のほうずな街

2010-04-01 11:31:35 | 居住環境
[語句追加 3日 11.59]
先回、「危ない場所の真ん中で、安全を叫ぶ」話について触れました。
そんな話が頭にあると、不思議に、それに関係する書物などが目に入って来るものです。

そのとき、実は、最近の(日本の)人はどうして斜面に暮すのを嫌うのだろう、と思って、それに関係する資料を探していたのですが、目に飛び込んできたのは「地図で見る東京の変遷」という日本地図センターから出ている明治から現在までの4時期の地図を集成したもの。「現在」と言っても、それは「昭和62年」頃の地図が最新。

国土地理院が毎年「地図展」を開いていますが、これは1990年度のときの記念出版。
ここには、明治30年頃、大正10年頃、昭和30年頃、そして昭和62年頃の、東京周辺の4枚の1/5万の地図(東京東北部、東南部、西北部、西南部)が、年代別に編集されています(ただ、明治期の地図は縮尺1/2万)。したがって、各時代ごとに、とてつもなく大きい版型の地図になっています。

同じ縮尺に揃え、中央線のあたりにしぼり編集し直したのが下の図です。



なるべく広い範囲を、と思って作成したため、細部が見えないと思いますが、ざっとの感じで、この約1世紀で、どんな具合に変ってきたかは分るのではないか、と思っています。
なお、棒尺は、全長が5kmで、各地図共通です。

概略を説明しますと、
明治30年代、山手線に相当する鉄道はありますが、環状にはなっていません。
当時、上野、新橋、そして飯田橋(飯田町)が、東京から出る鉄道の起点として考えられていました。西欧の都市に学んだのだと思われます。
そして、この駅の近くの、現在の山手線よりもひとまわり中に入ったあたりまでが主な市街地でした。
言うならば、明治の作家の描いた東京は、このあたり。国木田独歩の武蔵野は、たしか今の新宿あたりのはずです。

大正年間になると、山手線も完成し、鉄道の結節点周辺の市街化が目立ちます。掲載の地図で言うと新宿あたりです。
新宿から2本の黒っぽい線が西へ向ってV字形に広がっていますが、北側が青梅街道、南は甲州街道です。それに沿って、市街化が進んでいるのです。
この二つの街道筋には、当時から鉄道がありました(と記憶しています、調べてみます)。青梅街道では新宿から荻窪まで私営の路面電車が(後に東京都営)戦後まで走ってました。
甲州街道に沿っては京王線。京王線も、新宿近くでは路面電車で、山手線を越えて、今の新宿三越の裏あたりが終点。[語句追加 3日 11.59]

昭和30年代、戦後10年ほど経った頃。鉄道沿線の市街化が際立つ程度で、まだ田園が多く残っています。
この頃私は高校~大学生。私の通った高校の隣りは畑。春先の黄塵に悩まされたものです。しかし、今は高校は住宅や集合住宅群の中に埋没しています。
当時は、土地は簡単に手が入りましたが、建築費が高く、なかなか建物は造れない時代。住宅金融公庫は、そのために誕生した機関。
青梅街道の路面電車は、ある時期廃止され、しばらくして、その代行として地下鉄丸の内線の支線、荻窪線が開通します。
新宿西口は、まだ茫洋として原っぱ同然(多摩川上水からの水を受ける淀橋浄水場があったのです:今のビル街)。
京王線は、西口終点に変っていましたが、まだ地上駅。国電(当時はこう呼んでいます)までは、地上をしばらく歩きました。私の学生の頃です。京王線には、吹きさらしのデッキのついた電車も走っていたのでは・・。

それから30年・・・、僅かに30年、昭和60年代にはすでに地図にはメリハリがなくなっているのが分ると思います。この変り身の速さはすごい。

こうなってしまうと、地図を見る楽しみなどなくなってしまいます。
そして、こういうメリハリがなくなり、「当て山」に相当する風景がなくなってしまったから、ランドマークなどという語が流行り、そしてまたカーナヴィゲーションシステムが売れ出したのではないでしょうか。

   余談ですが、カーナビは、「当て山」のたくさんある地域でも売れていますから、
   そのうち人は、自分の頭を使い、勘を働かせることができなくなるのでは、と思っています。
   つまり、すべての面で「(誰かの)指図待ち人間」化・・・・。

この変遷を見ていると、もしも西~北側の関東山地がなかったならば、のほうずにさらにさらに建物で埋まってゆくのだろうと思います。
なぜなら、それに対する「歯止め」は、一切ないからです。仮にあるとき「歯止め」のごときものがつくられても、しばらくすると「都合」で「改訂」される・・・・、この繰り返しできているからです。

   のほうず:「の方図」:ほうって置けば、どこまで脱線するか分らない様子(新明解国語辞典)

一方、下図は、最新の地図に載っている「ロンドン周辺」の地図です(帝国書院「基本地図帳」から)。以前に一度紹介したかもしれません。
東京との違いは歴然としています。



いったい、明治以来、西欧に学べ、見習え・・・、と言って、何を学んだのでしょうか、日本人は。

なお、同じ地図の昭和30年代、60年代を紹介しながら(もう少し広範囲)、同じようなことをかなり前に書いています。

   「日本に『都市計画』はあるのか?」

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2 コメント

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私の研究テーマ (下河敏彦)
2010-04-02 17:29:30
下河です。下山先生は、この記事のような話題を時々記載されますが、まさしく私の大きな研究テーマのひとつです。多分、江戸時代くらいまでは、都市計画があったのですが、その後急激な近代化に伴い魂が失われた仏ばかりが作られました。土地が余った結果公園や校庭といったオープンスペースができる。周りに崖がある。でもそこは災害時の避難場所にもなっている、、、そもそもなぜ昔から土地利用されなかったのか、、もちろん危なかったから、、、でもそこが避難所という矛盾、、、、

即物的な街づくりは、そろそろ悲鳴をあげるはずです。
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過去は棄てるものという近代化 (筆者)
2010-04-02 19:31:34
コメントありがとうございます。

温故知新ということばを近・現代人は忘れてしまったようです。

それは、明治政府が徳川の世を悪く言うために、無理やり過去を慮ることを棄てさせたからのようです。
そしてまた、一科一学を奨め、徳川の世にはあたりまえだった思考法を「萬屋主義」として排斥したことも因の一つだと思います。

とにかく、困ったものです。
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