もう一度、「母屋伏図」を載せます。
①は「丸桁」、②からは「母屋(桁)」です。
①②は、それを受ける支点間の距離は柱間と同じ20尺、約6mあります。③も中の間は20尺です。
④も中の間は20尺、⑤は20尺一本。
「丸桁」「母屋(桁)」とも、断面は高さ7.5寸×7.0寸(約22.5cm×21.0cm)で、下端は平ら、上側は丸めてあります。
この断面の材では、20尺は跳ばせません。真ん中あたりで撓んでしまいます。特に、2支点以上に架かる場合に比べ(正面丸桁の左側の材のような場合で、「連続梁」と言います)、2支点の間だけに架かる場合は(同じく右側の材のような場合で、「単純梁」と言います)撓みが大きいでしょう。
註 右側の材も、正確に言えば、左端部の「受け」と
右端部の正面に向う「受け」と隅に向う「受け」の2点の
都合3点で支えられてはいますが、
隅側の2点は短く接していて、左側の20尺の箇所から見れば、
ほぼ両端2点で支持されていると考えてよいでしょう。
もちろん、隅側が2点あることは、「純粋」2点支持よりは
効果がありますが・・。
この対策として工夫されたのが「遊離 尾垂木(ゆうり おだるき)」です。
上掲の写真は、解体中の様子です。「修理工事報告書」からの転載ですが、向きを「断面図」「伏図」に合わせるべく、反転して編集加筆してあります。
②は外周の柱通りの上に、そして⑤は内陣の柱通りの上にあります。
そして、柱間の20尺の半分、10尺の位置で、外周柱通りの頂を支点にして①と③を受ける天秤状の部材が屋根の勾配なりに設けられています。
同様に、④と⑥を受ける天秤状の材が、内陣柱通りの頂を支点として入っています。これが「遊離 尾垂木」と通称されている部材です。
多分、こういう堅苦しい名称は後世の学者さんがつけたものでしょうが、工人たちがどう呼んでいたかは、残念ながら分りません。
以前にも触れましたが、このような方法は、「浄土寺浄土堂」と「東大寺南大門」の他には見ないようです。
これが目をひくのは、多分、斜めに架けられているからだと思います。
けれども、「肘木」+「斗」を何段も繰り返して「垂木」を受ける「軒先の桁」を柱通りから持ち出す方法は古代から使われています。「三手先」・・・などという呼び方がされている例です(下記)。
註 「日本の建物づくりを支えてきた技術-8・・・・寺院の屋根と軒-1」
「日本の建物づくりを支えてきた技術-9・・・・寺院の屋根と軒-2」
この方法から「斗」を取去り、「肘木」を一段ごとに少しずつ長さを伸ばして単に重ねても持ち出すことができるはずです。「斗」は、「肘木」が根元で重ならないようにするための部材。重なることの心配がなければ重ねることは可能です。
要は、これは「尾垂木」というよりも、単なる一段の「肘木」(正確に言うと、その下にも短い「肘木」が一段あります:断面図と写真参照。この下の材は多分、「肘木」と呼んでいるのではないでしょうか)。
ただ、それまで、このような斜めの、しかも長い「肘木」の例がなかった、ということです。
「尾垂木」しかも「遊離」などという字が付くために考えてしまうのです。
おそらく「命名者」は、「理屈」ではなく、「形」から名を付けたのでしょう。
ああいう斜めの材は「尾垂木」と呼んでいた、しかし、ぶつ切りになっている例はない、だから「遊離した尾垂木」だ、というわけです。
しかし、「浄土寺浄土堂」「東大寺南大門」をつくった工人たちは違ったのです。
こういうところにも、この工人たちの「しきたり」にとらわれない融通無碍、自由闊達な考え方が見て取れるように私には思えます。