波と狛のつれづれ日記

日本スピッツ波と狛と、ときどき箔

大佛次郎の世界へのいざないと幻日のヌマヅ

2023-08-09 00:52:19 | 人物伝

こんばんは、白黒茶々です。

前回からの続きで、私は夏真っ盛りの7月下旬の日曜日に、横浜駅を降りていきました。 さらにみなとみらい線に乗り換え、元町・中華街駅まで行って向かった先は………

中華街などの飲食関係ではなく、港の見える丘公園でした。 こちらは有名な散策スポットで、横浜が開港した安政6年(1859年)には外国人位留置となりました。

公園の名前は、戦後間もない頃にヒットした「港が見える丘」という曲にあやかっているのですけど、港側の展望台からは………

まさにその名前の通りで、ベイブリッジ横浜港を臨むことができました。 さらにこちらからは、GUNDAM--DOCKの実物大ガンダムも見えましたよ!それらを確認したあとは、せっかくこちらまで来たので………

まずは、公園内にある横浜市イギリス館に寄っていくことにしました。 こちらの建物は横浜山手西洋館のうちの1つで、昭和12年(1937年)に英国総領事公邸として建てられました。 無料で開放されていて、1階のホールは閉め切ってコンサートをやっていたのですけど………

2階の寝室やゲストルームは見学することができました。 そうしたら………

イギリス館の近くにある山手111番館も見ていきましょう こちらのスパニッシュスタイルの洋館は、大正15年(1926年)にアメリカ人のラフィン氏の邸宅として建てられました。 敷地の段差を生かした地階部分は喫茶室となっているのですけど………

1階部分は無料で公開されていて、吹き抜け構造となっているホールなどを見ることができます。 前置きが長くなってしまいましたけど、これからいよいよこの日の本命となる場所に向かいます

………ということで、こちらも港の見える丘公園内にある、大佛(おさらぎ)次郎記念館にやって来ました 大佛次郎さん(本名・野尻清彦)は、明治30年(1897年)に横浜市英町(現在の中区英町)に生まれました。

大正から昭和にかけて活躍した作家で、鎌倉市長谷の大仏の裏に住居を構えた際に「ほんものの大仏が太郎だから、謙遜して自らは次郎とした。 おさらぎと読むのは、北条氏の一族でこの地に住むのを大仏と書いて、こう読んだから」と、自ら書いています。 鎌倉に住みながらも故郷の横浜を愛し、横浜のホテル・ニューグランドの一室を仕事場としていた時期もありました。
大正12年(1923年)の関東大震災によって、翻訳や執筆の場となっていた雑誌が廃刊となり、収入の道が閉ざされてしまいました。 その後、知り合いの編集者の言葉を頼りに講談調でまげもの(時代小説)を書いたら、大ヒット このようにして、代表作となる「鞍馬天狗」の第1作の「鬼面の老女」が生まれました。昭和48年(1973年)4月30日に亡くなったので、今年は没後50年となります。

この記念館の至るところには、ブロンズ像などの猫のアートを見ることができます。

こちらの「お手」猫も、いいですね しかも、本物の真珠のネックレスを首にかけておられる。

大佛次郎さんは、生涯に500匹以上の猫と暮らした愛猫家でした。 もちろん、妻の吾妻光酉子)さんのことも大切にしていましたけど。 彼にとっては「猫は生涯の伴侶」と語るほどの存在で、常に十数匹の猫に囲まれて生活していました。 そのような中で「猫のいる日々」というエッセイや、童話の「スイッチョねこ」を著したりしました。そして令和に入ってから、「猫のいる日々」に感銘を受けたへげかもこさんが、マンガ雑誌の「ねこぱんち」「ぼくの伴侶 猫と大佛次郎物語」という作品を連載し、それは単行本にもなりました。

へげ妻さんへげ先生)は猫の京ちゃの親元となったことがきっかけで、今でも一応ウチとの交流は続いています。 その「ぼくの伴侶………」とコラボした企画展が………

8月20日まで、大佛次郎記念館でおこなわれているのですよ 実は私はこの「おさらぎじろう展」 が見たくて、小田原城も組み込んだ今回の電車旅を計画したのでした。 どのような展示となっているのか、楽しみですね そうしたら、200円の入場料(安っ )を払って、いざ館内へ

入ってすぐのところにあるホールには、「ぼくの伴侶………」 が試し読みできるように、その第7話の全ページが掲げられていました。

私がこの作品に触れるのはこの時が初めてだったのですけど、確かにへげ妻さんのタッチで描かれていますね。

読みやすくて、一気に最後までいってしまいましたよ。 1話ぶんだけでしたけど、大佛次郎さんと酉子夫人との関係、さらには夫婦が飼っている猫との絡みがうまく描かれていました。

企画展の冒頭には、「ぼくの伴侶………」が紹介されていました。確かに、優しいタッチで描かれています。

カラーのイラストも、いい感じですね。

次郎さんと酉子さんは、結婚後まもなくして鎌倉に移り住みました。 さらにそこでは猫との生活も始まるのですけど、当初酉子さんは猫ギライだったなんて驚きですね。 その理由や猫好きに転じるまでのいきさつは、漫画にも描かれています。

その鎌倉市の雪ノ下には、次郎さんが新たに建てた野尻邸旧大佛次郎茶亭)があるのですけど、現在は非公開となっているみたいです。 その様子は「ぼくの伴侶………」にも描かれて、記念館では映像で紹介されていました。

さらに、次郎さんの代表作でもある「霧笛」に関する展示も、漫画と合わせてなされていました。

あと、次郎さんの仕事場となる書斎も再現されていました。 たくさんの書類はもちろんのこと、猫グッズも散りばめられていますね。 それに加えて、あちこちに生身の猫もいたと思われます。
これまで私は、大佛次郎さんのことは名前はなんとなく聞いたことがある程度で、どのような人物なのかは知りませんでした。 それがへげ先生が漫画化してくださったおかげで、その世界に入り込むことができました。 今回の企画展も、充実していましたし。私は記念館の思惑通りに、「ぼくの伴侶………」のうちの1巻をお土産に買って帰りました。 しかし、入り込みやすさと読みやすさが手伝って、帰りの列車の中で一気読みしてしまいました。 そんな私が三島駅を通りかかった際に………

伊豆箱根鉄道のラッピング電車が見えたので、乗っていた列車を降りて写真を撮りました。 これは、現在放送中&配信中のアニメ「幻日のヨハネ -SUNSHINE in the MIRROR-」にあやかったものです。
沼津を舞台にしたスクールアイドルの物語の「ラブライブ! サンシャイン!!」のスピンオフで、こちらは異世界のようなヌマヅが活躍の拠点となります。 また「歌と魔法と絆の物語」を謳っています。主要メンバーは「ラブライブ! ………」に則っているのですけど、ルビィは妖精、ダイヤは執務長官、マリは魔王の末裔となっています。

こちらの車両には、老舗旅館の看板娘のチカ、メッセンジャー(配達員)のヨウ、メカニックのカナンの姿が

さらに真ん中の車両には、動物学者のリコ、主人公の津島善子ならぬヨハネ、お菓子屋のハナマルが描かれています。

ちなみにヨハネの隣にいる大型の狼獣は、ライラプスといいます。 ヨハネと一緒に暮らす相棒なのですけど、この大きなもふもふにはつい惹き付けられてしまいます。 しかしそれと同時に、あそこまで大きいとトリミングが大変そうとか、散歩中に排泄したら処理しきれるのか、………とか考えてしまいました。 そのことを後で箔母さんに相談したら「マンガの世界では、排泄という行為はない」と言っていて、妙に納得しました。 そうしたら、シャンプーやブラッシングをしなくても、毛はキレイに保たれているという理屈も成り立ちます。 とかなんとか言っているうちに「幻日のヨハネ」電車が出発していってしまったので、この日の最終目的地に向かうことにしましょう。

………ということで、三島の1つ先となる沼津駅にやって来ました

ちなみに「幻日のヨハネ」のヌマヅは、このような表記となっています。 ローマ字や漢字の一部がなんとなく読めるところがいいですね

沼津は「ラブライブ! 」の聖地ということもあって、駅の構内の段階からそのキャラクターが散りばめられています。

北口を出てすぐのところでは、車掌に扮した国木田花丸津島善子高海千歌が出迎えてくれますし。

さらにその駅からは、「ラブライブ! 」のラッピングバスが出発するところでした。 私が朝のまだ体力がある段階だったら、追いかけていました。

駅前のラブライブカフェには、「幻日のヨハネ」の広告が大々的に掲げられていました。

そのまま私は仲見世商店街へ。 こちらにも「幻日のヨハネ」があって、地元のテンションの高さがうかがえます。

その足元には、カラーで描かれた「ラブライブ! 」のキャラクターのマンホールがありました。 こちらは時期によって変わるみたいで、この日は3年生の黒澤ダイヤ松浦果南小原鞠莉となっていました。

やはりスピッツクラブの展覧会に行くついでがなくなってから、沼津に来る機会も激減しました。 それでも、たまにはこちらで「ラブライブ! 」の風を感じておきたいので、ついでではなくても訪れるようにしたいです。 それから、「幻日のヨハネ」がこれからどのように展開していくのかも、楽しみにしています。



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家康の初めての側室・西郡局の行方

2023-04-05 02:26:02 | 人物伝

こんばんは、白黒茶々です。

大河ドラマ「どうする家康」はいよいよドラマの舞台が浜松に移り、また新たな展開になりそうです。 その1歩手前の話なのですけど、3月12日に放送された第10話の「側室をどうする 」には、松平家康にとって初めての側室となるお葉こと西郡局(にしのこおりのつぼね、西郡の方とも)が出てきました。

北香那さんが演じる西郡局はとても個性的で、私は彼女にはドラマのレギュラーになってもらいたいと思ってしまいました。 その西郡局が、私のいる湖西市とゆかりがあるというのですよ これは是非、探究しなければ

………という勢いで、やって来ましたよ 湖西市内にある本興寺に。 こちらは14世紀後期に開山した古刹で、市内随一の観光名所となっています。

桜の名所にもなっているのですけど、私たちが訪れた頃はまだちらほら咲いている程度でした。

その境内の案内図を見たら、奥のほうに「西郡局供養塔」なるものが描かれていました。 それにしても、案内がかなりざっくりしているような。

それはさておき、その最深部を目指して参道を歩いていきましょう その両側にある塔頭(大寺院の敷地内にある小寺院や別坊)を仰ぎながら進んでいったら………

巨木の向こうに本堂が見えてきました。 このあたりの風景は厳かで、特に早朝は静寂に包まれていて、私は好きです。

その手前には、北原白秋さん歌碑がありました。 彼は昭和7年(1932年)に鷲津の観潮楼に滞在したときに、閑静な本興寺のたたずまいに心引かれ、数多くの歌を残しています。 「水の音 ただにひとつぞ きこえける」や「そのほかは なにも申す ことなし」という作品もそのときのものです。

そして私たちは、本堂の前に至りました。 本興寺は南北朝時代の弘和3年・永徳3年(1383年)に日乗によって開山されました。 西郡局の祖父の鵜殿長持の尽力によって天文21年(1552年)に建立された本堂は、国指定重要文化財。 4年前には、茅の屋根が葺き換えられました。

湖西市のあたりは、今川家と松平家(のちの徳川家)の勢力争いの最前線だったところでした。 今川家の配下の鵜殿一族は、本興寺の住職に導かれて法華宗の信者となり、さらに9代日礼から12代日翁に至るまで、その一族から住職を輩出しました。 「どうする家康」にも出てきた通り、鵜殿氏の本家は松平家康による上ノ郷城攻めによって滅ぼされたのですけど、分家は徳川方に付き、一族は生き残りました。

こちらの客殿は、安永2年(1773年)に再建されたものです。 かつては茅葺きだったのですけど、現在は銅板葺きに改められています。 その客殿の向こうに………

西郡局の供養塔の説明書きがありました。 しかし、すぐ近くにそれらしいものは見当たりません。

その向かいにある立派な墓塔が、それに該当するのでしょうか? 私たちはこちらに手を合わせてから、本興寺をあとに……… しかけたのですけど、どうしてもモヤモヤ感をぬぐい去ることができなかったので、境内を再調査することにしました。
そこでアタリをつけて、墓地の奥の方まで入っていったら………

私のイメージと合致する石塔がありましたよ まさに墓地の最深部で、境内の端っこでした。 「屋根の色や建物の配置が見事に一致 (ポツンと一軒家は)ここで間違いない」の心境です。 西郡局の供養塔の説明書きが墓地の入口にあったのは、その領域内にあることを示していたのかも知れませんね。

………ということで、改めてお参りしました。 西郡局は、鵜殿長忠の娘として生まれました。 のちに松平家康の側室となり、彼との間に、女子1人を産みました。その子は督姫(とくひめ)と名付けられ、最初は小田原城の北条氏直に、次いで姫路城の池田輝政の正室となりました。 信心深い督姫は、姫路にも本興寺と同じ法華宗の寺院を建て、布教に努めました。 一方の西郡局は「どうする家康」では、自らが同性愛者であることを家康に告白して離縁を求め、ドラマからは1話だけで退場してしまいました。 督姫を出産したあとの西郡局の行方に関しては諸説あるとは思うのですけど、その後も家康に付き従っていたみたいです。 しかし、慶長11年(1606年)に伏見城中で急死してしまいました。 督姫は京都、姫路と本興寺の3ヶ所に母・西郡局のお墓を作り、手厚く弔りました。 そのうちの本興寺は鵜殿家と深い関わりがあり、その頃の住職は西郡局の弟の日梅だったということもあって、遺品を納めてお墓ともいうべき供養塔が建てられたのでした。

その本興寺は桜の名所でもあり、一部の早咲きの桜が開花していました。 それらを仰ぎ見てから、私たちはそこから近いといえなくもないところにある………

BONZO COFFEE(ボンゾコーヒー)さんに向かいました。 こちらでの目的は……… もちろん、モーニングですよ しかし、開店から間もない時間に行ったら混んでいて、車1台を止めるスペースが辛うじて空いている状態でした。

朝の時間帯には、ドリンク代だけでモーニングサービスを受けられるのは、嬉しいですね 実は私は2年ほど前にもこちらに来たことがあって、ずっと次の機会を狙っていました。 そして、今回私が注文したのは………

マイルドで優しい味わいで、豊潤な香りも楽しめるやわらかブレンド(480円)にしました。 さらに小倉あん(50円)をチョイス それらを厚切りトーストゆで玉子サラダと組み合わせたりして、美味しくいただきました。 原材料費が高騰し、卵も貴重品となったご時世なのに、BONZO COFFEEさんは前と変わらない値段で、量を減らすようなこともしていませんでした。なので、私は申し訳なさと有り難さをより感じました。
この日の私のスケジュールは、欲張ったというか過密ぎみとなっていました。モーニングを済ませた後は、湖西市内のスーパーで買い出しをしてから、今度は豊橋市にある中京テレビハウジング豊橋南に走りました。 家を建て替える計画や予定はないのですけど、そちらに向かった理由は次回の日記で明かします。



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「我こそは徳川家康なり!」と名乗った夏目吉信

2023-01-18 00:56:13 | 人物伝

こんばんは、白黒茶々です。

大河ドラマの「どうする家康」が始まりましたね その記念すべき第1話が放送された1月8日には、浜松城の大河ドラマ館前の浜松出世パークに徳川家康役の松本潤さん本多忠勝役の山田裕貴さん榊原康政役の杉野遥亮さんらを招いて、出陣式がおこなわれました。 私はその観覧の抽選にはハズれてしまったのですけど、ドラマのほうで見守るようにします。 また、昨年最後の波狛日記で誓ったように、今年は「どうする家康」にあやかった名所旧跡めぐりもするつもりです。 その第1弾というか、今年最初の人物伝として、今回は夏目吉信を採り挙げさせていただきます。

夏目次郎左衛門吉信は、永正14年(1517年)に夏目吉久の子として三河国幡豆郡豊坂村(現在の愛知県額田郡幸田町)で生まれました。 彼の肖像画はなかなかなくて、戦国武将カードみたいなヤツとなってしまいましたけど、勇ましくてカッコいいですね 夏目家は代々、徳川家康の先祖となる松平家に仕える家柄で、吉信も松平元康(のちの徳川家康)に付き従いました。

吉信は、永禄4年(1561年)の長沢城(豊川市)攻めで軍功を上げたのですけど、翌年に板倉重定が守る八幡村城を攻めた際には、今川氏の攻撃で元康方が総崩れに。 そこで吉信は殿(しんがり)を務め、国府まで退却する間に6度踏み止まり、奮戦したと云われています。 後に家康からその時の軍労を賞され、備前長光作の脇差を賜りました。
これは4年半ほど前に、と訪れた三河国分寺跡の画像なのですけど、このあたりに八幡村城があったそうです。

ところが、そのまた翌年の永禄6年(1563年)に起こった三河一向一揆では、吉信は家康から寝返って一揆側に加担したのです 吉信は主君への忠誠より、信仰する一向宗を選んでしまったのですね。 さらに、彼と同じように家康から離反する家臣が続出し、家康は三河が分裂する危機に遭ってしまいました。 この三河一向一揆は、「家康の3大危機」に数えられるほどの出来事となったのですけど、どうする家康
ちなみにこちらの画像は、昨秋に私たちが訪れた岡崎城です。

その後、家康軍の攻撃で一揆側は劣勢となり、ある寺(野羽城六栗城という説も)に籠城していた吉信らは、松平伊忠(これただ)隊に不意に攻め寄せられました。 木戸を突破された後、彼らは金蔵に隠れたのですけど、すぐに包囲されてしまいました。 もはや逃げ道もなく、万事休す

 一方の松平伊忠は攻撃する準備をしつつ、家康の命令が来るのを待っていました。 そうしているうちに届いた指令は「そんな状態で殺(あや)めるなんて、籠の中の鳥を殺すようなもの。もう、助けてやれ」というものでした。 主君がそう言うからには、従うしかありません。 伊忠は兵を退き、その場を立ち去りました。
一度裏切った者にも活路を開いてあげるとは、なんて寛大なのでしょうか 私は家康公のそのようなところが好きです。 吉信は家康に恩義を感じ、一向宗とは手を切って彼に従い、その命を尽くす決意をしました。

箔母さんの父母が眠る三方原墓園の一角には、三方ヶ原古戦場の石碑があります。 元亀3年(1572年)10月に、武田信玄は2万5000の軍勢を率いて甲府を出発し、12月に浜松に至りました。 ところが、徳川家康のいる浜松城は無視し、軍を西に進めていったのです その知らせは家康のもとにも届いたのですけど………

「城下を通過する敵に、一矢も報いず見送ったとあっては、武門の名折れじゃ 」と、家康は撃って出ることにしたのです 近年は、兵糧や物資の中継基地となっていた堀江城(現在の浜名湖パルパルの場所)への攻撃を防ぐためだったという説が有力なのですけど、いずれにしても家康には出陣せざるを得ない事情があったみたいです。 この時の軍勢は、織田の援軍も含めて1万1000。この段階ですでに劣勢のようですけど、戦は必ずしも兵の数で決まるとは限りません。
地の利がある家康は、三方原台地の北側にある祝田坂を駆け上がり、武田軍を背後から突く作戦を採りました。 勝つには、これしかない

ところが信玄にはお見通し……… というか彼の狙い通りで、家康を野戦に誘い出すことに成功したのです 信玄は鉄壁な魚鱗の陣で待ち構えていました。 一方の家康は、こうなったら後には引けず、横一線の鶴翼の陣で立ち向かっていきました。 結果は武田軍が快勝 徳川軍は総崩れとなり、家康は窮地に立たされました。 そこに、浜松城での留守居役を命じられていた夏目吉信が家康の危機を察して、25人の手勢を率いて駆けつけてきました。 「あとは我々が食い止めるので、殿はお逃げくだされ 」という吉信の進言に、家康は「留守居役が出過ぎたマネを、儂は単身で斬り込んで、華々しく散ってやる 」かなりムキになっていたからでしょうか?まったく聞き入れようとはしませんでした。

こうなったら、やむを得ない 吉信は説得を諦め、家康が乗った馬を逆のほうに向け、刀のむねで打って走らせたのです。 その際に、家康の兜を奪い取って被ったとも云われています。 さらに「我こそは徳川家康なり 」と叫んで、25人の手勢とともに武田軍の追っ手に斬り込んでいきました。 家康の身代わりとなった吉信らは、全員討ち死に。 夏目吉信享年55歳。

のちに家康の手によって、吉信の故郷の幸田町の明善寺と、松平家にゆかりのある岡崎市の法蔵寺に彼のお墓が造られました。 ちなみにこちらのお寺は、法蔵寺のほうです。

浜松城の北西の、犀ヶ崖古戦場の近くには………

夏目吉信の忠節を讃える「夏目次郎左衛門吉信旌忠碑」と刻まれた大きな石碑があります。 揮毫は、徳川宗家16代で公爵の徳川家達(いえさと)氏によるもの。 吉信は、このあたりで討ち死にしたと云われています。

それからさらに時を経て、家康は大坂の陣に勝ち、天下を取りました。 その時家康は、不祥事で出奔していた吉信の息子の信次を呼び寄せました。 家康は「今日の儂があるのも、そちの親父のお陰。お主の親父のお陰で天下が取れた」と言って彼の罪と再興を赦し、一緒に出奔していた弟の吉次を徳川2代将軍秀忠の家臣に配しました。 この再興した夏目家の子孫から、明治大正の文豪・夏目漱石が出ています。



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安藤政次郎さんと彼が創った動物園の行方

2022-03-12 00:38:51 | 人物伝

こんばんは、白黒茶々です。

昨年の末から今年の2月末まで、豊橋市では小学生を対象にして、公共施設を巡って豊橋ゆかりの偉人を知るスタンプラリーがおこなわれました。 それと合わせて、地元出身で在住の漫画家・佐野妙先生が書き下ろした偉人カードも配布……… というよりは、「ご自由にお取りください」状態でした。 そこで小渕志ちさんも含めた6人の偉人が採り挙げられました。 私はいずれ何かの役に立つと思い、カモメリア中央図書館市役所展望ロビー、………などを廻って、全ての偉人カードを揃えました。 実は、渥美半島1周の終盤で市の施設に寄ったのは、コレが目的だったのですよ それらの中で私の目に留まったのは………

安藤政次郎さんでした。 今回の日記のタイトルの通り動物園を創った人なのですけど、彼にゆかりのある場所を巡りながら、そこに至るまでのいきさつと彼の生涯、さらにはその動物園の変遷などをたどっていきます。

安藤政次郎さんは安政2年(1855年)に現在の豊橋市の大手町に生まれました。 実家は紺屋(染織業)を営んでいたのですけど、政次郎さんは明治10年(1877年)に故郷を離れて、静岡で新聞販売業を始めました。

さらにその3年後には、活動の場所を横浜に移しました。この頃、政次郎さんは刺子の袢纏にわらじ履き、日の丸の小旗2本を組んで飾った黒塗りの挟み箱に新聞を入れて肩に担ぎ、鈴を鳴らして新聞を売って回っていました。小柄な体型ながらもなかなかのイケメンで、「新聞小政」という名でモテはやされていました。
しかし明治20年(1887年)に帰郷して、翌年に結婚。 今度は当時豊橋にできたばかりの歩兵第18聯隊(現在の豊橋公園)に豚肉を納入するために養豚業を始めました。 その傍らで、動物好きが興じたこともあって、猿や鳥獣を飼ったりもしました。 物珍しさから、やがてそこには近隣の人々が見学に訪れるようになりました。 こうなったら、動物園を創ってみよう

豊橋駅前の大通りを挟んだ向かい側、最近までたつぴがアルバイトをしていたコンビニの前に「安藤動物園跡」なる標柱が建てられています。

明治32年(1899年)に政次郎さんは、豊橋駅の真ん前という好立地に私立の動物園を創建しました。 当時のそのあたりは畑が広がっていたので、容易にその土地を取得できたそうです。 さらに彼は………

ウサギの着ぐるみを着て動物園を売り込んだのですけど、これが大ウケ その頃はまだ動物園は珍しく、交通の便がいいことも手伝って、安藤動物園は有名になっていきました。
しかし、明治45年(1912年)の広小路の拡張に伴って、花田町守下(現在の大橋通3丁目)に移転。 それでも、敷地は0.25haに拡大し、動物は約50種250頭の規模にまでなりました。 そこは近隣の小学校の遠足の定番スポットにもなっていたそうです。

移転後も政次郎さんは動物園の運営に尽力したのですけど、その経営は行き詰まっていきました。 昭和5年(1930年)7月18日、動物園を市に寄贈するように遺言して亡くなりました。 享年75歳。その翌年、遺族は彼の遺志に従い、安藤動物園は豊橋市立動物園となりました。

その市立動物園は、昭和9年(1934年)に敷地に国道23号線を開通させるために、市内の向山町(現在の交通児童館のあたり)に移転。 その際に、政次郎さんの功績を讃えて「安藤政次郎翁追憶之碑」も建てられました。現在その石碑は、豊橋総合動植物公園(のんほいパーク)の一角に移されています。
しかし、向山町の動物園は昭和20年(1945年)、戦況の悪化によって閉園。 さらに空襲で施設は壊滅的な被害を受けてしまいました。

豊橋公園の美術博物館の前には、前回の日記にも出てきた古い噴水があって………

その南側の土塁の跡には、不自然なレンガの壁が残っています。 昭和29年(1954年)に、歩兵第18聯隊の敷地だった豊橋公園を会場にして、豊橋産業文化大博覧会が開催されました。 その際に、吉田城の本丸跡に鉄櫓が建てられたのですけど………

合わせて、子供遊園地を伴った豊橋動物園が創られました。 市立動物園は一時絶えたのですけど、このような形で復活したのですね。 ちなみに先程の怪しいレンガの壁は、子供列車のトンネルの跡でした。2.5haの敷地に、インドゾウアシカクマチンパンジートラニシキヘビヒョウライオンワニなど92種282点の動物が飼育されていました。 しかし、こちらの動物園は手狭ということもあって………

昭和45年(1970年)に、5ヶ所目となる豊橋市郊外の大岩町に移転し、名前も「豊橋子供自然公園」と改められました。 それでも、先の動物園の噴水は残されたのですよ。

豊橋子供自然公園は敷地が前の5倍にもなり、動物は74種450点に。 アシカ池、カバ舎、キリン舎、子供動物ランド、ペンギン池、猛獣舎、モンキーアパートなどの施設が整えられました。 私はこの頃の動物園を知っている世代なのですけど、最寄駅が二川駅ということもあって、「二川動物園」と呼んでいました。 その頃の資料は残ってないのですけど、私の中でその動物園は古くて手狭というイメージでした。 それから、チンパンジーがうん○を投げつけてきたのも、今では懐かしいです。

そんなローカルな動物園は平成4年(1992年)に大規模な再整備がおこなわれました。 130種800点も飼育・展示している動物園に………

大温室や庭園などで構成している植物園………

さらには、恐竜や動植物の進化の歴史を学べる自然史博物館………

ゆるいものも含めて10種類あまりのアトラクションが楽しめるミニ遊園地、………などを合わせた壮大なレジャー施設として生まれ変わりました。 名前も「豊橋総合動植物公園」と改められ、三河弁を組み合わせた「のんほいパーク」の愛称で親しまれています。

この機会に、私はそののんほいパークを巡ってみることにしました。 この日の私は午前中しかスケジュールが空いてなかったので、開園時間から入りましたよ

総面積は39.6haもあり、すべてを見て回ったらまる1日かかるというので、効率よくいかなければなりません これ程の施設なのに、入場料はたったの600円。 その4倍は取られても文句を言えない規模と内容なのですけど………

こちらでは動物スポンサー制度を採り入れていて、地元の企業などから動物の餌代の支援を受けているので、大丈夫です。 その中には、ブラックサンダー有楽製菓)やまけんグミ杉本屋製菓)といった有名なお菓子メーカーや、私にとっては紅葉狩りの定番になりつつある普門寺の名前がありましたよ
そうしたら安藤政次郎さんに感謝しつつ、動物園を巡っていきます。

マンドリルには、三河弁の注意書きがしてありました。 ガラス越しながらも、間近に見られるのはいいですね。

カバはけっこう大きいです。 なんか、屋内に入りたがっている様子ですけど。

レッサーパンダは最近施設が一新し、より見やすくなりました。 たまたまかも知れませんけど、同じところを何回も歩いていましたよ。

ライオン舎も改良されて、迫力が増しました。 金網越しながらも、けっこう伝わってきます。

アジアゾウは6頭の群れ飼い。 飼育スペースも拡大され、本格的に展示と種の保存に取り組んでいるのを感じました。

しかしトラ舎は昔のままで、この時は遠くで寝ていたので、エサの解説でご了承くださいませ。 その代わり、ホッキョクグマが大迫力で真ん前の水槽にダイブする姿をお見せするので………

………って、こちらも爆睡していますよ そのあと何回か見に戻ったのですけど、ダメでした。

ホンドギツネもうたた寝しているのですけど、こちらはずっと眺めていたいですね。

あと、ふれあいひろばでは、カピバラ風呂を見ることができましたよ それにしても、気持ちよさそうです。

今度は自然史博物館に入りますよ 屋外にある実物大のブラキオサウルスなどの恐竜からして、大迫力なのですけど………

屋内の展示も充実しています。 こちらはエドモントサウルスの本物の化石で、博物館のメインでもあります。 この化石を取得したことがきっかけで、この施設ができたそうです。

マンモスナウマンゾウなどの骨格標本も、見応えがあります。 あと、現在日本に生息している鳥獣や昆虫の剥製や標本も展示してあります。 さらに………

自分の顔を旧人のネアンデルタール人や………

未来人に変形させるという疑似体験もできるのですよ これは、子供ではなくてもハマります。 あと、自分の体をサルにトレースして、その姿で1分間動き回る体験も サル化してから、私は「シェ~ 」をやってみたのですけど、思うように軸足が伸びなくて、悔しい想いをしました。 こうなったら、今度来る時までに「シェ~ 」の特訓をおかなければ
※茶々さん、なぜそんなに「シェ~!」に熱くなっているのですか?(編集部注)
その自然史博物館の入場料はのんほいパークに込み込みで、館内の大型映像シアター以外は別途料金なしで見ることができます。

途中から、つい私はのんほいパークでキャッキャしてしまいました。 安藤政次郎さんはいつも人を楽しませることを考えていて、ウサギの着ぐるみで客寄せしただけではなく、動物園のツルなどの動物にバンザイ等の芸をさせたり、クマと客を力比べさせるということもやっていたそうです。 自然史博物館の疑似体験などにも、彼の精神が受け継がれていたのですね。 政次郎さん、こんなに素晴らしい施設に結びつく動物園を創ってくださり、ありがとうございました。


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玉繭に光を!小渕志ちさん

2022-01-15 00:55:59 | 人物伝

こんばんは、白黒茶々です。

昨年の暮れから豊橋市では、小学生を対象として「発見!豊橋の偉人!キーワードラリー」なるものがおこなわれています。 これは地元の偉人に関連する公共施設を巡って、それぞれのところに隠されているキーワードを集め、彼らのことを知るというものです。 全てをコンプリートして応募すると、オリジナルの記念グッズがもらえるのですけど………

それに合わせて、豊橋市出身&在住の漫画家・佐野妙先生が手がけた偉人カードも配布されるとのこと。 豊橋の偉人といえば、作曲家の古関裕爾さんを支えた古関金子さんや作詞家の丸山薫さん、中居君にソックリな田村俊子さんなどを連想するのですけど、今回は彼ら以外の6人が挙げられていました。 さらにその偉人カードの中で、小渕志ちさんが私の心に留まりました。 か、かわいい………
そんなきっかけはさておき、志ちさんのことを調べてみたら、その生涯は波乱に満ちていたものの輝かしいものでもありました。 ということで、今年最初の偉人伝となる今回は、とともに豊橋市内の小渕志ちさんゆかりの地を巡りながら、彼女の軌跡をたどっていきます。

小渕志ちさんは、弘化4年(1847年)に上野国勢多郡石井村(現在の群馬県前橋市富士見町石井)の貧しい農家に生まれました。 学校には行かなかったのですけど、幼い頃から母親に繰り糸の紡ぎ方を習いました。 さらに15歳の頃に製糸業に従事しながら技術を学び、その1年後には独立。 自宅の庭に小さな小屋を建てて、座繰製糸(座って道具を使い、蚕の繭から糸を取り出すこと)を始めました。

文久4年(1864年)年、17歳のときに齊藤米吉を婿養子に取って結婚したのですけど、そいつがとんでもないヤツで。 彼は働かず、酒や博打に溺れたうえに志ちさんに暴力をふるったので、彼女は生傷が絶えませんでした。 4年の間に3回も流産し、ようやく授かったよねという子は全盲で生まれてきました。
その11年後の明治12年(1879年)32歳となった志ちさんは、糸繭の取り引きで出入りしていた商人で信頼を寄せていた中島伊勢松(のちに徳次郎と改名)とお伊勢参りを口実にして旅に出ました。 「駆け落ちでは 」というウワサも立ちましたけど、確証はありません。

志ちさんと徳次郎が愛知県二川町(現在の豊橋市)に滞在している際に、地元の人たちは彼女らが上州人(群馬県民)で製糸のノウハウを身に付けているということを聞き付け、こちらで糸繰りを創業・伝授することを強く請いました。 当時、その地域では養蚕はしていても繭から糸を作る技術はなかったのです。
やがて志ちさんは小さな製糸場を創業し、二川に土着していきました。 ところが、明治17年(1884年)に二川地方でコレラが大流行し、大勢の死者を出してしまいました。 そういうこともあって、役所は戸籍を持たない無籍者を厳しく取り締まっていて、流れ者の志ちさんたちはそれに該当することに どうする 志ちさん。

私たちは二川地区にある大岩(だいがん)寺を訪れました。 こちらのお寺はもとは岩屋にあったのですけど、江戸時代初期に現在地に移転したそうです。

大岩寺の住職だった二村洞恩は志ちさんと徳次郎を匿い、偽の戸籍を作りました。 ところがそのことがすぐに当局にバレて、徳次郎と住職は逮捕されてしまったのです 病弱だった住職は間もなくして釈放されたのですけど、そのことが原因で亡くなりました。 その知らせを聞いた徳次郎は責任を感じて獄中で食を絶ち、やがて彼までも命を失いました。
1人残された志ちさんはかなり辛かったハズですけど、製糸業に専念しました。 そうすることが今の自分の責務と思ったのでしょう。

私たちは、大岩寺の近くにある豊橋市二川地区市民館というところにやって来ました。 その一角には………

「糸徳製糸場跡」という石碑が立てられています。 明治18年(1885年)に志ちさんはこの地に製糸工場を設立しました。 その名前の1文字は、徳次郎から取ったのですよね。 さらに彼女は彼の生前の助言に則って、繭としてはクズ扱いされていた玉繭に着目しました。 それは2匹の蚕が作った繭で製糸しにくい代物なのですけど、なんとかならないものか?やがて試行錯誤の末に、玉繭から糸を取り出す技術を編み出しました。 志ちさんはそのようにして作った糸を玉糸と名付け、糸徳製糸場で生産することに。 さらに座繰りの自動化に奮闘した朝倉仁右衛門の功績もあって、その製糸場は事業を拡大していきました。

さらにその方法を周囲の同業者にも伝授して、組合を組織化したのです。  その結果、製糸業は豊橋市を支える一大産業となり、この組合を通じて蚕都として大いに栄えていきました。

豊橋市の北部の多米町には、多米小学校の旧校舎を利用した豊橋市民俗資料収蔵室という施設があります。 そこには………

蚕が成長し、繭になるまでの様子を示したリアルな模型や………

養蚕に関する道具だけでなく………

製糸に使われた道具の数々も展示されています。 それだけではなく、小渕志ちさん関係の資料も見ることができるのですよ

その一方で、このようなエピソードもありました。 志ちさんは41歳の時に、前橋の1人の鍼灸按摩師を宿場に呼びました。 しばらくは黙って揉んでもらっていたのですけど「まだわからんのか」と言いました。按摩師はハッとし、すぐに自分の母親であることを感じました。 そう、彼女は20歳になった娘のよねだったのです。

志ちさんは多くの苦難をなめていたこともあって、人の痛みには極めて敏感でした。なので、 必然的に従業員たちにはわが子のように慈愛深く振る舞いました。 また、楽して儲けることを嫌い、 歳を取ってからも朝は一番に工場を見まわり、従業員と食事を共にしたそうです。  製糸業というと「あゝ、野麦峠」のような女工哀史を想像しがちですけど、こちらの仕事場の雰囲気は明るく、和気藹々としていたそうです。

その頃には、日本の生糸の生産量は世界一となっていて、外貨を稼ぐ重要な輸出産品として国を支えていました。 その功績が称えられて、志ちさんは名古屋離宮(現在の名古屋城)で、日本人女性として初めて天皇陛下に個人拝謁する機会を得ました。  その時の記念写真には、彼女はトヨタグループの創始者である豊田佐吉さんの隣に写っています。
さらに志ちさんは「生きることは学ぶことである」として、従業員たちを対象とした青年学校を開きました。 その思いは後世まで受け継がれていきました。

豊橋の製糸業は戦後になって衰退していき、糸徳製糸場は昭和32年(1957年)に廃業しました。 現在は跡形もないのですけど、二川の町中に工場のレンガの防火壁の一部が残っています。

志ちさんの後継者は事業を教育のほうに絞り、それは二川幼稚園の設立に繋がって、現在に至ります。 その園庭にはアベマキの大木があります。 推定樹齢が150年なので、志ちさんが活躍していた頃にはすでにあったということに。

二川の西北の岩屋緑地公園の中には………

小渕志ちさんの銅像があります。 彼女は80歳を過ぎても積極的に工場を見廻り、工女たちに声をかけていったと云われています。そして昭和4年(1929年)3月16日に82年の生涯を終えました。

志ちさんを敬い慕う人々の間から彼女の功績を後世に残そうという声があがり、この地に銅像を建てることになりました。 亡くなった年の11月に像は完成。しかし、太平洋戦争中に金属供出されることに。

そのような状況の中でも台座は死守し、なんとか後世まで残されました。 その碑文の書体の古さから、昭和初期を感じます。 志ちさんの名前も「小淵志智子」となっていますし。

終戦から41年後の昭和61年(1986年)になって、糸徳製糸場の元工員や市民たちの手によって、志ちさんの銅像が再建されました。 彼女の眼差しは、形を変えて受け継がれ発展していった豊橋を見つめています。


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フジヤマのトビウオ・古橋廣之進

2021-08-28 02:33:14 | 人物伝

こんばんは、白黒茶々です。

東京2020オリンピックが終わって、今度は東京2020パラリンピックが開幕しました。 コロナ禍ということもあり、トレーニングや渡航などで選手たちは厳しい条件の中で競い合うことになるのですけど、ベストを尽くして無事に帰国できることを願っています。 コロナの疫病の蔓延とは違うのですけど、日本が戦後間もない苦境だった頃に、水泳で大活躍して国民的ヒーローになった人物が、私の地元にいたのですよ それは誰かと言いますと……… って、すでに日記のタイトルに出ていました。 その名前をご存知の方もいらっしゃるかも知れませんけど………

古橋廣之進氏にございます。 彼は数々のスポーツ関連の役職を歴任していたこともあって、その姿に見覚えのある方もいらっしゃると思います。

平成21年(2009年)2月に、浜松市西区篠原町に彼の名前を冠した屋内プールの古橋廣之進記念浜松市総合水泳場(通称ToBiO)がオープンしました。 そのプールが出来たばかりの頃に「トビオ」で検索したら、どうやっても「鉄腕アトム」天馬博士の息子のトビオが出てきてしまって……… それはさておき、先ほどの廣之進氏の胸像はToBiOの入口を入ってすぐのところのミニ展示スペースに置かれています。 ということで、今回は波&狛とともに廣之進氏にゆかりのある場所を巡りながら、彼の軌跡をたどっていきます。

古橋廣之進君は昭和3年(1928年)9月16日に、静岡県浜名郡雄踏町山崎(現在の浜松市西区)で9人きょうだいの3人目の長男として生まれました。 普段から弟や妹たちの面倒をよく見ていたのですけど、食事の時にはおかずを取り合ったりしたそうです。 やがて彼は地元の雄踏尋常小学校(現在の雄踏小学校)に入学しました。 現在、彼の生家は跡形もないのですけど、通り沿いのアパートの一角にその説明看板が設置されています。 さらにそこから西に160mほど行ったところには………

山宮神公園という小さな公園があり、さらにその公園の西側には………

かつては山崎プールがありました。親切なことに、こちらにも説明の看板が設けられていますね。

昭和13年(1938年)頃に地元の篤志家の江馬氏が私費を投じて、浜名湖を木の板で仕切り、湖岸にスタンドを有した50mプールを造り上げました。

現在はコンクリートのスタンドのみが残っていて、そこからプールのコースだったところを見てみたら………

舟溜となっていました。 山崎プールが完成した頃、当時小学4年生だった廣之進君は父に勧められ、このプールで泳ぎ始めました。 水泳の選手になることを誓った彼はメキメキと力をつけていき、6年生の時に100mと200mの自由形(クロール)で学童新記録を樹立するまでに それによって、新聞で「豆魚雷」という異名で報じられることになりました。
さらに浜松第二中学校(現在の浜松西高校)に進学してからも水泳を続けたのですけど、第二次世界大戦の激化によって断念せざるを得ませんでした。 やがて学徒勤労動員され、砲弾工場で働いていた際に旋盤で指を挟まれ、左手中指の第一関節から先を切断。水泳を続けるのが難しい状況となってしまいました。

先ほどの山宮神公園の入口には、「無事カエル」という石像が設置されています。なんかカワイイですね。 廣之進さんは終戦後に日本大学に進学し、水泳も再開しました。 指切断のハンデを負いながらも彼は飛躍していき、昭和22年(1947年)におこなわれた日本選手権では、400m自由形を4分38秒4で優勝 公式記録にはならなかったのですけど、当時の世界記録を上回るタイムとなりました。

翌年の1948年にはロンドンオリンピックが開催されたのですけど、日本は敗戦国ということもあって参加を認められませんでした。 それを受けて、日本水泳連盟は同じ日程で東京代々木の神宮プールを会場にして、日本選手権大会を開催することに。 廣之進選手はその1500m自由形で18分37秒0を。その2日後には、400m自由形で4分33秒4の世界記録を出したのです それらはオリンピックの優勝者のタイムを大幅に上回っていました。 日本は国際水泳連盟を除名されていたため、公式記録とは認められなかったのですけど、彼の活躍は敗戦でうちひしがれていた日本の威信を高め、国民に勇気を与えたのでした。

その翌年の昭和24年(1949年)に日本は国際水泳連盟に復帰を許され、8月のロサンゼルス全米選手権に参加。 その大会前までは、敗戦国というだけではなく「日本のプールは短いので、(廣之進選手の)記録は疑わしい」とまで言われていました。 廣之進選手、水泳で彼らをアッと言わせてください

………という私の願いが届いたのか、彼は400m自由形で4分33秒3、800m自由形で9分33秒5、1500m自由形で18分19秒0の世界新記録を樹立したのです アメリカの新聞は彼を「フジヤマのトビウオ」と絶賛し、それまで肩身の狭い思いをしていた西海岸の日系人にも勇気と自信をもたらしました。 その後も彼は、自らの記録を更新していきました。

1952年のヘルシンキで、廣之進選手は念願だったオリンピック出場を果たしたのですけど、すでに選手としてのピークは過ぎていて、400m自由形は8位に終わりました。 その様子をNHKの飯田次男アナウンサーは「日本の皆さん、どうか古橋を責めないでください。古橋の活躍なくして戦後の日本の発展はあり得なかったのであります」と、涙ながらに実況しました。 なんか、私まで泣けてきました。 彼の訴えに激しく同意します。

選手引退後は、日本水泳連盟会長、日本オリンピック委員会(JOC)会長などを歴任。日本の水泳界やスポーツ界の発展に大きく貢献しました。 また、レーザーレーサーの水着の着用で物議を醸した際には「ワシのようにふんどしを履いて泳げばいいんだ」という名言(迷言?)を残したりもしました。

平成21年(2009年)8月に、廣之進氏は国際水泳連盟の副会長としてイタリアのローマでの総会に参加しました。 ところが同月2日の朝、現地のホテルの部屋で亡くなっているのが発見されました。享年80歳。死因は急性心不全だったそうです。

ToBiOのミニ展示スペースには、自分の胸像と対面している廣之進氏の写真も飾られていました。はにかんだ表情が、たまりませんね。 彼はスポーツ選手として文化勲章を受賞し、スポーツを文化というレベルにまで高めました。 スポーツには人の心を高揚させ、励ます力があります。 コロナ禍でオリンピックやパラリンピックがおこなわれることには賛否両論ありますけど、少しでも早くそのコロナを克服して、再び満員のスタンドでスポーツ観戦できる日が来るのを願っています。


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昭和の小堀遠州・中根金作氏

2021-07-10 02:23:07 | 人物伝

こんばんは、白黒茶々です。

皆さまは中根金作氏という人物のことはご存知でしょうか? 彼は昭和中期から平成初期にかけて活躍した、静岡県磐田市出身の造園家・作庭家で………

鹿苑寺(金閣寺)慈照寺(銀閣寺)天龍寺栗林公園などの庭園を保存修理し、さらに城南宮楽水苑ボストン美術館天心園足立美術館庭園などを作庭しました。 その中でも足立美術館の庭園は今年の1月に、18年連続で庭園日本一にランキングされたと発表されました。 彼は私のいる湖西市とも縁があって、同市内にいくつかの作品を残しているので、今回はを伴い、それらの場所やゆかりの地を訪ねながら、彼の軌跡をたどっていきます。

………ということで、私たちは磐田市の市街地を南西方面に外れた、下岡田地区に来ています。 田園風景が広がるその一角には………

金作氏の没後20年となる平成27年(2015年)3月に、地元の有志たちの手によって彼の生家跡の近くに生誕地を記す石碑が建てられました。

中根金作氏は大正6年(1917年)8月28日に、この地で生まれました。 浜松工業学校(今の浜松工業高校)の図案科を卒業後、一時染色図案の仕事に就いたのですけど、造園家を志して旧制東京高等造園学校(現在の東京農業大学)造園学科に入学しました。

ところが、在学中の昭和18年(1943年)に軍隊に召集され、豊橋歩兵第18聯隊に入隊。 現在、豊橋公園となっているところなのですけど、金作氏は2年ほどその地で軍隊生活を送っていたのですね。 軍役を解除された後に復学し、修学旅行で訪れた京都の名園や文化財を目のあたりにして、現場で学ぶことの大切さを痛感しました。
戦時特令によって造園学校を繰り上げ卒業し、学校長の計らいによって京都の植木職に就き、その現場から修業を始めました。 さらに、京都大学農学部造園学教室の無給副手にもなり、二足のわらじの忙しくも充実した日々を送っていました。

しかし戦局が悪化して、功さんとの結婚からわずか3ヵ月後に、今度は静岡第34聯隊に召集 ちなみにこちらは、現在の駿府城公園となっているところです。 すぐに中国戦線に駆り出されるも、程なく終戦。その翌年に帰国しました。

戦後は、社会教育課を経て文化財保護課の京都府技師記念物係長となり、史跡・名勝・天然記念物と美術工芸品を統括する行政事務責任者となりました。 さらに彼が申請していた国庫補助金の交付を受けて、戦前戦後に荒廃した古庭園の保存修理を実施。天龍寺、鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)、西芳寺高台寺清水成就院、………など、日本を代表する多くの名園の文化財保護事業に携わってきました。
京都府を退官した後は、昭和41年(1966年)の49歳のときに中根庭園研究所を設立。 大阪芸術大学長なども歴任し、生涯にわたって国内だけではなく、世界に300庭以上もの作品を残し、「昭和の小堀遠州」とも呼ばれるようになりました。 ちなみに、小堀遠州(政一)は江戸時代初期に徳川家康に仕えた大名兼芸術家兼建築家兼作庭家で、二条城の二の丸庭園など、現在国の名勝に指定されているものも含め、数多くの庭を造った人物であります。

金作氏の生誕地から近いといえなくもない宝珠寺には、彼が造った庭園があるというので、寄っていくことにしました。 「無料で見学できるが、事前に連絡が要る」ようなこともいわれていたので、私は念のためにお寺に電話してみました。 そうしたら、快く受け入れてくれたのですけど、なんかわざわざ事前に予約しなくてもよかったようなニュアンスでした。 それはさておき、いよいよ中根庭園に迫らせていただきます

宝珠寺は観応元年(1350年)に創立した、臨済宗の寺院です。 その本堂の向かいには………

「涅槃の庭」と呼ばれる庭園が広がっています。

手入れがしっかりとされていて、ずっと見ていたくなります。 そうしたら、今度は場所を湖西市の旧新居町に移します。 「ガヴリール ドロップアウト」でいうところの「あららまち駅」こと、新居町駅から南に8分ほど歩いていくと………

新居文化公園に行き着きます。 こちらも金作氏が手掛けたところで、花壇や芝生広場、遊具などがあって地域の人々の憩いの場となっています。

ただし、ワンコを連れて入ることはできないのですよ。 いい公園なのですけどね。

その一角には新居図書館があって、日本庭園も整えられています。 こちらでも、金作氏は腕を発揮していますね。

私は、新居図書館のほうは以前から利用していたのですけど、中根庭園はスルーしてしまっていて、申し訳ございませんでした。 改めて見てみると、いい眺めでありがたみを感じます。 せっかくなので………

その図書館で「造園家中根金作の軌跡」なる関連本を借りてきました 一緒に手にした狛犬のヤツも、けっこう面白いですよ。
文化公園や図書館での用事を済ませた私は、再び波&狛とともに………

今度は湖西市老人福祉センターにやって来ました こちらにも、金作氏が造った庭があるのですけど………

私たちが行った日曜日は休館で、さらに目当てのものは四方を建物に囲まれている中庭なので、ガラス越しに見るしかありませんでした。 それだけではナンなので………

いい角度から撮ったものを載せておきます。 こちらの枯山水の庭園は、地元のボランティアが手入れしているそうです。 さらにその施設の近くには………

浜名川親水公園があります。 こちらも、金作氏が手掛けたところなのですよ

こちらはワンコに対しての規制はないので、波と狛を被写体に入れてみました。

それから公園内のモニュメントには、夏至と冬至になると見ることができる仕掛けがあるそうです。
中根金作氏は平成7年(1995年)3月1日に、77歳で亡くなりました。 それでも、彼は国内外に多くの公園や庭園を遺しました。著書の中で「作庭とは、空間に石や樹木という素材を使って、立体的に絵画を描くことである」と述べています。金作氏が手掛けた作品は芸術的で、その所々に彼の個性が表れているので、説明をしなくても伝わってくると思います。 また、庭は一度造ったら残るものではない生き物でもあるので、維持管理はもちろんのこと、先人に感謝しつつ大切に育てていかなければなりません。


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女医への道を拓いた吉岡彌生さん

2021-04-07 01:39:30 | 人物伝

こんばんは、白黒茶々です。

前回、歴史散策の順路からはみ出す形で中村砦に走り、さらにの3周忌を機に彼のことも偲んだりしてしまいました。 なので今回は改めてというか、正規のルートに戻って、私はとともに現在は掛川市となっている旧大東町の下土方というところにある………

東京女子医科大学大東キャンパスに隣接している………

掛川市吉岡彌生記念館というところにやって来ました。 先程までの散策で、波と狛は疲れていると思うので、彼女らには車の中で休んでいてもらいます。 その間に、私はこちらの記念館を見学し、この地域で生まれて東京女子医大を創立し、日本の近代医学史に大きな足跡を残した吉岡彌生さんの生涯と功績に迫ってみようと思います。

………ということで、彼女の記念館の建物の前まで来たのですけど、ここから先は撮影禁止となっていました。 私に絵心があれば、見てきた資料を絵で表現したのですけど、こうなったら今までのように記述でお伝えします。 せめて入ってすぐのところにある彌生さんの胸像だけでも撮らせてもらいたかったのですけど、入館料は200円の良心価格なので、文句を言ってはいけません。

吉岡彌生さんは明治4年(1871年)に、漢方医の鷲山養齋の次女として生まれました。 正義感に溢れ、多感な少女時代を過ごしました。その時代は、女性は成人したら嫁いで家を守るのが当たり前だったのですけど、彌生さんは自分が果たすべき役割を考え、兄たちの影響もあって、医師になる決意をしました。
柔軟な考えを持つ父の養齋でも、当初は難色を示したのですけど、兄たちの説得もあって渋々了承。 彌生さんは上京し、済生学舎に入学しました。 それは彼女が18歳の時のことでした。

それから男子学生に混ざって医学を学び、21歳の時に難関だった医術開業試験後期試験に見事合格 これによって、彌生さんは日本で27番目の女性医師となりました。
その後は故郷に戻って医療活動をしたのですけど、向学心が芽生えて再び上京。 そこで出逢った吉岡荒太氏と24歳の時に結婚。 彼とは思想的にも似通い、二人三脚の生活が始まりました。

そんな彼女たちのもとに、悪い知らせがありました。 「風紀が乱れる」という理由で、済生学舎が女子学生の受け入れを停止するというのです このままでは、女性が医師になる道が完全に閉ざされてしまいますよ。 どうする、彌生さん
そこで彼女は「今までの方法がダメなら、新たに創ってしまおう 」ということを考えるようになり、そのことを荒太氏に話したら激しく同意 夫婦は私財を投げ打って、明治33年(1900年)に東京女医学校を創立しました。

東京女医学校はたくさんの女医を輩出し、女性の社会進出と地位向上に貢献しました。 ところが、その12年後にまた新たな問題が起きてしまいました。 今度は法律が変わって、このままでは東京女医学校が教育機関として機能しなくなるという事態に陥ったのです。

「このままではいけない 」と吉岡夫妻は知恵を出し合い、東京女医学校を東京女子医学専門学校として再出発できるように政府に申請しました。 やがて認可が降り、彌生さんはその校長に就任しました。 それは彼女が41歳の時のことでした。
その学校も、吉岡夫妻が私財を投じて建設したのですけど、建て増しを繰り返していったおかげで「廊下校舎」と呼ばれるほど長くて廊下ばかりの建物となってしまいました。 その模型が記念館にあるので、気になる方はぜひ見に行ってみてくださいませ。

彌生さんは大正9年(1920年)に日本女医会の会長に就任したのですけど、その翌年に夫の荒太氏が死去。 以後は彼の遺志を受け継いでいくことに。
戦後の昭和25年(1950年)に東京女子医学専門学校は東京女子医科大学に受け継がれ、2年後に彌生さんはその学頭に就任。東京女子医大は日本で唯一の女性を対象とした医科大学となりました。

彌生さんは昭和34年5月22日に、88歳で亡くなりました。

時間と空間を現在に戻して、吉岡彌生記念館には彼女に関する資料だけではなく、その生涯をダイジェストで綴ったアニメの上映もありました。 さらに、彼女と直接関わった人の証言も載せられているので、より彼女の人物像を知ることができました。

あと、彌生さんの書斎を再現したコーナーに差し掛かると、センサーで晩年に受けた時のラジオのインタビューが流れ、そこで彼女の肉声を聴くこともできました。
その順路に沿って、記念館の2階から外に出たら………

かつて下土方にあった彌生さんの生家の長屋門が復元されていました。 その看板には「鷲山醫院」と書いてありますね。気になるその内側には………

町医者を兼ねた、彌生さんの生家の母屋が移築されていました。 江戸時代末期に建てられた民家は、とても興味深いです。 では、さっそくその内部に入ってみましょう

入ってすぐのところにある台所には、昔ながらの竈や流しが再現されていました。

さらに土間の奥には、診察所となっていた座敷などが連なっているのですけど、そこから先は立ち入り禁止となっていました。 記念館の見学コースは以上で終わりとなります。
吉岡彌生さんは「至誠一貫」を座右の銘として、女性医師の育成と女性の地位向上に生涯をささげました。私は彼女の名前だけは知っていたのですけど、功績や志しは今回の見学で初めて感じ取りました。 このような偉人がこの片田舎(失礼 )から出たなんて……… なんか明るい可能性のようなものを感じました。

休憩を充分に取った波と狛には、このあと思いっきり運動してもらいましょう。 ということで、今回の散策シリーズの最後は、1年ぶりとなる掛川のドッグランで締めさせていただきます。



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 吉岡荒太は「こうた」と「あらた」のどちらなのか迷われた方は、こちらに投票してやってください。正解は「あらた」です。

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実は蛇女だった!?亀姫と、新城城

2020-02-19 02:20:26 | 人物伝

こんばんは、白黒茶々です。

前回の日記では、私・の白黒茶々家の1人と2頭は、野田城址を散策したあとに新城(しんしろ)市の中心部に向かいました。

………ということで、新東名高速道路の長篠設楽原PA(下り)にやって来ましたよ こちらのPAは歴史的にも有名な長篠の戦いの織田・徳川軍をモチーフにしていて、その際に織田信長が構えた本陣跡にも直結しています。 さらに、PAの建物を入ってすぐのところには………

この地方にゆかりのある奥平信昌亀姫の象が据えられているのですよ。 それにしても、信昌の眉ふとっ 鼻の穴でかっ 対して亀姫様はとても穏やかなお顔をしておられる。 といったトコで、今回はそのうちの亀姫にスポットを当ててみようと思います。

次に私たちは、新城市の中心部にある新城小学校を訪れました。 こちらはかつて新城城があったことを意識したからなのか、建物の一部がお城のような形をしております。 ここで、本題に入らせていただきます。
亀姫は永禄3年(1560年)に松平 元康(のちの徳川家康)と瀬名(のちの築山殿)の長女として生まれました。 その頃、元康一家は今川義元の支配下の駿府(静岡市)におかれていたのですけど、2年後の桶狭間の戦いで義元が織田信長軍に討ち取られると、その混乱に乗じて岡崎城に移住。 その後、元康は名を徳川家康と改め、信長と同盟を結んで武田信玄と攻防することになります。

戦国時代にこの地方は、奥平氏が治めていました。 奥平定能の頃には武田方に属していたのですけど、武田信玄軍が野田城から撤退し、信玄の死亡説が流れると、貞能は徳川方につきました。 ところが、信玄のあとを継いだ武田勝頼が勢力を巻き返すと、武田方に寝返ったのです
奥平氏の力を必要とした家康は、信長の進言もあって、定能の嫡男の貞昌(のちの信昌)と亀姫を婚約させることなどを条件にして、再び両家の間に同盟が成立 その際に貞昌は、武田方に人質として差し出していた妻のおふうと離縁しました。 これに激怒した勝頼はおふうと貞昌の弟の千丸を処刑 それだけでは飽き足らず、さらに勝頼は天正3年(1575年)5月に1万5千の軍勢を率いて、貞昌のいる長篠城を攻めました。

ということで、私たちは今度はその長篠城にやって来ました こちらのお城は現在国の史跡に指定されていて………

本丸を囲む土塁や空堀などが残っています。

ただし、ワンコの散歩で踏み入ることはできないのですよ。 これは散歩ではなく歴史の調査で、波と狛はワンコではなく歴史のコーディネーターで、………く、苦しい。
武田の大軍に対して、貞昌とともに長篠城に籠った城兵はわずか500人。 この絶体絶命のピンチの中で、彼は足軽の鳥居強右衛門を伝令役に任じ、岡崎の家康に援軍を求めました。 強右衛門の働きによって、3万8千もの織田信長と徳川家康の連合軍が駆け付け、武田勝頼軍1万5千との対決となる長篠の戦いが始まりました。

合戦は必ずしも兵の数で決まるとは限らないのですけど、近代兵器の鉄砲をうまく活用し、地の利などを活かした織田・徳川連合軍が勝利を収めました。

援軍が来るまでの間長篠城で持ちこたえ、織田・徳川連合軍の勝利に貢献した奥平貞昌は讃えられ、信長の名前から一字を賜って「信昌」と名乗ることになりました。
信昌は長篠の戦いの翌年に新たに築いた新城城に移り住み、亀姫を正室として迎え入れました。

場面は再び、現在の新城城跡に。 その後の新城城は規模を縮小し、江戸時代に入ってからは陣屋として存続しました。新城小学校の校庭の片隅には、お城の土塁の一部が残っていて、その上には城址碑が立てられています。

その近くには、旧校舎を利用したしろあと資料館が開設されているのですけど、この日は閉まっていました。
信昌は天正18年(1590年)の家康の関東移封に伴って上野国宮崎(現在の群馬県富岡市)3万石の領主となり、さらに慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの功績により、その翌年に美濃国加納(岐阜県岐阜市)10万石に栄転となりました。 そこで亀姫は「加納御前」と呼ばれるようになり、側室を一切もたなかった信昌との間に4男1女をもうけたのでした。めでたしめでたし。

………と、ここまでは亀姫は文句のつけようのないイイ女に見えるのですけど、実は彼女は殊のほか嫉妬深かったのですよ。 信昌は側室をもたなかったのではなく、亀姫のおかげでもつことができなかったのでした。 加納城の近くには侍女のお墓があります。「今、そなたは殿のことを誘うような目で見ましたね、決して許しませぬ 」とか言って、嫉妬に狂った亀姫が彼女たちを惨殺しまくったとも云われています。 その数は12人にも及びました。

※私が10年ほど前に訪れた宇都宮城

それだけではなく、亀姫は歴史的にも有名な「宇都宮の吊り天井事件」の黒幕だったという説も。 信昌や長男、次男亡きあとの慶長19年(1614年)には、亀姫(その頃には剃髪して盛徳院と名乗る)は10万石の宇都宮城(栃木県宇都宮市)の城主となった孫の忠昌の元に身を寄せていました。 しかしその時の忠昌はわずか7歳でした。幕府は忠昌がその地方を治めるのには荷が重いと判断し、彼が12歳となったときに11万石の古河城に移封させてしまいました。 代わりに徳川家康に寵愛されていた本多正信の嫡男の正純が15万石に加増されて新たな宇都宮城の城主となったのです。 その前には、亀姫の一人娘の嫁ぎ先の大久保家が不可解な改易に遭っていて、それには本多親子が絡んでいるという疑いがあったので、彼女は心中穏やかではいられませんでした。 国替えの引っ越しの際には、せめてもの復讐のためにと、彼女は襖や障子、畳などに加えて庭の竹木まで引き抜いて持っていこうとしたのですけど、さすがにそれは引き止められてしまいました。 亀姫、大人げないですよ

※白黒茶々家が5年ほど前に訪れた日光東照宮

元和8年(1622年)当時の宇都宮城は、日光東照宮に2代将軍徳川秀忠が参拝する際の宿所にもなっていました。 そこで復讐の鬼と化した亀姫は、「正純殿はお城の寝室に吊り天井の仕掛けをして、将軍を暗殺しようとしておられる」という根も葉もないデマを流したのです これによって、正純は失脚。 代わりに、亀姫の孫の忠昌が再びそのお城の城主に返り咲いたのでした。 これらには諸説あるのですけど、説得力があるのでつい信じてしまいます。

新城城跡の近くには、大善寺というお寺があります。こちらは亀姫が新城城にいた頃に大膳庵を移して建立したこともあって、境内の至るところに徳川の葵の紋が見られます。 彼女はこの大善寺で築山殿や長篠の戦いの戦死者を弔いました。
亀姫の嫉妬深い性格からのドタバタ劇もありましたけど、その一方で彼女には慈悲深いところもあることが窺えて、私はホッとしました。

大善寺の墓地の一角には「亀姫の墓」と称する五輪塔があります。これは奥平信昌と亀姫の4男の松平忠明が、彼女を供養するために、ゆかりのあるこちらのお寺に建立したものです。
亀姫は寛永2年(1625年)に、加納で66歳の生涯を閉じました。 彼女のお墓はこちらの他には、岡崎の法蔵寺など2ヶ所あります。 「遺骸が納められていなくても、その人を祈る場所であればお墓である」という規定に則れば、こちらも正真正銘の亀姫のお墓であります。 私たちは彼女の生涯に思いを馳せ、彼女に手を合わせてから次の目的地に向かいました。


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絶体絶命の細川幽斎(丹波・丹後方面旅行その3)

2019-09-07 02:11:01 | 人物伝

こんばんは、白黒茶々です。

お盆休みの最終日となる8月15日は、私はたつぴと一緒に舞鶴市のプラザホテル舞鶴に泊まっていました。 その日は台風10号が迫っていて、まわりは厳戒体制に入りつつあったのですけど、こちらは雲が多くて風はややあるものの、時おり青空や日差しが見えるような天気でした。

 

ちなみにこちらのホテルは、私たちが利用したエコノミーツインが1泊朝食付きで税込9200円(1人あたり4600円)。 ちょっとサラダがかぶっているのですけど、美味しくいただきました。 モーニングセットで朝の活力を充填したら、この日最初の目的地に向かいますよ
舞鶴駅前にあるプラザホテル舞鶴から歩いて10分ほどで………

 

お城の石垣と櫓門が見えてきました こちらは田辺城で、別名を舞鶴(まいづる……… ではなく、ぶがく)城といいます。

 

細川幽斎という人物がこのお城を築いたのですけど、皆さまは彼のことはご存知でしょうか? 彼は細川忠興の父でもあり、のちに田辺城の戦いで大軍を相手にしたことは歴史上の出来事としてハズせません。 なので、今回は田辺城を巡りつつ、幽斎の人物像について探求していこうと思います。

 

田辺城の城門の北側の石垣の上には、昭和15年(1940年)に建てられた隅櫓(彰古館)があります。普段はその内部は公開されているのですけど、この日は台風の接近を理由に閉鎖されていました。
幽斎は、来年の大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公の明智光秀にとって大切な人物で、そのドラマでも重要な役割を担うと思われます。彼の嫡男の細川忠興は、関ヶ原の戦いで徳川家康率いる東軍についたのですけど、細川ガラシャの夫といったほうが分かりやすいかも。ガラシャは明智光秀の娘で、本名は玉といいます。彼女は、忠興の正室となったのちにキリスト教徒となり、洗礼を受けてガラシャと呼ばれるようになりました。関ヶ原の戦いの直前に、石田三成は敵方の東軍の武将の妻たちを人質に取ろうとしたのですけど、ガラシャは断固拒否 やむなく、三成が武力でもって実力行使しようとしたら、ガラシャはキリストの教えで自害することはできなかったので、家老に長刀で胸を突かせたのでした。

 

隅櫓(彰古館)は模擬建築なのですけど、戦前に木造で建てられたということもあって、風格があります。
ここで、話は細川幽斎に戻らせていただきます。 安土桃山時代の天正8年(1580年)、織田信長の命によって細川藤孝(のちの幽斎)は明智光秀と協力し、丹波・丹後を平定しました。 そのうちの丹後国は細川藤孝・忠興親子の領国となりました。藤孝は当初は宮津城を居城としていたのですけど、京都に近くて交通の要所でもあった旧丹後守護所の加佐郡八田に、地名を田辺と改めた上で田辺城を築き、子の忠興を入城させて、統治の中心としました。 天正10年(1582年)頃にお城は完成し、その年の6月に起こった本能寺の変の後に、藤孝は隠居。その際に名前を幽斎と改めました。 彼は戦国大名でありながらも、すぐれた文化人でした。 和歌・連歌をはじめとして、太鼓、謡曲、乱舞、禅、料理、茶道、書道、鞠、有職故実に至るまで多彩な才能を発揮。さらには、三条西実枝から歌道の奥義を許された「古今和歌集」の秘事口伝の伝承者(古今伝授)でもありました。

 

田辺城跡では、近年の発掘調査によって出土した、天守台の石垣も見ることができます。
慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いがあったのですけど、その前哨戦や東軍と西軍の戦いは、関ヶ原以外の全国の至るところでもおこなわれていました。 細川忠興が徳川家康についたことから、石田三成は丹後の細川攻めをすることを決断し、その周辺の西軍の大名に召集をかけました。 その兵の数は約1万5千人。一方の忠興は、家康に従って会津の上杉攻めに向かってしまったので、不在でした。 丹後に残された幽斎は、兵を集めても5百人ぐらいにしかなりませんでした。そこで、彼は地理的に不利な宮津城を焼き払い、田辺城に籠城する決意をしたのでした。

 

その田辺城には、幽斎の頃に築かれたと思われる本丸の石垣が残っています。
細川軍の兵の数は圧倒的に不利だったのですけど、籠城は50日にも及びました。その間、援軍の見込みはなく、勝利はおろか落城寸前にまで追い込まれていました。
その一方で、田辺城の制圧に参加していた西軍の諸将の中には、幽斎を歌道の師として崇拝する者がいくらかいて、彼らには城を攻め落とすことにためらいがありました。 また、幽斎の弟子の一人である八条宮智仁親王や、彼の兄の後陽成天皇も、幽斎の討ち死にによって古今伝授が廃絶することを恐れていました。 そのような中で、八条宮は幽斎に田辺城を開城するように説得したのですけど、彼は断固拒否 「城を明け渡すぐらいなら、自害したほうがまだマシ 」って、このようなところで武士らしいところを出すなんて………

 

田辺城跡に造られた舞鶴公園には、このような石碑が立てられています。 達筆過ぎて読めないのですけど………
「古へも 今もかはらぬ 世の中に 心のたねを のこすことの葉」と、刻まれているそうです。これを現代語に訳すと………
変わらない悠久の時の流れの中に、和歌は言葉によって心の種を残していくものです。そのように私の歌と心も残るならば有難いことです。
幽斎は八条宮に宛てて、開城を断る書状にこの一文を添えました。 そうしたら、今度は後陽成天皇から幽斎と西軍の双方に、開城の勅命が届けられたのです 天皇の勅命とあっては、逆らうワケにはいきません。 西軍はただちに包囲を解き、幽斎の身は亀山城に預けられることに。これをもって、田辺城の戦いは幕を閉じました。

 

その籠城戦の間に関ヶ原の戦いは終わっていたのですけど、徳川家康は「東軍が勝てたのは、丹後の西軍が田辺城に釘付けになっていて、合戦に加わらなかったおかげである 」と、幽斎を誉め称えました。
忠興は関ヶ原の戦いの功績によって、豊前小倉藩39万9千石に栄転。一方の幽斎は、京都吉田で悠々自適な晩年を送ったと云われています。 そして慶長15年(1610年)8月20日に、77歳でその生涯を終えました。 

 

田辺城の見学を終えた私とたつぴは、今度は福知山に向かいました。 その市役所の裏にある伯耆丸公園という高台からは、いい感じで福知山城が見えました。 かつてはこちらの山とお城の本丸は地続きで、その間が二の丸となっていたのですけど、明治以降に切り崩され、本丸が孤立したような状態となっています。

 

市役所の前からは、いい感じで福知山城を眺めることができました。
といったトコで、福知山城の説明をさせていただきます。 このお城は、天正7年(1579年)に織田信長の命によって丹波を平定した明智光秀が、統治の拠点として築きました。その後城主が代わったりしたのですけど、慶長5年(1600年)頃に完成したとされています。 明治初期に取り壊されたのですけど、昭和61年(1986年)に大天守と小天守が外観のみ復元されました。
そうしたら、今からそちらに向かいますよ

その本丸までは、麓からちょっと急な坂を上っていきます。 最近運動不足を自覚し始めたたつぴは、早くも息を切らせております。 そういう私は……… まだ大丈夫ですよっ

 

ハアハア……… 山頂部に釣鐘門が見えてきました。 小ぢんまりとしているのですけど、明治時代の古写真などの資料をもとにして、平成20年(2008年)に復元されました。

そして、私たちはようやく本丸にたどり着きました。 こちらでは、自動販売機に描かれた、新たな解釈(?)によるイケメン光秀が出迎えてくれました。

 

ちなみに向こうに見える建物は、銅門続櫓(あかがねもんつづきやぐら)にございます。 この建物はかつては二の丸の入口にあったのですけど、明治以降に小天守台に移築され、さらに大天守と小天守の復元にともなって、ちょっとズラした現在の場所に落ち着きました。 しかし「麒麟がくる」の来客に備えているのでしょうか?お城ではあちこちで舗装工事がおこなわれていて立ち入り制限もあり、私たちは銅門続櫓には近づくことができませんでした。

 

それに、ただでさえ本丸からの距離が近すぎて、天守の全体像が撮りにくいというのに、その立ち位置も限られていました。 それでも、東側は大丈夫みたいなので、今度はそちらに廻っていきます。

 

その大天守台の石垣には、灯籠や墓石などが転用されています。 これらから、築城時に石材の調達に苦労したことがうかがえます。

 

さらにその向こうには、豊磐井(とよいわのい)があります。福知山城の本丸は麓から20mの高さのところにあるのですけど、この井戸は岩盤をくり貫き、さらに地上より30mもの深さまで掘られています。 合わせて50mもあり、今でも水を湛えているそうです。
その後方に見える建物が、大天守と小天守なのですけど………

 

こちら側からでも、近すぎてフレームに収まりきれません。

 

それでも、朝暉神社の裏側まで下がったら、なんとか格好がつきましたよ 前フリが長くなってしまったのですけど、いよいよその内部に入りますよ

って、そ、そんな……… せっかくここまで来たのにぃ~!

 

※白黒茶々さん、中には誰もいないので、叩いてもムダですよ。(編集部注)
なんちゃって 実はこうなっていることは、事前の情報で知っていたのですよ。 それでも、せめて写真だけでも撮っておきたくて、私たちはここまで来たのでした。そのような状況を知ってか知らずか、私たち以外にもお城を訪れる人はけっこういました。

台風によって列車が遅れたり運休したりする恐れがあったので、私はホテルを出る前に、今回の旅行のスケジュールを練り直していました。 メインだった天空の竹田城は断念し、午前中に予定を切り上げて早めに帰路に就けば、多少遅れることがあっても、無事に帰ることができるでしょう。

 

その前に、こちらでお昼御飯を食べていくことにしましょう この地方のご当地食を調べたら、福知山駅の北側にあるこちらの丹波粉もの屋というお店で、ゴム焼そばなるB級グルメが食べられるということがわかりました。私は前日の昼にも焼きそばを食べたのですけど、この際気にしないことにします。 ガラガラ……… いらっしゃいませ

単品でもよさそうなのですけど、やはり旅行を切り上げる前にはがっつり食べておきたいですね。 なので、いろいろ付いているゴム焼そばランチにしておきましょう そのお店のテレビでは、終戦記念日の戦没者追悼式の中継をやっていました。そうしているうちに正午を迎えたので、私たちはその場で黙祷しました。

 

それからしばらくして、注文の品が運ばれてきました。ゴムを称することから、やはり弾力や伸縮性のある麺なのでしょうか?とにかく、いっただきま~す  ぞぞぞ………
ふおっ 私の予想に反して、麺はやや固めでしたよ。これは、固いゴムをイメージしているのでしょうか?それでも、独自のトマトソースと相まって、ご飯が進みました。

お腹も心も満たされた私たちは、福知山駅から帰りの列車に乗っていくことに。 ところが、予定していた山陰本線はすでに不通になっているというではありませんか 兵庫県内のJR線は、早々と運行を取り止めたみたいです。この段階で運行していたのは、舞鶴線の東舞鶴行きと、福知山線の篠山口行きの2本のみ。それならば、まずは舞鶴線で東舞鶴まで行って、そこから日本海側を通る小浜線を経由して、北陸の敦賀方面に落ち延びる手は使えないでしょうか? そのことを駅員さんに聞いてみたら……… えっ、東舞鶴から先は不通になっていて、そこから接続する列車はないですって これによって、1つの退路は絶たれました。
残るは福知山線の篠山口行きだけなのですけど……… それは福知山駅からの最終列車となり、篠山口から先はすでに不通になっているそうです。 そのような状況となってしまったのですけど、その列車に乗るか?乗らないか?やはり、行けるところまで行ってから、そこから先のことを考えることにしましょう。

………という流れで篠山口駅にまで来たのですけど、ここから先の足はありません。 丹波篠山にとても失礼なのですけど、このような中途半端なところで投げ出されたら、困ります。 ここで明日の朝になるのを待つとしても、この周辺にはホテルの類は見当たりませんし。もしあったとしても、いきなり行って部屋が空いているかどうか。そうしたら、台風が来るというのに、野宿するしかないのでしょうか?まさかそのような中で、駅から閉め出されるなんてことはないですよね? それよりも、私とたつぴは、翌日は双方とも仕事があるのですけど……… 細川幽斎だけではなく、私たちも絶体絶命となっていました。 このような状況の中で、助かる手段はあるのでしょうか?次回の日記に続けさせていただきます。



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