再び 「評価」という「言葉」 について 考える

2011-05-13 19:46:59 | 「学」「科学」「研究」のありかた
[リンク追加 16日 8.35、12.12、20日 8.45]

毎日新聞は、他の新聞に比べ、論調が鮮明です。
今日16日の朝刊コラム:「風知草・原発に頼らぬ幸福」も、歯に衣を着せない傾聴すべき内容でした。
毎日jpにも載っていますのでリンクします。
なお、この中に出てくる「モンゴルに核廃棄物処理場を造る」という恐るべき計画がある、というスクープ記事は、数日前の毎日新聞にあります(毎日jpの記事にリンクしました)。

TOKYO web に、こんな原発賠償にからむコラム記事「オフレコ発言が示す『真実』」が載っています。偉い人たちは怖ろしい・・。[追加 20日 8.45]

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曇天の下で咲くモッコウバラです。
数日前、ボケに大量の毛虫が発生、大騒ぎをしました。
最初は、チャドクガの幼虫?と思いこみ大騒ぎになったわけです。
しかし、よく考えたら、ボケはバラ科、チャドクガはツバキ科のツバキやサザンカなどに付くはず。
調べたら、大発生したのは、ドクガの幼虫ではないことが判明!

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[文言追加 14日 7.51][文言追加 14日 10.49]

「“CONSERVATION of TIMBER BUILDINGS”:イギリスの古建築-5」を書いたのは、3月7日でした。

以来2ヶ月、3月11日に起きた自然災害:東日本震災と、それにともなう人災:原発事故に係わるいろいろな事態について考えてきました。
   “CONSERVATION of ・・・”の次の用意もストップしたまま。ようやく少し始めたところです。
特に原発事故は、はしなくも、この2ヶ月、現在の日本の「学」「科学」「技術」、そしてそれに寄りかかる「政」「産」の実相を、明らかにしてきました。

普段だったら、「偉い人」たちの「まやかしのことば」で、普通の人びとは、いいようにあしらわれてしまったでしょうが、今回ばかりは、それは「無理」というもの。
まことに皮肉なことではありますが、ここまで「状況」が明瞭になるなどということは、このような状況でなければ、決して起きなかったでしょう。
目の前の「事実」には、打つ手がないからです。「自然」の「自然な振る舞い」は、そのような「まやかし」を、いとも簡単にぶち壊してしまったからです。
「自然」に口があったならば、何が想定外だ、と言うに違いありません。
「自然は人智を上回る」「人智は自然を超えることはできない」という「真実」が顕になったのです。
しかし、そのために、多くの犠牲が強いられた。

徒に「近代科学」「近代技術」を「信仰」せず、もっと謙虚に「自然の理」を弁えるべく心していたならば、つまり、「科学的」ではなく、もっと scientific であったならば、自然災害も、もちろん「人災」も、かなりの程度、避けられたのではないかと思います。

静岡の浜岡原発の停止が、「唐突に」決まりました。
この間の「経緯」にも、現在のわが国が抱えている「病理」が、いろいろと表れているように思えます。
浜岡原発停止の理由に挙げられているのが、浜岡原発の立地が、「発生確率84%の(87%という《説》も聞きます)東海地震」の震源域にあるから、ということ。
この「確率」は、「専門の委員会」なるところから出された「評価」だとのこと。

この数字を聞いて、皆納得するのでしょうか?
数字はいろいろな場面で出てきますが、この「確率」なる数字が、いかなる「根拠」で算出されたのか、その「説明」はどこにもありません。
「天気予報」の「降水確率」でさえ10%刻みでの「表示」であるのに対し、地震発生確率は、1%刻みの表示。
ということは、84か87かということに極めて大きな意味・差がある、という「認識」が、発表者側にある、ということのはずです。
であるならば、その「表示」の算出根拠を、「分りやすく」説明するのが当たり前。
   もっとも、降水確率自体、
   それがいかなる意味を持っているのか、分りやすい説明は見たことがない。
   
   さらに、地震や津波のメカニズムについても、「新しい」説があり、「再評価」の必要があるのだそうです。
   なぜ、「検討し直す」と言わないのでしょうか、言えないのでしょうか。

   経営者団体の会長さんが、浜岡原発運転停止の決定の過程がブラックボックスだ、と語っていました。
   違和感を感じました。何故、その部分のブラックボックスだけを問題視するのか、分らないからです。
   原発は絶対安全だ、とのこれまでの「評価」が生まれた過程について、
   この会長さんがブラックボックスだ、怪しからん、と考えたフシが見られないからです。
   問題なのは、「絶対安全」という「評価」が下されたことのはずではありませんか。
[文言追加 14日 7.51]

私の感想は、「数字」だけが、これ見よがしに一人歩きしてしまっている、という印象を免れないのです。何故?
多くの場合、一般の人を「まやかす」ために使われるのが「数値」。
そして、「究理の精神を欠いた科学者」が、自らの「実績」を人びとに無理やり押し付けるために使われるのが「数値」。
簡単に言えば、素直な人びとを「無理やり」「有無を言わせず」「納得させたい」と思う人が使う遣り方。
その根底には、数字の大小には「文句が言えないだろう」という「さもしい魂胆」が潜んでいるのです。
強く、はっきり言わせてもらえば、大小の違いが明瞭に示される「数字」「数値」だけをもって、事態の「白黒」を強引に付けてしまおう、という魂胆。そこにあるのは、science ではなく「求利」。

東海地震がいつ起きてもおかしくない、それは、数字で示さなければ、示すことができないのか?
数値という「網」にがんじがらめに捕らわれてしまっていないか?
第一、同じ機関が発表している福島第一原発立地の地震の発生「確率」は、0%。なのに、発生した!
この「おかしさ」の「説明」は、少なくとも私は聞いていません。
そうであるならば、この大きな数値の確率をもつ浜岡は、起きないかもしれないのです。
もう、こういう「数値」に「左右される」のは、やめましょう。

今、専ら、「地震・津波と原発の安全性」だけが問われています。
つまるところ、地震・津波に「絶対的に」安全なら、原発は問題ない、という「論理」です。
これはきわめて危険な「論理」です。
原発が持つ「基本的な問題」が見えなくなるからです。
地震・津波に「絶対的に」安全なら、原発は問題ないのでしょうか?

そんなことはありません。
地震が起きようが起きまいが、そんなこととは関係なく、原発:核の「安全な」利用は、「論理的に無理」なのです。
なぜなら、そこで生まれる「廃棄物」の処理が、普通のゴミのようにはゆかないからです。
原発は低コストだと言われてきました。
そのコストに、廃棄物処理の費用は含まれているのでしょうか。
化石エネルギーを使う場合、廃棄物、あるいはそれにともなう排出物の処理は、難しいとは言え、先が見えます。
しかし、原発のゴミは、いかんともしがたいことが自明です。処理に何万年もかかる、そんな馬鹿な話はありません。第一、それでさえ、保証がない・・・。
   
もしかして、廃棄にかかるコストを何万年で割っている?そうすりゃ1年あたりのコストは廉い・・・。[文言追加 14日 10.49]
上水道をつくって、汚水処理を考えていない、そういう工学的計画の一つが原発。
製品の生産にかまけて、その結果生じる汚水などを放置した足尾銅山、チッソ、昭和電工・・・、いわゆる「公害」の最たるもの、それが原発。そう考えてよいでしょう。
百年経っても近代化以降の「思想・発想」は、まったく変っていないのです。

そして、その「思想・発想」を「正当化」するために使われるのが、「評価」という言葉なのです。つまり、「危いところ」を「評価」という「中性的」あるいは「客観的」に見え、聞こえる言葉で示すことで、簡単に言えば、ごまかし、人びとを「誘導する」ための手だて。

折しも、アメリカでは、福島原発事故を契機に、国内の原発の「安全性」について、「検討し直す」ことを明言しました。
その文言には、「評価する」などという語はないようです。あるのは「検討し直す」です。
もっとも、原文:英語でどうなっているかは分りませんが、翻訳者は「評価」という語に置き換えなかったのは確かです。

いいかげんに、言葉で繕うのはやめませんか。
日常語ではだめなのですか?
江戸時代の「学者」の言葉は平易です。語句でごまかす気など、毛頭ないからです。

偉い人たちは、一旦、普通の人の目線に戻り、日常語の世界で語る必要があります。
そして、「数字」を使わずに、事象・事態を説明することを、心がけるべきです。
それができない、というのなら、「その人は、実は、何も分っていない」と言ってよいのではないか、と私は思います。
なぜなら、日常語で語れないのだから。

大分前に紹介した現代物理学の礎を築いたハイゼンベルク、本当の scientist の考え方を、再び紹介します。
   ・・・・
   現代物理学の発展と分析の結果得られた重要な特徴の一つは、
   自然言語の概念は、漠然と定義されているが、
   ・・・・理想化された科学言語の明確な言葉よりも、・・・・安定しているという経験である。
   ・・・・既知のものから未知のものへ進むとき、・・・・我々は理解したいと望む・・が、しかし同時に
   「理解」という語の新たな意味を学ばねばならない。
   いかなる理解も結局は自然言語に基づかなければならない・・・・。
   というのは、そこにおいてのみリアリティに触れていることは確実だからで、
   だからこの自然言語とその本質的概念に関するどんな懐疑論にも、我々は懐疑的でなければならない。
   ・・・・
       
                      (ハイゼンベルク「現代物理学の思想」富山小太郎訳 みすず書房)

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