『評価』という「言葉」について 考える

2011-05-02 18:05:44 | 「学」「科学」「研究」のありかた
[リンク先追加 8日 9.25]
[追記追加 3日 9.07]
[追補追加 3日 10.02(末尾。毎日jpにもあります)]
[文言改補 4日18.07]

5月8日 東京新聞webニュースで、福島第二原発建設反対訴訟の原告の方が書かれた
   原発はいつの日か 必ず人間に牙をむく
   私たちがそれを忘れれば いつか孫たちが問うだろう
   「あなたたちの世代は何をしたのですか」
   ・・・・・
という詩があることを知りました。[リンク先追加 8日 9.25]

5月3日、憲法記念日。
毎日新聞朝刊コラム、「記者の目」に、「専門家・学者・有識者・・と呼ばれる一群の人びと」の「実相」と、「彼ら」の「言い分」を利用しての「『お上』の言いなり」になることからの「脱却」、それゆえに「自ら考える」ことの必要を、歯切れよく訴える一文が載っていました。
読まれた方もあるかとは思いますが、末尾に転載します。[追記 3日 9.07]

  ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――



東北は、これからが素晴らしい新緑。しかし・・・。

  ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
  「言葉」:「新明解国語辞典」より抜粋
    「その社会を構成する人びとが思想・意志・感情などを伝え合うための記号として
    伝統的な慣習に従って用いる音声。また、その音声による表現行為。」
    [広義では、それを表わす文字や、文字による表現及び人工語・手話語をも含む]


先に、以下のようなことを書きました。

  今日は触れませんが、いつも私が引っ掛かる語があります。
  それは「評価」という言葉。
  たとえば、東電のHPにある「津波対策」の文言にもあります。
    原子力発電所では、敷地周辺で過去に発生した津波の記録を十分調査するとともに、
    過去最大の津波を上回る、地震学的に想定される最大級の津波を
    数値シミュレーションにより評価し、・・・

こういう言葉遣いは、私がこれまで身につけ使ってきた日本語の使いかたにはなく、違和感を抱くのです。
それは、私だけの感想でしょうか?

   註 「評価」という語の使いかたに違和感を感じ始めたのは、1990年代くらいからです。
      その頃から、急に「目につき始めた」ように認識しています。
      それは、例の「耐震基準」の「見直し」以後に相当します。
      つまり、その頃から、この語を使う「学術的」表現・文書が多くなったように思えるということ。
      この「風潮」の背景には、
      そういう「基準」を、「これが絶対」として「自信をもって」作成してきた人たちが、
      「『絶対』も変えなければならないこともあるのだ」と「知り」、幾分、自信喪失気味になり、     
      今後「絶対」の変更があっても、批判されないための「準備」として用意されたように思えます。


私の日本語で解釈すると、この文言は、「・・・過去に発生した津波の記録を調査するとともに、過去最大の津波を上回る、地震学的に想定される最大級の津波を数値シミュレーションにより、『その価値を決め(あるいは、その価値を判定し)』・・・」という意味不明な文章になります。

いろいろな辞書で、「評価」の語義・解釈を調べてみました。

新明解国語辞典(三省堂)
 「評価」
  物の価値や価格を(論じて)決めること。
  児童・生徒の学習成果について判定すること(⇒絶対評価、相対評価)。
広辞苑(岩波書店)
 「評価」
  品物の価格を定めること
  善悪・美醜・優劣などの価値を判じ定めること。特に、高く価値を定めること(用例:評価が低い、努力を評価する・・)
新漢和辞典(大修館書店)
 「評価」
  品物のねだんをきめる。また、評定した価格。
  善悪・美醜などを評論して、ねうちをきめること。また、評定した価値。
 「評定」
  =評決=はかりさだめる。話し合って決める。
字統(平凡社)
 「評」
  声符は平(へい)。平は秤で、持平の意がある。
  [広雅、釈詁]に「平なり。議なり」とあり平議、公平に評価すること。その語を評語という。
  評論の結果を評判という。中国では、審査・審判をなすものを評判員という。
  評とは、公平な議論を持する意である。
 「価」
  旧字は價に作り、賈(か)声。[設文新附」に「物の直(あたい)なり」とあり、価値をいう。
  賈に売買の義があり、その声義を承ける。
  [戦国策、燕策]に、伯楽が一たび馬を顧みると、「一旦にして馬價十倍す」とみえる。
  のち物の価値より、声価・評価のように、人の評判や品評の語にも用いる。

これらの解釈を見るかぎり、私の身につけた日本語による理解は、間違っているようには思えません。
辞書の言う 「その社会を構成する人びとが思想・意志・感情などを伝え合うための記号として伝統的な慣習に従って用いる音声。また、その音声による表現行為。」 に離反していないからです。

だとすると、こういう言葉が、一部で流布するのには、何か「訳(わけ)」があるに違いない。

そこで、「評価する」は、英語では何になるか、調べてみました。
一般的な和英辞典では、「評価する」は evaluate, estimate がそれに当たるようです。
そこで、手元にあった「新英和中辞典」(研究社)で見てみると、
  evaluate :・・・を査定する。評価する。値踏みする。(ex:~the cost of the damage  類義語⇒ estimate
  estimate:1)(・・・を)見積もる、評価する、推定する( ex:~the value of a person's property)。
        2)人物などを(・・に)評価する。       
        3)見積もりをする。評価する(cf. aim,esteem )
    estimate の類義語
     1.estimate :個人的な判断に基づき価値・数量などを見積もる;客観性を欠く場合があることを暗示する
     2.appraise :専門的かつ客観的で正確な判断に基づき、特に金額の算定などを評価する。    
     3.evaluate :物または人の価値を厳密に評価する;金銭上の評価には用いない。
              数学では、数を求める意味で用いる。
のようになっています。
そして、estimate の類義語の2番目の appraise の語義「専門的かつ客観的で正確な判断に基づき、特に金額の算定などを評価する。」、および3番目の evaluate の補足説明「 数学では、数を求める意味で用いる。」に注目しました。

おそらく、欧米の「学術」表現での appraise (あるいは、数学で用いられる evaluate )の「意」に相当する日本語として、英和辞典にある「評価する」に対応させるのがよい、と判断したのではないでしょうか。
  因みに、appraise は、新英和中辞典では、
  「(物品・財産などを)評価(鑑定)する、値踏みする、見積もる」
  「(人・能力などを)評価する;(状況などを)認識する」
  類義語⇒ estimate とあります。

しかし、この「意」であるのならば、日本語には、日本語として、もっと適切な語があります。
たとえば、「(~と)想定する」「(~と)仮定する」あるいは「(~と)推定する」などなどです。
先に引用した東電のHPにある「津波対策」の文言は、「関係者」が「目の前に存在する『事実』について描写した文言」ではなく、「関係者」が「そのような状況であろう、そのようになるだろう、と判断した」ということ、つまり、「かくかくしかじかと想定した(~推定した)ということを述べた文言」に他なりません

それゆえ、この文言が言わんとしていることは、私の日本語では、
・・・過去の津波の記録を調査し、今後起こり得ると思われるそれを上回る津波を『想定し』(あるいは、『推定し』、またあるいは『仮定し』)、・・・
ということになります。
それで、文意的に、何の不都合もないはずです。しかも、より分りやすい。

では、なぜ、こういう言葉が使われないのでしょうか。
なぜ、こういう意味鮮明な言葉を使わないのでしょうか。

意地悪い見かたをすれば、
「推定」や「仮定」では、何となく主観的に聞こえ、客観性に乏しく見え、信憑性を疑われそうだ、だから、「信憑性がありそうに聞こえる」別の言葉で置き換えて言おう
ということのように、私には思えるのです。
   より強く言えば、「怪しげな」ものを「事実らしく」見せかけるための「作業」。

しかし、「推定」であり、あるいは「仮定」であることには違いはないのです。
それは、数値シミュレーションをしようがしまいが関係ない。 
そのことを明確に示しているのが「再評価」という語。
「想定」したもの、「仮定」したものならば、想定の「やり直し」、「見直し」、あるいは仮定の「見直し」があってもおかしくない。
「仮に定めた(決めた)」ものであるならば、「事実」と照合して、「見直し」があっても、決しておかしくないし、また、そうするのが当たり前です。
つまり、「再評価」とは、「見直し」ということに等しい。
なぜ、「見直し」ではいけないのでしょうか?

論理的に見るならば、私の「指摘」は、決して「意地悪」ではないのです。

こういう平易、かつ明確な日本語を使わない(あるいは、使いたがらない)「語り口」には、
「専門家、学識経験者、有識者・・・と呼ばれる一群の人たち」の、「数値で示せば厳密なのだ」という「数字・数値信仰」そのもの、そして、その先に垣間見える「数字・数値で示せば、(たとえば、原発は限りなく安全である、という「論」に)、人びと:素人:を 《従わせる》 ことができる」
という彼らの「心の内」にある意図がありありと見えてきます

これはひとえに、
彼らが「厳密であること」と「精密であること」とを混同して理解しているからなのです(下註参照)。
簡単に言えば、数値で示すことができれば、事象に正しく向き合っていることになる、と思い込んでいるからです。
さらに、その上、常に「人びとよりも一段上でありたい、なければならない」、そのためには、「事象を数値で示せばイイノダ」と思っているからなのです。

なぜ?

専門家、学識経験者、有識者・・であり続けたい、からです。
それゆえ、そこに「利」が顔を出すのです。
こと(原発の開発・設計、あるいは「耐震」設計などの)「工学的」事象に係わる方がたは、どうしても、「理」よりも「利(の計算)」に走ってしまいがちなのです。
それを「理」系に見せるために、数値・数字に依存する、ということ

私にはそう見えます。

    註 「厳密と精密」
      
しつこく、専門家、学識経験者、有識者・・の方がたの「心の内」を「解剖」すると、要するに、以下のようになるでしょう。
あくまでも「仮定」「想定」のものを、あたかも「絶対」のもの、「事実」である、かのように「装う」には、「想定」「仮定」あるいは「推定」という語を使ってはならない。
なぜなら、仮に「想定」「推定」「仮定」である、などと最初に言ってしまったら、後になって、「想定外」だ、なんて言えなくなるではないか!
論理の必然として、その「想定」「推定」「仮定」は「誤りだった」、ということに「自動的に」なってしまう、それでは沽券に係わる。


つまり、論理的に言えば、
ある人びとの間で、「評価」という語の遣い方が「定着」したのは、自らの「責任」回避が目的であった、ということになる、そう見てよいでしょう。

そして実際、今回の原発事故をめぐる「専門家、学識経験者、有識者・・・と呼ばれる一群の人たち」の言動を見ていると、それが如実に顕われています。

   註 ここ数日問題になっている被曝放射線量の限度問題では、
      その上限値なるものが、きわめて簡単・容易、安易に「再評価」されています。つまり、「変更」される。
      この状況は、「専門家、学識経験者、有識者・・・と呼ばれる一群の人たち」は、
      「科」学者であっても、決して scientist ではないことを、明白に証明しています。
      人の命に係わる要件を、「任意」に変えることができる!それで何ら問題ない!と言う。
      自然界には存在しなかったもの、つくってしまったもの、
      こういうものに「許容量」を設定すること自体、non-scientific だ、と私は思います。
      これを定めた方がたは、率先して現地に移住なさったらいかがですか?自ら範を垂れるのです。

  ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
5月3日、毎日新聞・東京本社版コラム 「記者の目」を転載します。毎日jpにもあります。


  ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

追補 [追補追加 3日 10.02]

私は、先に、コメント欄で、以下のように書きました。
  ・・・・
  私は、若いとき、社会に貢献したい、しなければならない、とは思っていませんでした。それは今も同じです。
  ただ、何ごとも「理」の通らないことは、やらない、やりたくない、係わりたくない、と思って来ました。
  それは今も同じです。
  とは言っても、間違いは多々あった、と思っています。
  ・・・・

もちろん、そういう「思い」(社会に貢献したい・・)が、頭の中をよぎることがまったくなかった、と言ったら嘘になります。
しかし、そういう「思い」が頭をよぎるとき、必ず、その一方で、人のやることで、「世に貢献しない、役に立たない」ことなんてあるのか?という「思い」が浮かぶのです。
つまり、そんなこと宣言しなくたって、仕事はできる。
そんなことを宣言するなど、そういうことなど言わずに仕事を重ねている、多くの技能者:建築畑で言えば、大工さん、鳶さん、瓦屋さん、左官屋さん、建具屋さん・・・:に対して、きわめて失礼。貢献したいなどと宣言するのは、まったくの「思い上がり」だ、ということです。
私は、かねてより、最高の研究者・学者は、建築の世界の場合、こういう技能者:職方である、と思ってきました。
そして、今、この本当の研究者・学者の存在を無視黙殺しているのが、「学者・研究者」を自認する人たちなのだ、と。

私が大学に入ったとき、同学年に、「土木」に進みたいという男がいました。土木の世界の雄大さ・・・などが素晴らしいからだ、というようなことを言っていたと思います。だから、そういう世界で世に貢献したいのだ、と。
それから半世紀ほど、彼は某公団の総裁として、糾弾されていました(そのとき知ったのですが、彼は数代続く土木畑官僚の子息だったのです・・・)。

つまり、社会に貢献する、世に貢献する・・・というとき、必ずと言ってよいほど、「利(への計算)」が心の隙間に入ってくるのだと思います。
貢献する、役に立つ・・・、という言い草は、そのことで「世に認められたい」という「欲」を伴ってしまうのです。そして「欲」は「利」へと連なってゆく。

私が、学生時代、一旦は入った「学会」に、会費未納で退会させられたのは、つまり、会費を払わなかったのは、「学問」「研究」とは名ばかりであることを知ったからです。
以来、私は、いかなる「学会」とも無関係です。学会に入っていなくても、「学ぶ」ことはできます。
私は、同憂の友だちと、「がっかい」ではなく「がっかり」だと言っていました。下手な平仮名で書くと、「い」は「り」に見えるからです。

もちろん、学会員にはそうでない方がたが居られることは承知はしています。
そうではなく「学界」「学会」の風潮が、一般的にそうだ、ということです。
そうでないというなら、なぜ、せめて、例えば原子力利用は、廃棄物処理が完全にできない、ゆえに、利用は時期尚早だ・・・などとぐらい、学界挙げて言えないのでしょうか。
なぜ、せめて、海岸の居住地化はやめるべきだ、あるいは湖沼の埋め立てはやめるべきだ、・・・と学界挙げて制止することぐらい、できないのでしょうか。
そうしないからこそ、一部の者が、「御用学者」になってしまうのではないですか?[文言改補 4日18.07]
scientific な「対応」は、それしかない筈です。
ところが、実際は、逆の方向を向いている。

だからこそ、人任せにせず、個々の人間が声を出す必要があるのです。
私はそう思っています。
つまり、ミツバチの羽音:buzz communication です。羽音で世の中を満たすのです。私の「民主主義」の解釈は、これです。[文言改補 4日18.07]

先のコメントは、私の私自身への戒めなのです。

コメント (2)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 農地は 一朝一夕には 生まれない | トップ | とり急ぎ:放射線汚染警戒区... »
最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
廣井 勇、青山 士 (ishi goro)
2011-05-09 17:04:55
 土木の先達には、聖職者といって良い方々がおられます。
 小樽運河の廣井 勇、信濃川の青山 士アキラなどなど。
 建築史家の稲垣栄三先生は、「考えてみれば、この時代はよき時代であった。技術者はそれほど信頼されていたということの一つの証拠でもあるし、技術の仕事がそれ自体で善であり、真であり、美であり得るという背景があったということでもあるだろう。」としながらも、「しかし、たぶん、現在はこうはいかない。」と、当時と現在の社会と技術の関係を鋭く洞察されています。
返信する
変貌 (筆者)
2011-05-09 17:49:01
コメント有難うございます。

おそらく、明治時代の初期の技術者:エンジニアたちは、江戸時代の「素養」を当たり前のこととしてもっていたのではないか、と私は思っています。
一言で言えば「地方功者」の思想です。
しかもそれは、「当たり前」の思想だった。
だから、当たり前に、目配り・気配りの効いた仕事をしたのだと思います。
彼らには(個人的な)「利」の欲望はなかった。
今は、「理」よりも、先ず「利」が大事。
その違いでしょう。
そして、なぜ、そういう「風潮」になってしまったのか、深く考えなければならない、と思っています。
返信する

「学」「科学」「研究」のありかた」カテゴリの最新記事