再検・日本の建物づくり-6:「掘立ての時代」がなかったならば・・・・

2010-01-23 21:00:15 | 再検:日本の建物づくり
[図版更改 24日 8.14][説明追加 24日 8.22][文言追加 24日10.16][註記追加 24日10.30]

建物を掘立てでつくる時代は、縄文期から古墳時代、ときには奈良・平安まで*、それ以降の現在に至るまでの期間よりも遥かに長い、気の遠くなるような長さなのですが、実は、この長い時間こそ、その後の日本の建物づくりに大きな影響を与えたいわば「建物づくりの技術の揺籃期」と言えるのではないでしょうか。
   * 江戸時代、あるいは明治になっても、場所によっては掘立ての建屋はありました。

先回、現代の開発により、縄文期をはじめとする多くの遺構が発見されたことに触れました。そして、現在のように開発や工事の際に、「遺構調査」の「義務」がなかった頃には、おそらく、多くの遺構が消失してしまったのではないかと思います。

私が非常に興味を覚えるのは、「開発」で破壊されたにせよ、「健在のまま眠っていた」遺構が、かなりの数発見される、という「事実」です。

きわめて長い間には、各種の天変地異に遭遇したはずなのに、「健在のまま眠っていた」ということは、天変地異に遭遇しても健在であり得る場所にあった、ということにほかならないからです。

つまり、最近よく耳にしまた目にする「地震による土砂崩落や地盤破壊」などは、それこそ太古以来数限りなく起きていたはずなのに、そういう事変で、被害を大きく被った痕跡のある遺構の事例がないらしいからです(浅間山噴火で埋まった江戸時代の鬼押出しのような例も多々あり、私が寡聞にして知らないだけかもしれません。ご存知の方がありましたらご教示ください)。

もちろん、はるか太古には、天変地異で消え失せた集落もあったであろうことは想像に難くありません。しかし、少なくとも、時代が経てば、そういう例が少なくなり、ついにはなくなったのではないか、と私は思います。
長い時間の間に、居を構えるに相応しい場所を見きわめる「知」が備わり、今とは違い、その「知」は時代を超えて引継がれていたはずだからです。

下の地図は、1978年(昭和53年)に刊行された「茨城県遺跡地図」(茨城県教育委員会 編)からの転載です。
場所は、霞ヶ浦に飛び出している半島状の「出島」と呼ばれる一帯です*。赤丸印は貝塚です。
   * 私はこの半島で暮しています。


貝塚がある場所には、近接して住居があります。
多くの場合、住居址は開拓などによって消えてはいますが、土器片などを今でも容易に見つけることができます。
私の暮すところの隣りの畑では、耕されるたびに、また、雨が降った後などに、かならず土器片が見つかります。貝殻も尽きることなく出てきます。その量から、時間の長さが分ります。

すべてを見て歩いたわけではありませんが、この出島で住居が構えられていたと考えられる場所は、まず全てが、安定した地盤で水捌けもよく、良好な井戸水が得られ日当たりもよく、今でも住居を構えるに適した安心して暮せる場所です。そのように感じられない場所には、住居の痕跡もない。これは筑波山麓の集落散在の理由と同じです(http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/31a97d11acdc29d010ec4d548e7df7b5参照)。

つまり、現代のような「どこでも構わない」「どこでも住んでしまう」ということはない。現代の居住地は、「現代の技術」がそれを可能にしたのであり、縄文・弥生期にはそういう技術がなかったからだ、とも考えられるかもしれません。
けれども、「現代の技術」でつくられた居住地は、多くの場合、天変地異には敵いません。神戸の惨状がそれを物語っています。被害の大きかった地区が限られていることに注意する必要があります。

日本だけではなく、世界各地域での地震による被災状況を見ても、「かつては建てることのなかった場所」に建てた建物の被災が相対的に大きいことが分っています。
煉瓦造や日干し煉瓦造の建物でも*、古い建物、つまり「建てるとき場所を選んだ時代の建物」には被災例が少ないことは、周知の事実です。
   * 煉瓦造、日干し煉瓦造を、頭から、地震に弱いつくり、と考えるのは間違いです。
     地震多発の地域で、煉瓦、日干し煉瓦でしか建物をつくれない地域があるのです。
     そういう場所では、当然ですが、つくりかたを工夫します。
     木造の日本だって同じこと。工夫しなくなったのは「現代」になってから。

これは、遥か昔の人びとには「場所を選ぶ目」があったということ、そして、「知識量」の増えた現代人は、それに反比例して、「場所を選ぶ目」が失せてしまった、あるいは、「場所を選ぶ目」を働かせなくなった、いうことにほかならないのです。
現代人は「現代の技術」を過信しているのかもしれません。しかし、あたりまえですが、「古の技術」の方が、根本・基本を押さえているだけ(「現実」に根ざしているだけ)、現代のそれよりも「現実」に即している、と言ってよいでしょう。

もう一つ、むしろこちらの方が重大なのかもしれません。
すなわち、「場所を選ぶ目」を持っていても、それを自由に行使できない人びとが増えた、という事実です。
簡単に言えば、貧困による格差です。先に高地の斜面に暮すボリビアの例を出しました(http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/129999f445a867ee7ca2254e041fc62c参照)。
何も好んで人びとはそこに暮すわけではないのです。
「格差」は、人びとから、「場所を選ぶ目」の行使を奪ってしまうのです。

最近のハイチの地震、ドミニカとの境界にあたる山地の写真をナショナルジェオグラフィックで見ました。



写真の左半分がハイチです。森林を伐採し燃料にする、伐採した木を売って生活の資にする・・・・。その結果、山地は丸裸になり、余震で土砂崩れが予想されるとのこと。そして、ハイチでも、かつては人が住まなかった急な斜面に多くの住まいがあったようです。



木材で建物をつくる地域では、日本もそうですが、とてつもなく長い間、「掘立て」で建物をつくってきました。
そして日本の場合は、地震は最近になって急に増えたわけではありませんから、とてつもなく遠い昔から、頻繁に地震に遭ってきたでしょう。

「掘立て」の場合、建物が、地面の動きとともに動きます。
しかも、地震による動きは突然、急激に襲いますから、いわゆる「慣性」の力も働きます。
簡単に言えば、建屋の足元は地面とともに動き、建屋の上の方は、それまでの位置を保とうとしますから、その二つが重なって、激しい動きに見舞われます。

おそらく、はじめのころは、地震で壊れてしまう建屋が多くあったでしょう。
いつまでもそれで満足する筈はありませんから、工夫が重ねられます。
おそらく、ある時期以降は、地震に遭っても簡単には壊れない掘立ての建物がつくられるようになった、と考えるのが普通ではないでしょうか。
  それとも、壊れたらすぐにつくり直す・・・・を繰り返していたのでしょうか。
  それはあり得ないように思います。

特に、掘立て柱に横材(梁・桁)を取付け床を張り屋根を架ける「高床式」の建物の場合は、地震の影響をまともに受けたと思われます。
高床式の建屋は、多くの場合、貯蔵庫に使われたようですから、その被災の影響は計り知れません。
そこでなされた工夫は、二つあったように思えます。

一つは、掘立て柱への横材の取付け方を丈夫にする工夫。
地面より上になる部分が強固な立体に組まれれば(立体形状が維持されれば)、地面に埋められている柱脚部は、相手がコンクリートのような固体ではなく土という一定程度弾力のある可塑性に富む物質であるため、地震で生じた動きに応じて移動することができるのではないでしょうか。言うなれば、土という海の中で動くわけです。ただし、その前提は、地盤がよい土地であること。
吉野ヶ里遺構での貫を使った高床建物の復元は、この方式のように思われます。

もう一つは、掘立て柱部と、上部架構とを分離する「正倉院」や「綱封蔵」のような方法(下図)。
すなわち、上部架構は掘立て柱部の動きにそのまま追随して動かない。上部架構の柱の根枘の部分で、下部の動きは、中継の際に減殺されるのです(梁行の台輪、桁行の台輪、そして柱と、接合部が三段あります)。[説明追加 24日 8.22]

高床式の復元にあたっては、「正倉院」や「綱封蔵」を参考にしたようですが、むしろ、「正倉院」や「綱封蔵」は、礎石上に建てるようになっただけで、掘立て柱時代の方法を継承したのではないか、と考えられます。



一方、竪穴住居の方は、意外と地震の被害は少なかったかもしれません。なぜなら重心が低く、慣性の影響が少ないからです。竪穴住居の場合は、むしろ、差し掛けられた垂木の地面際での腐朽の方の影響が大きかったように思われます。垂木は細い丸太だからです。以下に復元竪穴住居の例を再掲します。



垂木の足元が腐朽すると、少しの風でも屋根は崩れ始めるでしょう。そうならないためには、垂木の頂部、つまり棟のあたりの取付けが決め手になります。たとえば、上の図のような場合なら、垂木の頂部がしっかりと結わえられていたり、あるいは棟木に留められていれば、垂木の根元が腐っても、屋根は原型を保つはずです。
下の写真は、長野県塩尻郊外にある縄文~古墳期の遺跡:平出(ひらいで)遺跡のなかの古墳時代の大型竪穴住居の復元です。



垂木は地面を離れています。おそらく、そのように推定される形跡があったものと思われます。
垂木を地面から浮かすことができる、という判断が、幾多の経験からできるようになった、と考えてよいでしょう。

しかし、屋根が地面から離れると、新たな問題が生じたはずです。竪穴の中に立てられていた掘立て柱の腐朽が早まるからです(屋根が全面を覆っていたときは、雨水の影響は、一定程度避けられました)。
もしも、基幹部を形づくる掘立ての柱脚が腐るとどうなるか。
おそらく、直ぐに全体が壊れることはありません。
しかし、風が吹いたり地震に遭うと、基幹部は形を保てずに変形しはじめます。そのとき、その変形の進行をとめる工夫が編み出されるはずです。
柱脚部相互を、柱間を保てるように、新たな木材で繋げばよいのです*。言うなれば、「足固め」の原型です。
  * 明治の学者なら、斜材:筋かいを入れたでしょう。
    しかし、古代の人びとは、柱の足元が掘立てのときと同じ位置にあればよい、と考えたのです。
                                        [文言追加 24日10.16]
 
そして、その方策があたりまえになれば、「土座」から「床座」への移行はもう目の前です。
おそらくそのような経緯のなかから、地上に出ている部分を立体的に固めると、簡単には壊れないことを学んだはずです。それは、高床式の建物がたどった道筋と変りはありません。

こうなれば、つまり、地上の部分の組立が肝心だということが分れば、掘立てをやめて、地上の石の上に建てるまでにはもう直ぐのはずです。
しかし、それまでに目を見張るような長い時間を要したのです。
けれどもそれは、決して無駄な時間ではなかったのです。
なぜなら、石の上に建物を建てるのがあたりまえになったとき、きわめてスムーズにことが運んでいるのは、それまでの「蓄積」があったからにほかならないからです。
その「蓄積」は、人びとの間で、継承されてきた「知恵」なのです。

たまたま昔撮った写真をひっくり返していたとき、地上に載る部分が固まっていれば問題がない、ということを如実に示している写真を見つけました。
四半世紀ほど前に、青森県七戸(しちのへ)町から八甲田へ向う途中で見かけた牛飼いの農家です。[図版更改]



写真のように、この家屋は、実に簡単に石の上に載っています。心なしか、弓なりに反っているようにも見えます。もしかしたら、家の中を歩くと、ぐらぐら揺れるかもしれません。
そして、もしも引張れば、あるいは押せば、おそらく石の上を滑ってゆくのではないでしょうか。
この建物は、端無くも、掘立ての時代を経て行き着いた「日本という環境下での建物づくりの極意」を示している、私にはそのように思えました。

   註 [註記追加 24日10.30]
      青森・七戸は旧「南部」藩に属します(太平洋側になります)が雪は降ります。
      また、三陸沖、あるいは十勝沖震源の地震もたびたびあります。
      この建物は、「土台」を使っています。また、内法上の「貫」も繁く入っています。
      大戸位置の土台は、後から切ったように見えます。
      なお、雪は、多くて1mくらい積もります。

      興味深いのは、建物外側の内法位置に「長押」様の材が一周していることです。
      しかも、通常の「付長押」のような寸法ではありません。
      「差鴨居」があるようには見えませんので、この材は、立派な構造材なのかもしれません。
      「うまや」(今は牛舎)の大戸は、この「長押」を使った引戸のようです。

      これを見ていると、別の所から曳家してきたのかも、などとも思いたくなります。
      しかし、所在地は、たしか上り坂の街道筋だった・・・・。


ところで、今、私たちは、なにがしかの「知恵」を先代から継承しているでしょうか、そして後世に継承するなにものかを持っているでしょうか。
むしろ、継承することを、わざわざ拒否しているのではないでしょうか。しかも、「科学」の名の下で・・・・。


以上は、まったくの私の想像です。
けれども、この想像は、実証する術がありません。ただ、そういう場面・状況に置かれたとき、人はどうするだろうか、と想像するだけなのです。

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