「とり急ぎ:村上東海村村長の見解」:「この国は・・・・」に改題に、毎日新聞に載った石牟礼道子氏へのインタビュー記事を転載しました。[8日 17.42]
その中に「偉い人とは、人情がわかる人という意味」という石牟礼氏の言葉が出てきます。本当はそうの筈なのです。[文言追加 8日 18.12]
また、9日付東京新聞社説「住民の論理で復興を」も、転載しました。 [9日 14.40]
この内容に関連する当ブログの記事にリンク。[9日 16.40]
10日付毎日新聞「風知草」を転載しました。[10日 19.45]
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BRIDGES から、engineer BRUNEL のつくった吊り橋を紹介。
工事中と現況の写真が載っていました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/78/ce/66210b869c32bfff165b98a00bb0ee3a.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/15/ea/e7a6fde0389f101d4dd64ccbf6e22b3b.jpg)
橋というのは、「用」がきわめて明解です。
簡単に言えば、こっちからあっちへ渡る。
だからと言って、かつての橋には、今の橋のように、架ける場所がどこでもよい、というような橋はなかった、と言ってよいでしょう。
今の橋の「典型」は、高速道路や新幹線の橋。
これらの橋は、「そこ」を通る必然性がない。
もちろん、今の「技術者」は、そんなことはない、立派な理由がある、と言うに違いありません。
どういう理由か?
A地からB地へ向うのに、「そこ」を通るのが最短だから、あるいは、「そこ」を通るルートでつくるのがコストがかからないから・・・、といった類の理由です。
つまり、「そこ」とは関係のない「理由」。
リニア新幹線のルートなど、まさにその「典型」。
唐木順三 氏の表現を借りれば、「途中の喪失」です。
かつての「橋」は、そういうようなことはなかった。
「そこ」を通る「謂れ」、「そこ」との明瞭な関係のある「謂れ」があったのです。
それは、「道」が「『そこ』を通らなければならない」からです。
その道の「一部」をなすのが、すなわち「橋」。
そしてそこには、「道」とは何か、ということについて、現在とは異なる「認識」があったからだ、と言えるでしょう。
それについては、
「道・・・・どのように生まれるのか」
「建物をつくるとはどういうことか・・・・続・世界の広がりかた」
「鉄道の敷設:その意味」
などで、簡単に触れています。
そして、
「建物をつくるとはどういうことか-16・・・・『求利』よりも『究理』を」
も参照ください。[追加 6日 23.47]
要するに、往時、道は、そのルートすべてにわたって、
そのルートでなければならない「謂れ」があったのです。
しかし、今はそのような「認識」が失せてしまっている。
だからこそ《カーナビ》が流行るのです。
そして、ここに、「現代の工学的設計」の「思想」が、典型的に現れている、と言えるでしょう。
「工学的設計」の最先端が、原発の立地選定、さらには、原発そのものを是とする「工学的設計思想」に他ならないのです。
「工学的設計」については、下記でその「性格」について触れました。
「想像を絶する『想定外』」
国会で、国会のありようを糾弾した児玉氏は、それをして、「科学者が政治家、経済人になった」と言いました。
しかしそれでは、本当の政治家や経済人の立つ瀬がない(いるかどうかは別として・・・)。
私の言い方で言えば、「銭儲け」がすべての「判断・《評価》の基準」になった。
それをして《合理化》という。
なぜ、こういう「状況」になってしまったか。
私は、[「部分」の足し算=「全体」]と見なす「考え方」にその根がある、と思っています。
それはすなわち、「一科一学」の「思想」の行き着いた先。
「専門家」は他の誰よりもすぐれているのだ、と思い込んで(本人も、そしてまわりも)何の違和感も感じない、そういう「思想」。
つまり、(日本の)「近・現代」をつくってきてしまった「思想」。
BRUNEL とは関係はありませんが、BRIDGES に載っている見事な鉄道橋を転載します。
19世紀のアメリカでつくられた橋です。鉄材を使っています。解説もそのまま付します。
これも、「構造力学」未発達の時代の建設。すごいです!発想が自由です。奔放です。
今の「構造の専門家」(特に若い方がた)は、こういうことができるのでしょうか?
おそらく、あの部材はムダだ、こうした方がよい・・・などと、御託をならべるに違いありません。
その中に「偉い人とは、人情がわかる人という意味」という石牟礼氏の言葉が出てきます。本当はそうの筈なのです。[文言追加 8日 18.12]
また、9日付東京新聞社説「住民の論理で復興を」も、転載しました。 [9日 14.40]
この内容に関連する当ブログの記事にリンク。[9日 16.40]
10日付毎日新聞「風知草」を転載しました。[10日 19.45]
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BRIDGES から、engineer BRUNEL のつくった吊り橋を紹介。
工事中と現況の写真が載っていました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/78/ce/66210b869c32bfff165b98a00bb0ee3a.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/15/ea/e7a6fde0389f101d4dd64ccbf6e22b3b.jpg)
橋というのは、「用」がきわめて明解です。
簡単に言えば、こっちからあっちへ渡る。
だからと言って、かつての橋には、今の橋のように、架ける場所がどこでもよい、というような橋はなかった、と言ってよいでしょう。
今の橋の「典型」は、高速道路や新幹線の橋。
これらの橋は、「そこ」を通る必然性がない。
もちろん、今の「技術者」は、そんなことはない、立派な理由がある、と言うに違いありません。
どういう理由か?
A地からB地へ向うのに、「そこ」を通るのが最短だから、あるいは、「そこ」を通るルートでつくるのがコストがかからないから・・・、といった類の理由です。
つまり、「そこ」とは関係のない「理由」。
リニア新幹線のルートなど、まさにその「典型」。
唐木順三 氏の表現を借りれば、「途中の喪失」です。
かつての「橋」は、そういうようなことはなかった。
「そこ」を通る「謂れ」、「そこ」との明瞭な関係のある「謂れ」があったのです。
それは、「道」が「『そこ』を通らなければならない」からです。
その道の「一部」をなすのが、すなわち「橋」。
そしてそこには、「道」とは何か、ということについて、現在とは異なる「認識」があったからだ、と言えるでしょう。
それについては、
「道・・・・どのように生まれるのか」
「建物をつくるとはどういうことか・・・・続・世界の広がりかた」
「鉄道の敷設:その意味」
などで、簡単に触れています。
そして、
「建物をつくるとはどういうことか-16・・・・『求利』よりも『究理』を」
も参照ください。[追加 6日 23.47]
要するに、往時、道は、そのルートすべてにわたって、
そのルートでなければならない「謂れ」があったのです。
しかし、今はそのような「認識」が失せてしまっている。
だからこそ《カーナビ》が流行るのです。
そして、ここに、「現代の工学的設計」の「思想」が、典型的に現れている、と言えるでしょう。
「工学的設計」の最先端が、原発の立地選定、さらには、原発そのものを是とする「工学的設計思想」に他ならないのです。
「工学的設計」については、下記でその「性格」について触れました。
「想像を絶する『想定外』」
国会で、国会のありようを糾弾した児玉氏は、それをして、「科学者が政治家、経済人になった」と言いました。
しかしそれでは、本当の政治家や経済人の立つ瀬がない(いるかどうかは別として・・・)。
私の言い方で言えば、「銭儲け」がすべての「判断・《評価》の基準」になった。
それをして《合理化》という。
なぜ、こういう「状況」になってしまったか。
私は、[「部分」の足し算=「全体」]と見なす「考え方」にその根がある、と思っています。
それはすなわち、「一科一学」の「思想」の行き着いた先。
「専門家」は他の誰よりもすぐれているのだ、と思い込んで(本人も、そしてまわりも)何の違和感も感じない、そういう「思想」。
つまり、(日本の)「近・現代」をつくってきてしまった「思想」。
BRUNEL とは関係はありませんが、BRIDGES に載っている見事な鉄道橋を転載します。
19世紀のアメリカでつくられた橋です。鉄材を使っています。解説もそのまま付します。
これも、「構造力学」未発達の時代の建設。すごいです!発想が自由です。奔放です。
今の「構造の専門家」(特に若い方がた)は、こういうことができるのでしょうか?
おそらく、あの部材はムダだ、こうした方がよい・・・などと、御託をならべるに違いありません。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/03/c3699f6b4350197e178354e41ad484b7.jpg)