「一票の格差」の是正=「不条理」の是正?

2011-04-02 19:16:01 | 居住環境


路傍のシデ コブシ。
例年より開花が遅れています。
シデは「垂ず(しず)」という動詞の連用形、その名詞的用法、とのことです。言うならば「しだれ辛夷」なのでしょう。

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[註追加 3日 8.50][註記追加 3日 20.03][註記追加 4日 10.30]

昨年の大晦日、毎日新聞の投稿欄にあった「人口だけで一票の格差を考えるな」という投書を紹介しました。
世の大勢のなかでは少数ですが、まことに当を得た、理の通ったお考えである、と私は思います。
「民主主義」の名の下で、単純に数値の大小でものごとを決める悪しき「習慣」が流行っていることは、既に何度も書いてきました(「数値の軽重・・・・数の大小でものごとは決まるか?」「本末転倒の論理」)。

しかし、世の大勢は、相変わらず数字の大小に比例することを望むようで、最高裁で「一票の格差」を認める判決が出され、「一票の格差の是正」を求めていた原告(各地域の弁護士たちです)が、会見で「判決が妥当である(半ばですが)」旨の見解を表明していました。

ところで、次の数字から、何が見えてきますか?
茨城県:299、栃木県:201、群馬県:202、埼玉県:702、東京都:1227、千葉県:604、神奈川県:869、山梨県:88、静岡県(の約1/2):189、以上合計4352。

これは、東京電力の配電している地区に属する各都県の2006年の人口:単位万人(「最新基本地図帳 2008年版」より)。
静岡県を約1/2にしているのは、富士川以西は中部電力の地区になっているからです。
   註 各都県に「住所がある人」の数です。
ここから、概算で、東京都に隣接するいわゆる「都会」「市街地」地域の人口が、東電の管轄区域の2/3を占めると見てよいでしょう。
単純に考えると、各都県の電力使用量も、ほぼこの人口比率に比例すると言えます(昼間人口はこの数字ではないでしょう)。
それを考えると、他地域の電力会社の名称が、北海道、東北、中部・・・と配電地域名を付けているのに、関東・山静だけ「東京」である理由が分ります。「都会」以外は、その他大勢・・・。

   註
   茨城県は、被災地域ということで「計画」停電を免れています。
   東京23区でも、江戸川など東部の川向うの区以外は免れているとのこと。
   配電網が、「都心部」を念頭に構築されている関係かもしれません。
   「首都・東京」を護る電力配電網。
   因みに、都心から半径50~70キロの辺りには、環状線状に、
   東京へ配電する高圧線・鉄塔が並んでいます。  


現在、わが国の総電力量の3割程度が原発によるものと言われています。
関東・山静の電力は、新潟と福島で、その1/3を生産している、と、福島県の知事が語っていました。
因みに、福島県の人口は210万、新潟は244万です(同資料による)。

   註 福島、新潟は東北電力の管轄です。
     たしか、青森県の東通村にも東電の原発がある(建設中?)はずです。
        [註記追加 3日 20.03]

原発は安全なのだそうです。核燃料廃棄物の処理も安全に行われるのだそうです。
であるならば、なぜ、需要の多い地区に近接して、例えば東京湾沿いに、建設しないのでしょうか?配電網もローコストで済みます。
なぜ、廃棄物処理場は六ヶ所村なのでしょうか。近くでいいじゃありませんか。これもローコストで済みます。


これは何度も問われてきた「根本的・根源的( radical )な問」ですが、いつもうやむやのまま、「安全である」、「安全に処理できる」、との「専門家のご託宣」に基づいて、時の政府が「認可」し、建設されてきてしまったのです。

福島原発の建設にあたっても、当然「専門家のご託宣」がありました。
「ご託宣」とは、すなわち専門家の「想定」のこと。「工学的設計」が拠るべき「目標値」です。
そしてそれは、自分の立てた「想定」が実際と違った場合には、それは「想定」が悪いのではない、それを越えた地震・津波がワルイのだ、と言って済ませることのできる「想定」です。そういう事態が起きたら、「再評価」すればよいのです。


例の構造計算事件の姉歯氏は、賠償を命じられました。
原発の設計要件の「想定」は、偽装どころか、「工学的設計」が目指すべき「基本値」の設定。
もしかすると、「都合のよいように誂えた想定」:「捏造」(事実であるかのように作り上げること)だったのかもしれません。
この「ご託宣」を告げた専門家は、今何処で何を?
それを《金科玉条》に認可した「担当者」は今何処で何を?
すべて「東電の責任」で済ませばよいのでしょうか?だから、国も負担するのだそうです。しかし、元はと言えば、税金なのです。


原発立地が、そこで暮す人びとの人権:「居住権」を侵害しているのは明らかです。
では、「一票の格差は民主主義にもとる」と説く弁護士諸氏は、この原発立地の「偏り」「格差」について、「民主主義にもとる」と主張するのでしょうか、しないのでしょうか?

論理的には当然主張しなければならないはずです。その延長上に、専門家の責任の糾弾も見えてくる・・・。
技術者と同じく、弁護士諸氏の「人権」観が問われるのでしょう。

   註 福島原発も、例の「新耐震基準」相応の補強はしてあったそうです。
      ところが、今回の地震では対応できていないことが分った、とのこと。
      つまり「新・新耐震基準」が必要、という見方が出てきているようです。
      どこまで続く「近代思考の泥沼」・・・。

現在、私の住まいの「最寄りの駅」を通る常磐線は、「計画節電」で、1時間に1本です。
私が茨城に移住した1970年代後半に戻ったような感じです。
車に頼るしかないけれども、ガソリンがなく、省燃料運転で、本当に必要なときしか乗らない。それはそれで、何とかなっています。

どうでしょう、都会も、1970年代あるいはもっと遡って1950~60年代の暮し方に戻ってみては。電車も通常の半分でいいではありませんか。乗れるのだから・・・。
福島の放射能被災者にだけ、不条理な暮しを押し付けるのは、まさに不条理なのです。

電気が足りないと経済が衰える、だから原発、という論理は、既に破綻しています(もともと破綻しています)。私はそう思います。
足りないものは足りないのです。「足りない」と言うのがそもそも理が通らない。
「足りない」のではない。「それだけしか ない」。
   註 思わず戦時中の「標語」、「足りぬ足りぬは工夫が足りぬ」(だったかな)を
      思い出しました。

   註 政府に乗り越えられた新聞
     今後の原発建設の「是非」について何も触れないジャーナリズムについての論評です。
      「リベラル21」の4日の記事に載っていました。[註記追加 4日 10.30]

「足りない」論理を延伸すると、国土が狭い、足りない、だから他人の暮す場所を頂いてしまえ、つまり侵略の論理に連なります。
原発被災者は、「足りない」論理で経済振興:原発建設を主張する人びとに、その日常を「侵略された」と言えるのかもしれません。
   註 震災のニュースを見ようと、たまたま覗いたTVで、
      《有名な》女性の「経済評論家」が、「原発必要」論なのでしょうか、
      「原発事故で、死者が出ましたか・・・」、という旨の発言をしているのを聞いて、
      耳を疑い、TVのスイッチを切りました。
      死人が出なければ、大した話ではない、ということらしい!

   註 今日の毎日新聞朝刊「万能川柳」から抜粋転載 [註追加 3日 8.50]
      皆、ちゃんと見てる!

       私等は電力会社選べぬし
       問題ない けれど避けろと放射能
       下請けが原発管理?そりゃないわ
       想定外 ただ考えていないだけ
       安全といってた人は いまどこに

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