筑波一小体育館の説明で、「浄土寺・浄土堂や東大寺・南大門で、垂木の先端に『鼻隠し』を取付けた理由に思い至った・・」と書いた。東大寺・南大門はよく知られているが、浄土寺・浄土堂は、場所がら訪れる人が少ない。
浄土寺・浄土堂(極楽山浄土寺)は、兵庫県小野市の郊外、平安時代、東大寺領の荘園があった場所に、東大寺の鎌倉復興を指図した重源により、念仏道場として1192年に建てられた(南大門は1199年)。山陽本線加古川から、加古川線に乗って約30分「小野市」駅下車。そこからタクシーで15分ほど(バスもあるが、本数が少ない)。行くとなると一日仕事。
建物の外観は、写真のように、軒に反りもなく、実に素っ気ない。
しかし、内部はちがう。一歩中に入ると、快慶作の阿弥陀三尊像を、見事と言うしかない荘厳な空間が包んでいる。
それは、何の化粧材も使わず、架構そのもの、部材そのものだけがつくりだす過不足のない空間。一言で言えば、所要の空間と架構の一致。
そのすごさ、見事さは、写真では伝わらない。写真にならない。いろいろ探したが、上の写真は、それを比較的よく伝えていると思われる1枚。
なお、三尊像の制作は同時。像を据えつつ建物を建てたようだ。像と空間に、まったく違和感がない(東大寺三月堂は、仏像が借り物、美術館の展示みたい。像と空間に違和感がある。本来の像がなくなったためらしい)。
この架構の卓越さは、登ってゆく梁、それに掛かる母屋、そして垂木の取合いにある。登ってゆく梁は、中途が途切れている。「遊離尾垂木(ゆうりおだるき)」と呼ばれる。
二つの「遊離尾垂木」は、断面図、そして左側のモノクロ写真で分かるように、母屋を介して載る垂木でつながるだけ。垂木が載るまでは、不安定。
しかし、これがかえって大断面の材の狂いを相殺・吸収する効果があると思われる(平安も末になると、古代のように素性のよい材は得にくくなっていた)。
さらに、垂木の先端は「鼻隠し」が取付く。その取付けは、左から2枚目の写真のように、数本おきに、垂木を鼻隠し板に「ほぞ差し」で納め、ほぞのない箇所でも鼻隠しに垂木型を彫り、はめ込んでいる。先端は、完全に動きが止まる。
これは、木材の特性にさからわない優れた技術。それは、内部の柱の底面に彫られた十文字の溝にもうかがえる(右側の写真)。この溝は、底面の湿気を予防するための通気口・溝なのだ。
柱は、平均直径約2尺、上へ行くほど細く仕上げている。
柱は礎石(自然石を上面だけ平らに斫ってある)にダボもなく据えてあるだけ。もちろん、緊結などしていない。架構が差口などで一体に組まれているため、礎石に据え置くだけで、何ら問題がないのである。
19世紀末、西欧では、いわゆる近代建築運動が盛んになっていたが、その主張は、たとえば、「建物は、求められる目的に十分合致し、適切な材料を使った合理的な構造で、自然に成立する形体でなければならない」というものだった。
そうであるならば、浄土寺・浄土堂は、そして東大寺・南大門も、《近代建築》の理想そのものを、すでに12世紀末に実現していた、と言えるのかもしれない。
図 :『国宝 浄土寺 浄土堂修理工事報告書』(極楽山浄土寺 刊)
カラー写真 :『日本の美術№189 鎌倉建築』(至文堂 刊)
モノクロ写真:『国宝 浄土寺 浄土堂修理工事報告書』(極楽山浄土寺 刊)
から転載・編集させていただきました。
ですから、この場合は天秤とは言わないと思います。
この建物では、他のところに天秤の原理が使われています。
この建物(そして東大寺南大門)の肘木の取付け方を古代のそれと比較すると、この建物のやりかたの意味が分かります。
貴兄(?)のお考えのとおり、肘木が重要な役を担っています。しかし・・・
断面図を見てください。その内側の柱間にかかる一段目の梁(貫と言った方がよいかもしれない)を支えている一番上の肘木は、柱に肘木として内側から別材を取付けたものではなく、外側の柱から内側の柱に架かる二段目の梁(「虹梁」)の先端が柱を貫いて肘木になっているのです(ここでは、貫いた部分の下端が5分上がりになっているため、貫いているようには見えませんが、東大寺南大門では、単純に貫いています。コメント欄では図が書けないので、いずれどこかで図解します)。
ということは、柱、梁、肘木、・・・というように部材に分解して見るのでは、この建物は正確に理解できない、ということになります。
建物の架構について、最近とみに、「部分の足し算」で見る見方が主流を占めているように思えてなりません。特に、木造建築についての日本の法律、その元を支える学者さんたちの考え方は、まさにこれです。
たしかに、建物は部分(部材)から成り立ちます。しかし、だからと言って、部分の足し算=建物、という考え方にならないのは自明のはずだ、と私は思っています。
先ず全体を考える、その全体のために適切な部分を考える。これは、浄土寺・浄土堂を指図した重源はもとより、かつての工人にとっては、あたりまえのことだったのだと思います。
部分の足し算、という考え方から抜け出すのに、だいぶ苦労したのを覚えています。