波と狛のつれづれ日記

日本スピッツ波と狛と、ときどき箔

お知らせ

2019-09-18 02:00:32 | ワンコ

こんばんは、白黒茶々です。

私は日本スピッツの魅力に惹かれ、縁あってをウチに迎え入れてから14年あまり、同じ犬種を飼い続けています。  スピッツは白くてふわふわなところが命なのですけど、箔だけではなくの代まで足先が汚れるようになりました。  私は当初はそのことを気にしていて、コンプレックスでもあったのですけど、他のスピッツの飼い主さんから指摘されなかったことをいいことに、気にしないことにしようとしていました。スピッツの愛好家からしたら、あるまじき行為ですよね。

実は他の皆さんはずっと彼らの足先の汚れのことを気にされていたのですけど、なかなか聞けなかったのでした。そのことを最近になって指摘され、その原因をいろいろと考えていったところ、生活環境から来るストレスで、足を舐めているという答えに至りました。
主に就寝時や留守番の間は、私は彼女らにはケージの中で過ごしてもらっていました。しかし、このままではいけません。  スピ仲間の方からも、そのことでお叱りのお言葉や心配の声、助言などをいただきました。それらによって、波と狛がたくさんの方たちにも大切にされ、愛されているということを改めて実感しました。彼女らは、ウチだけの子ではないのですよね。

まずは波と狛の状態を病院で診てもらって悪いところは治し、同時に日々の生活習慣やその環境を改善していく所存にございます。  生活習慣や足の汚れは長い年月の間に染み付いているので、それらが良くなるまでは時間がかかりますけど、対策を根気よく続けていきます。
そこで、彼女らの身のまわりを整え、正面から向き合うためにも、しばらくの間ブログをお休みさせていただくことにしました。ブログ発足から13年近く、腰痛やパソコンが故障した時以外はほぼ休まず続けてきたのですけど、このあたりで一旦足を止め、自分自身のことも見つめ直そうと思います。  皆さま、今まで波狛日記にお付き合いしてくださり、ありがとうございました。



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京セラドームで珍プレー続出

2019-09-14 01:14:13 | 野球ネタ

♪こ~の~いちげきで~、しょ~ぶを~きめろ~、すすめ~しょおり~めざし~、ゆ~めみる~さきへ~  おいおい!

いきなり野球の応援から入ってしまいましたけど、これはお父さんから教わった、プロ野球の北海道日本ハムファイターズの関西限定のチャンステーマなの~。 攻撃時に2塁とか3塁にランナーが出て、押せ押せムードになったら、スタンドからこの応援歌の合唱が起こるそうです。 さらにこの歌は………

お~~~打ったれ△○(選手の名前)、おまえがきめろ~△○!

と続くのですけど、ここで一時期物議を醸し出した「お前」が出てきますね。 ちなみに数あるファイターズのチャンステーマの中で、「お前」の歌詞が出てくるのは、これだけなの~。それはさておき、お父さんはたつぴ君と一緒に、ファイターズの応援をしに、京セラドーム大阪に向かっているのですけど、そちらの様子はどうですかなの~?

はい、白黒茶々です。
私たちは京セラドームの最寄り駅となる、大正駅を降りたところです。 時刻はまだ11時前なのですけど、こちらからもうドームに向かう人の波ができつつあります。そんな彼らは、私たちと同じ試合を観に行くのだと思われます。 私たちも士気が高まりつつあるのですけど、まずは脇道に逸れていって………

めしや宮本むなしというお店で、ちょっと早めのお昼を食べていくことにしましょう こちらのお店は関西地方を中心にしたチェーン店で、定食や丼もの、カレーなどを扱っています。 入店してから券売機でチケットを買い、定食のご飯がおかわり自由というシステムは、やよい軒と一緒

 

ここは験を担いで、ジャンボとんかつにしておきましょう これを食べて応援すれば、ファイターズの勝利は間違いなし
※本当は味噌だれチキン定食を食べる気マンマンだったのですけど、こちらのお店では扱ってなくて、やむを得ずそのメニューにしたのでした。(編集部注)
それから、宮本むなしで卵を注文すると、生か焼いてもらうか選べるみたいです。

 

おかわりもして、お腹も心も満たされた私たちは、京セラドームに向かいました。 ちなみに私が応援に行ってファイターズが勝ったのは2年2ヶ月前のナゴヤドームでの中日ドラゴンズ戦以来で、今年6月の試合も含めて3連敗中となっております。 しかもそのファイターズは7月までは絶好調で、首位の福岡ソフトバンクホークスと0,5ゲーム差まで肉薄した状態で8月に入っていきました。 ところがそれから調子を崩し、あれよあれよと落ちていき、最下位が見えるところまで来てしまいました。 そのような中で迎えた、このオリックスバファローズとの3連戦。 ここまで1勝1敗となっているのですけど、この日勝ってこのカードを勝ち越すことはできるのでしょうか?

 

ドーム入りする前には、やはりいつもの儀式というか、そのドーム球場をバックにして、応援スタイルで記念撮影をしておきましょう そのあとは、手荷物検査などを受けたりして、ドームの中に入っていきました。

 

試合開始までまだ1時間以上もあり、早く来すぎてしまったと思っていたのですけど、自由席となっていたファイターズの応援エリアのレフト側外野席はその頃にはほぼ埋まっていました。 なんとか席を確保し、安心したところでグラウンドに目をやったら………

 

バファローズのマスコットキャラクターのバファローブルバファローベルと一緒に、なぜかホームランバーのあの少年……… そうそう、ホームラン坊やがいましたよ しかし、ファイターズのフレップやポリーは来ていませんでした。
それからしばらくして、両チームのスタメン(スターティングメンバー)の発表があったのですけど………

 

ケガで長期間チームから離れていたファイターズの中田選手が、この試合から4番に復帰したのです 1回表に彼にまで打順が回ってきたのですけど、その復帰後初打席はファーストフライでした。

 

そして、その裏のバファローズの攻撃となりました。ファイターズの先発は、金子弌大(ちひろ、千尋から改名)投手。昨年までバファローズの主力選手だったのが、今季からファイターズに移籍。古巣との対決となりました。 彼には調子の波があるのですけど、この試合はどうなのでしょうか?
バファローズの先頭打者の福田選手にいきなりヒットを打たれたのですけど、直後に牽制でアウトに。2番の宗選手もヒットで続くも、勢い余って2塁でタッチアウト さらに、3番の吉田正選手にもヒットを打たれ……… 相手チームの走塁ミスによって2アウトにはなっているものの、3連打ではないですか これは、悪い時の金子投手なのでは それでも後続を絶ち、その回はなんとか無得点に抑えることができました。 続く2回は難なく3つのアウトを取り、0対0のまま3回表のファイターズの攻撃へと移っていきました。

 

ファイターズはヒットやフォアボールなどで1アウト満塁と先制のチャンスを迎え、近藤選手が打席に入りました。 私たちがいるレフトスタンドはテンションが上がり、西日本限定のチャンステーマを合唱していました。
そこで、近藤選手がセンターに大飛球を放ったのですけど……… 私たちのいる位置からでは、スタンドに隠れていて見えません。 アウトが1つ増えて、走者が2人ホームに帰ってきたのですけど、何があったのでしょうか?

翌日のスポーツ紙には、近藤選手の飛球を、バファローズのセンターの宗選手が一旦捕球したもののグラブから跳ね、外野のフェンスに当たってから、再びグラブに入ったそうです。 ヒットとなったので、3塁走者の清水選手と2塁走者の西川選手はホームインしたのですけど、1塁走者の大田選手にはセンターフライに見えたらしく、再び1塁に戻ったらアウトに。 なので、公式記録は珍妙な「センターゴロ」となりました。
不可解な得点で、喜ぶタイミングをハズしてしまいましたけど、とにかくそれによってファイターズは2点を先制したのです

 

さらに5回表のファイターズの攻撃では、2アウトから大田選手が打った球は内野に転がるも、全力疾走でギリギリセーフに  内野安打となりました。続く近藤選手はフォアボールを選び、2アウト1塁3塁で4番打者の中田選手を迎えました。  ここで、波にも伝授した関西限定のチャンステーマの出番と相成りました  そのようないい場面で中田選手は2ベースヒットを打ち、2点を追加してファイターズにとってはより有利な展開となりました。

 

さらにレフトスタンドにジェット風船が飛び交い、球団の公式応援歌の「ファイターズ讃歌」が流れた7回表には、1アウト1塁から中田選手が放った打球が、ドームの天井高くに上がっていき……… あれっ、球が消えたのでしょうか?なかなか落ちてきません。 またしても翌日のスポーツ紙の情報によると、彼が打った球はかなり高いところにあるドームの天井の隙間に入り込んでしまったそうです。 気になるその判定は……… ドーム球場独自のグラウンドルールにより、2塁打ということに。こちらも珍しいプレイなのですけど、得点に結び付きました。

 

その後もファイターズがリードしたまま試合は進み、6対1で見事に勝つことができました。 私とたつぴは、居合わせた同士のファイターズファンたちと勝利の余韻に浸ってから、京セラドームをあとにしました。 そうしたら、この日は家で留守番をしている箔母さんにお土産を買っていかなければ 数ある大阪の名物の中で、今回私が選んだのは………

りくろーおじさんチーズケーキでした。 以前に「秘密のケンミンSHOW」でも取り上げられたことがあり、それを観ていた箔母さんが「買ってきて」と言ったのを覚えていたのです。 しかし、行列に並んで焼きたてのものを買ってきたら、このチーズケーキの見栄えの命ともいうべき、りくろーおじさんの焼印がビニール袋にくっ付いてしまって。 やむを得ず、まるごと写しておきました。 それよりも、気になる味のほうは……… 甘さは控えめながらも、生地はふわふわでもありしっとりでもあり、また食べたくなる美味しさでした。
一方のファイターズのほうは……… バファローズに連勝したあとは、それ以上に連敗し続け、8月は5勝20敗1分けという成績に。 その結果、最下位まで堕ちてしまいました。それでも、その月での数少ない勝ち試合に当たり、私の中での連敗も止めることができたので、ちょっと得した気分になることができました。 それに、復帰したばかりの中田選手の活躍も観ることができましたし。あとはこのチームがどの順位まで行き、来年に繋げられるのか、見守っていきます。



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必ずここへ帰ってくると、手を振る人に笑顔でこたえ(丹波・丹波方面旅行その4)

2019-09-11 01:38:58 | 旅行記

こんばんは、白黒茶々です。

台風10号の動きが油断ならないお盆休みの終盤に、私とたつぴは丹波・丹後方面のお城をめぐる列車旅をしていました。 予定を早めに切り上げて帰路に就いたのですけど、その台風の影響で途中の丹波篠山市の篠山口駅で足止めを喰らってしまいました。 そこから先はJRの列車は運休してしまったのですけど、どうする?どうなる?

私たちと一緒の列車に乗ってきた外国人の旅行者たちもその先まで行きたかったみたいで、困っている様子でした。 彼らは駅員さんにいろいろと聞いていたので、私もひょっとしたら列車に代わる交通手段などを教えてもらえるのではないか?と思い、耳をそばだてていました。 しかし、駅員さんはここから先には列車は出ないということを繰り返すだけでした。

その篠山口駅には、運行を終えた列車が勢揃いしていました。 滅多に見られない珍しい光景なのですけど、私は少しも嬉しくありませんでした。
………という絶望的な展開となっていたのですけど、実は私はそこに向かう列車の中で、いろいろな策を練っていたのです 篠山口駅でどうにかして一夜を過ごし、翌朝に始発列車や新幹線で帰れば……… いや、どう頑張っても仕事の始業時間には間に合いません。 それよりも、翌日も予定通り運行するかわからないと言っていますし。ちなみにその時点での所持金は1万円ちょっと。 それと、(JRの在来線が1日乗り放題の)青春18きっぷが残り2回ぶんありました。 その段階での情報によると、兵庫県内のJRは全線運休しているとのこと。なので、どうにかして大阪駅のある梅田まで行ければ、なんとか帰れるかも知れません。

そこで、京阪神地方のその他の私鉄……… 阪神阪急あたりを調べてみたら、このような状況の中でも、ほぼ通常通り運行しているということが判明しました。 とはいっても、それらは丹波篠山市までは走っていないのですよね。
それならば、丹波篠山市に最も近い阪神阪急の駅はどこにあるのでしょうか?今度はそのことを調べてみました。 その結果、約24㎞先の三田(さんだ)市にある三田駅がそれらの始発駅となっていることがわかりました。 その区間を行く路線バスはないので、タクシーに頼るしかありません。 私は思いきって、駅に待機しているタクシーの運転手さんに「ここから三田駅まで1万円以内で行けますか?」と聞いてみました。すると「はい、大丈夫です」という答えが 私たちは二つ返事でそのタクシーに乗り込みました。

非常事態で緊迫していたこともあって、利用したタクシーは撮っていなかったのですけど、篠山口駅を出ていくところは辛うじて写すことができました。

そこから先の道中では、雲の切れ間から青空や日差しが見えたりしたのですけど、本当に台風が迫っているのでしょうか? というよりは、このような状況の中でも、JR西日本は早々と運休を決めてしまうなんて、あきらめ早すぎ

篠山口駅を出てから30分ちょっとで、私たちは三田駅に到着しました。 気になるタクシーの運賃は……… 8800円でした。 そこから阪急列車(有馬線)に乗り込み、まずは神戸方面へ

 

その車中で私は、ボートレーサーとなった甥っ子の光君のレースが、その日にあることを思い出しました。 お盆休み中にボートレース浜名湖で地元選手を集めたレースがおこなわれていて、彼の弟の翼君も出場していました。 その数日前に、私は彼らのレースを観に行ったのですけど……… 翼選手は舟券に絡む3着以内を取ったりしている一方で、光選手は転覆して失格。 救助艇に助けられていました。 彼は5月にデビューしてからは6着(ビリ)ばかりで、よくても5着という戦績でした。 しかも、その日は浜名湖の水面が荒れていて、彼がスタートする6コースには不利とされる安定板を使用してのレースとなりました。
スマホ(イヤホン使用)で観戦していたそのレースの結果は……… 好スタートを切った光選手が最初のコーナーで大胆に仕掛けてトップに躍り出て、その位置をキープ 追ってくるベテラン勢を振り切って、見事に1着でゴールしたのです 光選手、初勝利です

 

初勝利をあげた新人選手は、救助艇から先輩や仲間の選手たちの手によって、ボートレース場の水面に放り投げられる「水神祭」という儀式を受けることになっています。光選手はデビューから3ヶ月で、しかも地元の浜名湖で皆さんから手荒い祝福を受けていました。転覆で救助艇に助けられてから2日後に、違う形で救助艇に乗ることになるなんて!とにかく光君、おめでとう。 彼のその活躍に励まされ、私も頑張って帰る決意をしました。

私たちが最初に乗った列車は新開地駅までで、そこから2つの路線のどちらかに乗り換えることに。 いずれも大阪の梅田まで繋がっているのですけど、阪急列車(神戸本線)は山側を、阪神列車(阪神本線)は海側を、それぞれ通っています。 私にとっては阪神本線は馴染みがあり、車窓の景色も楽しめるので、迷わずそちらにしました。

 

まずは甲子園駅付近で、甲子園球場が見えてきました。 台風の影響で、前日の段階で早くもこの日の高校野球の試合は中止となっていました。昨今は高校野球熱が高まって、こちらの球場はなかなか入れないのですけど、来年あたりには行きたいですね。

 

尼崎駅の1コ前の、尼崎センタープール前駅の真ん前には、ボートレース尼崎が見えるのですけど、うまく撮れませんでした。 翼選手も何回か走ったところなのにぃ~

 

さらに次の尼崎駅のすぐ近くには、平成最後の築城で今年の4月に外観のみ再現された尼崎城が聳え立っているのですけど……… いいタイミングで撮れたと思ったのに、信号と柱が飛び込んできちゃった

………なんてことをやっているうちに、私とたつぴは阪神梅田駅に行き着きました。 こちらからはJRの東海道線に乗り換えて、ひたすら東に向かうだけです。 えっ、強風の影響で快速列車でも各駅停車になるですって?それぐらいのことは、合点承知の助です

………と落ち着いたところで、晩御飯を食べることにしましょう 実は私は、福知山駅から列車に乗り込む前に、前日にも寄った餃子の王将で、しっかりちゃっかりお持ち帰り用の炒飯と唐揚げを作ってもらっていたのでした。 やはりこのような非常事態の中では、いつでも食べられる食糧が手元にあると心強いですよね。 それらは冷めていても、美味しくいただくことができました。
そのような感じで、私たちは大幅に遅れながらも米原駅に到着。このあたりではかなり風雨が強くなっていました。 そこからはなんとか大垣駅までの列車に乗れたのですけど、大垣から先は乗り継ぎの見通しが立たないと言われてしまいました。

頑張ってここまできたのですけど、もはやこれまでなのでしょうか? 私たちはひと息つこうと駅コンビニでコーヒーとお菓子を買ってきたのに、これらをどこで食べたらいいのでしょうか?

………なんて言っていたら、30分ほど経ってから列車の運行が再開されました。 このままいってくれればいいのですけど………

しかしその列車も、岐阜駅で完全に止まってしまいました。今度こそ本当に、こちらで腹をくくるしかないみたいですね。 こうなったら、岐阜市内に在住のお友達に泊めてもらえるように交渉するしか……… いや、突然おしかけたら、ご迷惑ですし。
と、あきらめかけたところで、また新たな救世主となる列車がやって来ました なんか、自分たちが双六の駒みたいに思えてきました。 今度は正真正銘の豊橋行きなので、少なくともそこまでは行けそうです。豊橋なら、箔母さんの送迎の範囲内なので、今度こそ本当に「あがり」が、いや、ゴールが見えてきました。

ところが、今度は刈谷駅で足止めを喰らってしまいました。 「次の安城駅で前の列車がホームに止まっているので、進入することができません」そういうことなら、お任せします。
その後はなんとかして豊橋駅に到着。 さらにそこから接続する列車もあったので、無事に自宅の最寄り駅まで行くことができました。 福知山駅から帰りの列車に乗り込んでから12時間あまり。予定より2倍の時間をかけ、日付けを跨いだ1時過ぎにようやく自宅に帰ってくることができました。

そして、との再会も叶いましたよ 彼女らは私たちの帰りを待っていてくれました。 今回の旅行記の最初と最後だけ出てくるなんて……… なんか、西洋の児童文学などで、第1話で主人公と生き別れ、最終回で再会が叶ったお母さんみたいにも思えてしまいました。
それはさておき、今回の親子旅は例年とは異なりアクシデント続きでしたけど、かえって忘れられない体験となりました。 それから、波や狛とともに家に残り、私たちの動向を見守り、送迎もしてくれた箔母さんにも、感謝しています。



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絶体絶命の細川幽斎(丹波・丹後方面旅行その3)

2019-09-07 02:11:01 | 人物伝

こんばんは、白黒茶々です。

お盆休みの最終日となる8月15日は、私はたつぴと一緒に舞鶴市のプラザホテル舞鶴に泊まっていました。 その日は台風10号が迫っていて、まわりは厳戒体制に入りつつあったのですけど、こちらは雲が多くて風はややあるものの、時おり青空や日差しが見えるような天気でした。

 

ちなみにこちらのホテルは、私たちが利用したエコノミーツインが1泊朝食付きで税込9200円(1人あたり4600円)。 ちょっとサラダがかぶっているのですけど、美味しくいただきました。 モーニングセットで朝の活力を充填したら、この日最初の目的地に向かいますよ
舞鶴駅前にあるプラザホテル舞鶴から歩いて10分ほどで………

 

お城の石垣と櫓門が見えてきました こちらは田辺城で、別名を舞鶴(まいづる……… ではなく、ぶがく)城といいます。

 

細川幽斎という人物がこのお城を築いたのですけど、皆さまは彼のことはご存知でしょうか? 彼は細川忠興の父でもあり、のちに田辺城の戦いで大軍を相手にしたことは歴史上の出来事としてハズせません。 なので、今回は田辺城を巡りつつ、幽斎の人物像について探求していこうと思います。

 

田辺城の城門の北側の石垣の上には、昭和15年(1940年)に建てられた隅櫓(彰古館)があります。普段はその内部は公開されているのですけど、この日は台風の接近を理由に閉鎖されていました。
幽斎は、来年の大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公の明智光秀にとって大切な人物で、そのドラマでも重要な役割を担うと思われます。彼の嫡男の細川忠興は、関ヶ原の戦いで徳川家康率いる東軍についたのですけど、細川ガラシャの夫といったほうが分かりやすいかも。ガラシャは明智光秀の娘で、本名は玉といいます。彼女は、忠興の正室となったのちにキリスト教徒となり、洗礼を受けてガラシャと呼ばれるようになりました。関ヶ原の戦いの直前に、石田三成は敵方の東軍の武将の妻たちを人質に取ろうとしたのですけど、ガラシャは断固拒否 やむなく、三成が武力でもって実力行使しようとしたら、ガラシャはキリストの教えで自害することはできなかったので、家老に長刀で胸を突かせたのでした。

 

隅櫓(彰古館)は模擬建築なのですけど、戦前に木造で建てられたということもあって、風格があります。
ここで、話は細川幽斎に戻らせていただきます。 安土桃山時代の天正8年(1580年)、織田信長の命によって細川藤孝(のちの幽斎)は明智光秀と協力し、丹波・丹後を平定しました。 そのうちの丹後国は細川藤孝・忠興親子の領国となりました。藤孝は当初は宮津城を居城としていたのですけど、京都に近くて交通の要所でもあった旧丹後守護所の加佐郡八田に、地名を田辺と改めた上で田辺城を築き、子の忠興を入城させて、統治の中心としました。 天正10年(1582年)頃にお城は完成し、その年の6月に起こった本能寺の変の後に、藤孝は隠居。その際に名前を幽斎と改めました。 彼は戦国大名でありながらも、すぐれた文化人でした。 和歌・連歌をはじめとして、太鼓、謡曲、乱舞、禅、料理、茶道、書道、鞠、有職故実に至るまで多彩な才能を発揮。さらには、三条西実枝から歌道の奥義を許された「古今和歌集」の秘事口伝の伝承者(古今伝授)でもありました。

 

田辺城跡では、近年の発掘調査によって出土した、天守台の石垣も見ることができます。
慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いがあったのですけど、その前哨戦や東軍と西軍の戦いは、関ヶ原以外の全国の至るところでもおこなわれていました。 細川忠興が徳川家康についたことから、石田三成は丹後の細川攻めをすることを決断し、その周辺の西軍の大名に召集をかけました。 その兵の数は約1万5千人。一方の忠興は、家康に従って会津の上杉攻めに向かってしまったので、不在でした。 丹後に残された幽斎は、兵を集めても5百人ぐらいにしかなりませんでした。そこで、彼は地理的に不利な宮津城を焼き払い、田辺城に籠城する決意をしたのでした。

 

その田辺城には、幽斎の頃に築かれたと思われる本丸の石垣が残っています。
細川軍の兵の数は圧倒的に不利だったのですけど、籠城は50日にも及びました。その間、援軍の見込みはなく、勝利はおろか落城寸前にまで追い込まれていました。
その一方で、田辺城の制圧に参加していた西軍の諸将の中には、幽斎を歌道の師として崇拝する者がいくらかいて、彼らには城を攻め落とすことにためらいがありました。 また、幽斎の弟子の一人である八条宮智仁親王や、彼の兄の後陽成天皇も、幽斎の討ち死にによって古今伝授が廃絶することを恐れていました。 そのような中で、八条宮は幽斎に田辺城を開城するように説得したのですけど、彼は断固拒否 「城を明け渡すぐらいなら、自害したほうがまだマシ 」って、このようなところで武士らしいところを出すなんて………

 

田辺城跡に造られた舞鶴公園には、このような石碑が立てられています。 達筆過ぎて読めないのですけど………
「古へも 今もかはらぬ 世の中に 心のたねを のこすことの葉」と、刻まれているそうです。これを現代語に訳すと………
変わらない悠久の時の流れの中に、和歌は言葉によって心の種を残していくものです。そのように私の歌と心も残るならば有難いことです。
幽斎は八条宮に宛てて、開城を断る書状にこの一文を添えました。 そうしたら、今度は後陽成天皇から幽斎と西軍の双方に、開城の勅命が届けられたのです 天皇の勅命とあっては、逆らうワケにはいきません。 西軍はただちに包囲を解き、幽斎の身は亀山城に預けられることに。これをもって、田辺城の戦いは幕を閉じました。

 

その籠城戦の間に関ヶ原の戦いは終わっていたのですけど、徳川家康は「東軍が勝てたのは、丹後の西軍が田辺城に釘付けになっていて、合戦に加わらなかったおかげである 」と、幽斎を誉め称えました。
忠興は関ヶ原の戦いの功績によって、豊前小倉藩39万9千石に栄転。一方の幽斎は、京都吉田で悠々自適な晩年を送ったと云われています。 そして慶長15年(1610年)8月20日に、77歳でその生涯を終えました。 

 

田辺城の見学を終えた私とたつぴは、今度は福知山に向かいました。 その市役所の裏にある伯耆丸公園という高台からは、いい感じで福知山城が見えました。 かつてはこちらの山とお城の本丸は地続きで、その間が二の丸となっていたのですけど、明治以降に切り崩され、本丸が孤立したような状態となっています。

 

市役所の前からは、いい感じで福知山城を眺めることができました。
といったトコで、福知山城の説明をさせていただきます。 このお城は、天正7年(1579年)に織田信長の命によって丹波を平定した明智光秀が、統治の拠点として築きました。その後城主が代わったりしたのですけど、慶長5年(1600年)頃に完成したとされています。 明治初期に取り壊されたのですけど、昭和61年(1986年)に大天守と小天守が外観のみ復元されました。
そうしたら、今からそちらに向かいますよ

その本丸までは、麓からちょっと急な坂を上っていきます。 最近運動不足を自覚し始めたたつぴは、早くも息を切らせております。 そういう私は……… まだ大丈夫ですよっ

 

ハアハア……… 山頂部に釣鐘門が見えてきました。 小ぢんまりとしているのですけど、明治時代の古写真などの資料をもとにして、平成20年(2008年)に復元されました。

そして、私たちはようやく本丸にたどり着きました。 こちらでは、自動販売機に描かれた、新たな解釈(?)によるイケメン光秀が出迎えてくれました。

 

ちなみに向こうに見える建物は、銅門続櫓(あかがねもんつづきやぐら)にございます。 この建物はかつては二の丸の入口にあったのですけど、明治以降に小天守台に移築され、さらに大天守と小天守の復元にともなって、ちょっとズラした現在の場所に落ち着きました。 しかし「麒麟がくる」の来客に備えているのでしょうか?お城ではあちこちで舗装工事がおこなわれていて立ち入り制限もあり、私たちは銅門続櫓には近づくことができませんでした。

 

それに、ただでさえ本丸からの距離が近すぎて、天守の全体像が撮りにくいというのに、その立ち位置も限られていました。 それでも、東側は大丈夫みたいなので、今度はそちらに廻っていきます。

 

その大天守台の石垣には、灯籠や墓石などが転用されています。 これらから、築城時に石材の調達に苦労したことがうかがえます。

 

さらにその向こうには、豊磐井(とよいわのい)があります。福知山城の本丸は麓から20mの高さのところにあるのですけど、この井戸は岩盤をくり貫き、さらに地上より30mもの深さまで掘られています。 合わせて50mもあり、今でも水を湛えているそうです。
その後方に見える建物が、大天守と小天守なのですけど………

 

こちら側からでも、近すぎてフレームに収まりきれません。

 

それでも、朝暉神社の裏側まで下がったら、なんとか格好がつきましたよ 前フリが長くなってしまったのですけど、いよいよその内部に入りますよ

って、そ、そんな……… せっかくここまで来たのにぃ~!

 

※白黒茶々さん、中には誰もいないので、叩いてもムダですよ。(編集部注)
なんちゃって 実はこうなっていることは、事前の情報で知っていたのですよ。 それでも、せめて写真だけでも撮っておきたくて、私たちはここまで来たのでした。そのような状況を知ってか知らずか、私たち以外にもお城を訪れる人はけっこういました。

台風によって列車が遅れたり運休したりする恐れがあったので、私はホテルを出る前に、今回の旅行のスケジュールを練り直していました。 メインだった天空の竹田城は断念し、午前中に予定を切り上げて早めに帰路に就けば、多少遅れることがあっても、無事に帰ることができるでしょう。

 

その前に、こちらでお昼御飯を食べていくことにしましょう この地方のご当地食を調べたら、福知山駅の北側にあるこちらの丹波粉もの屋というお店で、ゴム焼そばなるB級グルメが食べられるということがわかりました。私は前日の昼にも焼きそばを食べたのですけど、この際気にしないことにします。 ガラガラ……… いらっしゃいませ

単品でもよさそうなのですけど、やはり旅行を切り上げる前にはがっつり食べておきたいですね。 なので、いろいろ付いているゴム焼そばランチにしておきましょう そのお店のテレビでは、終戦記念日の戦没者追悼式の中継をやっていました。そうしているうちに正午を迎えたので、私たちはその場で黙祷しました。

 

それからしばらくして、注文の品が運ばれてきました。ゴムを称することから、やはり弾力や伸縮性のある麺なのでしょうか?とにかく、いっただきま~す  ぞぞぞ………
ふおっ 私の予想に反して、麺はやや固めでしたよ。これは、固いゴムをイメージしているのでしょうか?それでも、独自のトマトソースと相まって、ご飯が進みました。

お腹も心も満たされた私たちは、福知山駅から帰りの列車に乗っていくことに。 ところが、予定していた山陰本線はすでに不通になっているというではありませんか 兵庫県内のJR線は、早々と運行を取り止めたみたいです。この段階で運行していたのは、舞鶴線の東舞鶴行きと、福知山線の篠山口行きの2本のみ。それならば、まずは舞鶴線で東舞鶴まで行って、そこから日本海側を通る小浜線を経由して、北陸の敦賀方面に落ち延びる手は使えないでしょうか? そのことを駅員さんに聞いてみたら……… えっ、東舞鶴から先は不通になっていて、そこから接続する列車はないですって これによって、1つの退路は絶たれました。
残るは福知山線の篠山口行きだけなのですけど……… それは福知山駅からの最終列車となり、篠山口から先はすでに不通になっているそうです。 そのような状況となってしまったのですけど、その列車に乗るか?乗らないか?やはり、行けるところまで行ってから、そこから先のことを考えることにしましょう。

………という流れで篠山口駅にまで来たのですけど、ここから先の足はありません。 丹波篠山にとても失礼なのですけど、このような中途半端なところで投げ出されたら、困ります。 ここで明日の朝になるのを待つとしても、この周辺にはホテルの類は見当たりませんし。もしあったとしても、いきなり行って部屋が空いているかどうか。そうしたら、台風が来るというのに、野宿するしかないのでしょうか?まさかそのような中で、駅から閉め出されるなんてことはないですよね? それよりも、私とたつぴは、翌日は双方とも仕事があるのですけど……… 細川幽斎だけではなく、私たちも絶体絶命となっていました。 このような状況の中で、助かる手段はあるのでしょうか?次回の日記に続けさせていただきます。



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ようやくお城が登場!(丹波・丹後方面旅行その2)

2019-09-04 01:17:07 | お城

こんばんは、白黒茶々です。

前回、長時間の列車の旅で丹波篠山にやってきた私とたつぴは、最初の目的地となる篠山城を前にして、一旦日記を仕舞いました。 悪意はないのですけど、なんか「コトの真相はCMのあとで 」みたいになってしてしまいました。なので、今回はその続きからとなります。

 

私たちの目の前には、お堀と高い石垣、それに御殿の立派な屋根が聳えています。 こちらの篠山城は、関ヶ原の戦いの後に、豊臣氏の居城の大坂城の包囲と、豊臣ゆかりの西日本の諸大名を抑える拠点として、慶長14年(1609年)に徳川家康の命令によって築かれました。 縄張りは築城の名手・藤堂高虎が、普請の指揮は姫路城を築いた池田輝政がそれぞれ担当しました。 そして、西日本の緒大名が駆り出され、現場を分担する「天下普請」の突貫工事によって、わずか1年足らずで完成しました。

 

篠山城には、藤堂高虎が手掛けたお城の特徴が所々に表れています。 縄張りは直線的なのですけど、随所に折れをつけて、死角をなくすようにしてます。また、高い石垣の下に犬走りと呼ばれる通路のような段が廻っていて、さらにその外側にお堀があります。これは構造的にも丈夫で、石垣とお堀の工事が同時にできるという利点もあります。

 

本丸の南側の下の、三の丸から見た高い石垣は圧巻です。 ちなみに右側のひときわ高い部分は天守台で、高さは16mもあります。しかし、現在その下に埋まっているお堀と犬走りを本来の姿に戻す工事をしているところみたいですね。 このような立派なお城が、わずかな期間で出来上がったのですけど、徳川家康の意図によって天守台の上に天守は建てられませんでした。

 

それでもその天守台に上れば、南側の町並みやまわりの山々を臨むことができます。

 

そのついでに、二の丸の裏口となる埋門(うずみもん)も見ておきたいですね。 こちらの通路は、非常時には埋めて遮断できる構造となっています。

 

ここで一旦、お城の敷地の外に出てみます。 篠山城には入口が3ヵ所あって、そのうちの南と東の2ヶ所に馬出しと呼ばれる、まっすぐ入れないうえに城兵に狙われる構造のトラップが現存しています。 篠山城は歴史的に価値があり、保存状態が良いこともあって、昭和31年(1956年)に国の史跡に指定されました。

 

………と、お城をぐるっと廻ってきたのですけど、実はもう1ヵ所大きな見どころがあるのですよ 高い石垣の上に見えていた立派な屋根の建物がずっと気になっていたそこのアナタは、目の付け所がいいですね

明治になってから、篠山城の建物はことごとく取り壊されたのですけど、二の丸にあった大書院だけは残されました。 貴重な城郭御殿の建物だったのですけど、惜しくも昭和19年(1944年)に失火で焼失してしまいました。

 

それから56年後の平成12年(2000年)に、創建当時の姿に復元されました。 屋根は入母屋造りの、薄くスライスした木の板を重ねた柿(こけら)葺きで、延べ床面積は739,33㎡。棟高は12,88mもあります。

 

そのうち、玄関のある建物は展示スペースとなっていて、篠山城の復元模型や歴史資料、お城の歴史を紹介するシアターなどが見られます。 それらを見学したら、いよいよ大書院の建物へ

 

入ってすぐのところにある虎之間は36畳もあり、大書院で最も広い部屋なのですよ。 またこちらには、戦国武将の甲冑がずらりと並んでいますね。

 

部屋を囲んでいる通路(広縁)の雨戸は閉めきられているのですけど、この広さと薄暗さからは建物の重厚さと格式の高さが感じられます。

 

そしてこちらの上段の間は、大書院で最も格式の高い部屋であります 大床の松の絵や帳台構、付書院などを備え、帳台構の裏側にはお殿様の護衛が潜む、武者隠しのようなスペースが設けられています。私たちが入った時はたまたま空いていて、大書院を独占する贅沢な時間を過ごすことができました。

丹波篠山といえば、篠山城の他にはデカンショ祭りも有名ですよね その祭りはお城の三の丸をメイン会場にしておこなわれるみたいで、その準備はすでに整っていました。この翌日の15日からおこなわれることになっているのですけど、台風の影響がなければいいですね。

 

篠山城の散策はいたって順調で、予定していた時間より1時間ほど早く見終わってしまいました。

また、こちらは陽の出ている時間が長くてけっこう暑かったので、乗る予定のバスが来るまで、お城の近くにある旧篠山町役場こと丹波篠山大正ロマン館で涼んでいくことにしました。 さらに喉を潤すつもりだったのに、どうしてもホットコーヒーを注文してしまうのですよ。
そのあと、私たちは篠山口駅から再び列車に乗っていき、30分ほどのところにある………

柏原駅で下車しました。 丹波市の柏原は「かしわばら」でも「かしわら」でもなく、「かいばら」と読みます。 個性的なその駅舎をやり過ごし、町並みを歩いていったら………

 

レトロな洋館が見えてきました。 こちらは昭和10年(1935年)に建てられた、旧柏原町の役場だった建物であります。 現在は展示施設にでもなっているのかと思いきや、丹波市柏原支所として使われているなんて、驚きです

 

またそのすぐ近くには、けやきの巨木の根っこが橋(の欄干)のように川を跨いでいる木の根橋がありました。ちなみにこれは、県の文化財に指定されています。

 

さらに石田大蔵神社の境内には、柏原陣屋太鼓櫓があります。正徳4年(1714年)の陣屋の創建時に建てられ、明治初期に現在の場所に移築されました。 ここからさらに東の方向へ7分ほど歩いていくと………

 

柏原陣屋の表御門となる長屋門の前に行き着きます。 さきほどから出ている陣屋とは、小藩の大名の藩庁が置かれた屋敷のことで、石垣やお堀といった防御施設は簡略化されているのですけど、城郭に分類されます。
慶長3年(1598年)に織田信長の弟の信包(のぶかね)が3万6千石でこの地に移封されて柏原藩が成立したのですけど、3代目の信勝の代で廃絶してしまいました。 それから45年後の元禄8年(1695年)に、今度は信長の次男の信雄の玄孫(いわゆる孫の孫)に当たる信休(のぶやす)が2万石に縮小されつつも、柏原藩の領地を与えられました。 それから20年ほど経ってから陣屋の造営をおこない、表御門はその当時のまま現存しています。このまま陣屋に突入したいところなのですけど………

 

その入場券は、向かいにあるこちらの柏原歴史民俗資料館でお買い求めくださいませ。 ちなみに共通の入館料は大人200円にございます。

 

こちらの資料館には、柏原陣屋の復元模型や柏原藩の歴史に関する資料の他に、この地方が生んだ女性俳人の田 ステ女にまつわる展示もされています。 それらを見終わったら、いよいよ陣屋の表御殿へ

ちなみにこの写真は、16年前に私が初めて訪れた際に撮ったものです。 建物の両脇には手入れの行き届いた立派な木が植わっているのですけど、失礼を承知で申し上げるとジャマですね。 しかし、その年月の間にそれらの木は他の場所に移植され、さらに表御殿やその周辺も整備工事がおこなわれて………

 

現在ではこんなにもスッキリさっぱりしています。 こちらの表御殿は文政3年(1820年)に建てられ、藩主が藩士や来客と対面するなど、公式の場として使われました。 玄関の屋根は桧の樹皮を重ね合わせた桧皮葺きで、千鳥破風と唐破風を組み合わせています。また、建物の外観は桃山時代風の書院造で………

 

入ってすぐのところにある玄関の間は、威厳と開放感がありますね。

 

畳敷きの廊下(入側)は、篠山城の大書院と同じように雨戸が閉めきられているのですけど、センサーで照明が点くようになっているので、どうかご心配なく。

 

書院次の間の向こうには、花頭窓のような出入り口が見えますね。嗚呼、そこを出入りしてみたい

 

そしてさらにその最深部には、書院上の間があります。 こちらは藩主が藩士や来客と対面した場所と思われます。
現存しているのは玄関と書院の一部だけなのですけど、御殿建築が残っている陣屋は数少ないので、とても貴重です。そのようなことから、昭和46年(1971年)には国の史跡に指定されました。
こちらの陣屋の見学もさらっと終わってしまって……… というよりは、またしても私たちの貸し切り状態で、順路を2周しても時間が余ったので、予定より30分ほど早くこの地をあとにしました。 柏原から列車に乗ること30分ほどで………

福知山駅に到着しました。私がこちら方面に来たのは、16年ぶりでしょうか?その間に線路は高架化され、駅舎もモダンな姿に建て替えられていました。 あとは舞鶴線に乗り換えて、宿泊地となる舞鶴市に向かうだけですけど、その前に福知山で晩御飯を食べていくことにしましょう。

とはいっても、ご当地食が食べられるお店などは探したりしないで、駅に隣接している無難な全国チェーン店に入ることにしました。 それでも、私にとって餃子の王将はかなり久しぶりなのですよ

 

炒飯と何かのセットにしようか迷ったのですけど、結局2人とも餃子やスープなどが付いてお得感満載な焼肉セットにしました。 ま、まあ、炒飯は明日のお昼か晩にでも食べるということで。
さらに私たちは舞鶴線で丹後方面に向かい………

ワンマン列車+ローカル線+単線の線路を走ること40分ほどで、西舞鶴駅に行き着きました。こちらは全面ガラス張りで、おしゃれな駅舎ですね とはいっても、前回私が訪れた時と変わっていませんけど。 そこから程近いところに………

 

この旅行の宿となる、プラザホテル舞鶴はあります。 西舞鶴駅もそうだったのですけど、私たちが着いたのは日没後で、皆さまに全体像が分かりづらい状態ではナンなので、翌朝に撮ったものを載せさせていただきました。

 

部屋は割安のエコノミーツインということもあって少々狭いのですけど、きれいですし私たちにとっては差し障りのない広さでした。 翌日の天気は何回見ても台風接近で厳重注意となっていたのですけど、それに反して窓の外にはきれいなお月様が浮かんでいました。 果たして天気予報は覆って、私たちは目的のお城を踏破できるのでしょうか?いや、事態が急変して、台風に巻き込まれたりしないでしょうか? その結果は、次回の日記に綴らせていただきます。



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