早地峯山の古名は、東岳(アズマダケ)、東子岳(ヒガシネダケ)と云ったという。北上川の西方奥羽山脈を西根といい、川の東方であることからヒガシネと呼んだとの説あり。
この山の登山口は、かつて4箇所あり。東登山口は、川井村江繋からで善行院が新山堂を守っており、北登山口は同じ川井村門馬からで妙泉院という山伏が宿坊を営んでいた。南登山口は、大迫からで岳集落に新山宮と池上院妙泉寺があり、西登山口は、ここ遠野市附馬牛町大出からで、新山宮と持福院妙泉寺があった。それぞれの登山口には、似たような読みの神社やお宮があったということになる。由緒については、それぞれに言い分があるようだ。
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大出には早池峰神楽があり、先日の神社例祭には宵宮及び翌日の例祭に踊りが披露された。この神楽の由来は定かではないとしながらも、次のように伝承されている。一生を妙泉寺の寺男として過ごし、明治10年に90歳で亡くなった佐々木満蔵が寺に伝わる記録をもとに神楽の覚書を書いたと伝えられている。それによると、大出神楽の発祥は京都であり、これをこの地に運んだのは法印である。出羽三山に神楽が伝えられた頃、早池峰にも神楽が伝えられた。
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この神楽は早池峰山を開山したといわれる藤蔵の後衛始閣家が伝えたもので、この始閣家は早池峰信仰の法脈を天台宗の法院に譲った後、禰宜として新山宮に奉仕する。後には、上禰宜、下禰宜とに分かれ、縁組しないことによって忌みが重なることを避け、神事に支障がないようにした。また、始閣姓は上下の二軒のみとし、別家にもこの姓を許さなかった。
当初、修験者として新山宮で神に奉仕していた始閣氏は、江戸時代の享保12年(1727)正月26日をもって京都の吉田家より神官の補任を得ている。
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社人である始閣家は、享保の頃より、神事や加持祈祷を行い、また、神楽の庭元を勤めてきたが、宝暦8年(1758)第55代法師宥全が寺社奉行に提出した文書によると元禄年中(1688~1704)の大出新山宮例大祭で神楽が奉納されたことが記されているという。その神楽も元禄年中の飢餓のよって一度断絶したが附馬牛町宿の新山宮別当であった宝明院の系統によって再興された。この宝明院は大出への参道入口に位置し、遙拝所であった新山権現を祀る新山神社を預かる本山派の山伏なのだが、ここの神楽は元々、大出神楽の系統だったのかもしれない。その後、神仏分離によって早池峰神社となっても神楽組は神社に帰属。昭和24年、当時の庭元、鈴木龍太郎宅の火災によって神楽の記録や道具一切が焼失し衰微したが、弟子神楽である小倉神楽から道具を借りて例祭に奉納。昭和48年に再復活して現在に至っている。大出小中学校最後の生徒達を始め集落の人々の熱意によって続けられている。
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この山の登山口は、かつて4箇所あり。東登山口は、川井村江繋からで善行院が新山堂を守っており、北登山口は同じ川井村門馬からで妙泉院という山伏が宿坊を営んでいた。南登山口は、大迫からで岳集落に新山宮と池上院妙泉寺があり、西登山口は、ここ遠野市附馬牛町大出からで、新山宮と持福院妙泉寺があった。それぞれの登山口には、似たような読みの神社やお宮があったということになる。由緒については、それぞれに言い分があるようだ。
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大出には早池峰神楽があり、先日の神社例祭には宵宮及び翌日の例祭に踊りが披露された。この神楽の由来は定かではないとしながらも、次のように伝承されている。一生を妙泉寺の寺男として過ごし、明治10年に90歳で亡くなった佐々木満蔵が寺に伝わる記録をもとに神楽の覚書を書いたと伝えられている。それによると、大出神楽の発祥は京都であり、これをこの地に運んだのは法印である。出羽三山に神楽が伝えられた頃、早池峰にも神楽が伝えられた。
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この神楽は早池峰山を開山したといわれる藤蔵の後衛始閣家が伝えたもので、この始閣家は早池峰信仰の法脈を天台宗の法院に譲った後、禰宜として新山宮に奉仕する。後には、上禰宜、下禰宜とに分かれ、縁組しないことによって忌みが重なることを避け、神事に支障がないようにした。また、始閣姓は上下の二軒のみとし、別家にもこの姓を許さなかった。
当初、修験者として新山宮で神に奉仕していた始閣氏は、江戸時代の享保12年(1727)正月26日をもって京都の吉田家より神官の補任を得ている。
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社人である始閣家は、享保の頃より、神事や加持祈祷を行い、また、神楽の庭元を勤めてきたが、宝暦8年(1758)第55代法師宥全が寺社奉行に提出した文書によると元禄年中(1688~1704)の大出新山宮例大祭で神楽が奉納されたことが記されているという。その神楽も元禄年中の飢餓のよって一度断絶したが附馬牛町宿の新山宮別当であった宝明院の系統によって再興された。この宝明院は大出への参道入口に位置し、遙拝所であった新山権現を祀る新山神社を預かる本山派の山伏なのだが、ここの神楽は元々、大出神楽の系統だったのかもしれない。その後、神仏分離によって早池峰神社となっても神楽組は神社に帰属。昭和24年、当時の庭元、鈴木龍太郎宅の火災によって神楽の記録や道具一切が焼失し衰微したが、弟子神楽である小倉神楽から道具を借りて例祭に奉納。昭和48年に再復活して現在に至っている。大出小中学校最後の生徒達を始め集落の人々の熱意によって続けられている。
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なかなか、お伺いすることができずに申し訳ございせん。神社の建つ方位については、気になっているところで、上郷の日出神社、綾織の駒形、月山は、正面が北向きで、今回の新山も含め、不思議に思っています。立地する地形も関係するのかとも思いますが、基本的には、名梨さんご専門の家相優先だったのだろうと考えています。
早池峰神楽の由来、詳しくは知らなかったので読ませて頂きました。
やぁっぱ凄いわー
只ならぬものを感じるわけですね。
有難ぅ~御座います。
みんなで、神社の方向を確かめてみたいですねぇ
新山神社もかすかに気になっていましたが、名梨さま
も気にしていたとは、なんか正解を得た小学生の気分
ですぅ(笑)
そして、ワタクシが気にするもう一つは石上神社であります。またまた、偶然にもたまち殿宅にてUPされてい
ました。
さらに、神楽については思う事が色々ありますが、
ここには、書けませんし機会があったら皆様に一度
聞いてほしいし、聞きたい事柄でもあります。
新山宮の現在の建物が、いつの再建なのかも気になります。社人として成立した以後の始閣家は、本山、羽黒どちらにも属した形跡がないと郷土史家菊池照雄氏は文章に残していますが、宝明院は本山派ということで、どの時代かはわかりませんが、意思疎通のできなくなった時期があるのではと空想してみました。
いずれにしても、現在の社と以前のものとの位置関係を確認してみたいものです。
タマちゃんや山猫どんが、早池峰神社例大祭をUPされたのでチャンスを逸してしまいましたが、あえて、と言うことで。
新しい神輿は社殿前に今年も飾られておりました。
それはさておき、今年は、平日だったので、去年よりは大分寂しい感じの祭りでした。天気が悪いのは、梅雨時にこの例祭があるので、逆に天気が良いということのほうが異常なことなのだと納得しています。
其の弐
遙拝所としての機能は、社と別に設けてあったということはないでしょうか?空想が過ぎるかもしれませんが・・・。
神楽の演目に対してはそれほどの知識を持ち合わせていませんが、かつて、多くの神楽組が各地を巡業していた当時のように、その晩、お世話になるお宅で、夜更けまで演じたように通しで見てこそ価値があるものだと今回は痛感しました。
蛇足
今回の宵宮では、神楽通と思われる年配の方が来ており、デジカメ片手にその方の前をうろうろしたところ、邪魔だとしかられてしまいました。神楽素人の私にはわからない奥の深さを感じておられるファンが多いのも神楽の魅力なのでしょう。