波と狛のつれづれ日記

日本スピッツ波と狛と、ときどき箔

あの夏の日に漂着した蓮華寺池公園

2023-07-29 01:54:38 | 一人旅

こんばんは、白黒茶々です。

夏といえば、高校野球で盛り上がる時季でもありますよね 私の母校の新居高校は、昨夏は部員不足で他の高校と合同のチームで出場したのですけど、今年はいくらかの新入部員が入部してくれたおかげで、2年ぶりに単独で参戦できるようになりました。 そうしたら、そのチームの試合を観に行きたいですね。 こうなったら、相手はどこになっても構いません 私が観に行ける日程のクジを引いてさえもらえれば。

ところが、私があれほど「土曜日は絶対に休めないから、その曜日にだけはしないでくれ 」と言っておいた(?)のに、土曜日に出番を迎えることになってしまいました。 何回週間天気予報を見ても、雨で日程がズレそうにないですし。 母校の野球部の応援は、今年も絶望的です。 しかし、泣いてばかりはいられません こうなったら代わりに他の学校の試合を観て、溜飲を下げることにしましょう。 このような流れで、ターゲットとなったところは……… 浜松大平台高校 その学校はたつぴの母校ですし、昨夏は彼と一緒に応援に行きましたし、校歌も歌えますし……… ちなみにその対戦相手は、甲子園の出場経験もある強豪校の常葉大学橘高校 決戦の舞台は、静岡市清水区にある清水庵原球場となりました。

そしていよいよその両校の試合がおこなわれる、7月9日の日曜日になりました。 その日は曇り時々雨の微妙な予報となっていましたけど、きっと大丈夫でしょう。 というよりは、試合の可否が発表されるまで待っていたら試合に間に合わないので、球場に向かいながら待つしかありませんでした。 自宅から目的地までは113km。その道中で何回か雨に降られたのですけど、スマホにはなかなか試合の情報は出てきませんでした。 そのようにして、80kmほど来たところで「本日は悪天候のため、全ての試合は中止」という発表がありました。 そんな……… しばらくは呆然としてしまいましたけど、せっかくここまで来たのに、まっすぐ帰るのはもったいない と、気持ちを切り替えて………
その「白黒茶々氏・第105回全国高等学校野球選手権静岡大会1回戦雨天中止の発表閲覧の地」から程近いところにある………

藤枝市の蓮華寺池公園にやって来ました

こちらは一昨年の藤の花が満開になる時季に、を連れて来て以来となります。 その頃はまだコロナ対策が厳しくて、池のまわりを反時計回りにしか歩けないようになっていましたね。 その池の畔には………

蓮華寺池公園から程近い街中にあった、旧藤枝製茶貿易商館 築120年以上にもなるとんがり屋根が印象的なこの建物の一部を移して、活用する計画が立てられていました。 それから2年後となるこの日には………

こうなっていました。おしゃれな外観はほぼそのまま再現され、「とんがりぼう」という愛称で呼ばれるカフェとなっていました。 気になるその内部は………

最上階までは吹き抜け構造の、開放的な空間となっていました。 梁など、一部の旧材が転用されているのですけど、ほぼ新築でした。 文化財としての価値はなく、老朽化も進んでいたので、このような形となっても受け継いでもらえてよかったです。

そのほぼ対岸となる公園の一角には、藤枝市郷土博物館があります。

その博物館では、現在放送中の「どうする家康」にあやかって「徳川家康と田中城」という企画展がおこなわれていました。 実は私は、コレが目当てでここまで来たのですよ 藤枝は遠くてなかなか寄る機会がなかったのですけど、突然チャンスが巡ってきました。 そうしたら、特別展とはいっても良心的な400円の入場料を払って、いざその館内へ。

有史以前からの藤枝市の歴史に関する史料や展示がなされている常設展を見てから、私は企画展のエリアに入っていきました。 田中城は藤枝市内にあったお城で、徳川家と武田家の攻防戦がおこなわれました。 博物館では今回の企画展に合わせて、その様子を再現したアニメが上映されていました。
またそのお城は、江戸時代に入ってからは、徳川家康の鷹狩りの際の宿泊所にもなりました。 元和2年(1616年)1月、家康は田中城で薦められた鯛の天ぷらに舌鼓を打ちました。 しかし、その日の夜に発病。 以前から胃癌を患っていたみたいで、鯛の天ぷらが発端となって症状が悪化したと思われます。 そしてその3ヶ月後に、駿府城で亡くなりました。 なので、藤枝は家康にとっては人生最後の鷹狩りと宴会をおこなった地となりました。

手製と思われる金陀美具足がフォトスポットとして置かれていたのですけど、その先は撮影禁止となっていました。 皆さまにはお見せできないのですけど、東照公(徳川家康)の木造座像や、家康から贈られたという三つ葉葵の家紋入りの茶道具、お万の方(家康がお手付けしたほうではなく、2人目というか……… 徳川御三家の紀州と水戸の藩祖となった頼宣頼房の生母のほう)が愛用していた化粧道具、田中城主となった本多忠重が関ヶ原の戦いで使用した虎の旗指物、………などが並べられていました。 それらの実物を、ガラスケースを隔てて間近で見ることができるなんて 貴重な体験をしました。

それだけではなく、「ふじえだ家康ワールド展」と銘打って、造形作家が手掛けた徳川家康の人形などが飾られていました。

その中には、193cmの大谷(翔平)君の等身大の人形も、なぜか混ざっていました。 これは、子供を喜ばせるためでしょうか?

しかも、井伊直政の兜をかぶっておられる そんな彼の隣には、松潤を意識したような金陀美の甲冑姿の家康と、厳つい表情の織田信長の姿も

苦悶に満ちた……… というよりは、漫画チックでもある「しかみ像」の隣には、鯛の天ぷらを食べる家康像が いや、その鯛は尾頭付きのまるまる1匹というか、たい焼きにも見えてしまいます。 それらに加えて、手製の甲冑の装着体験もできるようになっていたので………

さっそく試してみました これは徳川家康金陀美具足ですね。 さらにもう1種類あったので………

こちらも見逃しませんでした♪こちらは本多忠勝のものですけど、大きな数珠を肩に掛けるのを忘れていました。 また、私が手にしているのは蜻蛉切の槍と思われるのですけど、殺傷能力はありません。
蓮華寺池公園と郷土博物館だけでも充分楽しむことができたのですけど、天気が快復してきて時間も余っていたので………

大井川鐵道新金谷駅に寄っていくことにしました。 趣のある木造の駅舎は昭和2年(1927年)に建てられたもので、国の登録有形文化財に指定されています。 実はこの時季はこの駅を発着点として、きかんしゃトーマス号が運行されているのですよ さらに正午過ぎには、そのトーマス号が転車台に乗って回るところも見ることができるのですよ それにしても、その時間が迫っているというのに、やけに静かですね。 その現場を見に行ったら………

トーマス号はあったのですけど、動く気配はありませんでした。 そこで、きかんしゃトーマスイベントについて検索してみたら……… そのイベントは主に金・土・日・月におこなわれているのですけど、この日は休みでした。 そうでしたか……… そうしたら今度は波と狛を連れて、トーマス号が走っているところを見たいですね。 今年は土砂崩れの影響で、今までとは勝手が違うのですけど、年末まで運行しているので、応援の意味も込めて都合をつけるようにしたいです。


にほんブログ村 犬ブログ スピッツへ   にほんブログ村 犬ブログへ
 直江兼続の「愛」の前立ての兜をかぶった大谷君を見てみたいという方は、こちらに投票してやってください。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マンガ家とアニメの聖地、あと朝ドラも!

2023-06-17 01:11:30 | 一人旅

こんばんは、白黒茶々です。

日本最大の規模を誇る江戸城を散策し、その疲れと空腹を癒すためにさぼうる2さんを訪れた私。 ところが、そのお店には臨時休業という(私にとっては)あまりにも残酷な告知が張り出されていたのでした。 胃袋はすっかり受け入れ態勢になっているというのに……… どうする、どうなる白黒茶々さん
「さぼうる2さんがダメだったら、せめてさぼうるさんのほうでドリンク類を飲んで、一息入れていくようにしよう

………と、瞬時に気持ちを切り替えたのに、姉妹店どうしということもあって一蓮托生でした。 この日は私は午後からも東京見物で巡るところがあるので、いつまでもここで打ちひしがれている場合ではありません。 そういえば、この東京神田神保町は「カレーの街」とも云われていましたよね。 そこで急遽、カレーのお店を調べたら………

さぼうるさんから近いといえなくもないところに、スマトラカレー共栄堂さんというお店を見つけました もう迷いません 今回はこちらでお昼を食べていくことにしましょう。 共栄堂さんは大正13年(1924年)に創業した老舗で、現在はビルの地下1階にあります。

カレーの専門店ということもあって種類は少なく、カレーで勝負しているのが伝わってきました。 それらのメニューの中で、私はポークカレー(1100円)を選びました。 コーンがベースの野菜ポタージュスープも付いてきて、メインのカレーはカレー皿に入ってくるスタイルですね。 秘伝の20種類のスパイスと野菜のブイヨンを合わせたソースは濃褐色をしていて、一緒に煮込んだ豚肉は柔らかくて独特の風味がありました。 それらを平らげ、コップの水もガブ飲みしてから、再び地下鉄に乗って新宿区の落合南長崎駅まで行きました。 次の目的地は、そこから歩いていけるところにある………

豊島区のトキワ荘跡地でした トキワ荘といえば、マンガ家にとっては聖地と言ってもいいところですよね。 豊島区椎名町5丁目(現在の南長崎3丁目)のこの地に、昭和27年(1952年)に木造2階建てのアパートの上棟式がおこなわれました。 同じ年に上京した手塚治虫先生は、当初は新宿区の八百屋の2階に下宿していたのですけど、昼夜を問わない編集者の出入りの激しさに、お店の主人から苦情を言われるようになりました。 そのような中、学童社の紹介で新築したばかりのトキワ荘に移り住むことに。 これを皮切りにして、学童社は自社の雑誌に連載を持つ漫画家を次々とそのアパートに入居させました。
トキワ荘は新人が切磋琢磨したり、原稿を落としかけた仲間を助けたりする場となり、漫画家の間でコミュニティーが生まれました。 しかし老朽化のために、上棟から30年後の昭和57年(1982年)に解体。 現在はその跡地に、トキワ荘の建物を模したモニュメントが建てられています。

その界隈には、藤子不二雄(分裂前)などのトキワ荘の住人がよく利用していた松葉さんという中華料理店が、今でも営業していて………

戦後マーケットの味楽百貨店の建物を利用した、トキワ荘通り昭和レトロ館も気になるのですけど、今回は素通りしていき………

南長崎花咲公園(トキワ荘公園)にやって来ました こちらにもトキワ荘のモニュメントがあるのですけど、そのアパートの住人となった漫画家たちの名前も刻まれています。 手塚治虫先生を筆頭にして、寺田ヒロオ先生藤子・F・不二雄先生藤子不二雄Ⓐ先生鈴木伸一先生森安なおや先生石ノ森章太郎先生赤塚不二夫先生水野英子先生よこたとくお先生、……… と、漫画界のレジェンドが揃っています。 さらにこの公園の一角には………

トキワ荘を再現する形で、豊島区立トキワ荘マンガミュージアムが建てられているのですよ 3年前に開館したばかりなのに、物凄くレトロ感が漂っています。

その手前には、昭和チックな電話ボックスも立っていますし。

そうしたら、味のある「トキワ荘」の看板を仰ぎ見ながら入っていきますよ 順路は2階からとなるので、きしむ音が出るところまで再現された木の階段を上っていったら………

いきなり私の視界に便所が飛び込んできましたよ 便器のシミまでリアルで、かつては強烈なアンモニア臭がしたそうですけど、令和のトキワ荘のものはあくまでも複製なので、臭いません。 また、その隣には………

こちらも共有スペースの、炊事場となっていました。 汁が残ったどんぶりや、置きっぱなしの徳利などから、生活臭が漂ってきました。

先生方の個室も再現されていて、一部は撮影可能となっていました。 こちらは18号室で、山内ジョージ先生のお部屋です。 石ノ森章太郎先生がアシスタント用にしていた仕事部屋とのことです。 それにしても、四畳半の和室はなんとなく落ち着きますね。

こちらの19号室は、水野英子先生のものです。 柳行季のスーツケース1つで入居してきたということもあって、家具は少ないです。

一方のこちらの20号室は、タンスやテレビ、オーディオなどが所狭しと置かれています。 こちらは鈴木伸一先生森安なおや先生よこたとくお先生の部屋を時期的に入れ替えているそうですけど、この時はどの先生の仕様となるのでしょうか? また、この頃は永井豪先生の企画展がおこなわれていたこともあって………

一室に記念撮影用の顔出しパネルがあったので、溶け込んでみました 永井豪先生といえば、代表作に「デビルマン」「マジンガーZ」がありますね。 そのうちの………

「デビルマン」の原画や資料が、1階の企画展示室に並べられていました。 2階とはうって変わって、こちらは近代的な内装となっているのですけど、撮影禁止。 企画展の入口だけが、撮影スポットとなっていました。 私は小さい頃にリアルタイムで「デビルマン」のアニメを観ていた世代なのですけど、それは異色のヒーローで、ハッピーエンドにはならない作品でした。 しかも、地獄耳でしたし。絵のタッチも怖くて、どんなコワモテの方が描いているのかと思っていたら……… 温厚そうなお顔をしていました。 しかも永井先生は、77歳の現在も連載を持っているというではありませんか 一方の企画展の後半は「マジンガーZ」となるので、気になる方はトキワ荘マンガミュージアムにお越しくださいませ。 私がトキワ荘関連のスポットを見終えたら15時半近くになっていたのですけど、あと1ヶ所どうしても寄っておきたいところがあったので、強行することにしました。 ということで、地下鉄や西武鉄道を乗り継いでいき………

大泉学園駅で降りていきました。 そうしたら、いきなり「銀河鉄道999」の車掌さんが出迎えてくれましたよ そういえば、この駅を出る列車の発車メロディーも、そのアニメのものだったような………

駅を出たところには、「銀河鉄道999」のメインキャラのメーテル星野鉄郎少年の銅像がありましたよ

さらに、「あしたのジョー」矢吹丈や………

「うる星やつら」ラムちゃんも、いたっちゃ あとになって知ったのですけど、昭和33年(1958年)にこの町で日本で初めてのアニメとなる「白蛇伝」が製作されたことから、大泉学園は「日本アニメ発祥の地」と呼ばれるようになったそうです。 さらに「銀河鉄道999」が作られたり、その作者の松本零士先生が住んでいたりしたみたいで。 あと、アニメの作画監督を生業としている私の年上の義理の弟も、駆け出しの頃はこの町に住んでいた、と。 何の予備知識も持たずに来てしまったので、私が大泉学園に来た目的はアニメ関連ではなかったと、お察しくださいませ。
ということでGoogle Earthを頼りにしつつ、入り組んだ道や住宅地を12分程歩いていったら………

今回の最終目的地となる、練馬区立牧野記念庭園にたどり着きました 緑が豊かなこの場所は………

植物学者の牧野富太郎博士の邸宅と庭があったところです。 彼は大正15年(1926年)から昭和32年(1957年)に亡くなるまでの30年あまりの間、この地で過ごしました。 牧野博士といえば………

現在放送されているNHK連続テレビ小説「らんまん」の主人公・槙野万太郎神木隆之介)のモデルとなった人物であります。

牧野博士は文久2年(1862年)に土佐(高知県)の佐川村で造り酒屋の長男として生まれました。 幼い頃に両親を亡くし、その後小学校を中退。 明治17年(1884年)に植物の研究をするために、上京しました。 若い頃は、神木君の配役がピッタリなぐらい男前ですね。

記念庭園の一角の、かつて邸宅があったところには記念館が建てられていて、牧野博士の経歴を記したパネルや、直筆の植物画、植物の採集で使った胴乱、博覧会で購入したドイツ製の顕微鏡などが展示されています。 それらのアイテムは、朝ドラにも出てきましたね。 それに、植物にかける情熱と陽気な性格は、ドラマとまったく一緒ですし。

さらに園内には、牧野博士の書斎書庫の一部が、鞘堂に囲まれて大事に保存されています。 ドラマの放送開始に合わせて、当時の書斎の様子を再現したそうですけど、足の踏み場もないぐらいの、おびただしい量の書籍の数です。

牧野博士は、採取したり知人から取り寄せたりした植物を庭に植えて、「わが植物園 」と言って大切に育てました。

その研究は晩年まで続き、現在でも季節の花を見ることができます。 牧野博士のことをより知ることができて、これほど充実した施設が入場無料とは、なんてありがたいことでしょうか しかし、私が訪れたのは閉館時間の30分ちょっと前だったので、大急ぎで廻らなければなりませんでした。 そんな牧野記念庭園の片隅には………

笹に囲まれた、牧野博士の胸像がありました。 実はこの笹は………

牧野博士が発見した新種で、ドラマのネタバレになったらいけないので多くは言えないのですけど、彼にとって大切な人物でもある寿衛子さんにちなんで「スエコザサ」と名付けました。 万太郎と、浜辺美波さん演じる寿恵子との恋の行方も、気になりますね。
帰りはこだま号に乗ったこともあって、牧野記念庭園を出てから4時間半ほどかけて帰宅。 今回の東京見物は欲張り過ぎただけあって、歩いた歩数は3万歩。距離にしたら、23kmにもなりました。 おかげでしばらく筋肉痛が続き、久しぶりに足の裏に豆を作ってしまいました。 そのぶん充実していたのですけど、牧野博士も大好きな植物を求めて野山を歩き回ったので、94歳まで長生きできたのでは?と、思いました。


にほんブログ村 犬ブログ スピッツへ   にほんブログ村 犬ブログへ
 「銀河鉄道999」の車掌さんの入浴シーンに衝撃を受けた方は、こちらに投票してやってください。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東京に放たれた白黒茶々氏

2023-06-10 01:10:08 | 一人旅

こんばんは、白黒茶々です。

甥っ子たちの結婚式の3日後となる5月17日は、私は仕事関係の用事で東京に行くことになっていました。 その行事は、東京都港区にあるいろんな意味で高いホテルでおこなわれるのですけど、それは夕方からということもあって、午前は通常通りに仕事をしていきました。

………ということで、やって来ましたよ こちらは浜松駅の新幹線口で、その地元企業のスズキのブースには、アルトなどが飾ってあります。 このような感じで、新大阪駅ダイハツ車広島駅ではマツダ車が出迎えてくれるのですよね。

さらに、浜松の代表的な産業でもある楽器会社の河合楽器の高級なピアノも置いてありました。 YAMAHAと交互に出展していて、自由に弾くことができるストリートピアノとなっています。 しかし、私にはそれを奏でる腕はありません。

それはさておき、今回はこの浜松駅から新幹線に乗っていくのですよ たまにこちらに止まるひかり号に乗れば、1時間18分で品川駅に着いてしまうのですけど、その間に寝るのはもったいないですよね。

富士川を渡っているところで、富士山が見えてきましたよ 日曜日とはうって変わって、この日は晴れ。いや、東京は30℃まで上がるみたいで、晴れを通り越して炎天下になりそうです。 それよりも、私がこのあたりを通る際に富士山が見える確率は、ほぼ100パーセントということに。 そして、14時半頃に品川駅に着いたのですけど、この日の用事まで時間が有り余っていますよ。 そうしたら、タクシーで直接ホテルに行かないで、その近くにある増上寺の前で降ろしてもらうことにしましょう。 そのお寺は翌日の朝に見学する予定なのですけど、先に見ておけばその日のスケジュールに余裕ができます。

う~む……… 思いっきり逆光ですね。 これでは増上寺さんが実力を出し切る(?)ことができないので、次の日に出直してくることにしましょう。 そして、こちらから歩いて8分程で………

目的地となる、ザ・プリンスパークタワー東京にたどり着きましたよ こちらでの式典は、コロナ禍で中止になったり他の社員(母や姉)が行ったりしたこともあって、私にとっては7年ぶりとなります。

その式典の受付が始まるのは16時半。 それまで客室でくつろぐことにしましょう。 それにしても、豪華な部屋ですね。 朝までここで過ごしたいのですけど……… ダメですよね。

とかなんとかやっているうちに、受付の時間となりました。 今回の目的は、こちらのホテルでおこなわれるタイヤメーカーの横浜ゴムによる感謝式であります。

全国から、そのメーカーの商品をある程度売り上げたお店が招待されたのですけど、その数は350余り。 横浜ゴムの社長や重役からの挨拶や、優秀なお店の表彰、名前の読み上げなどを経てから………

(私にとっては)お楽しみの懇親会の時間となりました 結婚式から舌の根も乾かないうちに、ご馳走にありつけるなんて ちなみにこちらは、前菜の青菜とうす揚げのお浸し白身魚南蛮漬け桜豆腐・山葵・蟹甲餡鰊旨煮・山椒卸し和えにございます。

続いて、メインディッシュとなる松花堂弁当の、シャルキュトリーシーザーサラダバロンティンチキンとチキンコンフィマッシュポテトと温野菜添え(長い )、茸入りトマトソース銀鮭西京焼き海老袱紗(ふくさ)玉子栗甘露煮青唐鰻蒲焼き焼き豆腐結び白滝桜麩であります。

さらに御飯&汁物の、穴子焼きちらし小丼香の物二種味噌汁が出てきました。

締めのデザートは、ガトーショコラ・マスカルポーネクリームフルーツとアプリコットソースですね。 それらの他に、刺身のお造りと豆菓子の盛り合わせも出てきたのですけど、それらは先に食べちゃって……… いや、写真に撮れませんでした。

そのような中で「ヨコハマタイヤのイメージキャラクターでもある、吉岡里帆さんからメッセージがあります」というので、本人が登場することを期待していたのですけど、ビデオでの出演でした。 しかも、彼女の隣にはアイスガード7でお馴染みのウルトラセブンがいて「ジョワッ 」とか言っていましたし。

その代わりといってはナンですけど、出し物としてサンドアートが用意されていました。 その道の方が、音楽が流れる中で、砂で絵を描いたり消したり付け加えたりして、それらを紡いでいくと1つの物語になるのですよね。 しかもその中に、さりげなくタイヤを書き加えるという心憎い演出もしてくれましたし。

それらが終わったら、私は客室に戻りました。  その部屋の位置が反対側で東京タワービューとはいきませんでしたけど、12階から見る都会の夜景は綺麗でした。 それから夜が明けて………

これはホテルの吹き抜けを下から見上げた図です。 その最上階となる33階には、ビュッフェ形式のレストランがあって………

私はそこでモーニングをいただきました あ、オムレツは目の前でコックさんに焼いてもらいました。 種類が豊富なうえにどれも美味しそうで、目移りしてしまうのですけど、この歳になると限界があるのですよね。 なので、今回は量を盛るよりも、なるべく絞ることに重点を置いて……… って、それでも多いですって? 実はすべて平らげてからも、シリアルとケーキをいただく程の勢いがあったので、大丈夫です。

そのレストランからは、近くの東京タワーを俯瞰することができました。 この日は平日の木曜日で、実は東京見物をするためにまる1日休みをもらっていたのですよ 私にとって東京は、4月の日本スピッツ協会の展覧会(本部展)以来なのですけど、今回はワンコ連れではないので、より小回りが利きます。 そのようにして、東京に放たれた田舎者が最初に向かったところは………

ホテルから歩いて6分程の芝公園の中にある、芝東照宮でした。 東照宮は東照大権現こと徳川家康公を祀った神社のことで、実はこちらにも由緒ある東照宮があったのですよ

芝東照宮は、家康公が亡くなった翌年の元和3年(1617年)に増上寺の境内に創建されました。 しかし、絢爛豪華な拝殿などの建物は昭和20年(1945年)の太平洋戦争の空襲で焼失してしまい………

昭和44年(1969年)に、かつて本殿があったあたりに現在の社殿が建てられました。 こちらには、家康公の存命中に彫られた等身大の座像が御神体として祀られています。 その東照宮を参拝したら………

増上寺に向かうのですけど、その間にあるこちらの門をスルーしてはいけません この建物は、台徳院霊廟の惣門です。台徳院は徳川2代将軍秀忠のことで、彼を祀った霊廟は戦災で焼失してしまったのですけど、惣門は焼け残りました。その後、曳家によって現在の場所に移されました。

そして、ようやく増上寺に行き着きましたよ 朱色がまばゆい建物は三解脱門で、元和8年(1622年)に建立されました。 その門を潜っていくと………

東京タワーを背負った(?)大殿がどど~んと、聳え立っています。 増上寺は明徳四年(1393年)、酉誉聖聰(ゆうよしょうそう)上人によって開かれました。 その後徳川家の菩提寺となり、慶長3年(1598年)に現在の芝の地に移転。 その後規模を拡大していき、最盛期には境内は現在の東京タワーや芝公園を含む一体にまで及びました。 しかし、戦災によって多くの伽藍を失い、昭和49年(1974年)に大殿が再建されました。 その裏のほうには………

徳川将軍家墓所があります。 徳川将軍の2代秀忠、5代綱吉、7代家継、9代家重、12代家慶、14代家茂はかつては広大な境内に点在する霊廟に祀られていたのですけど、戦後になって彼らはこの場所に改葬されました。 それだけではなく、彼らの正室の崇源院お江)、静寛院和宮)なども含めた38人が祀られているのですけど、まだお詣りできる時間になっていませんでした。 私は増上寺を出てから西のほうに歩いていき………

今度は煌びやかな門に差し掛かりました。 こちらは有章院霊廟の二天門であります。有章院は7代将軍家継のことで、彼は4歳で将軍職に就いたのですけど、8歳(いずれも数え年)で逝去。 亡骸は増上寺に葬られ、霊廟は戦災で焼失したのですけど、二天門は現存しています。

さらに、都営地下鉄三田線御成門駅の近くには、その名もズバリ御成門がひっそりと立っています。 もともと増上寺の裏門だったのですけど、徳川将軍が参拝する際によく用いられたことから「御成門」と呼ばれるようになりました。 明治25年(1882年)に、現在地に移築。 貴重な遺構なのですけど、文化財の指定は受けてなくて、所々に損傷が見られます。
そんな御成門を仰ぎ見てから、私は御成門駅で地下鉄に乗っていきました。これから私の東京見物はより本格化していくのですけど、何が飛び出てくるのかは楽しみにしていてくださいませ


にほんブログ村 犬ブログ スピッツへ   にほんブログ村 犬ブログへ
 バイキングのお店でのテーマ曲は、桂雀三郎 with まんぷくブラザースの「ヨーデル食べ放題」に決めているという方は、こちらに投票してやってください。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

グランドオープンまで待ちきれない!どうする家康浜松大河ドラマ館

2023-03-08 01:44:17 | 一人旅

こんばんは、白黒茶々です。

住んでいる地元がドラマなどの舞台になると、テンションが上がりますよね。 さらにそれが大河ドラマだったりすると、自治体が大河ドラマ館を造ってより盛り上げようとするのがお約束となっています。 正確には私たちの隣町になるのですけど、「どうする家康」の放送に合わせて、そのような施設が浜松市の浜松城の隣接地に建てられました。 私は最初から行く気満々で、その前売り券を買っていました。
ただし正式なオープンは、ドラマの中で徳川家康松本潤)が浜松に移り住むのに合わせて3月18日なのですけど、1月22日から2月いっぱいまでの間はプレオープンとして、前段階の内容を見ることができるようになりました。 しかも前売り券を持っていけば、プレオープン期間中は1回無料で入れるというではありませんか 1粒で2度美味しいというか……… これは見逃すワケにはいきません

………ということで、プレオープン真っ只中となる2月5日にやって来ましたよ 大河ドラマ館……… ではなく、その近くにある浜松城ですけど。 それから、今回私は2シーターのFR車で来たので、波と狛は乗せることができなくて、やむを得ず家に置いてきました。 ただし、皆さまが想像されるような(?)スポーツカーの類ではなく、軽トラックです。 私は愛車のMPVが故障してから車無しの生活が続き、実家でこの日借りられるのはその車しかなかったのですよ。 こうなったら、代わりの足があるだけでもありがたくて、今回は波や狛に気兼ねすることなく見学できると思うことにしましょう。 ただし、大河ドラマ館が開くまでまだ1時間以上もあるので………

市内の中区元浜町にある、椿姫観音まで歩いていきました。 こちらは前回の日記の最後に触れた、「家康の散歩道」のコースの1つでもあります。 街角にある小さなお堂ですけど………

まずはお詣りしましょう。 ちなみに「椿姫」とは………

「どうする家康」で、関水渚さんが演じているお田鶴(の方)のことです。 彼女は築山殿瀬名有村架純)と母同士が義理の姉妹ということもあって、お互いに深く関わっていました。 ドラマのネタバレになってしまいますけど、のちに彼女は亡き夫・飯尾(豊前守)連龍に代わって、引馬城の女城主となりました。 しかし、遠江に進攻してきた徳川家康と対決することに。 家康は助命を条件にしてお城を明け渡すことを求めたのですけど、お田鶴の方は断固拒否 その戦いによって、18人の侍女とともに命を落としてしまいました。
築山殿はお田鶴の方の死を悼み、彼女を葬った塚に100株もの椿を植えました。 それらの椿は毎年美しい花を咲かせ、椿の塚から椿姫と呼ばれるようになりました。

昭和19年(1944年)に、現在地に塚に代わる観音堂が建てられたのですけど、翌年の空襲で焼失。 昭和27年(1932年)に再建され、現在に至ります。 ちなみにお田鶴の方については、波狛日記の人物伝で採り挙げたことがあります。ドラマで関水渚さんのお田鶴が討ち死にしたら、訪問者が泣きながらこちらに殺到するかも知れませんね。
そんなお田鶴の方たちのことを偲んでから、さらに私は南に10分ほど歩いていき………

遠鉄の遠州病院駅の脇にある、徳川秀忠公誕生の井戸というところに行き着きました。 秀忠は徳川幕府の2代目の将軍となる人物で、家康の3男。家康の側室の西郷の局お愛の方)がこの付近の屋敷で秀忠を産んだとされています。 なので、近年になって産湯に使われた井戸がモニュメント的に造られました。 実は私もこの近くにあった病院で生まれたので、このあたりは「茶々さん出生の地」でもあるのですよ。

それはさておき、「家康の散歩道」では起点となる徳川秀忠公誕生の井戸をもって、私の中ではそのコースを完結することができました。 昨年のクリスマスに犀ヶ崖夏目次郎左衛門吉信の碑を訪れるところから初めて、1月半ばに寄ったお寺では愛車が走行不能となるトラブルに遭いました。 そして今回、私のゴールを祝ってくれる(?)波と狛はいないのですけど、3回に分けてようやく揃いました。 静かな終わり方となってしまいましたけど、そうしたらそろそろこの日のメインとなるどうする家康浜松大河ドラマ館に向かうことにしましょう。

その敷地の前には、すでにたくさんの人が集まっていました。 とはいっても、開館前から並んだほうがより混雑を避けられるので、私は6年前の「おんな城主直虎」の大河ドラマ館でも同じようにしました。 そして、開館10分前になったら門が開けられ、さらに10時には入場の受け付けが始まりました。

その入口には、プレオープンのタイトルが。

戦国時代の砦を思わせる木柵を突破すると………

これまでに放送されてきたすべての大河ドラマの概要が、パネルで展示されていました。 題字のロゴも忠実に再現されていますね。

さらにその先には、歴代の大河ドラマで徳川家康が出てきた作品が集められていました。

それらの中で、昭和58年(1983年)に放送された「徳川家康」が、私は最も好きで印象深いものとなりました。 この作品から大河ドラマを観るようになり、前回の日記では三方ヶ原の戦いのあとにあった脱糞のシーンを振り返ってしまいました。 それから、織田信長役を役所広司さん豊臣秀吉武田鉄矢さん本多作左衛門長門裕之さん築山殿(瀬名)池上季実子さん西郷の局(お愛の方)竹下景子さん淀殿夏目雅子さんがやっていたなんて、豪華だと思いませんか?

徳川家康といえば、「独眼竜政宗」「葵 徳川三代」でその役を演じた津川雅彦さんが有名ですよね。 しかし彼の家康はクセが強くて、好き嫌いが分かれると思います。

そういえば、郷ひろみさんも家康の役をやっていましたね。 ちなみに彼が出ていたのは、緒形直人さんが主演を務めた「信長 KING OF ZIPANG」にございます。

あと「真田丸」では、内野聖陽さんが家康を演じていました。 しかし、そのドラマでは主役の真田信繁幸村堺雅人)にとっては家康は悪役で、三谷幸喜さんの脚本が絶妙なうえに内野さんの演技もそれに忠実だったこともあって、大河ドラマ史上最も憎ったらしい家康となりました。 私は家康のことはずっと応援してきたのですけど、内野家康には石をぶつけたくなりました。

館内にはパネルだけではなく、歴代大河に出てきた徳川家康の一部の衣裳も展示してありました。 渋沢栄一吉沢亮)を採り挙げた「青天を衝け」は近代史なのに、北大路欣也さんが「こんばんは、徳川家康です」とか言ってそのドラマのコーディネーターをやったのには、度肝を抜かれました。 その彼が実際に身につけた衣裳が、私の目の前に

徳川家康といえば、全身金ピカの金陀美具足が有名ですよね ドラマの大部分が浜松が舞台となった「おんな城主直虎」では阿部サダヲさんが家康を演じて、この具足も着用しました。

大河ドラマ館の出口付近には、松潤家康有村瀬名のパネルが置かれています。彼らの間に割り入って3ショットを撮ったりするフォトスポットとなっているのですけど、スマホスタンドなどは設けられていません。 この日私は単独で来たので、残念ながら一緒に写ることはできませんでした。

その建物の隣は、チケット売場と発掘された浜松城の本丸の隅の石垣を保存&展示する施設となっています。 その石材として、天守曲輪と同じ珪岩(チャート)が使われています。 浜松城の本丸はこの位置まであったのですけど、明治以降に半分ほど削られてしまったのですよ。

あと、インフォメーションと家康ショップが一体となった施設もあります。 こちらでは、「どうする家康」のグッズだけではなく、うなぎパイなどのご当地の名物も買うことができます。

その外にはたくさんの「徳川家康公ゆかりの地」ののぼりが立っていて、さらにその中には私の地元の湖西市のものがありましたよ いちおう徳川と今川の攻防戦がおこなわれた宇津山城跡がありますし、彼の側室となった西郡の方於万の方にもゆかりがあるのですけど。
それらを撮っていたら、スマホの画面に「QRコードの読み取り成功」と出てきました。 面白そうなので、さっそくタップしてみます
※茶々さん、おやめください!思いっきり怪しいですし、何が出てくるかわかりませんよ。(編集部・警告)

そうしたら、このようなものが出てきました。 モノタロウの替コテ先って、徳川家康や「どうする家康」とどういう関係があるのでしょうか? それはさておき、ドラマの舞台が浜松に移ったら、地元だけではなく私のテンションもさらに上がりそうです。 大河ドラマ館がグランドオープンしたら、また見に来ます。



にほんブログ村 犬ブログ スピッツへ   にほんブログ村 犬ブログへ
 旅行先のグッズといえば……… ノリで買ってしまった木刀の活用法を、いまだに模索されている方は、こちらに投票してやってください。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

実はスゴいところだった、玉藻公園と栗林公園(高知・高松紀行その4)

2018-09-01 01:34:12 | 一人旅
こんばんは、白黒茶々です。
前回の日記の最後に、私はこの一人旅では唯一の宿泊地となる近江屋……… じゃなくて、ファーストイン高松にチェックインしました。 こちらも寝てしまえば、翌朝まで一気にワープしてしまうのですけど、朝になったら朝風呂に入ってから朝御飯をいただくことにしましょう。 気になるその内容は………



ご飯と味噌汁、焼魚、切り干し大根のおひたし、味付けのり、………と、和朝食でした。 それらを平らげて仕度ができたら、早々と観光に出ますよ すでに前回の日記の最後にヒントというか、答えが出ているのですけど、この日私が最初に向かったところは………



なぜかレクザムホール(香川県民ホール)の敷地内に入っていったのでした。 その一角には、お城の石垣みたいなものがあるような……… と、思われたそこのアナタは鋭いです こちらは高松城の東丸跡で、その石垣の上には昭和40年(1965年)まで高松城の貴重な建築遺構となる艮櫓(うしとらやぐら)が建っていたのですよ。 しかし、この場所での保存は難しくなったので………



桜の馬場の一角の、太鼓櫓跡に移築されました。 昨夜見た旧東丸艮櫓が、その現在の姿であります。夜景も美しかったのですけど、快晴の空の下でも白壁が映えていますね。



そのお堀端では、琴電こと琴平電鉄の列車が ひっきりなしに走っていました。 またしても回りくどい案内となってしまいましたけど、いよいよ現在は玉藻公園となっている、高松城跡の敷地内に入りますよ こちらは夏場は早々と朝の7時から開園しているのですよ。 そうしたら、入場料の200円を払って………



園内を散策しますよ ちなみに向こうに見えるのは、本丸二の丸を繋ぐ鞘橋にございます。高松城の本丸はかつては四方が水堀に囲まれていて、この鞘橋が二の丸とを結ぶ唯一の連絡橋となっていました。



北の丸の一角には、延宝4年(1676年)に建てられた月見櫓水手御門渡櫓の一連の建物が現存しています。



それらはお城の外側から見たほうが、わかりやすいですね。 かつてはこの一角は瀬戸内海に直接面していて、それらのなかでも3層の月見櫓は、江戸から帰ってきた藩主の船を望み見たことから「着見櫓」とも呼ばれていました。
高松城は、天正15年(1587年)に豊臣秀吉から讃岐一国を与えられた生駒親正が、その翌年から築いた平城です。生駒氏は4代続いたのですけど、寛永17年(1640年)の生駒騒動によって、その領地を没収 代わりに松平頼重が入城し、お城の大改築を始めました。

頼重は徳川光圀(水戸黄門)の兄なのですけど、徳川3代将軍家光への配慮もあって、水戸藩主の座は光國のほうが継ぐことになりました。 光國は次男である自分が兄を差し置いて水戸藩を継いだことを悔やみ、頼重の子の綱條を水戸藩の次の藩主にしました。一方の頼重も、光國の子の頼常を次の高松藩主として迎え入れました。お互いのことを尊重しあっていて、すばらしい兄弟愛ですね。 以来、両藩の間では養子縁組が繰り返されたのでした。めでたし、めでたし。



………って、危うくここで話を終わらせるところでした。 とにかく、お城の散策を続けさせていただきます。三の丸跡には、高松城や歴代藩主関連の資料を展示している陳列館があるのですけど、こちらの披雲閣も見逃せません。松平氏の時代にも同じ場所に披雲閣と呼ばれる壮大な御殿があったのですけど、明治時代に老朽化のために破却。現在のものは大正6年(1917年)に建てられ、国の重要文化財に指定されています。



その部屋の大半は、貸しスペースとなっているのですけど、この日はこちらの蘇鉄の間が来場者の休憩所として、無料解放されていました。



私が十数年前の前回訪れたときには、本丸の天守台の上には松平頼重を祀った玉藻廟という……… 正確には、すでに他の神社に合祀されて、もぬけの殻の状態だったのですけど、その建物はまだ残っていました。



そこには明治17年(1884年)まで、このような天守が建っていたのですよ。 外観は3層なのですけど、内部は穴蔵構造の地階も含めて5階。上層部の屋根を省いて最上階が張り出す南蛮造りという構造となっていました。それだけではなく、初階も天守台から張り出していて、天守建築としては四国最大の規模を誇っていました。
意匠的にも優れ、三方を囲んでいるお堀に映る姿も美しく、瀬戸内海を渡ってくる船の目印にもなっていたことでしょう。しかし、こちらも老朽化のために取り壊されてしまいました。



高松市はこの天守の復元に備えて、天守台の石垣を積み直したのですけど、文部科学省から「待った 」がかかってしまいました。 高松城は国指定史跡で、そのような場所には法律で正確な復元しか認められないというのです。高松城の天守は、いくつかの古写真から外観はわかっているのですけど、そのちも内部や構造についてはまだ不明な点が多いのですよ。そこで………



当局は、内部の古写真や平面図、雛型などの史料を募っていて、天守の復元が可能となるほどのモノを寄せた人には、3000万円もの懸賞金を賭けることにしたのです そのような一級史料をお持ちの方がいましたら、ぜひご協力くださいませ。



その天守台の下のお堀では、乗舟体験(1回約500円、所要時間30分ほど)の舟がのどかに浮かんでいました。 船頭さんが長い竿で押して進むところが、スゴいですね。



そうしたら、私は1回100円のガチャガチャで購入して、魚の餌やり体験をすることにしましょう



お堀の水面にその餌を撒いたら、魚が寄ってきましたよ しかも、次々と群れが集まってきて、かなり賑やかになりましたし。これは楽しい しかもこの魚は鯉ではなく、鯛なのですよ さらに、鳩がそのおこぼれを狙っていますし。
観察力のある方は、私が餌を購入するところで気付かれたかも知れませんけど、ガチャの機械が「大願成就」ならぬ「鯛願城就」となっているところにも、ヒントが隠されていました。これはおみくじも兼ねていたみたいですけど、私が引いたものには餌しか入っていなかったので、ハズレということに。



高松城は瀬戸内海に張り出す形で築かれた水城で、現在でもこちらの水門で海と繋がっているのですよ。 なのでお堀には海水が行き渡り、鯛の餌やり体験ができる珍しいお城でもあります。 「ここで隠れて釣りをやったら、入れ喰い状態だな」と思いつつ、私は高松城をあとにしました。



まだ10時台ですけど、スケジュール的にも今食べておかなければなりません。それに、香川県に来たからには、やっぱり本場の讃岐うどんはハズせませんね。 ということで、私は高松駅のすぐ近くにある、めりけんやというお店に入りました。
注文形式は全国展開している丸亀製麺とほぼ同じですけど、麺もトッピングも品数が豊富で、つい迷ってしまいます。 そのような中で、私は………



ぶっかけうどんの冷やしに、ちくわ天と野菜天をチョイス(合計570円)しました。弾力があってツルッとしたのど越しの麺が、添えられた大根おろしやかぼすの効果とも相まって、スッキリさっぱり うどん+うどん+天ぷら+………とバリエーションを楽しみつつ、美味しくいただくことができました。



腹ごしらえが済んだら、今回の一人旅の最後の目的地に向かいますよ それはどこかと言いますと……… 日記のタイトルに出ていましたね、はい。その栗林公園には、高松駅から単線&ワンマンの高徳線の列車に乗り、2駅目の栗林公園北口駅(無人駅)で降ります。 そこからさらに10分ほど歩いていくと………



栗林公園の正面入口となる、東門(切手御門)にたどり着きます。あまり知られていないのですけど、先ほど行ってきた玉藻公園(高松城)と栗林公園は連携していて、こちらの券売所に玉藻公園の入場券を提示すると、410円の入場料が320円になるのですよ。 また、逆の場合でも割引きしてもらうことができます。



このあたりで、箔母さんから「家に新しいエアコンが入った」というお知らせがありました。 波ちゃも一緒になって涼んでいるのですけど、その視線は京ちゃに向けられていますね。



そうしたら仕切り直して、思いっきり園内を散策しますよ それにしても視界が開けていて、開放的ですね。



それもそのハズ。栗林公園は広さが23万坪もあり、それは東京ドーム16,25コぶんに相当するのですよ その園内を普通に廻ると、1時間以上もかかります。



こちらの建物は、商工奨励館です。写真には入りきらなかったのですけど、平等院鳳凰堂のように左右対称となっています。明治32年(1899年)に香川県博物館として建設され、現在は休憩スペースやカフェとして活用されています。



こちらの鶴亀松は、110個の石を組み合わせて亀を表現し、その上に鶴が舞っているような松を配しています。
栗林公園は、16世紀後半にこの地方の豪族の佐藤氏によって築庭されたのが最初と云われています。寛永2年(1625年)には、生駒高俊が南湖一帯を造園し、さらに寛永19年(1642年)に入封した松平頼重が引き継ぎました。そして、延享2年(1745年)の頼恭の代に全体が整い、明治に至るまで松平氏の下屋敷として使用されました。 明治8年(1875年)に県立公園として一般に解放され、さらに昭和28年(1953年)に特別名勝に指定され、現在に至ります。



さらにこちらは、梅林橋から臨んだ風景です。 北湖の向こうに見える築山は、芙蓉峰にございます。芙蓉峰は富士山の異名で、言われてみれば確かに、富士山を見立てているようです。



掬月亭は四方正面の数奇屋造りで、庭園の中心的な建物であります。「大茶屋」という名で歴代藩主から愛され、現在は庭園を眺めながらお茶席の抹茶(700円)や煎茶(500円、ともにお菓子付き)のサービスを受けることができます。



園内随一のビュースポットといったら、やっぱりこちらの飛来峰から南湖を経て、掬月亭方面を眺めた風景ですよね ちなみに手前は偃月橋で、後方の紫雲山までも借景として利用しておられる。
栗林公園は日本三大庭園には入ってないのですけど「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン」では「わざわざ旅行する価値があるところ」として紹介され、なかでも園内の松、掬月亭、偃月橋、飛来峰はオススメのポイントとされています。その影響からか、外国人観光客もたくさん来ていました。栗林公園からのレポートは、以上で終わりであります。



あとは在来線を乗り継いで帰るだけです。四国の鉄道の出入口となっている坂出に差し掛かったときに、讃岐富士こと飯野山が姿を現し、私を見送ってくれました。



瀬戸大橋からは瀬戸内海を眺めることができるのですけど、その風景を撮ろうとするとどうしても橋の梁などが写ってしまう なので、与島のパーキングエリア付近の視界が開けたところで撮っておきました。 そして8時間ほどかけて、無事に帰宅することができました。



改めてお土産を並べてみたら、讃岐うどん以外は、きびだんご、一六タルトと、今回の一人旅で寄ったところ以外の名物が混ざっていました。 ま、まあ、いずれのものも美味しいので、いいではありませんか
その道中にあった神社では、「次回はたつぴも連れて来られますように……… いや、来年は親子珍道中ができますように~」と祈願しておきました。 それよりも、皆さまには今回の旅日記の長話に最後までお付き合いしていただき、とても感謝しています。 それから次回は、今回のシリーズではほとんど出番のなかった波ちゃの要望に私が応える予定となっています。


にほんブログ村 犬ブログ スピッツへ   にほんブログ村 犬ブログへ
 きびだんごといえば鼠先輩ですけど、彼が何をやった人なのかどうしても思い出せないという方は、こちらに投票してやってください。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高知の名所と名物を堪能いたす(高知・高松紀行その2)

2018-08-25 01:35:05 | 一人旅
こんばんは、白黒茶々です。
私はお盆休み中の一人旅の真っ只中にいて、高知県高知市に来ています。 早朝に高知駅バスターミナルに到着してから、はりまや橋や山内神社を廻り、山内容堂公の銅像の下であぐらを組んだところで、前回の旅日記は終わりましたね。ということで、今回はその続きから始めさせていただきます。 その山内神社から歩いて行けなくもない場所に次の目的地があり、徒歩10分ほどで………



高知市のシンボルともいうべき、高知城にたどり着きましたよ 手前の立派な門はお城の正門の大手門で、高知城では追手門と表記します。 慶長年間に創建されたのですけど、寛文3年(1663年)に崩壊し、その翌年に再建されました。その後方には天守が聳え立ち、それらが一緒に視界に飛び込んでくる風景は壮観です。



そのすぐ近くには、土佐藩の初代藩主となった山内一豊の騎馬像があります。前の日記に出てきた山内容堂の酒飲み像とは対称的で、勇ましいですね。
高知城は、南北朝時代の14世紀に大高坂松王丸によって築かれたのが、最初と云われています。 戦国時代には、長宗我部元親が岡豊城から移ってきて築城に取りかかったのですけど、治水に難儀してわずか3年で本拠を浦戸城に移してしまいました。その後、関ヶ原の戦いの功績で、山内一豊が土佐24万石が与えられ、遠州掛川より入国し、慶長6年(1601年)から大改築を始めました。



………といったところで、いよいよ天守のあるお城の中心部に向かいますよ その第一歩となる杉ノ段の階段下には、板垣退助の銅像がありました。彼は明治時代に自由民権運動を推し進めた政治家として知られていますけど、土佐藩出身で幕末には山内容堂の側用人を務めたりもしました。 それにしても、高知城の天守を背にして、いい場所に立っておられる。 その先の杉ノ段には………



「山内一豊ノ妻」の銅像があります。彼女は「巧妙が辻」の主人公で、内助の功としてよく知られています。 どちらかというと一豊よりも有名で、しっかりと千代(見性院)という名前があるというのに、この呼び方はどうかと………
一方の一豊は、最初は織田信長臣下の下級武士でした。そんなある時に、馬揃えというイベントがあったのですけど、彼は出たくても乗る馬がなくて出られない状況でした。 そこで千代は、嫁入りの持参金(へそくり)で駿馬を購入し、それに乗って馬揃えに参加した一豊は信長の目に留まり、そのことが立身出世のきっかけとなったのです。



その向かいには、三ノ丸の高石垣が聳えています。 最近修理を終えたばかりで、材質は主にタモリさんの好きなチャート(珪岩)を使っています。高知城といえば、現存する建物に目がいってしまうのですけど、高くて立派な石垣にも見応えがあるのですよ。
さらにもう一段上の、二ノ丸に上っていくのですけど………



その石段の途中から見た本丸方面が、絶景なのですよ 下から続いている石段や高石垣、その上に聳え立つ天守が立体的で……… 城内でも屈指の、ビュースポットとなっております。 その天守には、すでに上っている人がいるみたいですね。8月は開館時間が早まり、8時には開くみたいです。そうしたら、まだ空いているうちに、そちらに向かいますよ



本丸へは、こちらの詰門の二階部分を通って入っていきます。 ちなみに、この建物も現存していて、国の重要文化財に指定されています。



その本丸には、天守と本丸御殿が揃って現存しているのですけど、この時間帯は逆光ぎみですね。 昔からの天守が現存するお城は、高知城も含めて12城。御殿は4城で、両方ともあるのは、高知城のみとなっております。それだけではなく、門や多聞櫓なども含めて、本丸の建物はほぼ完全に残っているので、スゴいことです。
しかし、江戸時代初期に建てられたそれらの建物は、享保12年(1727年)に起こった火災で全焼してしまいました。 ただちに復旧に入ったのですけど、財政難などの理由で20年ほどかけてようやく全容が整いました。それでも、藩主や庶民に愛着があったからなのでしょうか?それらの建物は、創建当初の様式をそのまま踏襲しているのですよ。うんちくはこのくらいにしておいて、いよいよその内部に入りますよ
本丸御殿や天守、東多聞、廊下門を合わせた入場料は420円(MY遊割引きで330円)でした。それから、入ってすぐのところに冷凍庫で冷やしたおしぼりを用意してくれたのは有り難く、思わず「はああぁ~」という声が出てしまいました。



順路は、本丸御殿からとなっていました。 お城の御殿は、城主が政務を執り行ったり、生活空間となる場所で、二ノ丸御殿三ノ丸御殿よりはこぢんまりとしているのですけど、納戸のスペースや城主の指定席となるこちらの上段の間などがそのままの形で残っています。それからその左奥には、武者隠しの間という、お殿様の護衛が待機する小さな隠し部屋も備えられているのですよ。



それからちょっと見づらいのですけど、欄間には黒潮の波のような彫刻が施されていて、とてもおしゃれです。 それらを見て廻ったら、いよいよ天守へ



高知城の天守は外観3層の、こちらもこぢんまりとした建物なのですけど、内部は6階となっております。1階には床下収納があり、天守の中に天守を中心とした高知城の復元模型があるのがなんとも。



上に上がっていくにつれて、徐々に狭くなっていくのですけど、殿様気分に浸れる最上階が近付いてくることもあって、テンションはしだいに上がっていきます。



5階は窓のない屋根裏部屋なのですけど、こちらと全く同じ空間が私の地元の掛川城にもあるのですよ。 山内一豊は、高知の前任地だった掛川城も手掛けていました。 その天守をいたく気に入っていたみたいで、高知城を築く際には掛川城と同じようにするように命じたのです。平成6年(1994年)に掛川城の天守を木造で復元するにあたって、そのお城のコピーのコピーとなった現在の高知城天守を大いに参考にしたのでした。つい、暗くて狭い空間でお城噺をしてしまいましたけど、いよいよ開放的な最上階の6階に行きますよ



※白黒茶々さん、上り詰めてホッとしたからって、ここで寝ないでください。「昼寝を禁ず」となっていますよ!(編集部注)
ふああぁ~……… 吹き抜ける風が心地よくて、つい夢の世界に入りかけてしまいました。 こちらの空間も、やはり掛川城と全く同じとなっております。さらに………



外には高欄と回廊が廻っていて、そこに出れば高知市内やまわりの山々などを見渡すことができるのですよ それに、まわりに遮るような高い建物などがないので、開放的で空中散歩をしているみたいですし。
しかし、現存天守でこのように歩いて回れる回廊があるのは、高知城と犬山城だけなのですよ。豊臣政権下の安土桃山時代には、天守に回廊と黒漆塗りの高欄を付けるのが流行ったのですけど、それらはメンテナンスが大変なうえに腐食しやすかったので、しだいに疎まれるようになってしまいました。 新たに築く際には高欄&回廊を省くならまだしも、もともとそれらが設けられていた天守の最上階を、木の板で覆ってしまうところも。高知城の原本となった掛川城天守は、そのような運命をたどることになってしまいました。

しまった 絶景なこの場所で、またしても長い話をしてしまいました。そうしたら、こちらから見えるスポットを、少し紹介させていただきます。 お堀端にあるのですけど、森の上に見える大きな建物は、最近できたばかりの県立の高知城歴史博物館です。山内家に伝わる歴史資料や大名家資料の数々を展示していて、そちらからの高知城ビューも見ておきたいところなのですけど、今回は端折らせていただきます。

その東側……… 斜め左奥の、高欄の横のあたりの近代的なモダンな建物は、オーテピアという高知図書館高知みらい科学館などが併設されている施設であります。 7月下旬にオープンしたばかりで、プラネタリウム以外は入場無料となっています。そのみらい科学館には、絵本にもなったヒョウのハチの剥製があるのですよ。 私もこの機会にご対面しておきたかったのですけど、この日は月曜日で休館していました。
高知城は以上で、今度は高知名物に舌鼓を打つ段取りとなっているのですけど、その前に………



こちらも高知名物のアイスクリンを味わっておきましょう 高知市内の観光名所には、アイスクリンの出店がいくつか出ていて、高知城にも二ノ丸などにありました。ちなみに値段は200円~となっております。炎天下のお城を歩きまわったあとのアイスクリンは、ささやかなご褒美みたいで、ありがたいですね。 ちなみにそのお味のほうは素朴で、シャーベット感のある昔懐かしのアイスクリームという感じでした。



次の目的地となるひろめ市場は、高知城から程近いところにあります。天守からは判りづらかったのですけど、位置としてはオーテピアの手前となります。



こちらは新鮮な魚介類や加工品などの直売の他にも、それらを食べられるお店がフードコートのように入っています。 まだ10時台なのですけど、ほとんどのテーブルはすでに埋まっています。 そのような中でも、なんとか1人ぶんの席を確保し、森光水産というお店に行き………



やっぱり高知に来たら、鰹のたたきを食べておきたいですよね こちらの鰹タタキ定食(税込1080円)は、鰹は醤油漬けとなっていたのですけど、お店には塩たたきもあるみたいです。ちなみにお吸い物は、鯛汁にございます。そうしたら、ネギやニンニク、大葉などの薬味も添えて、いっただきま~す   はむっ
ほわっ、程よい弾力の中に旨味が凝縮されていて、美味しいですよ それに、鰹とニンニク、鰹とご飯、………など、いろいろなバリエーションも楽しめますし。 この値段で5切れはお得なほうなのですけど、至福の時間はあっという間に終わってしまいました。

ひろめ市場は昼時にもなると、さらに混雑すると思われるのですけど、その近くの商店街にも鰹のたたきを食べられるお店はあります。 さらに、店頭で食べさせてくれる魚屋もあるので、食いっぱぐれる心配はないでしょう。
お腹も心も満たされた私は、今度は市内でも屈指の観光名所となっている桂浜に向かったのですけど、MY遊バスはすぐの便がなかったので、とさでん交通のバスに乗っていきました。 所要時間は前者は約50分、後者は約30分なので、こちらで正解だったのかも。

ところが桂浜の近くで、同じ目的地に向かっていると思われる車が溢れていて、なかなかたどり着くことができませんでした。 予定時間から22分ほど遅れて、私はようやく桂浜界隈に降り立つことができました。その土産物屋をかき分けて………



いや、ちょっと寄り道してこんな坂本龍馬になってみました。 やはりこのような場面では、反対側に立って顔の向きや体の隠し方などを指導しつつ、カメラを操ってくれるアシスタントが欲しいですね。



この階段を上っていけば、有名な坂本龍馬の銅像を仰ぎ見ることができると思うのですけど……… またしてもこんないいトコで電池切れとなってしまったので、今回はこのあたりで電源を切らせていただきます。 次回の日記は、冒頭から龍馬祭りとなることが予想されるので、特に坂本龍馬ファンの方はお付き合いくださいませ。


にほんブログ村 犬ブログ スピッツへ   にほんブログ村 犬ブログへ
 鰹のたたきをWサイズでいって一緒にビールも飲み、さらにデザートにアイスクリンを食べたいという欲張りな方は、こちらに投票してやってください。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

南国高知を目指して(高知・高松紀行その1)

2018-08-22 01:37:32 | 一人旅
こんばんは、白黒茶々です。
夏といえば、行楽の時季でもありますよね。 その中でも、お盆休みに遠方の実家や旅行に行かれた方もいらっしゃると思います。 そういう私も、毎年そのまとまった休みを利用して、お城をメインとした旅……… いや、この性格からして、乗る列車や立ち寄る場所を綿密に調べていくので、行き当たりばったりで行き先でのハプニングも楽しむというようなことは決してしません。多分、きっと。
そうしたら、肝心な目的地ですけど……… 一昨年前は世界遺産も込み込みの岩国・広島方面(山陽)、昨年はラーメンやさざえ建築も込み込みの白河・会津方面(東北)に行ったので、今回は西のほうがいいですね。 そういえば、青春18きっぷを主な移動手段としている私にとっては、高知県は在来線の便が悪くてなかなか行きづらく、もう十数年も前に訪れて以来となるので、思い切ってそちら方面にしましょう その時には、JRの臨時夜行快速列車のムーンライト高知を利用したのですけど、その列車はかなり前に廃止となってしまったので、今はありません。 というワケで、その代わりとなる交通手段は……… 私の旅にはしばしば登場していた、夜行バスにしましょう。さらに、旅の3ヶ月前には宿も予約して、計画はとんとん拍子に進んでいき、いよいよそれを実行する日となりました。

今回は神戸から夜行バスに乗っていく予定なので、18時半頃に最寄りの駅から列車に乗り込むことになります。 家族で外食してから………



二川駅で見送ってもらったのですけど……… 箔母さんと一緒にたつぴも手を振っていますね。 実は今回は彼と都合が合わなかったので、ここ数年続いた親子珍道中とはならず、私だけによる一人旅ということになりました。



本来なら、この旅で最初に乗っていく列車を撮るところなのですけど、こちらは豊橋駅で乗り換えたものとなります。 その車内には、私のような旅人や大きな荷物を持った帰省客が大勢乗っていました。新幹線や飛行機ではなくても、このような光景が見られるのですよね。 そこからもう1回、米原で乗り換え………



二川から約5時間後に、神戸市の三ノ宮駅に到着。 さらにそこからは………



先述したように、夜行バスに乗り込みます。 ひと昔前は、ブルートレインなどの寝台特急が活躍していたのですけど、あれは例えるなら走るホテルでした。 その運賃も、特急列車にビジネスホテルの宿泊代を加えたぐらいで、けっこう高くつきました。 一方の夜行バスは、走る簡易ベッドといったトコで、その運賃はビジネスホテルの宿泊代相当だけで済み、かなり手軽で格安となっております。 それでも、今回私が利用したものはリクライニングする3列独立シートタイプで、それぞれの席がカーテンで仕切られているうえに、膝掛けやスリッパも備えられています。さらに、スマホや携帯が充電できるようにコンセントも付いていて、まさに至れり尽くせりです。
しかし、いざ寝ようとしてもなかなか寝付けず、すでに消灯しているので、カーテンをめくって外の景色を眺めるのも憚られました。あ、それでもスマホのナビ機能のおかげで、現在どのあたりを走っているのかはわかりますよ。



私を乗せた夜行バスは、神戸から高速道路に入り、明石海峡大橋を渡って室津パーキングエリアで20分間のトイレ休憩と相成りました。それにしても、隣のトラックの運転手が怖い。
再び動き出したバスの中では、その環境に慣れたのか、頭のホジションが定まったからなのか、とにかく自然に寝入ることができました。 寝てしまえば、こっちのものです 時間的な感覚では一気にワープして………



次の瞬間には、バスは高知市内に入っていました。 そして予定通りに、6時ちょっと前には終点の高知駅バスターミナルにたどり着きました。 そこでまずやることといったら………



やはり朝御飯ですよ 駅に併設されているこちらのウィリーウィンキーというパン屋は、この時間には開いているのですけど、私が楽しみにしていたモーニングセットは、お盆の期間中は販売していませんでした。 そういうことなら仕方がない、美味しそうなパンを見繕って、それらにコーヒーをつけていただきましょう。
お腹が満たされたら、いよいよこちらでの名所旧跡めぐりに入るのですけど、その前に………



最近できたばかりの、高知の郷土が産んだ偉人三傑の銅像を仰ぎ見ておきましょう。 それにしても、かなり大きくて存在感がありありですね。ちなみに左から武市半平太坂本龍馬中岡慎太郎であります。しかもそれら全部の台座に「⚪⚪先生」と刻まれているので、こちらではみんなして英雄なのですね。



そうしたら、お待ちかねの観光に入りますよ 市内に点在するスポットを巡るには、こちらのMY遊バスの1日パスポート(ガイドブック付きで税込1000円)を買っておくと便利です。 市内の観光名所を廻りながら桂浜に行くMY遊バスだけではなく、路面電車まで乗り放題で、さらに別ルートから桂浜に行くとさでん交通のバスも1回だけなら利用できるのですよ それだけではなく、このパスポートを提示すると、博物館などの施設の入場料が割引きとなるので、まさに至れり尽くせりです。 例えば、とさでん交通バスで高知駅から桂浜まで普通に行くと、片道690円するので、そこを往復するだけでもとが取れ、しかも行く先々で小銭を用意しなくてもいいので、とてもありがたいです。 ちなみにこのパスポートは、高知駅のバスターミナルやみどりの窓口、はりまや橋デンテツターミナルビルなどで購入できます。
………なんて説明しているうちに、路面電車が出発する時間が迫っていたので、急げ



私は最初に、はりまや橋で降りました。 こちらは、漫画家のやなせたかしさんの出身地ということもあって、彼の代表作のアンパンマンの石像がありました。 そのすぐ近くには………



立派な擬宝珠と赤い欄干の、はりまや橋が再現されています。 私が初めてこちらを訪れた頃には、このはりまや橋が懸かっている川は暗渠となっていて、大通りの歩道の手すりが赤い欄干風となっているだけでした。



なんか、ヘンな感じで物思いに更ける人が立っているのですけど……… そうそう、はりまや橋を「はりやま橋」と言い間違える人もいるみたいですけど、これを漢字表記すると播磨屋橋となります。播磨は現在の兵庫県西部のことで、播磨屋は越後屋のようなお店の名前でした。その播磨屋がとても繁盛していて、店の前の川に私財を投じて架けたのが、はりまや橋であります。
またこの橋は、純信お馬の悲しい恋物語の舞台ともなり、民謡の「よさこい節」では「坊さんかんざし買うを見た」と唄われています。それからこのはりまや橋を、がっかり名所に挙げられる方もいるそうですけど、彼らはこの橋に何を期待されているのでしょうか? 島田市の蓬莱橋のような長さなのか、それとも川根本町の塩郷の吊り橋ほどのスリル感なのか?今日見られるはりまや橋は、モニュメント的なものとなっているので、市内随一の交通の要地に、物語を感じさせ、かつシンボル的なものとして置かれているとお捉えくださいませ。
そこから私は、さらに路面電車に乗っていき、県庁前で下車。そこから程近いところには………



代々高知城主だった、山内家の別邸となっていた下屋敷の跡があります。そこは現在三翠園という天然温泉旅館の敷地となっているのですけど、屋敷の門と長屋は現存しています。 さらにその長屋は一般に無料で公開されていて………



朝の7時から、見学することができるのですよ こちらは幕末に建てられた足軽長屋で、国指定重要文化財。その内部には、江戸時代後期の土佐藩士や、庶民の生活を知ることのできる、用具や和船の模型などが展示されています。 その勢いのまま、私はそこから西のほうに歩いていき………



鏡川沿いにある、山内神社というところにやって来ました 高知城内にかつてあった藤並神社が起源で、初代藩主山内一豊とその妻の千代を始めとした、歴代の土佐藩主を祀っていて、昭和9年(1934年)に現在地に移転&変遷。現在の社殿は、昭和45年(1970年)に建てられました。 さらにその境内には………



平成14年(2002年)に建立された、山内豊信(容堂)の銅像があるのですよ 彼は土佐藩の15代藩主で、慶応3年(1867年)に坂本龍馬が発案した「船中八策」を後藤象二郎から進言され、徳川慶喜に大政奉還を建白したと云われています。 銅像の台座には、「大政奉還を慶ぶ山内容堂公」と刻まれているのですけど、ギヤマンの盃で一杯やっていますね。 彼は酒と詩をこよなく愛し、自らを鯨海酔侯と称していました。



その一方で「酔えば勤王、醒めれば佐幕」とも言われ、態度がハッキリしない面も。 さらに、土佐勤王党のリーダーで坂本龍馬の親友でもある武市半平太をさんざん利用しておいてから処刑し、その党を崩壊させたこともあって、漫画の「お~い!竜馬」ではあまり良く描かれていないのですよね。



なんか、妙な旅人が近付いてきたのですけど。
その酔鯨殿は、明治に入ってから政府の要職に就いたのですけど、低い身分出身の役人を受け入れることができず、すぐに離職。 その後は酒に溺れ、明治5年(1872年)に酒の飲み過ぎによる脳溢血で、46歳で亡くなったそうです。どちらかというと彼は嫌われキャラなのですけど、大好きな酒を飲んで緩くなっている姿は、どこか憎めません。

まだ高知の本命は出ていないのですけど、そのプロローグというか準備段階でかなりの行数を使ってしまい、かなり長くなって夜が更けてきたので、このあたりで一旦仕切らせていただきます。 それでも、次回には⚪⚪城や坂⚪⚪⚪が出てくるので、引き続きこの旅日記にお付き合いくださいませ。


にほんブログ村 犬ブログ スピッツへ   にほんブログ村 犬ブログへ
 「伏せ字にするところがヘン……… というか、伏せ字にする意味があるのか?」と素朴に思われた方は、こちらに投票してやってください。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ナニワのシンボル通天閣

2017-08-23 01:23:09 | 一人旅
こんばんは、白黒茶々です。
長いようで短かったお盆休みが終わり、ほとんどの方はすでに日常生活に戻られていることと思います。 そのお休みの間に、皆さんはどこかにお出かけになられたでしょうか?そういう私は、西に東に移動してきたので、その様子を順次まとめてお伝えします。 ということで、話は初めての山の日となる8月11日にまでさかのぼります。

その日私は、青春18きっぷを片手に西に向かう始発列車に乗っていきました。 それから約4時間後に、降り立ったところは………



JR西日本の大阪駅でした。さらに環状線(内回り)に乗り換えて、ある目的地に向かいますよ



………ということで、私は新今宮駅で下車しました。今、私が目指しているものが見えていますね。………というよりは、すでに今回の日記のタイトルで言ってしまっている、通天閣にございます。 私がそこに行くのは20年以上ぶりとなるのですけど、その間に何らかの変遷があったのかどうか、これから探っていこうと思います。



通天閣は大阪市浪速区恵比寿の、新世界のジャンジャン横丁を抜けたところにあります。 その界隈には、フグ料理のてっちりや、オムライスや焼きそば、たこ焼などをデカ盛りで提供するお店、それに………



なんといっても、串かつが有名ですよね。 こちらの老舗の人気店は、11時前だというのにすでに入店待ちの長蛇の列ができていました。 どのお店も美味しそうで、つい目移りしてしまいますね。そのようなお店が並ぶ一角には………



道頓堀のくいだおれ太郎?いえいえ、よく見てみたら違っていました。これはビリケンさんという、アメリカの漫画家の夢に出てきたという神様で、昔から通天閣や新世界では守り神のような存在でした。 くいだおれ太郎を意識した格好をしているのですけど、両手にバチの代わりに串かつを、太鼓の代わりにソースの壺を抱えておりはる。ただし、ソースの2度漬けだけは、絶対にやってはいけませんよ。



そのようなコテコテな飲食店の向こうに、通天閣が見えてきましたよ



さらに迫ってみました。 現在の通天閣は、昭和31年(1956年)に建てられたもので、昨年還暦を迎えました。 ちなみに、高さは103m。当時は名古屋のテレビ塔のほうが高かったのですけど、展望台の高さは日本一でした。私が前回訪れたときは、一般的な⚪⚪タワーの類いとあまり変わらなかったのですけど、最近改装してより個性的になったとのこと。果たして、どのように変わったのでしょうか?



通天閣の足場はあまり場所を取らず、交差する道をまたぐ形で建てられています。 以前は2階部分に通じるエレベーターから入っていったのですけど、現在の入口は地下に通じているみたいですね。 とにかく、そこを降りていってみましょう。そこで私が見た風景は………



入場待ちの長蛇の列でした。20年以上前はすぐに入れたと思うのですけど、かなりの人気ですね。 お盆休みの時季とはいえ、これは侮れません。それだけではなく、その列は必ずお土産屋さんの中を通らなければならないようになっておられる。



それでも、なんとかしてチケット(大人700円、大学生500円、中高校生400円、小学生300円)を購入し、2階部分に上がることができました。そのチケットのデザインが、アメリカのドル紙幣みたいなところがなんとも。



しかし、これですぐに展望台に行けるというワケではありません。表示によると、そこからさらに40分ほど待たなければならないみたいです。 それはやむを得ないとしても、何ですかこの「オーサカの休日」って 「ローマの休日」の「ー」の部分しか共有していませんよ。



その展望台待ちの列の両脇には、おびただしい数のガチャガチャ(カプセルトイ)が並んでいました。はは~ん、これはチケット購入の際に出た小銭を、ここで使わせようという魂胆ですね。 しかも「地域限定」とかいうのもあって、私でもつい購入欲をそそられてしまいます。

しかし、まだ油断してはいけませんよ そのコーナーを曲がったところでは、今度は「記念撮影の誘惑」が待っているのですよ。スタッフによって、通天閣のような模型の横に団体ごとに立たされ、「はい、つ~てん 」のかけ声とともに撮影。 さらにその画面を確認して「綺麗に撮れタワー 」って、必ず言いますし。ダジャレが効いて心が緩んだところで「気に入ったら、ちゃんと仕上がった写真を1100円でご購入くださいませ 」と、商魂たくましく攻めてきましたよ。私はこの手の写真はあまり買わないので、申し訳ないのですけどスルーさせていただきました。 そうそう、昔はこのようなサービス(?)はありませんでしたよ。



そのまた先には、漫画家のゆでたまご先生が2人とも大阪出身ということもあって、彼らの代表作の「キン肉マン」の原画の複製が……… って、この時点ですでに原画ではないのでは? それらは撮影禁止なのですけど、こちらの実物大のキン肉マンとなら一緒に写真に写ることができるのですよ。 それらの関門を突破し、スタッフに案内されながら、上に通じるエレベーターを上がっていったら………



ようやく展望台にたどり着きましたよ 地階の列に並んでから1時間くらいでしょうか?それにしても、そのフロア全体がまばゆい金色に装飾されていますね。 これは、豊臣秀吉の黄金の茶室をイメージしたそうです。



それだけではなく、通天閣にとってはご本尊とでもいうべくビリケンさんも、ホワイトハウスを模したという「ビリケンゴールドハウス」に祀られていました。 その足の裏を触ると、商売繁盛と招客万来のご利益があるそうです。やはりこちらでも、スタッフによる記念撮影のサービスがあったのですけど、私のカメラでも写してもらえました。



それよりも、なんといっても展望台のウリは、こちらからの眺望ですよ 西側には、私とたつぴが4月にハム観戦に行った、京セラドーム大阪が見えましたよ。



北側には、大坂城が。 ビルに囲まれるようにして、復興天守が聳え立っています。 もちろん、そちらからも通天閣はよく見えますよ。それから、復興天守の下あたりに六番櫓の屋根がわずかに確認できました。



さらに東側には、四天王寺の五重塔がありましたよ とはいっても、マンションなどに呑み込まれるような状態なので、一度見失ったらなかなか見つけられません。 そのあたりをよく見てみたら、金堂や講堂の屋根もかろうじて見えました。



あと、南側(正確には南東)には、天王寺動物園の後方にあべのハルカスが聳えていました。60階建てで300mと、日本一高いビルであります。 その展望台の料金も大人が1500円と、こちらの高さも日本一となります。そのような高さなので、あべのハルカスの展望台からは、こちらの通天閣を見おろす形となるのですよ。



その展望フロアの1コ下の、下りのエレベーターに通じる階も展望台となっているのですけど、こちらは落ち着いた内装となっております。 夜になると、宇宙をイメージした幻想的な空間に変わるそうです。説明には「ムード満点で、デートスポットにぴったりやで~ 」とありました。

あとは降りていく流れとなるのですけど、まだ見どころは残っているのですよ。 キョロちゃんのおかしなおかし屋さん、ぐりこ・や、チキンラーメンひよこちゃんSHOPといった大阪発祥の食品メーカーのアンテナショップだけではなく………



3階には、約100年前に初代通天閣ができた頃の様子を再現した、ジオラマがあるのですよ。 明治36年(1903年)に大阪で第5回内国勧業博覧会が開催され、明治45年(1912年)にその会場跡地にルナパークと一緒に初代通天閣が建てられました。



パリの凱旋門の上にエッフェル塔の上半分を乗せたようなデザインとなっていて、高さは75m。当時は日本一でした。 さらに昭和13年(1938年)には、吉本興業がこの通天閣を買収しました。大阪は商いと笑いの街なのですけど、吉本興業はそのうちの笑いを担ってきました。NHKの朝ドラこと、連続テレビ小説「ひよっこ」の次回作となる「わろてんか」の主人公は、吉本興業の創始者の吉本せいさんをモデルにしているので、そのドラマ内では初代通天閣がしばしば出てくるかも知れませんね。
しかし、その通天閣は昭和18年(1943年)に足元の映画館の火災に巻き込まれ、その後解体されてしまいました。



そのあとも地元民の通天閣への想いと熱意は強く、昭和31年に先代より少し場所を変えて再建されたのが、今日見られる2代目にございます。
20年以上も前から、そのパンフレットには切り取って組み立てるペーパークラフトの通天閣が付いていたのですけど、さらにパワーアップしてハサミやノリを使わなくてもできるように切込み入りとなりました。しかも、現在のものは色鮮やかな夜景となっているではありませんか



高さはその後作られた各地のタワーには及ばないのですけど、インパクトというか、コテコテ感は間違いなく日本一です。 それに、待ち時間で財布の紐をゆるめたら、東京スカイツリーの入場料(※展望回廊までの当日券の大人合計3090円)に匹敵する散財をしてしまうというオチも、あるかも知れませんね。
これだけ通天閣を持ち上げておいて申し訳ないのですけど、実は今回私がこの地方を訪れたのは、こちらの通天閣が目当てではなく、そのついでというかオマケだったのですよ。その日の本命を言ってしまうと、ズバリ甲子園球場での高校野球観戦であります。 果たして、そちらではどのような名勝負が観られるのでしょうか?ということで、今夏の私の大阪訪問記は次回に続きます。


にほんブログ村 犬ブログ スピッツへ   にほんブログ村 犬ブログへ
 ガチャガチャ地獄の誘惑に負けてしまいそうな方は、こちらに投票してやってください。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

逢いたかったヨ!一歩ちゃん(北陸本線日本海の旅その3)

2014-08-13 00:02:18 | 一人旅
こんばんは、白黒茶々です。
「北陸本線日本海の旅」シリーズは、今回で3回目。完結編でもあるので、ここまで来たらどうか最後までお付き合いしてくださいませ。 ということで、その内容に入らせていただきます。
私とたつぴは金沢駅近辺で腹ごしらえを済ませたあと、金沢での目的を果たすためにバスに乗り込みました。 そして、駅から15~20分ほどで………



しいのき迎賓館前に到着しました。その向かいにある金沢21世紀美術館も有名ですよね。そこから程近いところに、金沢城公園はあります。 まずは、平成22年(2014年)に復元整備されたばかりの鯉喉(りこう)櫓台いもり堀が、私たちを出迎えてくれました。その風景を眺めながら、お堀通りを歩いていったら………



金沢城のシンボル的存在ともいうべき石川門が見えてきました。 こちらの城門は、高麗門と櫓門をくぐる二重構造となっていて、それらで桝形門を形成しています。その空間は多聞櫓で囲まれているだけではなく、二層の菱櫓もにらみをきかせるという鉄壁の守りよう。 現在見られるのは天明8年(1788年)に再建されたもので、重要文化財に指定されています。



その石川門を、お堀を隔てた向かい側の兼六園方面から見ると、このようになります。同じ目線の高さとなると、より立体的に感じますね。



そうそう、金沢城の説明がまだでしたね。このお城のある地は、かつては加賀一向一揆の本拠となった尾山御坊でした。天正8年(1580年)に織田信長の命を受けた柴田勝家と佐久間盛政がそこを攻め落とし、佐久間盛政は土塁や堀などを改修しました。さらに天正11年(1583年)には、前田利家(写真の人)が入城。彼はお城の大改築をおこない、石垣などが築かれました。その後はたびたび火災に見舞われたりしたのですけど、その都度再建されてきました。

私は金沢城には高校生の頃に初めて来たのですけど、当時このお城は金沢大学の敷地となっていました。それだけではなく、入口にあった「大学関係者以外の立ち入りを禁ず」というお触書を律儀に守り、遠路はるばる来たというのに、一歩も城内に入りませんでした。 二回目は大学生になってからで、このときは金沢大学の学生のフリをして侵入しました。 その際にも「金沢大学がどこかに移転して、お城が史跡公園にでもならないかな~」と願っていたのですけど、その後本当にその通りになりました。
そして私は7年前に三度目の訪問をしたのですけど、その頃には金沢城は見違えるほど見事に整備されていました。 その時、復元工事中だった河北(かほく)門が………



余裕をもって完成していましたよ ちなみにこちらの門の形式は、石川門と同じ桝形門。菱櫓のようなものはないのですけど、そう簡単には突破できません。それでも、無料解放されているみたいなので、内部の様子を見ておきましょう



太い柱や梁、分厚い窓は立派ですね。それに、石落しなどの仕掛けも忠実に再現されています。平成22年(2010年)に完成したばかりということもあって、まだ木の香りがしましたよ。



河北門を見終わったら、今度は二の丸に復元された一連の建築群も見学しますよ 右の三層の櫓が菱櫓、そこから長く続いているのが五十間長屋、末端の櫓が橋爪門続櫓にございます。これらは金沢城の中では最大級の建築物なので、入る前にはトイレと水分補給を済ませておくことをお勧めします。



平成13年(2001年)に復元された、こちらの建物。五十間ということは、約90mでしょうか。とにかく、長いですよ。



その端っこにあるこちらの菱櫓は、二の丸でもっとも高い建物ということもあって、踊り場付きの高い急階段を上っていかなければなりません。しかもこの櫓は立地の都合で菱形にひしゃげていて、その影響で階段のほうもまっすぐではないのですよ。 そこをなんとかして上っていくと………



最上階の三階に行き着きます。ちょっとわかりにくいかも知れませんけど、こちらの平面も歪んでいるのですよ。 それに、窓が高いところにあるので、外の景色を見るのには、それぞれに設けられた階段を上がらなければなりません。



金沢城はこれらの建物だけではなく、石垣のほうも立派で見ごたえがあります。 造られた年代によって積み方も変わっているので、そのあたりもじっくり観察しておきたいですね。
………なんて言っておきながらも、帰りのバスの時間が迫っているので急がなければなりません。 それでも、これだけは見ておかなければ 私がどうしてもハズせなかった、「これ」とは………



三十間長屋のことでした。こちらの建物は安政5年(1858年)に建てられ、重要文化財に指定されています。実際の長さは二十六間みたいですけど、鉛の瓦と海鼠壁のコントラストは、これまで見てきた金沢城の建築物に共通しています。 なんか、入口や窓が開け放たれているようですけど……… 「内部特別公開中」ですって またとないチャンスなので、これはぜひ見ておかなければ



三十間長屋は、二層二階の多聞櫓です。構造のほうは先ほどの五十間長屋と同じなのですけど、江戸時代末期から現存しているということもあって、暗ぼったくて霊的な何かが出てきそうな雰囲気もしないでもない。それでも、貴重な建築遺構に触れることができました。



それが済んだら、バス停に急ぎますよ 城郭内に現存する土蔵としては最大級の鶴丸倉庫を脇目に見て、石川門から出ていこうとしたら、そちらの建物も入口や窓が開け放たれていて「内部特別公開中」となっているではありませんか うっかり入ってしまったらバスに乗り遅れ、それに連動して列車のほうも乗り遅れてしまう。もしそうなってしまったら、その旅の締めに予定しているお楽しみもパーということに……… さあ、どうする?



さ、3分だけ、たった3分だけでいいので、石川門の内部を見させてくれい こちらの建物はコの字状で奥行きもあるのですけど、奥の奥まで見てきましたよ。 私たちのその後の頑張りもあって、予定のバスには無事に乗ることができました。金沢城はあまりにも広く、見どころも満載なのですけど、今回はいちおう目ぼしいところは押さえておきました。もう少し時間があったら、兼六園のほうも見ておきたかったですね。 そちらは次回のお楽しみに取っておくことにします。そうしたら、その日最後に立ち寄る都市となる福井に向かいますよ 再び列車に乗り込み、40分ほどでその福井に到着 そこで私たちを待ち受けていたのは………



じんぱちママさん一歩ちゃんでした。 彼女はこの日もお仕事だったのですけど、私たちがこちら方面に来るのに合わせて、わざわざ駆け付けてくださったのです。それから、言うまでもなく一歩ちゃんは波の姉妹犬であります。



実際に見る彼女は、顔が波とソックリですね。 ただし、一歩ちゃんのほうがやや大きくて、キレイです。このようにしてご対面が叶っただけでも大満足なのに、じんぱちママさんは私たちがそのあとに予定している北ノ庄城跡のほうにもご一緒してくださるというのです
その日の福井はフェニックスまつりで賑わっていたのですけど、私たち一行はその間をかき分けて目的地に向かっていきました。 その道中で、一歩ちゃんは行き交う人々から「かわいい~ 」と言われまくっていましたよ。そして、駅から歩くこと10分ほどで………



私たちは北ノ庄城跡に到着しました。こちらは織田信長の重臣の、柴田勝家の居城だったところです。勝家は、信長が本能寺の変で斃れたあと、羽柴(豊臣)秀吉と対立し、賤ヶ岳の戦いで敗北。さらに北ノ庄城も攻められ、茶々・お初・お江を脱出させたあとに、お市の方とともに自害しました。



そのお城の跡がのちに整備され、柴田神社やこちらの柴田勝家の像が造られたりしました。



さらに、お市の方の像も追加されたのですけど、勝家との位置関係が微妙なところがなんとも。 彼女は織田信長の妹で、北近江を治めていた浅井(あざい)長政と政略結婚し、先述の茶々・お初・お江の浅井三姉妹を出産しました。しかし、のちに長政は信長と敵対関係になったことから、居城だった小谷(おだに)城を攻められることに。その際には、お市の方と娘の三姉妹を逃してから自害&落城。お方様はその後柴田殿と再婚して、北ノ庄城に入ったというワケです。私が前回訪れたときには、このお二方だけだったのですけど………



NHK大河ドラマ「江〜姫たちの戦国」が放送されたのを機にして、浅井三姉妹の像も加えられました。手前の一番小さいのがお江、後ろの大きいのが茶々、中くらいのがお初ってトコでしょうか?



それだけではなく、城跡には天守の模型もありました。北ノ庄城の天守は九階建てだったという説もあり、かなり大規模だったそうです。



あと北ノ庄城跡の締めに、じんぱちママさんが私の要望に応えて、一歩ちゃんのリードをお市の方に預けてくださりました。それにしても、その姿は絵になっていますね。 そのまま一歩ちゃんを連れていっても……… いや、ダメダメ ダメです。

そのあと私たちはまた福井駅に戻って、そこで解散となりました。そして約5時間後には、無事に自宅に到着。 今度は箔や波に出迎えられ、彼らの大きさや質感を改めて確認することができました。
じんぱちママさん、今回は私たちにお付き合いしてくださり、ありがとうございました。 おかげで、旅の締めにいい思い出を作ることができました。いつか波も連れて、福井まで逢いに行きたいです。


にほんブログ村 犬ブログ スピッツへ   にほんブログ村 犬ブログへ
 ゆめちゃんジュニアの再会を期待されている方は、こちらに投票してやってください。
コメント (12)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高岡のハク君(北陸本線日本海の旅その2)

2014-08-09 00:13:57 | 一人旅
こんばんは、白黒茶々です。
前回から、私とたつぴは北陸方面を旅しています。 前回のラストシーンで売薬の親子と行き逢ったのですけど、さすがに彼らのペースに合わせていたら、予定通りにその日のうちに旅を完結できないので、彼らとは富山駅前でお別れしました。いや、私たちがお仕事中の彼らの足手まといになってはいけませんし。それよりも、そもそも彼らは銅像なのですけど。



私たちは北陸本線の列車に乗って、次の目的地に向かいました。 外観からして、古きよき時代を感じさせるこの車両。客車内には灰皿の跡や昔は開いたであろう窓があって、昭和を彷彿させてくれました。 富山から30分ほどその列車に乗って、私たちが降り立ったところは………



なんか、萌え系のキャラクターが出迎えてくれました。



それだけではなく、大仏さまもいろんな意味で飛んでいますし。 富山県にあるこちらの都市……… って、すでに「ようこそ高岡へ」と言ってしまっているのですけど。とにかく、高岡市は大仏があることでも知られています。たぶん。 それから、それらのキャラクターのことを調べたら、「あみたん娘」といって、高岡をPRするために生み出されたそうです。それはさておき、目的のものを目指すことにしましょう。 駅から10分ほど歩いていったら………



おおっ、見えてきましたよ 私が思っていたよりはこじんまりとしたお寺に、それはありました。そうしたら、さらに近付いてみますね。



では改めまして、高岡大仏にございます 高岡大仏は、延享2年(1745年)に木造金色の仏像として建立されました。しかし、その後はしばしば火災に遭い、現在のものは昭和8年(1933年)に落成しました。銅製の阿弥陀如来坐像で、昭和33年(1958年)には光背(後ろのまるい輪っか)が付け加えられました。高さは15.85mあり、奈良、鎌倉のものとともに、日本三大大仏と称されているそうです。 せっかくなので、御胎内というか、台座の中も見学させてもらいましょう



その台座の内側をぐるっと回るように回廊があり、そこには仏教にまつわる絵画が並べられていました。 さらにその中央部には………



仏頭が祀られていました。このお顔……… 失礼ですけど、正直言ってちょっと怖いです。



高岡大仏は、大仏のなかではイケメンと云われていますけど、こうして見てみると確かに目鼻立ちが整っていて、素敵です。 なんか、スーツやネクタイも似合いそうですね。



大仏様からさらに5分ほど歩いていったら、今度は高岡城にたどり着きました。広大な緑や水堀に囲まれたこちらのお城は、加賀藩前田家二代目の利長公が慶長14年(1609年)に、焼失した富山城の代わりの隠居所として築きました。 しかし、元和元年(1615年)に一国一城令によって廃城となってしまいました。それでも城跡は明治以降の保護活動などもあって、今日でもそのほぼ全域が残っています。さらに平成18年(2006年)には、「日本の100名城」に選定。現在は高岡古城公園として整備され、市民の憩いの場となっております。



そのほとんどは土塁(土の土手)で造られているのですけど、土橋の部分には石垣も見られます。



お城の中心部には、本丸跡があります。そこには広大な芝生広場があるのですけど、本丸跡の敷地の半分近くは射水神社が占めています。その本丸跡を囲むようにして二の丸、三の丸、鍛冶丸、明丸などがあり、城跡全体の面積は約21万㎡。それは、東京ドーム約4.5個ぶんの大きさに相当します。



その本丸跡の片隅には、前田利長公の銅像があります。長烏帽子の冑をかぶって馬にまたがる姿は、なかなか凛々しいですね。



その他にも、公園内にはたくさんの芸術的なブロンズ像が設置されています。ちなみにこちらは、朝倉文夫氏が明治44年(1911年)に制作した「産後の猫」。新しい生命に養分を吸い上げられ、やつれた様子がよく表れています。

また、園内の鍛冶丸跡には高岡市立博物館があります。規模はあまり大きくないのですけど、その入口には「入場無料」という私の好きな言葉が書いてありました。 そこでは、高岡の歴史や文化について展示されています。その外観を撮るのを忘れてしまったので、そちら方面を訪れる方がいましたら、ぜひ立ち寄って確認してみてくださいませ。



さらに明丸跡には、ミニ動物園がありましたよ。やはりこちらも入場無料 せっかくなので、その様子を見に行ってみます。



こちらで飼育されているのは、おもに小動物なのですけど、かつてはライオンもいたそうです。その中でも、クジャクは羽を広げて、私たちを歓迎してくれましたよ。
※いや、威嚇しているのでは……… (編集部注)



それから、ペンギンは立ったまま寝ていました。 その他には、カピバラ、ホンドタヌキ、テンジクネズミ(モルモット)、………などなど。これらの動物園の案内看板はすべてスタッフの愛嬌のある手書きの文章で、イラストなども織り込まれていました。 おかげで、竹島水族館を彷彿させるようなアットホームな雰囲気となっていました。それまでたつぴは暑さと疲労でバテ気味だったのですけど、その楽しい展示や動物に癒されたのか、元気を取り戻していました。



そのような中に、ハクビシンのものもありました。どれどれ……… オレさまの名前はハクだ。オレさまの晩ごはんを教えてやろう。晩ごはんは毎日飼育係がPM3:30すぎぐらいにはこんでくるぞ。・にたサツマイモ・とり肉・コッペパン・ドッグフード……… まあこんな感じだ。とのこと。
ハクビシンだから、ハクなのでしょうか?とにかく、私にとっては呼び慣れている名前ですよ。そうしたら、親しみをこめて「はくぅ~~~ 」と呼んでみましょう。



しかし、そのハク君はずっと寝ていました。 そのようなところまで、箔にそっくり。 いやいや、こちらのハク君の容姿を一度でいいから見ておきたかったです。
ハク君に踏ん切りをつけ、次のところに行こうとしたとき、私たちはあるものに出くわしました。思わず「ナニコレ 」と叫んでしまった、そのあるものとは………



ウサギさんでした。うつろな目をしているだけではなく、なんと口には水道が さらにその蛇口をひねってみたら、水が出てきましたよ。その姿はまさに……… アンタ、ウサギが滝のようにヨダレを垂らす光景を見たことはありますか? もしこれがゲ○だったら、たぶんトラウマになることでしょう。



私たちが公園を出るときに、高山右近の銅像と行き逢いました。彼はキリシタン大名として有名ですよね。こちらの銅像も、十字架を手にしていますし。なぜその右近さんがここにいるのかというと、彼は築城の名手でもあり、高岡城の縄張り(設計)をしたそうです。それにしても、NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の生田斗真君が演じている高山右近は、なかなかカッコイイですね。
高岡古城公園はいろいろな要素が含まれていて、楽しむことができました。 これからも地元民だけではなく、多くの訪問者からも愛されていくことでしょう。



高岡城をあとにした私たちは、さらに北陸本線を乗り継ぎ、その日三ヵ所目の都市となる金沢に降り立ちました。 新幹線開業を意識していたからなのか、かなり前からこちらは立派な駅舎となっております。それにしても、この幾何学的なデザインは、伝統工芸をイメージしているのでしょうか? そういえば最近、こちらの金沢に強烈なゆるキャラが………



なんてことを言っていたら、そいつが私たちの目の前に現れたではありませんか 彼の名前は「ひゃくまんさん」。加賀前田家の石高の百万石にちなんだネーミングと思われるのですけど、ダルマを土台にしたその身体には、伝統工芸の輪島塗りと金沢の金箔貼りが贅沢になされております。 そして、レレレのおじさんのような潤んだ目に、りっぱなおヒゲも備えていますね。「転ばせたいゆるキャラ」ランキングの中では上位に入っていると思うのですけど、彼は日本一高級なゆるキャラでもあるので、もし傷付けるようなことがあったら、あとあと大変です。
………なんてことを思いつつ、ついひゃくまんさんのあとを付いていってしまいました。金沢に到着したら、まずはお昼ご飯を食べるところを見つけなければ そのような感じで、駅のあたりを右往左往した結果………



蕎麦屋に行き着きました。私は冷やしきつねそばにし、それだけでは足りないだろうと思い、一緒におにぎりも注文しました。 しかし、そばの量は通常の1.5倍もあって、かなりのボリュームでした。もちろん、すべて美味しくいただきましたよ。

そのあと、私たちは金沢のお城を見に行くのですけど、そちらの様子は次回お伝えします。それだけではなく四都市目の福井では、初めてあのお方たちと逢うことに。「あのお方とは、越前北ノ庄にゆかりのある、お市の方のことでは?」という答えも聞こえて来そうですね。確かにそのお方様とも逢ったのですけど、その子は色白でかわいくて……… とにかく、次回の日記までお待ちくださいませ。


にほんブログ村 犬ブログ スピッツへ   にほんブログ村 犬ブログへ
 ウサギのヨダレで手足を洗ってみたい方は、こちらに投票してやってください。
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする