日本の建物づくりを支えてきた技術-8・・・・寺院の屋根と軒-1

2008-09-21 11:58:09 | 日本の建物づくりを支えてきた技術

[図版更改、出典記入追加 17.39]

寺院建築の特色として、軒下:軒を支える箇所の複雑な形があります。
その形で、これは〇〇時代、〇〇様式、これは△△様式・・などと説明されることが往々ありますが、こういう説明・案内に、建物に興味・関心のある人でも、イヤになることがあるのではないでしょうか。私自身も、学生の頃、そういう説明、そういう見方で見たり、説明・講釈を受けることは、「性に合わない」ことでした。


この軒を支える部分は、「いろいろな部材を組合せている」ところから、一般に、「組物(くみもの)」と呼ばれます。

これを、「〇〇様式云々」という見方ではなく、「建物をつくる、という視点」で見ると、理解の度合いがまったく異なってくるように私には思えます。
たとえば、建物の重さ:重力が、どのように地面まで伝わってゆくか、という視点で見ると、ものごとの見え方、理解の仕方がまったく違ってきます。
「建物をつくる」ということは、一に、力をどう受け止めるか、部材に伝えるか、にかかっていると言って過言ではありませんから、その見方で見る方が素直な見方だと私は思うのです。

人びとが建物をつくるとき、最初は、素朴・武骨なままに、つまり「きれい」かどうか、だとかは考えずに目的とするものをつくった筈で、そうこうしているうちに「なるたけ格好良く」と考える余裕がでてきて、つくり方も洗練される、それが大筋の発展過程と考えてよいでしょう。
その過程を経た後、これまたそうこうしているうちに、「なぜそうなったか」「なぜそうするのか」を忘れる時がきます。「形式化」「様式化」は、そこから始まる、と考えてよいでしょう。言うならば、「形式化」「様式化」は「因習」の一つなのです。


「組物」は一般の建物にはなく、寺院建築において見られることから、中国から伝来した屋根・軒先のつくりかた、と言えます(神社にもないわけではありません)。
そして、日本の古代の建物づくりは、この中国伝来・直伝の技術が、どのように吸収・変容を遂げたか、という視点で見るのがよいように思います。

すでに触れましたが、中国と日本では、同じ「木造」と言っても大きな違いがあります。その最たるものは、材料:木材の違いです。
中国では、日本とは違い、針葉樹が主ではありません。この「違い」は、技術の「吸収・変容」に大きくかかわるはずです。

今回と次回では、この「組物」について簡単に触れたいと思います。

◇ 「大斗 肘木(だいと ひじき)」

「組物」の最も簡単な方法は「日本の・・・-6」ですでに紹介した「法隆寺 東院・伝法堂」と「新薬師寺 本堂」で行なわれている「大斗 肘木」と呼ばれる方法です。上に図を再掲し、その部分の写真も載せました。
字の通り、「頭貫」で繋いだ「柱」の上に、「大きな斗」:「大斗」を据え、それで「虹梁(こうりょう)」を受け、それに直交して「肘木」を載せ、「桁」を架ける方法です。中国では、この「桁」に丸太:円形の材を使うことから、これを日本では特に「丸桁(がんぎょう)」と呼んでいます。
面白いのは、いつの間にか、この位置の「桁」を、角材であっても「がんぎょう」と呼ぶ「習慣」があることです(こういう「習慣的呼称」はきわめて多く、それがものごとを分りにくくしていることが、ままあるようです)。

この「大斗 肘木」方式を「力の伝わり方」で解釈すると、屋根の重さを「垂木」が受け、それは「垂木」を支える「桁」(「母屋桁」「軒桁」)に伝わり、それを「肘木」が受けて「斗」に伝え、「柱」を介して礎石・地面に伝わる、という行程をたどります。「東室」「妻室」の方法に比べ、「斗」「肘木」が中途に加わっていることになります。

   註 「肘木」を柱上に据えて梁・桁を受ける方法も「組物」と
      呼ぶようですが、これはおそらく、中国から伝来しなくても、
      工人たちの知恵として、昔から存在していた方法でしょう。
      柱の上で横材を自由に継ぐことができ、柱と柱の中間で
      横材:梁・桁が撓むのを防ぐのに有効であることは、早くから
      工人たちの間では知られていたと思います。

   註 古い建物では、「肘木」を舟型につくるため、一般に
      「舟肘木(ふなひじき)」と呼びます。
      「肘木」は現在でも有効に使われ、その例などを
      「・・・-4、5の補足」で紹介しました。

これらの建物は、当然、先の「東室」や「妻室」同様の架構、すなわち、「柱」上に「桁」を流し、「梁」を架け、「又首」あるいは「束」立てで「母屋桁」を通し「垂木」を架ける方法で建てることができます。それをあえて中国式の方法で建てるときに採られた最も単純な「形式」がこの「大斗 肘木」方式のつくり方と言えるでしょう。

軒先には、「垂木」が二段設けられています。これは、寺院建築ではどこでも見られる方法ですが、「軒を少しでも先に伸ばす」手立てと考えられ、同時に屋根の「反りをつくる」のに一役買っています。
下段の「垂木」は「地垂木(ぢだるき)」、上の「垂木」は「飛檐垂木(ひえんだるき)」と呼ばれます。

中国でも同様のつくり方をしていますから、これは中国伝来の技法でしょう。

なお、中国の書物(「中国古建築木作営造技術」)では、「垂木」は「檐椽(えんてん?)」、「飛檐垂木」は「飛檐(ひえん)」、そして「丸桁」は「檐檁(えんりん?)」と書いてあります。
ですから、「飛檐垂木」は、中国の名称に「垂木」を足して呼んでいたものと思われます。つまり、「たるき」は元々が日本語なのでしょう。

   註 「字通」「新漢和辞典」に、以下の説明があります。
      「檐(えん)」は「のき」「ひさし」、屋根の葺きおろした端。
      「椽(てん)」は「たるき」。家の棟から「檐」にかけ渡して
      屋根を支える木材。
      角材の「たるき」を「桷(かく)」、丸い「たるき」は「椽」。
      「飛檐」とは、「高い軒」、「飛宇」に同じ。

      なお、中国では、日本とは違い、長い材を得にくいため、
      「母屋桁~母屋桁」ごとに一本の垂木を架けるようです。
     
写真では分りにくいと思いますが、「新薬師寺」では「地垂木」が円形、「飛檐垂木」は角材、「伝法堂」では両者とも角材です。

その点では「新薬師寺」の方が中国方式に忠実のように見えますが、「梁行断面図」を比べて見ると、「伝法堂」のそれと大きく違うことが分ります。
「伝法堂」では、屋根の下を見上げて見える材:「地垂木」が実際に屋根を支えているのに対して、「新薬師寺」の屋根の下に現れている「地垂木」は、屋根を直接支えていません。下から見える「地垂木」の裏側に、実際の屋根を支える材が仕込まれているのです。
つまり、見えている材は「化粧」のためのものなのです。

このような場合、実際に屋根を支えている部分を「野屋根(のやね)」と呼び、その部分を構成する「垂木」は「野垂木」、「母屋桁」は「野母屋」と呼ばれます(現在でも、「垂木」の上に張り屋根を葺く下地になる板のことを「野地板(のぢいた)」と呼びますが、これも「野+地板」なのです)。

中国には、この「新薬師寺」型のやりかたを採る事例はないようです(少なくとも手許にある資料では見ない、ということで、あるのかも知れません)。
私の推量では、「新薬師寺」は、おそらく、日本で当たり前であった工法で「中国式の建物」をつくったのではないかと思います。
極端な言い方をすれば、「野屋根」方式を採れば、いかようにも形をつくれるのです。
実際、時代が下ると、「野屋根」方式は一般化し、実際に見える部分は「化粧」でつくるのが当たり前になります。上掲の「平 三斗(ひら みつど)」の事例に挙げている「法隆寺・大講堂」の断面図に見える「桔木(はねぎ)」の方法は、平安時代以降、普通に行なわれるようになる「野屋根」のつくりかたです。

架構は「野屋根」でつくり「外見は中国式を踏襲する」、これが一時期、日本の建物づくりの「主流」になります。

◇ 「平 三斗(ひら みつど)」

これは、上掲の図・写真のように、「大斗 肘木」方式の「肘木」の上に「斗」を3個横並べに据え、それで「桁」を受ける方式です。
平面上に3個の「斗」がある、というので「平 三斗」と呼ぶわけです。
この3個の小さな「斗」は、「巻斗(まきと)」と呼んでいます(なぜ「巻」の字を付すのかは、私には不明です)。

力の伝わり方は、「桁」の受けた力を、3個の「斗」で分散して「肘木」に伝えること以外は「大斗 肘木」方式と同じです。
ただ、同一線上に「斗」が並んでいますから、3個の「斗」すべてが力を受けるのではなく、そのうちの1個はかならず遊んでいる、と考えた方がよいと思います。
「桁」を3個の「斗」すべてに接するように加工し組むことは(つまり、接点が正確に同一線・同一面上に並ぶようにすることは)、現在でさえ、容易なことではないからです。

そう考えると、「平 三斗」は、おそらく「見えがかり」を考えての細工、簡単に言えば「格好良く見せる」ことを重視したものと見た方がよいのかも知れません。

◇ 「出 三斗(で みつど)」

この方法は、「大斗」の上に、一方向の「肘木」ではなく、十文字に組んだ「肘木」:「枠 肘木(わく ひじき)」を据え、その上に十文字に図のように5個の「斗:巻斗」を置き、これも十文字に組んだ「桁」と「繋梁」を受けるやり方です。
「斗」が建物前面に出ているところからの名称と言えます。

残念ながら「法隆寺東院 礼堂(らいどう)」の断面図が見つからなかったので、写真だけ載せました。

「平 三斗」方式では、軒先の重さで「桁」が前方に押出されやすかったようですが、「出 三斗」は、それをとめる効果があったと言います。
もっとも、この場合も、小屋裏に別途「野屋根」が組まれるのが普通ですから、多分、「見えがかり」を重視した「化粧」の意味が強かった、「中国」風に見せるための仕事に執着したのだと思われます。


ここで見てきた三つの方式は、「桁」の位置はあくまでも柱列の上ですから、軒の出を深くする、軒の高さを高くする、という点では大差はないと言えるでしょう(正確に言えば、「巻斗」の分、高くはなります)。
次回は、軒を深く出す方式、すなわち「桁」を柱列より前面に設ける方法について触れようと思います。


なお、「化粧」を重視するようになると、「形式化」が極まり、「見えがかり」の「組物」「地垂木」「飛檐垂木」は、構造的には意味のないまったくの「化粧」となり、細身になってきます。
このあたりは、何となく「書割り的」つくり方の「現代建築」を思い起こさせますが、これについてはいずれ触れようと思います。

今回の図版は、下記書籍から転載、組合せ等の編集を加えてあります。
なお、断面図の縮尺は、すべて、ほぼ同一にしてあります。
〇「奈良六大寺大観 法隆寺一」 〇「同 法隆寺五」 〇「同 東大寺一」
〇「日本建築史基礎資料集成 四 仏堂Ⅰ」
〇「日本の美術245 日本建築の構造」

次回へ続く

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