日本の建物づくりを支えてきた技術-23・・・・継手・仕口(7):「鎌継ぎ」は何処へ?

2009-01-29 12:54:21 | 日本の建物づくりを支えてきた技術

[図版更改 29日18.03][註記追加 18.17]

順番からすれば、「浄土寺浄土堂」の「虹梁」の納め方に触れることになるのですが、すでに、各「貫」「頭貫」の納め方の延長として、おおよそ想像できるものと思います。

これまで見てきたように、「浄土寺浄土堂」で使われている継手・仕口は、つまるところ、継手は「鉤型付きの相欠き:略鎌」、仕口は「相欠き」だけでした。
古代の寺院建築では「丸桁(がんぎょう)」(軒の先端で垂木を受ける「出桁(でげた、だしげた)」)や「母屋(桁)」あるいは「台輪(だいわ)」などで盛んに使われていた継手「鎌継ぎ」「角鎌継ぎ」は、いったい何処に行ってしまったのでしょうか。

そこで、今回は「虹梁」は棚上げにしておいて、屋根の形をつくる上で重要な「母屋」を見てみたいと思います。

「母屋」は、「等高線」上に置かれます。その長さは、軒に近いほど長くなりますから、一本の材料でつくれるのは稀で、継がなければなりません。
そこで古代の寺院では、そこに「鎌継ぎ」が継手として盛んに使われたのです(下註の記参照)。

   註 「日本の建物づくりを支えてきた技術-17」
      「日本の建物づくりを支えてきた技術-17の補足」
      「日本の建物づくりを支えてきた技術-18」

ところが、「浄土寺浄土堂」の「丸桁」「母屋」では、上の図のように、「鎌継ぎ」はまったく使っていません。
上の「分解図」:「伏図」では、「丸桁」と「母屋」を色分けしてありますが、断面の形と寸法はまったく同じものです。なお、断面図は実寸で描いてありますが、「伏図」では、拡大して描いてあります。

「継手」はすべて受け材:「肘木」の上、つまり柱の直上にあります。「肘木」の「太枘(ダボ)」でとまってはいますが、継ぎ方は、「目違い」(端部に凹凸を付けて嵌める)を設けてあるだけ。
ただ、気になったのか、上から「鎹:かすがい」が打ってあったそうです。当然当初からです。
しかし、力がかかった様子は見られませんから、心配は無用だったようです。

「丸桁」は図のように、「母屋」よりも少し丁寧ですが、ここでも「継手」と言えるような継ぎ方ではありません。

いずれにしろ、現在の「構造専門家」や「確認審査官」には「見せられない」ような「継手・仕口」と言えるでしょう。なぜなら、短冊金物で補強しろ、などとかならず「指導したくなる」に違いないからです。

察するに、古代の寺院とは違い、「浄土寺浄土堂」の工法では、軸部がきわめて頑強にできあがるため、いわば二次的な部材である「母屋」などには、たとえば「母屋」を引張り、継手をはずしてしまうような力はかからない、という判断が工人たちにはあったものと思われます。

そして、現在の「構造専門家」「確認申請審査官」には、この工人たちの仕事、その考え方が分らないのではないでしょうか。


「浄土寺浄土堂」の架構法をあらためて見直してみて、これだけの完璧な仕事が、突然この建物で初めて使われたとは到底考えられない、おそらく、この工法の「理屈」で建物をつくることに手慣れた人たちが、当時の社会に「潜在」していたのではないか、と思わずにはいられません。
たしかに中国宋の技術者がいたのかもしれません。しかし、いたとしても、彼らは集団としていたわけではなく、実際の仕事の多くは当地の工人たちの手に拠ると考えるのが自然です。そして、当地の工人がこういう工事ができるには、彼らが「手慣れて」いなければ、こうはできません。

安土桃山の頃、城郭建築に「差物」「差鴨居」が多用されています。庶民の建物に
も近世になると「差物」「差鴨居」は盛んに使われます。
ただ、庶民の建物は、古くて室町時代末にさかのぼる遺構がわずかにあるだけで、歴史に大きな「空白」があります。

以前、城郭建築について触れたとき、城郭建設の現場では、上層の工人:官の工人とともに地元の工人たちが協働作業をしたに違いない、そして、城郭に「差物」「差鴨居」を持ち込んだのは、地元の工人たちに違いない、と書いたように思います。
なぜなら、都の工人たちのつくる建物には、「差物」「差鴨居」は見かけないからです。

   註 07年4月15日の下記記事以降、数回城郭について触れています。
      [註記追加]
      「日本の建築後術の展開-13・・・・多層の建物・その3」


「浄土寺浄土堂」の工法は、「胴貫」「飛貫」などの「胴張り」を取去り、普通の角材にすれば、それはすなわち「差物」工法、「差鴨居」工法に他ならないように思えます。
「浄土寺浄土堂」の部材はきわめて太いものです。しかし、同じような考え方で、普通の材でつくることは、もしかしたら、当時一般では当たり前だったのかもしれません。

いつか触れようと思いますが、わが国現存最古の住宅の一つ16世紀末:室町時代末期に立てられた「古井家」の「修理工事報告書」を見直したところ、この建物では、内法の少し上の位置に、梁行、桁行とも、太い角材に近い「貫」が入っていました(交叉はしないで段違いで入れてあります)。
「貫」はそれだけ。土壁の下地には普通の「貫」が入っていません。壁の下地には、下地用の間渡し材が柱間に入れられている。
これは、「浄土寺浄土堂」の「飛貫」と同じ考え方・工法ではないか、とあらためて感じました。そして、この太い「貫」は、少し発展すれば「差鴨居」になる、そうも思いました。

また、「飛貫」方式:「差物」工法は、上層・官の世界では、知らないだけで、あるいは知ってはいても「しきたり」に反するので使えないだけで、一般庶民の間では、かなり昔から、普通に使われてのではないか、と思えてきました。

残念ながら、資料はありません。だからこれは私の勝手な推量です。

次回に「虹梁」の納め方に触れ、「浄土寺浄土堂」についてはひとまず終りにするつもりでいます。
コメント (2)
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