波と狛のつれづれ日記

日本スピッツ波と狛と、ときどき箔

実は蛇女だった!?亀姫と、新城城

2020-02-19 02:20:26 | 人物伝

こんばんは、白黒茶々です。

前回の日記では、私・の白黒茶々家の1人と2頭は、野田城址を散策したあとに新城(しんしろ)市の中心部に向かいました。

………ということで、新東名高速道路の長篠設楽原PA(下り)にやって来ましたよ こちらのPAは歴史的にも有名な長篠の戦いの織田・徳川軍をモチーフにしていて、その際に織田信長が構えた本陣跡にも直結しています。 さらに、PAの建物を入ってすぐのところには………

この地方にゆかりのある奥平信昌亀姫の象が据えられているのですよ。 それにしても、信昌の眉ふとっ 鼻の穴でかっ 対して亀姫様はとても穏やかなお顔をしておられる。 といったトコで、今回はそのうちの亀姫にスポットを当ててみようと思います。

次に私たちは、新城市の中心部にある新城小学校を訪れました。 こちらはかつて新城城があったことを意識したからなのか、建物の一部がお城のような形をしております。 ここで、本題に入らせていただきます。
亀姫は永禄3年(1560年)に松平 元康(のちの徳川家康)と瀬名(のちの築山殿)の長女として生まれました。 その頃、元康一家は今川義元の支配下の駿府(静岡市)におかれていたのですけど、2年後の桶狭間の戦いで義元が織田信長軍に討ち取られると、その混乱に乗じて岡崎城に移住。 その後、元康は名を徳川家康と改め、信長と同盟を結んで武田信玄と攻防することになります。

戦国時代にこの地方は、奥平氏が治めていました。 奥平定能の頃には武田方に属していたのですけど、武田信玄軍が野田城から撤退し、信玄の死亡説が流れると、貞能は徳川方につきました。 ところが、信玄のあとを継いだ武田勝頼が勢力を巻き返すと、武田方に寝返ったのです
奥平氏の力を必要とした家康は、信長の進言もあって、定能の嫡男の貞昌(のちの信昌)と亀姫を婚約させることなどを条件にして、再び両家の間に同盟が成立 その際に貞昌は、武田方に人質として差し出していた妻のおふうと離縁しました。 これに激怒した勝頼はおふうと貞昌の弟の千丸を処刑 それだけでは飽き足らず、さらに勝頼は天正3年(1575年)5月に1万5千の軍勢を率いて、貞昌のいる長篠城を攻めました。

ということで、私たちは今度はその長篠城にやって来ました こちらのお城は現在国の史跡に指定されていて………

本丸を囲む土塁や空堀などが残っています。

ただし、ワンコの散歩で踏み入ることはできないのですよ。 これは散歩ではなく歴史の調査で、波と狛はワンコではなく歴史のコーディネーターで、………く、苦しい。
武田の大軍に対して、貞昌とともに長篠城に籠った城兵はわずか500人。 この絶体絶命のピンチの中で、彼は足軽の鳥居強右衛門を伝令役に任じ、岡崎の家康に援軍を求めました。 強右衛門の働きによって、3万8千もの織田信長と徳川家康の連合軍が駆け付け、武田勝頼軍1万5千との対決となる長篠の戦いが始まりました。

合戦は必ずしも兵の数で決まるとは限らないのですけど、近代兵器の鉄砲をうまく活用し、地の利などを活かした織田・徳川連合軍が勝利を収めました。

援軍が来るまでの間長篠城で持ちこたえ、織田・徳川連合軍の勝利に貢献した奥平貞昌は讃えられ、信長の名前から一字を賜って「信昌」と名乗ることになりました。
信昌は長篠の戦いの翌年に新たに築いた新城城に移り住み、亀姫を正室として迎え入れました。

場面は再び、現在の新城城跡に。 その後の新城城は規模を縮小し、江戸時代に入ってからは陣屋として存続しました。新城小学校の校庭の片隅には、お城の土塁の一部が残っていて、その上には城址碑が立てられています。

その近くには、旧校舎を利用したしろあと資料館が開設されているのですけど、この日は閉まっていました。
信昌は天正18年(1590年)の家康の関東移封に伴って上野国宮崎(現在の群馬県富岡市)3万石の領主となり、さらに慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの功績により、その翌年に美濃国加納(岐阜県岐阜市)10万石に栄転となりました。 そこで亀姫は「加納御前」と呼ばれるようになり、側室を一切もたなかった信昌との間に4男1女をもうけたのでした。めでたしめでたし。

………と、ここまでは亀姫は文句のつけようのないイイ女に見えるのですけど、実は彼女は殊のほか嫉妬深かったのですよ。 信昌は側室をもたなかったのではなく、亀姫のおかげでもつことができなかったのでした。 加納城の近くには侍女のお墓があります。「今、そなたは殿のことを誘うような目で見ましたね、決して許しませぬ 」とか言って、嫉妬に狂った亀姫が彼女たちを惨殺しまくったとも云われています。 その数は12人にも及びました。

※私が10年ほど前に訪れた宇都宮城

それだけではなく、亀姫は歴史的にも有名な「宇都宮の吊り天井事件」の黒幕だったという説も。 信昌や長男、次男亡きあとの慶長19年(1614年)には、亀姫(その頃には剃髪して盛徳院と名乗る)は10万石の宇都宮城(栃木県宇都宮市)の城主となった孫の忠昌の元に身を寄せていました。 しかしその時の忠昌はわずか7歳でした。幕府は忠昌がその地方を治めるのには荷が重いと判断し、彼が12歳となったときに11万石の古河城に移封させてしまいました。 代わりに徳川家康に寵愛されていた本多正信の嫡男の正純が15万石に加増されて新たな宇都宮城の城主となったのです。 その前には、亀姫の一人娘の嫁ぎ先の大久保家が不可解な改易に遭っていて、それには本多親子が絡んでいるという疑いがあったので、彼女は心中穏やかではいられませんでした。 国替えの引っ越しの際には、せめてもの復讐のためにと、彼女は襖や障子、畳などに加えて庭の竹木まで引き抜いて持っていこうとしたのですけど、さすがにそれは引き止められてしまいました。 亀姫、大人げないですよ

※白黒茶々家が5年ほど前に訪れた日光東照宮

元和8年(1622年)当時の宇都宮城は、日光東照宮に2代将軍徳川秀忠が参拝する際の宿所にもなっていました。 そこで復讐の鬼と化した亀姫は、「正純殿はお城の寝室に吊り天井の仕掛けをして、将軍を暗殺しようとしておられる」という根も葉もないデマを流したのです これによって、正純は失脚。 代わりに、亀姫の孫の忠昌が再びそのお城の城主に返り咲いたのでした。 これらには諸説あるのですけど、説得力があるのでつい信じてしまいます。

新城城跡の近くには、大善寺というお寺があります。こちらは亀姫が新城城にいた頃に大膳庵を移して建立したこともあって、境内の至るところに徳川の葵の紋が見られます。 彼女はこの大善寺で築山殿や長篠の戦いの戦死者を弔いました。
亀姫の嫉妬深い性格からのドタバタ劇もありましたけど、その一方で彼女には慈悲深いところもあることが窺えて、私はホッとしました。

大善寺の墓地の一角には「亀姫の墓」と称する五輪塔があります。これは奥平信昌と亀姫の4男の松平忠明が、彼女を供養するために、ゆかりのあるこちらのお寺に建立したものです。
亀姫は寛永2年(1625年)に、加納で66歳の生涯を閉じました。 彼女のお墓はこちらの他には、岡崎の法蔵寺など2ヶ所あります。 「遺骸が納められていなくても、その人を祈る場所であればお墓である」という規定に則れば、こちらも正真正銘の亀姫のお墓であります。 私たちは彼女の生涯に思いを馳せ、彼女に手を合わせてから次の目的地に向かいました。


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