くぁwせdrftgyふじこlp、白黒茶々です。
前回の日記の流れから、今回は「ふっかつのじゅもん」を入力して日記を始めることになったのですけど、その暗号がネットスラングみたいになってしまいました。 いや、中には「『ゆるキャン△』で見たことがある 」という方もいらっしゃるかも知れません。 はい、これは志摩リンが斉藤恵那とチャットでやり合っている中で彼女が発した、断末魔の声(書き込み)であります。 それはさておき、そのパスワードのおかげ(?)で、私・波・狛による飛鳥の里の散策回に無事に入り込むことができたので、そこから始めさせていただきます。 石舞台古墳の見学を終えた私は、肩の荷(波と狛)を降ろしてから、そこから近いといえなくもないところにある………
都塚古墳にやって来ました 現在は田畑に囲まれた静かな環境の中にあるこの古墳は、6世紀後半に造られた円墳または方墳であります。 毎年元旦に金鶏が鳴くと云われていることから、「金鳥塚」とも呼ばれています。 石室の入口は鉄柵で塞がれているのですけど………
その内部を覗き込むことはできます。 石室の中央には、見事な家形石棺が置かれていました。 その石室内からは、須恵器や鉄製品などが出土したそうです。 さらに私たちは、その地域にある………
◯◯石を訪れました Google Earthでたまたま見つけてからずっと気になっていたので、今回の訪問地に組み込みました。 画像と名前は自主規制で伏せてみたのですけど、皆さまの想像力が実物を超える恐れがあるので………
包み隠さずに見せることにしました はい、私たちが見に行ったのは、マラ石であります マラは魔羅、チ◯ポというか、いわゆる男性のシンボルのことで、誰が何の目的で立てたのか謎のままの珍石が、道端に伸びているのですよ 一応、子孫繁栄や農耕信仰に関係したものと推定されています。 それよりもよくよく考えてみたら、これはあくまでも◯ンポを模したアート(?)なので、隠すどころか皆さまに鑑賞することを勧めなければなりませんでした。 そんなマラ石を堪能してから………
私たちは高松塚古墳に向かいました 裏の細道を入っていったところにある小さな駐車場に車を止めて、歩いていきました。 私を含めた昭和世代には、その古墳のこのような姿が頭に残っているのですけど………
現在はこうなっています。 綺麗に復元・整備されているのですけど、ただの土盛りというか……… 高松塚古墳は、昭和47年(1972年)に発掘されました。 7世紀末から8世紀初頭にかけて築造された終末期古墳で、直径は上段18m、下段23m、高さ5mの二段式の円墳です。 この古墳は極彩色の壁画で有名なのですけど、発見・発掘される前に南側の壁に穴を開けられ、副葬品の一部が盗掘されました。 石室は 非公開&封鎖して保存したのですけど、壁画にカビを生やしたり、修理中に器材で傷つけてしまったり、………と、保存方法でかなり悩まされたみたいです。 結局、石室は解体され、壁画は石から下地となっている漆喰ごと剥がされ、保管庫で大事に保存されています。 そんな高松塚古墳の近くには………
高松塚壁画館という施設が造られています。 こちらでは、壁画のレプリカを見ることができるのですよ ちなみに私は、亀形石造物、石舞台古墳との共通券(700円)で入りました。
しかもこちらの施設の中では、一部の展示物を除いて写真を撮ることができるのですよ そうしたら、それらの中で主立ったものを紹介いたします。
こちらは教科書などによく出てくる、西壁の女子群像にございます。 剥落や汚れで見づらくなったところなどを修正した一部復元模写の絵もあるのですけど、発掘・発見された時の姿を捉えた現状模写であります。
女子群像と同じ西壁に描かれた白虎の顔からは、愛嬌すら感じます。 それに、前者ともども見事な筆致で細かく描かれていて、わが国の美術・絵画史上優れた作品と評価されています。
あと、天井部の星宿図も見逃してはいけません 非公開の現物はいうまでもないのですけど、それらを忠実に模写した方たちのことも誉めなければなりません。 そんな高松塚古墳を見学したら………
やっぱりキトラ古墳も合わせて訪問しておかなければなりません 高松塚古墳と同時期の7世紀末から8世紀初頭頃に造られた円墳で、上段の直径は9.4m、下段の直径は13.8mの二段の構造です。 昭和58年(1983年)に発掘された際には、18個の凝灰岩の切石を組み上げられた石室と極彩色の壁画が発見されました。 こちらは高松塚古墳の反省からなのか、調査や保存のための取り外し作業は慎重におこなわれ、現在は良好な状態で保存されています。 石室が抜かれた古墳は綺麗に復元・整備されているのですけど、こちらもただの土盛りに見えてしまいます。
それはさておき、その近くに設けられたキトラ古墳壁画体験館四神の館には、模写された壁画などが展示されていて、キトラ古墳のことをより知ることができるのですよ しかも入場無料ときたもんだ ただし、私が訪れたのは閉館間際だったので、急ぎ足で見ていきます。
その館内には、原寸大のキトラ古墳の石室の模型が展示されています。 その壁や天井には壁画が模写されているので、これだけでも古墳について把握することができます。 それにしても、この時期の古墳の石室は切石を綺麗に組み上げているものの、内部はかなり狭い 棺が入ればいいという感じで、追葬などは想定されていないみたいです。 この他には、壁画の4面マルチ高精度映像や当時の人々の暮らしがわかるジオラマ模型、古墳の発見から調査・研究を経て埋め戻しに至るまでのドキュメンタリー展示などがあったのですけど、写してきたのはコレだけです。
キトラ古墳の諸施設をあとにした私には、日没前にどうしても寄っていきたいところがありました。 それはどこかといいますと……… って、Google Earthやカーナビを見たりして迫っていったのですけど、車が入りにくいところにあるので、なかなか近付くことができません。 なので、やむなく最寄りのコイン精米機の駐車スペースに車を止めて、歩いていくことに。 そんな私たちが目にしたのは………
亀石でした 重さ10トンを超える花崗岩に亀のような顔が彫られていて、マラ石と同じように何のためにここにあるのか謎のままとなっています。
………といいつつも、亀が動いて西を向いた時、大和国一帯が泥の海に沈むという言い伝えが残っているのですよ 今、泥沼化されたら困るので、どうかジッとしていてください。 そういえば亀石のちょっと手前には、車1台を止められるスペースと休憩場所、自動販売機が設けられていました。 これから亀石を訪れる方は、先着1組のその設備をご利用くださいませ。 ここに至るまで我ながら欲張りコースでしたけど、皆さまの応援(?)もあって、予定されていた立ち寄りスポットはすべて踏破することができました そうしたら、あとはお風呂と食事を済ませて、宿泊地に向かうだけです。 そのような流れで………
まずは明日香村健康福祉センター たちばな内にある、太子の湯に寄っていきました。 こちらは公共の浴場なのですけど、地元民ではなくても600円で利用することができます。 太子の湯で旅の汗を流して、広い湯船に浸かったら………
次はお食事の順番と相成ります 今回私が選んだお店は、看板は橿原ごはんや見瀬町食堂となっているのですけど、フジオフードシステムが関西を中心に展開する、まいどおおきに食堂にございます。 こちらはセルフサービス形式で、たくさんある料理やおかずの中から選んだものをお盆に乗せていき、会計を済ませてから席に就くシステムとなっています。 今回初めて利用することになった私は、どれも美味しそうで迷ってしまったのですけど………
鶏の唐揚げと茄子のみぞれ煮をメインにして、冷奴、生卵、マカロニサラダ、………などを取り集めました。 ちなみに合計1080円となりました。 それらを美味しくいただいたら、まだ19時ちょっと過ぎなのですけど、宿泊地に向かいますよ そのようにして行き着いたところは、まいどおおきに食堂から南に車で10分程行ったところにある………
道の駅吉野路大淀iセンターでした 宿泊地としてホテルや旅館を予想された方は、ハズレです。 今からこちらで車中泊をしますよ 道の駅としては小規模で、私たちと同じように車で寝ていく人はあまりいなかったのですけど、人里離れた静かな環境の中にあって、ゆっくり休めそうだったので、私はこちらを選びました。 それに、翌朝に向かう大本命の目的地へも近いですし。
そうしたら、あとは波と狛にご飯を食べさせてから、寝る支度をするだけです。 まだ19時台だったのですけど、欲張りコースで2万3000歩も歩いたこともあって、私はすぐに眠りに落ちました。 ということで、皆さまおやすみなさいませ。