上を警察官や鉄道整備員たちが歩いていくのは見えました。 それから間もなくして鉄道は復旧し、私たちが乗った列車は30分近く遅れて上野駅を出発しました。



そして、宇都宮駅で8時ぐらいにようやく朝の朝食モーニングにありつくことができました。 ちなみにこちらのお店は、白黒茶々家が3年前の家族旅行で日光・つくば方面に行ったときにも利用したことがありますよ。トーストにヨーグルト、スクランブルエッグ、トマトジュース、ブレンドコーヒーなどを、いっただきま~す
朝の活力を養ってから、私たちはさらに列車を乗り継いでいき………



旅の最初の目的地となる、福島県の白河駅に降り立ちました。 こちらの駅舎は大正12年(1923年)に建てられたときのままで、レトロ感ありありですね。 しかし、私たちが目指しているところはその反対側にあるのですよ。その駅のホームからもよく見えていたその名所とは………



白河小峰城のことにございます こちらのお城は東北地方では珍しい総石垣造りなのですけど………



6年前の東北大震災で損傷し、現在でも石垣の積み直しの作業がおこなわれています。



こちらの高石垣も崩れたのですけど、お城の真っ正面ということもあって、真っ先に手をつけたみたいです。崩壊前と同じ場所に同じ石を積んだのですけど、高いのに加えて幾何学的にも見える石垣が印象的です。



平成6年(1994年)に木造で復元された前御門や、同じく平成3年(1991年)建設の御三階櫓は、あの大地震に耐え抜いたみたいです。
白河小峰城は、14世紀中頃に結城親朝が小峰ヶ岡に城を構えたのが始めと云われています。その後、豊臣秀吉の配下の蒲生氏郷の領地となったりして、寛永4年(1627年)に初代白河藩主となった丹羽長重によって大改修がおこなわれ、今日見られるような規模となりました。その後、榊原、本多、松平(奥平)、松平(結城)、松平(久松)、阿部と城主が移り変わり、慶応4年(1868年)に戊辰戦争に巻き込まれ、小峰城は焼失してしまいました。ちなみに江戸時代後期に老中となり、寛政の改革を執り行った松平定信は、松平(久松)で、こちらのお城の城主でした。



せっかくなので、小峰城に到達したことを記念して、こちらで親子写真を撮っておきましょう。 それが済んだら………



御三階櫓の内部を見学しますよ このような呼び名なのですけど、この建物は実質的には天守でした。しかも、現存する図面をもとにして、木造で当時の工法で復元され………



戊辰戦争で被弾した杉の大木を材料に使っていることもあって、床板などに銃弾の穴が見られます。



急階段に、手斧で仕上げられた太い柱や梁、………入場無料なのですけど、見応えは充分です。 それから最上階は狭く、窓も小さいのですけど、見張らしは抜群でした。



こちらのお城の見学時間は2時間近く取ってあったのですけど、余ってしまいました。そうしたら、せっかくなので裏にあたる北側からも眺めておきましょう。 こちらは、広い水堀に守られております。



白河駅のホームは屋根があって風通しがいいうえに、小峰城も真っ正面に見えるので、お昼を食べるのにオススメの場所です。 そこで、私たちは買ってきたおにぎりなどを食べながら、次の列車が来るのを待ちました。
白河でのミッションを終え私たちは、再び列車に乗ってさらに先に進み、郡山からは磐越西線に乗り換えていきました。



そして、14時過ぎに会津若松駅に到着。こちらも戊辰戦争の戦場となったところで、市内にはそれに関する史跡などがあります。



その駅前からは、市内を巡回するバスが出ています。 間もなくして、時計回りに走るあかべぇが来たので、乗っていきますよ そこから6分ほどで………



飯盛山が見えてきました 白虎隊ゆかりの地でもあるこちらの山は、今回私は初めて訪れることになります。



その山の麓には、茶屋やお土産屋さんが並んでいて、さらにそこから長い階段が続いていました。その脇には、有料のスロープコンベアも設けられているので、登るのがエラいという方は、そちらをご利用くださいませ。



その階段に差し掛かるところの左手には白虎隊記念館があり、その前には隊員の酒井峰治と愛犬クマの銅像が。クマ君(ちゃん?)、思いっきり峰治君を抱き締めていますね。飯盛山といえば……… 私たちはまずはある建築物を見ておきたかったので、先ほどの階段からそれた道を歩いていきました。戸ノ口堰神社や戸ノ口堰洞穴がある場所からちょっと登ったところには………



これこれ、これですよ サザエさんも訪れたことがあるという、さざえ堂が聳え立っていました。



ちなみにさざえ堂は通称で、正式名称は旧正宗寺・円通三匝堂(きゅうしょうそうじ・えんつうさんそうどう)。皆さんはトチらずに言うことができたでしょうか? 寛政8年(1796年)に郁堂和尚が考案・建立したもので、高さは16m。六角3層なのですけど、外観からしても摩訶不思議な形をしていますね。その内部の構造は、実際に私たちが入って説明します。
まずは、券売所で入場料(大人400円、高校生300円、小中学生200円)を払い、そのまましおりとして使えるようなおしゃれな入場券を受けとります。そうしたら、お堂の中には土足のままお入りくださいませ。



入口からは上に向かって緩やかな螺旋のスロープが続いています。 それをぐるぐる回るようにして上がっていくのですけど、かつてはそのスロープに沿って西国三十三観音像が安置されていて、参拝者はこのお堂をお参りすることで三十三観音参りができるといわれていました。



そうしているうちに、頂点に到達してしまいましたよ。 そこで、たつぴに思わず出たのはこのポーズ。それにしても、かなりの数のお札が貼り付けられていますね。



あとは下に続いているスロープを降りていくだけなのですけど、上りと交わらない不思議な構造となっておりました。 ただし、このまま淡々と終わってしまってはナンなので………



途中に何ヵ所か、お堂の真ん中を抜けてワープできる通路(かなり狭いですよ)があるので、堂内が混んでいなかったらワープしまくりましょう

さざえ堂のからくりは事前に調べてあったので一応知ってはいたのですけど、実際に見学してみたらかなりインパクトありありでした。 そこを出たところでインタビューされたら、私は迷わずこのように答えます。
「さざえ堂の中には、宇宙があった」
現在は国の重要文化財に指定されているのですけど、いずれはピサの斜塔に対抗できるほどの世界遺産に認められると信じています。

飯盛山といえば、白虎隊にまつわる旧跡もあるのですけど、それらのレポートは次回の日記でさせていただきます。


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「わんわん秋祭り in 浜松」のお知らせ

2017-09-01 23:13:04 | その他
こんばんは、白黒茶々です。
浜松市南区の遠州灘海浜公園で、今年もわんわん秋祭りが開催されるのでお知らせします。



開催日  9月23日(土)24日(日)
場所   遠州灘海浜公園(石人の星公園)

会場では露店やフリーマーケットが出ています。また、ワンコのしつけ教室やビンゴゲーム、レクリエーションなどもおこなわれていて、毎年たくさんのワンコ連れで賑わっています。
ちなみに私は、24日(日)の午後に行く予定です。その日スケジュールが空いていて、ワンコ行事に参加してみたい方がいましたら、地元だけではなく遠方からもぜひお越しくださいませ。ともどもお待ちしております。


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