[註記追加 6日12.20][文言追加 6日12.29][文言追加 6日12.34][註記追加 6日12.43]
東京の東部、隅田川の縁に、「両国」という地区があります。国技館のある所です。そして、その一画が、「蔵前(くらまえ)」という地名。蔵前の国技館、などとも言われる所以です。
「両国」とは、「総の国」と「武蔵の国」、その境にあるところからの名。そして、「蔵前」とは一帯に、徳川政権にとってきわめて重要な米の備蓄倉庫群:「蔵」が立ち並んでいたことからの名称。
下図は、明治30年頃の隅田川周辺の地図(「地図に見る東京の変遷」所載、陸地測量部:現在の国土地理院の前身:作成の地図から)です。
元図は1/2万なのですが、なるべく広い範囲を入れたいために縮小してあります。ゆえに字は読めなくなっています。ご了承ください(要所には、名称を貼り付けました)。
地図の上の方、「厩橋(うまやばし)」の左、隅田川の西岸に「浅草米庫」とあるのがその「蔵」。8棟あったようです。それぞれに船着場が付いている。
幕府直轄の施設が、明治30年代にはまだ残っていたのです。
字が小さくて読めませんが、南の端の「蔵」は、この地図の編まれたころ、「浅草文庫」という今で言う「文書館」に転用されています。「米庫」の用はなくなったからです。
註 先回、「上野」「新橋」「飯田町」のほかに、明治の東京には、
もう一つ「玄関」があったことを書き忘れました。
それは「両国(橋)」です。
もっとも、「両国」が玄関になる前は、一つ東の「本所」がターミナルでした(上の地図参照)。
「総(ふさ)」の国(「下総」と「上総」)への「総武鉄道」の駅です。
「下総(しもつふさ⇒しもうさ)」は今の千葉県北部から茨城県西南部一帯、
「上総(かみつふさ⇒かずさ)」は、千葉県の中央部、
そして「安房」は、半島部。
そして両国からは、三井越後屋:三越のある、というよりは重要な商取引の街「日本橋」も目と鼻の先です。
また、王子製紙、十条製紙、カネボウ、あるいは石川島(播磨)重工、という名の会社があるのは知らない人はないと思います。
カネボウとは、「鐘淵(かねがふち)紡績」の略。
この「王子」「十条」「鐘淵」「石川島}は、どれも地名。
「鐘淵」は、隅田川を両国あたりから少し遡った東岸に、「王子」「十条」は更に遡って「荒川」に入ったあたりにあります(いずれも先の地図からは外れています)。
そして、「石川島」は、隅田川河口に浮かぶ島の名。上の地図には「造船所」と記されていますが(地図を縮小してあるので読めませんが!)、それが石川島(播磨)重工です(石川島重工と播磨重工が合併したため石川島播磨重工になっている)。
現在の東京に暮す人びとで、なぜ、両国に蔵が立ち並び、国技館があるのか、そして、なぜ商取引の中心が、その一帯にあるのか、なぜ、そういう所に、これらの工場があったのか、その理由を知る人は、少なくなっているのかもしれません。
次の地図は、「図集 日本都市史」(東京大学出版会 1993年初版)に載っている「寛文」年間(1660年代)の江戸の街。明暦の大火(1657年)後、江戸の街域が拡大した頃の推定地図です。
同書の解説によると、明暦の大火後、武家屋敷や寺社を江戸の郊外に移転(それまで、武家屋敷は外堀の内側にあった)、溜池の埋立て、築地の造成、本所・深川の低湿地の開発、火除地など防火帯の設置など、大規模な都市改造が行なわれたと言います。この図は、改造後の江戸の街と考えてよいと思います。
つまるところ、明治年間の地図に見られる街は、江戸の街を引継ぎ、そこに新たなものが加わった姿だということができます。
そらはすなわち、明治になっても、街を街たらしめる要件・条件は、江戸の頃と変りがなかったことを示しています。
では、徳川政権は、なぜ江戸を「中心」地として選んだのでしょうか。
次の図は、江戸より以前の中世末期の江戸のあたりの地形図です。
これもあくまでも推定図で、「図集 日本都市史」からの転載です。
中世末、江戸のあたりには、かつての武蔵の国の豪族「江戸氏」の「江戸館」、「太田道灌」の「江戸城」の建設(1457年)、そして「浅草寺(せんそうじ)」の存在などが知られているだけだそうです。
それゆえ、この図は、地図による地形復元、地質データ、考古学的な資料を基に推定された、とのことです(同書)。
要するに、徳川家康が根拠地に定める以前、江戸一帯はいわば沼沢地、わずかに居城が沼沢地に飛び出した微高地の先端にあったことになります。
一帯が沼沢地であったことは、さらに遡って、一帯の古代の様子を知るとはっきりします。それが下の地図です。
この地図は、小出博著「利根川と淀川」(中公新書 1975年初版、絶版のようです)からの転載で、その書では「1000年前の利根川」となっています。
これを見て分ることは、東京湾には、「思川(おもいがわ)」(今の栃木市のあたりから流れ来る川)以西の「渡良瀬川(わたらせがわ)」この二つが合流後の「太日川」、そして「利根川」「荒川」「入間川」といった河川がすべて東京湾にそそいでいたことが分ります。また、これらの以東にも多くの河川があり、そのすべては、「牛久沼」「手賀沼」そして「霞ヶ浦」を経て銚子に出ています。
註 東京湾にそそぐ河川群と、銚子に向う河川群との間に、それを隔てる微高地があったのです。
現在、「利根川」は銚子に向いますが、それは徳川幕府により流路が変えられたからです。
分水嶺になっていた微高地を掘削して流れを変えたのです。
「利根川と淀川」には、その「目的」について詳しく書かれています。[註記追加 6日12.20]
つまり、関東平野の平らな部分は川だらけ、低湿地だったということです。
そのため、古代においては、この低湿地を横断する陸路はなく、「畿内」から「常陸」の国府へ向う「官道」は、今の三浦半島~東京湾~房総半島へと陸路と海上とを交互に使いたどりつき、そこから今の霞ヶ浦を経て至っているのです(「東海道」)。
註 地名の「上」と「下」は、「畿内」に近い方が「上」、遠い方が「下」になります。
「総」の国の、東京:江戸に近い方を「下総」と呼ぶのは、
古代の道での「畿内」からの遠近:「上」=近い、「下」=遠い、を継承しているのです。
「江戸氏」や「太田道灌」が、なぜこの地に「居城」を構えてのかは分りませんが、海に面した位置にあることから想像すると、他の豪族たちが農地を掌握することに努めたのに対して、海上の道を掌握しようという意図があったのかもしれません。
しかし、このどうしようもない地域を、徳川家康が拠点にしようと考えたのには、きわめて壮大な計画があったようです。
それは、関東平野の産物を(主に米をはじめとする農産物ですが)一手に押さえれば、多くの家臣を養うことができる、という発想です。
安土・桃山の頃から、各領主は、城下町の造成に意をそそぎます。家臣を居城のまわりに集め、商工も一帯のなかで営むようにするのです。
そのとき、「食」の問題が最大課題。
その「食」は、関東平野さえ押さえれば大丈夫、しかし、「食」を居城:城下町への運送をどうするか。
それが「水運」だったのです。一大動脈として河川をとらえたわけです。
前にも書きましたが(下記)、水運、舟運の終着駅として、河川があつまる東京湾口は絶好の地だった、というわけです。
「関東平野開拓の歴史-1」
「関東平野開拓の歴史-2」
徳川家は、元をただせば関東の出(群馬県太田市世良田あたり)。農業にも通じ、尾張などでの見聞で、城下をどうまとめるのがよいか、多くの「知見」を得ていた、それが、どうしようもない東京湾口に潜む「地の利」を読ませたのだ、と思います。
ところで家康は、全国統御のために、各地の藩主に「江戸屋敷」を構えさせます。では、そういう「屋敷」は、さきの低湿地に構えられたのでしょうか。
それを示したのが次の地図です(「図集 日本都市史」より転載)。
つまり、各藩の「屋敷」の大半は、低湿地ではなく、いわゆる山の手に構えられたのです。
要するに、こういうことになります。
物資の搬送をともなう商工は舟運の便のよい低湿地一帯に、武士たちは山の手に、そして農民たちは城下の外、こういういわば棲み分けがおこなわれていたのです。
商工の人たちの暮す地域は、それを成り立たせる要件、すなわち物資の搬入・搬出の便のよいこと、をもって選択されたのです。当然、水害や地震による被災などのリスクは承知の上のこと。[この部分、文言追加 6日12.29]
そして、商工の街の賑わいへ向けて、遊興の場として、近くに国技館や劇場などが、下町の一画につくられたのです。
これらのことは、街:都市がどうのようにして成り立つものか、幕府の要人たちは知り抜いていた、ということにほかなりません。[この部分、文言追加 6日12.29]
明治になっても、当初は舟運が運送の主体でした。鉄道が発達してきても、なかなかその傾向には終止符は打たれません。
工業や商業は、そういった物資の搬送の便のよい一帯に張り付き、さらに発展したのです。
そして、鉄道もまた、この一帯に貨物線の網を張ります、舟運と鉄道の共栄、それは、第二次大戦後も同じ、隅田川東岸には、大きな工場が立ち並んでいました。木場が深川にあるのもまったく同じ。とにかく一帯は流通の要であったのです。
しかし、昭和30年代:1950年代後半以降、トラック輸送が舟運や鉄道にとって代ります。
そうなると、工場の立地条件に大きな変化が生じます。舟運や鉄道とではなく、道路が立地条件の最大要件になってきます。
工場群は、徐々にこの地域から撤退し、自動車運送に便のよい地域に移転しだします。高速道路の開通は、工場立地要件を一変させます。[文言追加 6日12.34]
今、東京江東区一帯には、中高層集合住宅が増えていますが、それは、大体、工場群が撤退した跡地に建っています。
そしてこれが大事な点なのですが、
低湿地にもかかわらず一帯に工場群や、それにともなう商業の街がが張り付くには、通運という理由があったのに対し、
そこに住宅群が張り付く理由はまったくない、ということです。
あえて言えば、空き地があった、それだけが理由。住宅地として好ましい基本的な要件はそこにはない。
註 そう考えるのは私だけかもしれません。
住居の立地要件には、必要条件とともに十分条件がある、と私は考えます。
空き地があるから建てられる、というものではない、ということです。
なぜ「空き地即住居」という発想になるか、それは、「利」だけが念頭にあるからだ、
そう私は思っています。
好ましい住環境とは何か、住む・暮すとはどういうことか、それを根本的に考えず、
植樹でもすればいい、ぐらいしか頭に浮かばないからだと思います。[註記追加 6日12.43]
江戸の街の、商工は下町に、その主である武士は山の手に、農民は郊外に・・・という「棲み分け」にはしっかりした「理由」があった、ということを再認識する必要がある、と私は思います。
こういった「経緯」を知ると、近現代の東京は、単に江戸の街の形骸を引継いだに過ぎず、独自の論理、新たな「理由」の下で構築された、という気配はまったくうかがえないのです。
あえて探せば、今の東京の姿を作っている「論理」は、「理」ではなく「利」でしかない、と言えるのではないでしょうか。
そしてそれが、先回紹介したロンドンとの大きな違いを生んだ理由でもある、と私は考えています。
常磐道を北に走ると、「日立南・大田」インターの近くに、ベンツの国内輸入拠点があります。近くの日立港に陸揚げされた輸入車を日本市場に送り出すための試験検査調整工場です。
この立地選択を、私はきわめて「合理的な判断」だと感心しています。(現代の)日本人はこういう判断ができるのだろうか?と訝るからです。[括弧内、文言追加 6日12.43]
東京の東部、隅田川の縁に、「両国」という地区があります。国技館のある所です。そして、その一画が、「蔵前(くらまえ)」という地名。蔵前の国技館、などとも言われる所以です。
「両国」とは、「総の国」と「武蔵の国」、その境にあるところからの名。そして、「蔵前」とは一帯に、徳川政権にとってきわめて重要な米の備蓄倉庫群:「蔵」が立ち並んでいたことからの名称。
下図は、明治30年頃の隅田川周辺の地図(「地図に見る東京の変遷」所載、陸地測量部:現在の国土地理院の前身:作成の地図から)です。
元図は1/2万なのですが、なるべく広い範囲を入れたいために縮小してあります。ゆえに字は読めなくなっています。ご了承ください(要所には、名称を貼り付けました)。
地図の上の方、「厩橋(うまやばし)」の左、隅田川の西岸に「浅草米庫」とあるのがその「蔵」。8棟あったようです。それぞれに船着場が付いている。
幕府直轄の施設が、明治30年代にはまだ残っていたのです。
字が小さくて読めませんが、南の端の「蔵」は、この地図の編まれたころ、「浅草文庫」という今で言う「文書館」に転用されています。「米庫」の用はなくなったからです。
註 先回、「上野」「新橋」「飯田町」のほかに、明治の東京には、
もう一つ「玄関」があったことを書き忘れました。
それは「両国(橋)」です。
もっとも、「両国」が玄関になる前は、一つ東の「本所」がターミナルでした(上の地図参照)。
「総(ふさ)」の国(「下総」と「上総」)への「総武鉄道」の駅です。
「下総(しもつふさ⇒しもうさ)」は今の千葉県北部から茨城県西南部一帯、
「上総(かみつふさ⇒かずさ)」は、千葉県の中央部、
そして「安房」は、半島部。
そして両国からは、三井越後屋:三越のある、というよりは重要な商取引の街「日本橋」も目と鼻の先です。
また、王子製紙、十条製紙、カネボウ、あるいは石川島(播磨)重工、という名の会社があるのは知らない人はないと思います。
カネボウとは、「鐘淵(かねがふち)紡績」の略。
この「王子」「十条」「鐘淵」「石川島}は、どれも地名。
「鐘淵」は、隅田川を両国あたりから少し遡った東岸に、「王子」「十条」は更に遡って「荒川」に入ったあたりにあります(いずれも先の地図からは外れています)。
そして、「石川島」は、隅田川河口に浮かぶ島の名。上の地図には「造船所」と記されていますが(地図を縮小してあるので読めませんが!)、それが石川島(播磨)重工です(石川島重工と播磨重工が合併したため石川島播磨重工になっている)。
現在の東京に暮す人びとで、なぜ、両国に蔵が立ち並び、国技館があるのか、そして、なぜ商取引の中心が、その一帯にあるのか、なぜ、そういう所に、これらの工場があったのか、その理由を知る人は、少なくなっているのかもしれません。
次の地図は、「図集 日本都市史」(東京大学出版会 1993年初版)に載っている「寛文」年間(1660年代)の江戸の街。明暦の大火(1657年)後、江戸の街域が拡大した頃の推定地図です。
同書の解説によると、明暦の大火後、武家屋敷や寺社を江戸の郊外に移転(それまで、武家屋敷は外堀の内側にあった)、溜池の埋立て、築地の造成、本所・深川の低湿地の開発、火除地など防火帯の設置など、大規模な都市改造が行なわれたと言います。この図は、改造後の江戸の街と考えてよいと思います。
つまるところ、明治年間の地図に見られる街は、江戸の街を引継ぎ、そこに新たなものが加わった姿だということができます。
そらはすなわち、明治になっても、街を街たらしめる要件・条件は、江戸の頃と変りがなかったことを示しています。
では、徳川政権は、なぜ江戸を「中心」地として選んだのでしょうか。
次の図は、江戸より以前の中世末期の江戸のあたりの地形図です。
これもあくまでも推定図で、「図集 日本都市史」からの転載です。
中世末、江戸のあたりには、かつての武蔵の国の豪族「江戸氏」の「江戸館」、「太田道灌」の「江戸城」の建設(1457年)、そして「浅草寺(せんそうじ)」の存在などが知られているだけだそうです。
それゆえ、この図は、地図による地形復元、地質データ、考古学的な資料を基に推定された、とのことです(同書)。
要するに、徳川家康が根拠地に定める以前、江戸一帯はいわば沼沢地、わずかに居城が沼沢地に飛び出した微高地の先端にあったことになります。
一帯が沼沢地であったことは、さらに遡って、一帯の古代の様子を知るとはっきりします。それが下の地図です。
この地図は、小出博著「利根川と淀川」(中公新書 1975年初版、絶版のようです)からの転載で、その書では「1000年前の利根川」となっています。
これを見て分ることは、東京湾には、「思川(おもいがわ)」(今の栃木市のあたりから流れ来る川)以西の「渡良瀬川(わたらせがわ)」この二つが合流後の「太日川」、そして「利根川」「荒川」「入間川」といった河川がすべて東京湾にそそいでいたことが分ります。また、これらの以東にも多くの河川があり、そのすべては、「牛久沼」「手賀沼」そして「霞ヶ浦」を経て銚子に出ています。
註 東京湾にそそぐ河川群と、銚子に向う河川群との間に、それを隔てる微高地があったのです。
現在、「利根川」は銚子に向いますが、それは徳川幕府により流路が変えられたからです。
分水嶺になっていた微高地を掘削して流れを変えたのです。
「利根川と淀川」には、その「目的」について詳しく書かれています。[註記追加 6日12.20]
つまり、関東平野の平らな部分は川だらけ、低湿地だったということです。
そのため、古代においては、この低湿地を横断する陸路はなく、「畿内」から「常陸」の国府へ向う「官道」は、今の三浦半島~東京湾~房総半島へと陸路と海上とを交互に使いたどりつき、そこから今の霞ヶ浦を経て至っているのです(「東海道」)。
註 地名の「上」と「下」は、「畿内」に近い方が「上」、遠い方が「下」になります。
「総」の国の、東京:江戸に近い方を「下総」と呼ぶのは、
古代の道での「畿内」からの遠近:「上」=近い、「下」=遠い、を継承しているのです。
「江戸氏」や「太田道灌」が、なぜこの地に「居城」を構えてのかは分りませんが、海に面した位置にあることから想像すると、他の豪族たちが農地を掌握することに努めたのに対して、海上の道を掌握しようという意図があったのかもしれません。
しかし、このどうしようもない地域を、徳川家康が拠点にしようと考えたのには、きわめて壮大な計画があったようです。
それは、関東平野の産物を(主に米をはじめとする農産物ですが)一手に押さえれば、多くの家臣を養うことができる、という発想です。
安土・桃山の頃から、各領主は、城下町の造成に意をそそぎます。家臣を居城のまわりに集め、商工も一帯のなかで営むようにするのです。
そのとき、「食」の問題が最大課題。
その「食」は、関東平野さえ押さえれば大丈夫、しかし、「食」を居城:城下町への運送をどうするか。
それが「水運」だったのです。一大動脈として河川をとらえたわけです。
前にも書きましたが(下記)、水運、舟運の終着駅として、河川があつまる東京湾口は絶好の地だった、というわけです。
「関東平野開拓の歴史-1」
「関東平野開拓の歴史-2」
徳川家は、元をただせば関東の出(群馬県太田市世良田あたり)。農業にも通じ、尾張などでの見聞で、城下をどうまとめるのがよいか、多くの「知見」を得ていた、それが、どうしようもない東京湾口に潜む「地の利」を読ませたのだ、と思います。
ところで家康は、全国統御のために、各地の藩主に「江戸屋敷」を構えさせます。では、そういう「屋敷」は、さきの低湿地に構えられたのでしょうか。
それを示したのが次の地図です(「図集 日本都市史」より転載)。
つまり、各藩の「屋敷」の大半は、低湿地ではなく、いわゆる山の手に構えられたのです。
要するに、こういうことになります。
物資の搬送をともなう商工は舟運の便のよい低湿地一帯に、武士たちは山の手に、そして農民たちは城下の外、こういういわば棲み分けがおこなわれていたのです。
商工の人たちの暮す地域は、それを成り立たせる要件、すなわち物資の搬入・搬出の便のよいこと、をもって選択されたのです。当然、水害や地震による被災などのリスクは承知の上のこと。[この部分、文言追加 6日12.29]
そして、商工の街の賑わいへ向けて、遊興の場として、近くに国技館や劇場などが、下町の一画につくられたのです。
これらのことは、街:都市がどうのようにして成り立つものか、幕府の要人たちは知り抜いていた、ということにほかなりません。[この部分、文言追加 6日12.29]
明治になっても、当初は舟運が運送の主体でした。鉄道が発達してきても、なかなかその傾向には終止符は打たれません。
工業や商業は、そういった物資の搬送の便のよい一帯に張り付き、さらに発展したのです。
そして、鉄道もまた、この一帯に貨物線の網を張ります、舟運と鉄道の共栄、それは、第二次大戦後も同じ、隅田川東岸には、大きな工場が立ち並んでいました。木場が深川にあるのもまったく同じ。とにかく一帯は流通の要であったのです。
しかし、昭和30年代:1950年代後半以降、トラック輸送が舟運や鉄道にとって代ります。
そうなると、工場の立地条件に大きな変化が生じます。舟運や鉄道とではなく、道路が立地条件の最大要件になってきます。
工場群は、徐々にこの地域から撤退し、自動車運送に便のよい地域に移転しだします。高速道路の開通は、工場立地要件を一変させます。[文言追加 6日12.34]
今、東京江東区一帯には、中高層集合住宅が増えていますが、それは、大体、工場群が撤退した跡地に建っています。
そしてこれが大事な点なのですが、
低湿地にもかかわらず一帯に工場群や、それにともなう商業の街がが張り付くには、通運という理由があったのに対し、
そこに住宅群が張り付く理由はまったくない、ということです。
あえて言えば、空き地があった、それだけが理由。住宅地として好ましい基本的な要件はそこにはない。
註 そう考えるのは私だけかもしれません。
住居の立地要件には、必要条件とともに十分条件がある、と私は考えます。
空き地があるから建てられる、というものではない、ということです。
なぜ「空き地即住居」という発想になるか、それは、「利」だけが念頭にあるからだ、
そう私は思っています。
好ましい住環境とは何か、住む・暮すとはどういうことか、それを根本的に考えず、
植樹でもすればいい、ぐらいしか頭に浮かばないからだと思います。[註記追加 6日12.43]
江戸の街の、商工は下町に、その主である武士は山の手に、農民は郊外に・・・という「棲み分け」にはしっかりした「理由」があった、ということを再認識する必要がある、と私は思います。
こういった「経緯」を知ると、近現代の東京は、単に江戸の街の形骸を引継いだに過ぎず、独自の論理、新たな「理由」の下で構築された、という気配はまったくうかがえないのです。
あえて探せば、今の東京の姿を作っている「論理」は、「理」ではなく「利」でしかない、と言えるのではないでしょうか。
そしてそれが、先回紹介したロンドンとの大きな違いを生んだ理由でもある、と私は考えています。
常磐道を北に走ると、「日立南・大田」インターの近くに、ベンツの国内輸入拠点があります。近くの日立港に陸揚げされた輸入車を日本市場に送り出すための試験検査調整工場です。
この立地選択を、私はきわめて「合理的な判断」だと感心しています。(現代の)日本人はこういう判断ができるのだろうか?と訝るからです。[括弧内、文言追加 6日12.43]