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glimi

生きること:過去と未来とエスペラントと

プラハ散歩:LA UNUA

2005-05-14 09:18:43 | Weblog
 プラハで世界エスペラント大会が行われたのは1996年、もう9年前のことであり、おしゃべりしながらあちこちと引きずりまわされたので、どう歩いたか、地図をを見てもはっきりと思い出せません。
 手紙で約束したように開会式(7月20日)の後、会場の前でマリエが待っていました。マリエの仲間たち、ドイツ人のマリアンネとグレーテル、スウェーデン人の男性、それにイジナとその他いっぱい。と言うのも知っている者同士も、知らない者同士もみんな植え込み縁のコンクリートに座ってお弁当のサンドイッチを広げ、挨拶したりおしゃべりしたりするのでみんな仲間に見えるのです。マリエは黒パンにチーズを挟んだサンドイッチを私の分まで用意していました。

 イジナは、今朝夫が収穫したと言う長さが30センチもあるキュウリとピエロの帽子のような形のピーマンを取り出し、みんなに切り分けました。キュウリは大きいけれど皮も柔らかく水分たっぷりでした。後の経験ですがハイキングの時も彼らは水を飲まず、休憩にはこのキュウリやトマトを食べていました。ピーマンは程よい辛味があってドイツ人にも好評でした。  
      

 食後、会場から徒歩20分ほどの所にある墓地に行く事になりました。ここにはスメタナの墓があるのです。私達の集団の前後を他のエスペランティストのグループも歩いています。見知らぬ者がエスペラントで話し掛けたり、地元エスペランティストに情報を求めたりと集団は時には合流し時には分裂しながら同じ方向に向かってゆきます。この付き合いの楽しさは私達エスペランティストだけが味わえるものですし、また新たな友人が生まれる機会でもあるのです。

 道は丘の上にある会場から、眼下にゆったりと流れるヴァルタバ川や川向こうの古い街並みをを眺めたり、肢体不自由児の学校の横を取ったりしながら下って行きました。
 墓地は広く、多分昔貴族だったと思える墓は壁が数メートルもあり、彫刻が施されています。イジナは物知りで墓の前に立ってはチェコの有名な人物の解説をしてくれました。今、その説明は私の記憶から消えてしまいました。最近は書き留めておくようになりましたが、記憶力の低下は悲しいですね!
  

 グレーテルは小柄で陽気なドイツ人。私が大会後マリエの所へ行くと聞くと、あの森は素晴らしいと話してくれました。彼女は学校の生徒を7~8人連れて何度かマリエの家に泊めてもらったということでした。
 女性の話は大方お嫁さんの話になります。グレーテルは自分の子どもではないけれど亡くなったご主人の息子がとても大切してくれること。その息子のお嫁さんがフィリピン人で、その一族が遊びにくると滞在はいつも3ヶ月。彼らを遊びに連れ出す時、息子はグレーテルも一緒に連れて行こうとするので忙しいなどと面白おかしく話すのです。

 イジナは大柄で、腰が悪く年金を貰っているので余暇は色々な講座に参加していると言います。今建築の歴史を学習しているとかで、あの建物はゴシック、あっちの建物はバロックとか説明しますが、私にはその違いがわかりませんでした。

 
  
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おかあさんはどんな人かな!?

2005-05-13 09:33:53 | Weblog
 今年開催される第90回世界エスペラント大会の開催地はリトアニアのヴィリニスです。航空券も予約しました。ところが急用ができて日程変更を余儀なくされ、昨日の午後、旅行会社に出かけました。

 電車の中には小学一年生と思われる様々な制服を着た小さな子ども達が沢山いました。この沿線には私学が多いのです。

 椅子に座って鼻をいじっている少女が目に止まりました。彼女は鼻血を出しているようです。紙がないのでしょうか。血のついた一枚の紙を広げては白い所を捜して鼻の中を拭いています。これでは血が止まるどころか大出血にもなりかねねません。その子は使えなくなった汚れた紙を椅子の下に捨てようと考えたようです。紙を丸め、椅子の下に向けますが捨てようか、誰か見ていないか、どうしようかと迷っているようで、何度も同じ動作をモジモジながら繰り返しています。

 ああ、こんな時職業意識がうずくのです。私は立ち上がりその子の所に行ってしまいした。
 『紙が無いの?』ティッシュペーパーを差し出すと、女の子は『持っている。』とポケットからティッシュペーパー入れを出しました。『あのね、鼻血が出た時あんまりいじくると沢山血が出ることもあるのよ。紙を小さくしてそっと鼻に入れておくといいのよ。おばさんやってあげましょうか。』『自分でできる。』との子は答えました。

 なんと隣に座っていた女の子がおずおずと『ありがとうございます。』と言いました。『私ね、ビニール風呂持っているの。』とカバンからジッパー付きの小さな袋を取り出し、血のついた紙を入れてやりました。この子は友だちが紙の処分に困っているのが分かっていたようでした。それから、ちり紙を切って丸め、友だちの鼻の大きさに合うまで作りなおしてやっていました。

 驚きましたね!このおかあさん、自分の目の届かない所でも、子どもが困らないようにゴミ袋まで持たせていたのです。

  

 最近、電車の中で見る子どもたちにはがっかりさせられる事が多いのです。某学習塾と分かるカバンを背負って人を押しのけて乗り込む子どももいます。当然その学習塾に通う子どもの中の少数に違いないのですが目立ちます。

 数年前、制服を着た女子高校生が、スカートを膝まで捲り上げ、両足を広げて席を二人分占領して座っていました。老紳士が『お嬢さんみっともないですよ、その座り方は。』と注意すると『うるせぇい、このジジィ、テメェには関係無えだろう!!』と答えました。その老紳士が何か言おうとするのを、傍にいた夫人が『あなた、私たちも同じ人種だと思われたら恥ずかしいですよ。やめましょうと!』と夫を他の車両へと引っ張って行きました。

 子の優しく行儀良い子はどう育つのでしょうね。おかあさんに声援を送ります。

   
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チェコが好き!!

2005-05-12 10:05:15 | Weblog
 子どもの時に人形を使ったチェコの映画を見ました。2本見たのですが筋書きを持ったほうは全く覚えていません。一つは子どもがガラス窓を打つ雨を眺めているのです。ガラスにあった水滴は人形になって、美しいピアノに合わせてガラスの上を踊りながら消えてゆくのです。曲はショパンの雨だれの曲だと先生がいっていました。とにかく、こんな人形を作る国に行ってみたいと思っていました。
 自然愛好家のグループに所属し、毎年6月、1週間ほどのハイキングを計画、実行している友人は、チェコの森の美しさを書いた便りを何通もくれました。

 1996年、世界エスペラント大会はプラハでした。絶好のチャンスです。参加することにしました。

 7月14日、成田から息子のいたブタペストへ。19日、フランクフルト経由でプラハヘ。乗り継ぎ地フランクフルトは日本から来たエスペランティストで一杯でした。
 プラハに着くと団体客は消え私ひとりになりました。‘さて、どうしましょう?‘ なんとチェコのエスペランティストがやってきて、電車の切符を買うのを手伝ってくれ、電車の乗換駅及び降車駅まできちんと説明してくれました。

 翌日、20日は夕方まで、プログラムはありませんが、1週間通用の切符を買って、電車で会場の下見に出かけました。プラハ市内の路線は3本です。その他に路面電車、バスがありますが、この切符ですべて乗れるのです。
 会場はは閑散としていました。どこへ行こうかと歩いていると老婦人が声をかけてきました。

 『私は年金生活者です。今日は誰かと食事したいと思ってお金を用意して来ました。とても良いレストランがあるのです。私にご馳走させてください。』

 ‘本当にいいのかな?‘ ふと疑念が過ぎりました。‘まあ、私が奢ることになっても良いでしょう。’
 彼女に案内されたのは チェコ人が誇る国民劇場に近い、ヴァルタバ川に面した古いビルの3階でした。スタッフが英語で話しているのを見ると客の多くは外国人なのでしょう。
 彼女の勧めに応じて、チェコ名物のクネドゥリーキとビ-ルをグラス一杯。

 目の前にカレル橋があり、船が行き交い、川岸の菩提樹の並木は花盛りで、優しい香りが当り一面に漂っています。菩提樹の花は緑味を帯びていて質素というか地味な花です。取り留めのない会話をしながら美味しい食事を頂きました。
 さて食後支払いの値段を聞くと、日本円で3000円弱でした。彼女に支払わせる気にはなりませんでした。年金暮らしの友人は一ヶ月12000円ほどの年金で暮らしているのです。彼女の生活費も同じでしょう。
 いつも貧乏旅行の私は高級レストランに入る事はありません。素晴らしい景色を満喫させてくれた老婦人に感謝して私が支払いました。なぜか彼女は顔を赤らめていました。
 開会式当日、彼女の姿を遠く見かけましたが、その後一度もこの老婦人と出会うことはありませんでした。
   

 21日は友人と会う事になっていました。わたしはこの大会は遊びまくると決めていました。
 

  
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日本エスペラント大会に参加しましょう!!

2005-05-10 23:10:48 | Weblog
 おお!消えた!!
 メガネが壊れてしまった。見えにくい文字を追いながら、今朝ブログを書きました。投稿した途端に記事は行方不明に。本当に口惜しい。同じ事は書く気がしないので内容をがらり変えようと就寝時間になって決心をしました。

 今年の日本エスペラント大会は横浜で行われます。会場は国の重要文化財にも指定されている開港記念会館です。根岸線の関内駅で降り、横浜市役所を左手に、横浜球場を右手に見てまっすぐ10分程歩くと左てに会場があります。更にまっすぐ歩くと山下公園につきあたります。

 期間は10月21日(金)~10月23日(日)の3日間です。金曜日は遠足と分科会が主ですが土曜日、日曜日は行事が盛り沢山です。
 まず、エスペラントだけに浸っていたい方のためのプログラムがあります。ものぐさな人(?)が移動しなくても講演の部屋にいればエスペラント聞き放題です。聞き飽きたら質問も出来ます。この部屋にいれば2日間エスペラント三昧で過ごせます。どこかの英語学校の宣伝文句ではありませんが、講演者、5人すべて外国人です。

 初心者のためのプログラムもあります。ここでも外国人に会話指導をして貰えるでしょう。それに困った時助けてくれる助っ人も同席するでしょう。覚えた単語を使ってみたい方は是非参加してください。

 エスペラントはどんな言葉か興味を持っている方はおりませんか。あなたにぴったりのプログラムもあります。23日(日)の午前10時から2時間の入門講習会です。興味のある方は是非参加してください。

 都合のいい事に会場から徒歩5分の所に新しいホテルができました。アバホテル横浜関内と言うのです。インターネットで申し込むと割引になるそうです。アバホテルの横にももうすぐ開業する新しいホテルが建っています。値段が安いと良いですね。

 2007年、世界のエスペランティストが横浜にやって来ます。このメーン会場はミナトミライホールですが、世界エスペラント大会を視野に入れて参加してみましょう。きっと楽しいと思いますよ。
 
   

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エスペラントにおける色の表現

2005-05-09 08:59:07 | Weblog
 エスペラントで色をどう表現するか知りたがっている verda akvo さんのブログを読みました。実は私も知りたいと思っていたのです。

 先日、有名なエスペランティストと話す機会がありました。
 そこで質問しました。
 『エスペラントには purpura と言う単語がありますが、この単語は緋色だったり紫色だったりします。どう解釈すべきなのでしょうと。』

 答えは:
 『purpuraとは、赤と青の組み合わせのすべてを指している。ですから、赤が極端に多ければ、それは緋色となり、逆に青が多ければ紫となる。purpura で表される色には幾つも、あるいは幾十もの違いがあります。ですから、私たちはもしかしたら自分のイメージと違った色合いかも知れないのに purpuraという一つの単語で納得しているかもしれません。』

 私は草木染めをしますが、植物によって、灰色でも茶色でも全く違うのです。例えばキウイとか背高あわだち草の茶色は緑味を帯びているのです。それを言葉で表すのは形容詞をどう使うか、自分の感性を形容詞を使ってどう表現するかの工夫しかないのでしょう。

 エスペラントには強調するのに -eg- 弱小を表すのに -et- という接尾語があります。これを色を表現に用いるのは好きでありはありません。
 例えば :青い blua
 瑠璃色 : lazuro 
 藍色  : profunda bluo
 秋の天高く見える空の色 ; leg^ela bluo

 もっともっと違った表現ができるでしょう。ですから、本を読むのが好きなのです。色だけではなく、人間の色々な感性の表現と出会えますから・・・。


  
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 月桂樹と夜叉ぶし

2005-05-08 08:29:51 | Weblog
 昨日は糸を巻きをしました。友人が茶色の布を欲しいと言います。昨年秋月桂樹で染めた糸を巻きました。月桂樹は染物用にと織物仲間の一人が挿し木してくれたものです。思ったような色がでませんでした。今年の冬は暖かかったので何度か繰り返し染めたのですが思うような色にはなりません。もしかしたら触媒が力不足だったかもしれません。茶系色を出すには銅触媒を使わなくてなりません。酢酸銅は印鑑無しには買えないほど猛毒なのです。私は銅線を数年氷酢酸に漬けておきました。それを触媒としたので反応が弱かったかもしれません。
 今回はこれで諦めましょう。

 夜叉ぶしで染めた糸は茶色というより黄土色です。鉄触媒はきれいな濁りの無い灰色です。この鉄触媒も古釘を米酢につけて置いたものです。
 以前、姉と義姉と4人で高山へ旅行した時、藪に落ちている夜叉ぶしの実は夢中で拾いましたと言うか拾わせました。その後田舎へ行くと夜叉ぶしが無いか捜すのが習慣になっていました。。

 昨秋、2メートル足らずの夜叉ぶしの若木をいつもボランティアで通う川のそばの土手で見つけました。それ以来、ビニール袋を持って歩き、帰りには実を収穫しました。

 さてどんな色の布ができるのでしょう。友人がは気に入ってくれるでしょうか。草木染めは地味ですが、不思議な事に合わせた色で糸で見た時と違う色合いを醸しだすのです。


 思い出に浸りながらカラカラと糸巻きをしながら、久しぶりに静かな午後を過ごしました。
 
   
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ベトナムにおける枯葉剤被害

2005-05-07 08:28:30 | Weblog
 1999年ベトナムで開催された第2回アジアエスペラント大会に参加した私にはもう一つ願いがありました。それはベトナム戦争中にアメリカが散布した大量の枯葉剤の被害について知ることです。長年、子どもや障害を持つ人たちと共に生きてきて私には、枯葉剤の成分ダイオキシンが大量の障害者を生み出しているという度重なる報道に目をつむることはできませんでした。
 また、日本においては母乳からダイオキシンが検出されています。ダイオキシンは脂溶性なので母親が口にすると母乳の中に溶け出し、乳児の体に入るのです。初めて発表された当時、厚生省は人体に害を及ぼすほどの量ではないという見解を発表しました。
 安全な量とはどの程度を指すのでしょうか。ことは起きてみないと分かりません。ベトナムにおける奇形・障害を持つ子どもの出生は決して他人ごとではないのです。科学万能で暮らし、安楽さだけを求めているうちに、私たちは抜け出すことのできない深みに落ち込むかもしれないのです。

 また、ベトナム戦争は私たちの日本と無関係ではありません。先ず日本の基地が使われました。更に重要なのはこの恐ろしい枯葉剤の原料が日本の化学工場で生産されていたことです。

 あわよくばエスペラントを使って障害児施設を訪問できないかと私は考えました。『求めよさらば与えられん』とはよく言ったものです。以前ハノイで教えていた、ある大学の助教授と知り合い、彼に『不戦兵士・市民の会』と言う団体を教えて頂き、ハノイで日本語を学んでいるエスペランティストも紹介して頂くことができました。

 不戦兵士・市民の会はハノイ国際友好村という障害児者施設を支えている一団体です。この村はハノイの郊外、ハタイ省にあります。資金を集め支えているのはアメリカ・ドイツ・フランス・イギリス・日本の退役軍人の会です。実際の運営はベトナム退役軍人会が行っています。

  不戦兵士の会の事務局にベトナムの事務局への連絡をお願いし、実際の打ち合せはベトナムの学生トゥイさんがしてくれました。

 私は見学だけでなく子どもたちと遊びたいと希望を出しておきました。前年の10月に開園したばかりの施設で、広いスペースがありません。それでも所長は私の願いに沿って、教室と女子用の居室前の広い廊下を空けておいてくれました。私たちは床に座り込み、折り紙をしたり、ちぎり絵をしたりして、子どもたちと遊ぶことができました。エスペランティストは10名、それにトゥイさんと先生家族が同行してくださったので子どもたちとのコミニケーションもとれて半日という限られた時間の中で楽しい時間を過ごすことができました。

 施設はまだ整っておらず、剥き出しの地面に立っていました。成人棟は10名収容できますが、ここは静養場所なのだそうです。全員が枯葉剤による倦怠感や呼吸困難を訴えていました。最後に案内してもらった薬草園には種々の薬草が栽培されており、所長自らが薬を調合しているということでした。静養している大人の中にはわが子も枯葉剤による障害を持っているという人もおりました。

 大人と比べ子ども障害は多種に渡っていました。脳性麻痺、視覚障害、聴覚障害、関節異常。ある子はその障害プラス知的障害があります。
 関節異常は本当に関節が無いのです。頚椎が無い子は首は平らな板が入ったような状態で、体をひねらないと横が見えません。腕関節がない子は腕が曲がりません。ひざ関節がない子はひざが曲がりません。一人がズボンをあげて見せてくれました。膝にかすかに丸い関節の形が見えますが、首と同じ様に平らでした。
 多くは兄弟姉妹全員が障害を持っているのだそうです。その場合はひとりだけ施設に入れるそうです。本当は障害の重い子を入所させた方が親が楽になることは分かっているが、施設の能力からそれはできないと話していました。教育は障害の重い子はこの施設内で教育し、学校へ通えるこは近くの学校へ通わせています。将来は自立のため職業訓練所や作業所も作りたいと話していました。

 私は私の願いをかなえるために協力してくださった方々にとても感謝しています。そして多くの人に伝えることが私の義務と考えます。子どもたちの未来のために私たちにできることが何かあるはずです。
 

 
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奇妙な魅力を持つ国ベトナム

2005-05-05 08:27:43 | Weblog
 1999年8月。その日は月曜日でした。午前中、ベトナムのハノイで行われていた第2回アジアエスペラント大会は午前中、組織委員会があって一般の会合はありませんでした。遠足の人たちは博物館等を巡るということでバスで出かけました。せめて私も美術館ぐらい行って来ようとホテル前で人待ちのタクシーに乗りました。数分後、美術館前で下車し中庭入ると、扉が閉ざされています。入場券売り場を除くと人もおらず、月曜日はお休みを示す札が掛かっていました。

 癪に障ったのは乗ってきたタクシーが門の前で私の帰りを待っていたことでした。運転手は屈託無くニコニコと手を上げて私を招きました。彼はお休みを知っていて案内していたと思うと本当に腹がたちました。そこでバイバイして適当に歩き出しました。
 遠足の人達がどうしたかと言うと彼らはどこにも入れず、お寺などを巡ったようです。

 さて、地図を頼りにホーチンミン廟を目指しました。廟が見える公園につくとあちこちで男たちが輪になって遊んでいます。日本の花札のような札を使って賭け勝負をしているようでした。その塊を避けて歩いているとエスペラントのマーク入りの袋を下げたひとりの小柄な青年がベンチから立ち上がり私に近づいて来ました。
 彼は中国人でエスペラント初心者でした。奇妙な筆談によるエスペラント会話が始まりました。彼は上海の田舎で英語の教師をしているということでした。英語で話したいと彼は言いました。私は英語は話せない答えました。歩き出した私に『私も散歩に行きます』と彼がついてきました。一言言うたびに紙が差し出され、今話したことを私は紙に書き、彼はエスペラント中国語の辞書を引きます。それからまた中国語エスペラントの辞書を引いて質問してきます。こうして私達はハノイの町を東から西へ4時間近くも歩き続けました。
 この年、中国エスペラント大会はベトナムとの国境の町で開かれました。上海から何度もバスに乗り次いでその町へ、そこから普通のバスを乗り次いでハノイにやって来たそうです。自分の足で歩き体で感じることが凄く楽しいという感じでした。

 歩いていていろんなベトナム人に会いました。まず力車の運転手です。旅行者と見ると執拗に追いかけてきます。道に迷って立ち止まり、二人で協議していたら、7~8人に取り囲まれました。私達が乗らないと分かるとみんな私達を取り囲み、手振り身振りで中国青年が行きたいと言う所を説明してくれます。まさに『船頭多くし船山に登る』です。私達は議論の輪から抜け出しましたが、かれらは輪をなかなか解かず延々と協議しているのがかなり離れてからも見えました。

 名前は何と言うのでしょうか。拝観料の必要な大きなお寺がありました。彼はお金が無いので外で待っていると言いました。せっかくの機会だから一緒に入ろうというと喜んでついてきました。
 大きな仏像の前に立っているときれいな日本語が聞えました。ひとりの青年が話し掛けてきたのです。富山工科大学に留学しており夏休みで帰省していて家族とお参りに来たのだそうです。

 『日本の仏教とベトナムの仏教は違います。日本の仏教は大乗仏教です。これは個人ではなく多くの人の幸せを願います。ベトナムは小乗仏教です。小乗仏教では家族とか自分の幸せを願います。』彼は今はもう聞く事が少ないほど上品な日本語で色々説明してくれました。そして最後に『日本でお会いできたら嬉しいです。』と挨拶して父親らしい男性と一緒に去って行きました。
 なるほど・・・。建物はいくつかに分かれていたのですが、あちこちで、人々がお供え物を前に置いて土間に座り、仏像を拝んでいるのです。多分日本の神社と同じ感覚なのでしょう。

 湖のほとりを歩いていたら、天秤を担いだ物売りがTシャツを買わないかとよって来ました。いらないというと初め1枚10米ドルと言っていたのがとうとう3枚10米ドルまで値下がりしました。買う気は無いので私達は早足になりました。それでも物売りの女性が声を上げて追いかけてきます。青年が振り向き『アッ!』と声を上げました。振向くと彼女は重い天秤を肩にしながら私の落としたハンカチを手に走っていました。 

 一人では行けないような路地や市場も通りました。魚屋の前には魚が生きたまま売られてました。肉屋の前には少しの肉の塊しかありません。しかしそれはとても新鮮は色をしていました。まさか、店の裏に場があるんじゃないでしょうね!!と私は冗談を言いました。
 豆腐は、バナナの葉でしょうか、大きな緑の葉の上にグニャリと積み重ねられていました。

 ある小さな通りで、青年が言いました。『安いビールを見つけた。ここでビールを飲もう!』それまでもビ-ルの値札を掛けている店が何軒かありました。700ドンとか400ドンでした。そこには150ドンの名札が掛かっていました。幼児と、薄汚れた犬が店の前で遊んでいました。かれは店の傍にある石に座りました。店主が私に床几を出してくれました。店の前に20リットルぐらい入る小型のタンクが掛けてあって、そのタンクから細いビニールの管がでっています。栓をひねるとその管から濁ったビ-ルがジョッキの中に流れ出しました。彼は美味しいといい、店主と二人で私にそのビールを勧めます。とんでもない!!どう見たって衛生的とはいえません。
 路地のあちこちから顔が覗き,どの顔も人懐こい笑顔でこちらを見ています。

 こうして午後1時が近づきました。私は会場に帰らなければなりません。ホテルを捜しました。ベトナム通の人から流しのタクシーには乗らないように言われていたのです。大きなホテルを見つけボーイに会場となっているホテルの住所を見せ、タクシーに行き先を告げてもらい会場へ急ぎました。

 この中国青年が自分宿に帰ったのは夜9時だったそうです。

 べトナムの物売りはなぜか諦めずに売ろうとしてついて来ます。菅笠も、ゴムぞうりも3個まで値下げします。でも、旅行者が3個の菅笠やゴムぞうりを持って歩けないとは想像しないのでしょうか。殆どの人が目が合うと笑顔で答えてくれます。しつこいぞと思いながら親しみを感じる人々のいる国でした。

 


 後日談です。カメラを持っていなかったこの中国の青年に撮った写真を送りました。受け取った返事には『日本のカメラは素晴らしいです!』と書かれていました。

    
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ベトナムの兵士の肖像

2005-05-03 08:03:11 | Weblog
 先日、ya_saiと言う方にコメントを頂き彼女のブログを訪問しました。そこには美しい絵がありました。私は芸術音痴なのでどこが良いとか云々言えませんが、色調からでしょうかハノイの美術館で見た一枚の絵を思い起こしていました。


(ya_saiさんのアドレス  http://blog.goo.ne.jp/ya_sai/  )

 1999年、第2回アジアエスペラント大会がベトナムのハノイで開かれました。ハノイは喧騒の街でした。激流のようにバイクが黒い煙と白いホコリを舞い上げて右往左往している。出勤時には自転車が渋滞を起している。そして力車がその中で行き来している。大通りをわたる時はゆっくりとスピードを変えずに渡る。そうすれば車もそれにスピードを合わせて衝突しないように前か後ろを通り過ぎてくれるという不思議な町でした。
 会議のある日も遠足はあったのですが会議に出たいので参加していませんでした。せめて美術館には行ってこようとその合間を縫って出かけました。古い仏像も沢山ありました。しかし、彫刻にしても絵画にしても戦いをイメージするものはありません。
 日本で昭和初期の作家の個展などを訪れると、時には戦争色の濃いものと出会います。この激しい戦いをした国にはそれがどんな形で残っているのか興味がありました。

 戦争を描いた二つの絵を見つけました。一つは兵士たちが、小さな少女と火を囲んで休息している夜の絵です。もう一つは月に照らされなが砂丘を銃を担いで歩いてゆく3人の若い女性兵士の絵でした。
 若い頃、私はベトナム戦争のニュースを真剣に見ていました。ベトコンが首を切り落とされる場面も流されました。そこからその戦いは壮絶なものであると想像していたのです。それらの絵は彼らがいかに厳しい戦いを淡々と闘い続けていたかを私に印象づけました。
 私はその絵の前から離れられませんでした。優しい淡い色使いはもの悲しく私の心を捉えました。美術館で写真を取るというのは非常識です。エスペラントでは通じないと思い番している女性に日本語でお願いしました。あの絵を写真に撮らせてくださいと。私の日本語が分かったかどうか分かりませんが彼女はニッコリとうなずきました。その写真は今私のアルバムの中にあります。

 帰りに売店で水中人形劇に出てくる人形の模型を見つけました。紐を引っ張ると両手と首きます。その素朴な笑顔が気に入り買おうと思いましたが、数10ドン足りません。米ドルで売って欲しいと言うとダメだと言います。アヒルなら買えると勧めてくれます。私はこの笑顔が気に入ったのだと顔を指差し諦めて帰りかけました。売店の女性は私を呼び止め財布を開けろと言います。有り金全部出すと彼女は人形を丁寧に包み、手渡してくれました。彼女の笑顔も穏やかで美しかったです。



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大切な童話:エスペラントの基礎から

2005-05-02 10:37:59 | Weblog
エスペラントの国際的な大会初めて開かれたのは1905年でした。今から丁度100年前のことです。今年は100年を記念して第一回大会が開かれた同じフランスのブローニュ・スル・メールで記念の大会が開かれました。会場も100年前と同じホールでした。
 第一回大会の時、エスペラントの基礎となる言葉を決めました。と言うのもエスペラントはラテン語を中心にしてヨーロッパ言語の良い所を集め体系化させたものでしたので、どの民族語に属する人も自分たちの言葉に近づけたいと言う欲求があったのです。言葉は時代の移り変わりに沿ってゆっくりと変化しています。しかし思いつきで変えてゆくば混乱が起こり、生まれたばかりの言葉は消滅するかも知れません。そこで、将来の発展した言葉と例え食い違いが生じてもこれを基本とするという言葉を1905年の大会で決めました。これを FUNDAMENTO DE ESUPERANTO (エスペラントの基礎)と言います。
 エスペラントも当時の言葉と比べれば変化しています。創生期の人たちは今の文をよく理解できないところもあるかも知れません。しかし、日本語の現代文と漱石の小説を程の違いは、現代エスペラント文とエスペラントの基礎の中の例文にはありませんので私たちにも良くわかります。

 この中に La feino というお話があります。グリム童話だったでしょうか。原点典は忘れました。
 物語は:
 未亡人と二人の娘が暮らしていました。下の娘は心優しく、上の娘は母に似て意地悪でした。ある時、下の娘は泉に水を汲みに行き、貧しい女性に水を飲ませて欲しいと頼まれます。彼女は持っていたツボを清潔に洗い、彼女に水を上げます。家に帰ると彼女が話すと彼女の口からバラや真珠などが飛び出すのです。それを見て母親は上の娘に銀の壷を持たせて水汲みに行かせます。今度は女王の服装した女が現れ彼女に水が欲しいと頼みます。娘はあなたのために壷を持ってきたのではない、飲たければ勝手に飲めば良いと答えます。怒った妖精はこの娘が喋るたびにその口から蛙か蛇が飛び出るようにしてしまいました。ことの起こりは下の娘にあると怒った母親は彼女を家から追い出します。彼女は森で王子様と出会いその妻となります。上の娘はその後母親に家を追い出され、森の片隅で死んでしまいます。

 『言葉とは使用する人の心のあり方によって美しくも醜悪にもなるものです。エスペラントは美しくあって欲しいと願うエスペラントの創始者ザメンホクの願いがこの物語をエスペラントの基礎に入れさせたのです』と、詩人IUこと伊東三郎氏は私に語ってくれました。ですから、この話しを読むたびに私は反省を強いられます。私は最近汚い言葉を吐きはしなかっただろうかと。私にとって言葉について考えるための大切なお話です。


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エスペラントの早口ことば

2005-05-01 08:24:39 | Weblog
 いつもエスペラントで話していて思うことはヨーロッパ人の話し方の早い事です。ほかの言葉、英語、フランス語、ドイツ語等々、ヨーロッパ系の言語をを話す方もそんな経験をするのでしょうか? 
 これに対処するには自分も早くしゃべれるように自分を鍛えるより方法がありません。

 今日は15~6年前に我が家に滞在したブルガリア人の青年が書き残してくれた早口ことばを紹介します。


kaptis kato kakatuon
katon kakatu' bekpikis
tiu fakto tre efikis
lasis kato kakatuon!


 《音》
 カプティス カート カカトゥオン
 カートン カカトゥ ベクピーキス
 ティウ ファクト トゥレ エフィーキス
 ラーシイス カート カカトゥーオン

 《意味》
 猫がインコを捕まえた
 猫をインコが突っついた
 それは凄く効果があったよ
 猫はインコを放したよ!

 易し過ぎますか?  
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